綺堂むかし語り

2話 茶碗

1,622字 約3分 2001年10月15日 公開

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 O君が来て古い番茶茶碗を()れた。おてつ牡丹餅(ぼたもち)の茶碗である。

 おてつ牡丹餅は維新前から麹町の一名物であった。おてつという美人の娘が評判になったのである。元園町一丁目十九番地の角店(かどみせ)で、その地続きが元は徳川幕府の薬園、後には調練場となっていたので、若い侍などが大勢(おおぜい)集まって来る。その(わき)に美しい娘が店を開いていたのであるから、評判になったも無理はない。

 おてつの店は明治十八、九年頃まで営業を続けていたかと思う。私の記憶に残っている女主人のおてつは、もう四十くらいであったらしい。(まゆ)を落して歯を染めた、小作りの年増(としま)であった。(むこ)(もら)ったがまた別れたとかいうことで、十一、二の男の()を持っていた。美しい娘も老いておもかげが変ったのであろう、私の(おさな)い眼には格別の美人とも見えなかった。店の入口には小さい庭があって、飛び石伝いに奥へはいるようになっていた。門のきわには高い八つ手が()えてあって、その葉かげに腰をかがめておてつが毎朝入口を()いているのを見た。汁粉(しるこ)と牡丹餅とを売っているのであるが、私の知っている頃には店もさびれて、汁粉も牡丹餅も余り(うま)くはなかったらしい。近所ではあったが、わたしは滅多(めった)に食いに行ったことはなかった。

 おてつ牡丹餅の跡へは、万屋(よろずや)という酒屋が移って来て、家屋も全部新築して今日まで繁昌(はんじょう)している。おてつ親子は麻布(あざぶ)の方へ引っ越したとか聞いているが、その後の消息は絶えてしまった。

 わたしの(もら)った茶碗はそのおてつの形見である。O君の阿父(おとっ)さんは近所に住んでいて、昔からおてつの家とは懇意(こんい)にしていた。維新の当時、おてつ牡丹餅は一時閉店するつもりで、その形見と云ったような心持で、店の土瓶(どびん)や茶碗などを知己(しるべ)の人々に分配した。O君の阿父(おとっ)さんも貰った。ところが、何かの都合からおてつは依然その営業をつづけていて、私の知っている頃までやはりおてつ牡丹餅の看板を懸けていたのである。

 汁粉屋の茶碗と云うけれども、さすがに維新前に出来たものだけに、焼きも薬も悪くない。平仮名でおてつと大きく書いてある。わたしは今これを自分の茶碗に(つか)っている。しかし()の茶碗には幾人の(くちびる)が触れたであろう。

 今この茶碗で番茶をすすっていると、江戸時代の麹町が湯気のあいだから蜃気楼(しんきろう)のように朦朧(もうろう)と現われて来る。店の八つ手はその頃も青かった。文金(ぶんきん)高島田にの字の帯を締めた武家の娘が、供の女を連れて(しず)かにはいって来た。娘の長い(たもと)は八つ手の葉に触れた。娘は奥へ通って、小さい白扇を遣っていた。

 この二人の姿が消えると、芝居で観る久松(ひさまつ)のような丁稚(でっち)がはいって来た。丁稚は大きい風呂敷包みをおろして(えん)に腰をかけた。どこへか使いに行く途中と見える。彼は人に見られるのを恐れるように、なるたけ顔を隠して()ず牡丹餅を食った。それから汁粉を食った。銭を払って、前垂れで口を()いて、逃げるようにこそこそと出て行った。

 講武所(こうぶしょ)ふうの(まげ)()って、黒木綿(もめん)の紋付、小倉(こくら)の馬乗り(ばかま)朱鞘(しゅざや)の大小の長いのをぶっ込んで、朴歯(ほおば)の高い下駄をがらつかせた若侍が、大手を振ってはいって来た。彼は鉄扇(てっせん)を持っていた。悠々と蒲団(ふとん)の上にすわって、(つの)細工の骸骨(がいこつ)根付(ねつけ)にした煙草(たばこ)入れを取り出した。彼は煙りを強く吹きながら、帳場に働くおてつの白い横顔を眺めた。そうして、低い声で頼山陽(らいさんよう)の詩を吟じた。

 町の女房らしい二人連れが日傘を持ってはいって来た。かれらも煙草入れを取り出して、鉄漿(おはぐろ)を着けた口から白い煙りを軽く吹いた。山の手へ(のぼ)って来るのはなかなかくたびれると云った。帰りには平河(ひらかわ)の天神さまへも参詣して行こうと云った。

 おてつと大きく書かれた番茶茶碗は、これらの人々の前に置かれた。調練場の方ではどッと云う(とき)の声が揚がった。焙烙(ほうろく)調練が始まったらしい。

 わたしは巻煙草を()みながら、椅子(いす)に寄りかかって、今この茶碗を眺めている。かつてこの茶碗に(くちびる)を触れた武士も町人も美人も、皆それぞれの運命に従って、落着く所へ落着いてしまったのであろう。

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