25話 旧東京の歳晩
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昔と云っても、遠い江戸時代のことはわたしも知らない。ここでいう昔は、わたし自身が目撃した明治十年ごろから三十年頃にわたる昔のことである。そのつもりで読んで貰いたい。
その頃のむかしに比べると、最近の東京がいちじるしく膨脹し、いちじるしく繁昌して来たことは云うまでもない。その繁昌につれて、東京というものの色彩もまたいちじるしく華やかになった。家の作り方、ことに商店の看牌や店飾りのたぐいが、今と昔とはほとんど比較にならないほどに華やかになった。勿論、一歩あやまって俗悪に陥ったような点もみえるが、いずれにしても賑やかになったのは素晴らしいものである。今から思うと、その昔の商店などは何商売にかかわらず、いずれも甚だ質素な陰気なもので、大きな店ほど何だか薄暗いような、陰気な店構えをしているのが多かった。大通りの町々と云っても、平日は寂しいもので――その当時は相当に賑やかいと思っていたのであるが――人通りもまた少なかった。
それが年末から春初にかけては、俄かに景気づいて繁昌する。平日がさびしいだけに、その繁昌がひどく眼に立って、いかにも歳の暮れらしい、忙がしい気分や、または正月らしい浮いた気分を誘い出すのであった。今日のように平日から絶えず賑わっていると、歳の暮れも正月も余りいちじるしい相違はみえないが、くどくも云う通り、ふだんが寝入っているだけに、暮れの十五、六日頃から正月の十五、六日まで約一ヵ月のあいだは、まったく世界が眼ざめて来たように感じられたものである。
今日のように各町内連合の年末大売出しなどというものはない。楽隊で囃し立てるようなこともない。大福引きで箪笥や座蒲団をくれたり、商品券をくれたりするようなこともない。しかし二十日過ぎになると、各商店では思い思いに商品を店いっぱいに列べたり、往来まで食み出すように積みかさねたりする。景気づけにほおずき提灯をかけるのもある。福引きのような大当りはないが、大抵の店では買物相当のお景物をくれることになっているので、その景品をこれ見よとばかりに積み飾って置く。それがまた馬鹿に景気のいいもので、それに惹かされると云うわけでもあるまいが、買手がぞろぞろと繋がってはいる。その混雑は実におびただしいものであった。
それらの商店のうちでも、絵草紙屋――これが最も東京の歳晩を彩るもので、東京に育った私たちに取っては生涯忘れ得ない思い出の一つである。絵草紙屋は歳の暮れにかぎられた商売ではないが、どうしても歳の暮れに無くてはならない商売である事を知らなければならない。錦絵の板元では正月を当て込みにいろいろの新版を刷り出して、小売りの絵草紙屋の店先を美しく飾るのが習いで、一枚絵もある、二枚つづきもある、三枚つづきもある。各劇場の春狂言が早くきまっている時には、先廻りをして三枚つづきの似顔絵を出すこともある。そのほかにいろいろの双六も絵草紙屋の店先にかけられる。そのなかには年々歳々おなじ版をかさねているような、例のいろは短歌や道中双六のたぐいもあるが、何か工夫して新しいものを作り出すことになっているので、武者絵双六、名所双六、お化け双六、歌舞伎双六のたぐい、主題はおなじでも画面の違ったものを撰んで作る。ことに歌舞伎双六は羽子板とおなじように、大抵はその年の当り狂言を撰むことになっていて、人物はすべて俳優の似顔であること勿論である。その双六だけでも十種、二十種の多きに達して、それらが上に下に右に左に掛け連ねられて、師走の風に軽くそよいでいる。しかもみな彩色の新版であるから、いわゆる千紫万紅の絢爛をきわめたもので、眼も綾というのはまったく此の事であった。
