2話 茶碗
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O君が来て古い番茶茶碗を呉れた。おてつ牡丹餅の茶碗である。
おてつ牡丹餅は維新前から麹町の一名物であった。おてつという美人の娘が評判になったのである。元園町一丁目十九番地の角店で、その地続きが元は徳川幕府の薬園、後には調練場となっていたので、若い侍などが大勢集まって来る。その傍に美しい娘が店を開いていたのであるから、評判になったも無理はない。
おてつの店は明治十八、九年頃まで営業を続けていたかと思う。私の記憶に残っている女主人のおてつは、もう四十くらいであったらしい。眉を落して歯を染めた、小作りの年増であった。聟を貰ったがまた別れたとかいうことで、十一、二の男の児を持っていた。美しい娘も老いておもかげが変ったのであろう、私の稚い眼には格別の美人とも見えなかった。店の入口には小さい庭があって、飛び石伝いに奥へはいるようになっていた。門のきわには高い八つ手が栽えてあって、その葉かげに腰をかがめておてつが毎朝入口を掃いているのを見た。汁粉と牡丹餅とを売っているのであるが、私の知っている頃には店もさびれて、汁粉も牡丹餅も余り旨くはなかったらしい。近所ではあったが、わたしは滅多に食いに行ったことはなかった。
おてつ牡丹餅の跡へは、万屋という酒屋が移って来て、家屋も全部新築して今日まで繁昌している。おてつ親子は麻布の方へ引っ越したとか聞いているが、その後の消息は絶えてしまった。
わたしの貰った茶碗はそのおてつの形見である。O君の阿父さんは近所に住んでいて、昔からおてつの家とは懇意にしていた。維新の当時、おてつ牡丹餅は一時閉店するつもりで、その形見と云ったような心持で、店の土瓶や茶碗などを知己の人々に分配した。O君の阿父さんも貰った。ところが、何かの都合からおてつは依然その営業をつづけていて、私の知っている頃までやはりおてつ牡丹餅の看板を懸けていたのである。
汁粉屋の茶碗と云うけれども、さすがに維新前に出来たものだけに、焼きも薬も悪くない。平仮名でおてつと大きく書いてある。わたしは今これを自分の茶碗に遣っている。しかし此の茶碗には幾人の唇が触れたであろう。
今この茶碗で番茶をすすっていると、江戸時代の麹町が湯気のあいだから蜃気楼のように朦朧と現われて来る。店の八つ手はその頃も青かった。文金高島田にやの字の帯を締めた武家の娘が、供の女を連れて徐かにはいって来た。娘の長い袂は八つ手の葉に触れた。娘は奥へ通って、小さい白扇を遣っていた。
この二人の姿が消えると、芝居で観る久松のような丁稚がはいって来た。丁稚は大きい風呂敷包みをおろして縁に腰をかけた。どこへか使いに行く途中と見える。彼は人に見られるのを恐れるように、なるたけ顔を隠して先ず牡丹餅を食った。それから汁粉を食った。銭を払って、前垂れで口を拭いて、逃げるようにこそこそと出て行った。
講武所ふうの髷に結って、黒木綿の紋付、小倉の馬乗り袴、朱鞘の大小の長いのをぶっ込んで、朴歯の高い下駄をがらつかせた若侍が、大手を振ってはいって来た。彼は鉄扇を持っていた。悠々と蒲団の上にすわって、角細工の骸骨を根付にした煙草入れを取り出した。彼は煙りを強く吹きながら、帳場に働くおてつの白い横顔を眺めた。そうして、低い声で頼山陽の詩を吟じた。
町の女房らしい二人連れが日傘を持ってはいって来た。かれらも煙草入れを取り出して、鉄漿を着けた口から白い煙りを軽く吹いた。山の手へ上って来るのはなかなかくたびれると云った。帰りには平河の天神さまへも参詣して行こうと云った。
おてつと大きく書かれた番茶茶碗は、これらの人々の前に置かれた。調練場の方ではどッと云う鬨の声が揚がった。焙烙調練が始まったらしい。
わたしは巻煙草を喫みながら、椅子に寄りかかって、今この茶碗を眺めている。かつてこの茶碗に唇を触れた武士も町人も美人も、皆それぞれの運命に従って、落着く所へ落着いてしまったのであろう。