女子供は勿論、大抵の男でもよくよくの忙がしい人でないかぎりは、おのずとそれに吸い寄せられて、店先に足を停めるのも無理はなかった。絵草紙屋では歌がるたも売る、十六むさしも売る、福笑いも売る、正月の室内の遊び道具はほとんどみなここに備わっていると云うわけであるから、子供のある人にかぎらず、歳晩年始の贈り物を求めるために絵草紙屋の前に立つ人は、朝から晩まで絶え間がなかった。わたしは子供の時に、麹町から神田、日本橋、京橋、それからそれへと絵草紙屋を見てあるいて、とうとう芝まで行ったことがあった。
歳の市を観ないでも、餅搗きや煤掃きの音を聞かないでも、ふところ手をして絵草紙屋の前に立ちさえすれば、春の来るらしい気分は十分に味わうことが出来たのである。江戸以来の名物たる錦絵がほろびたと云うのは惜しむべきことに相違ないが、わたしは歳晩の巷を行くたびに特にその感を深うするもので、いかに連合大売出しが旗や提灯で飾り立てても、楽隊や蓄音器で囃し立てても、わたしをして一種寂寥の感を覚えしめるのは、東京市中にかの絵草紙屋の店を見いだし得ないためであるらしい。
歳晩の寄席――これにも思い出がある。いつの頃から絶えたか知らないが、昔は所々の寄席に大景物ということがあった。十二月の下席は大抵休業で、上十五日もあまりよい芸人は出席しなかったらしい。そこで、第二流どころの芸人の出席する寄席では、客を寄せる手段として景物を出すのである。
中入りになった時に、いろいろの景品を高座に持ち出し、前座の芸人が客席をまわって、めいめいに籤を引かせてあるく。そうして、その籤の番号によって景品をくれるのであるが、そのなかには空くじもたくさんある。中ったものには、安物の羽子板や、紙鳶や、羽根や、菓子の袋などをくれる。箒や擂りこ木や、鉄瓶や、提灯や、小桶や、薪や、炭俵や、火鉢などもある。安物があたった時は仔細ないが、すこしいい物をひき当てた場合には、空くじの連中が妬み半分に声をそろえて、「やってしまえ、やってしまえ。」と呶鳴る。自分がそれを持ち帰らずに、高座の芸人にやってしまえと云うのである。そう云われて躊躇していると、芸人たちの方では如才なくお辞儀をして、「どうもありがとうございます。」と、早々にその景品を片付けてしまうので、折角いい籤をひき当てても結局有名無実に終ることが多い。それを見越して、たくさんの景品のうちにはいかさま物もならべてある。羊羹とみせかけて、実は拍子木を紙につつんだたぐいの物が幾らもあるなどと云うが、まさかそうでもなかったらしい。
わたしも十一の歳のくれに、麹町の万よしという寄席で紙鳶をひき当てたことを覚えている。それは二枚半で、龍という字凧であった。わたしは喜んで高座の前へ受取りにゆくと、客席のなかで例の「やってしまえ。」を呶鳴るものが五、六人ある。わたしも負けない気になって、「子供が紙鳶を取って、やってしまう奴があるものか。」と、大きな声で呶鳴りかえすと、大勢の客が一度に笑い出した。高座の芸人たちも笑った。ともかくも無事に、その紙鳶を受取って元の席に戻ってくると、なぜそんな詰まらないことを云うのだと、一緒に行っていた母や姉に叱られた。その紙鳶はよくよく私に縁が無かったとみえて、あくる年の正月二日に初めてそれを揚げに出ると、たちまちに糸が切れて飛んでしまった。
近年は春秋二季の大掃除というものがあるので――これは明治三十二年の秋から始まったように記憶している。――特に煤掃きをする家は稀であるらしいが、その頃はどこの家でも十二月にはいって煤掃きをする。手廻しのいい家は月初めに片付けてしまうが、もう数え日という二十日過ぎになってトントンバタバタと埃を掃き立てている家がたくさんある。商店などは昼間の商売が忙がしいので、日がくれてから提灯をつけて煤掃きに取りかかるのもある。なにしろ戸々で思い思いに掃き立てるのであるから、その都度に近所となりの迷惑は思いやられるが、お互いのことと諦めて別に苦情もなかったらしい。
江戸時代には十二月十三日と大抵きまっていたのを、維新後にはその慣例が頽れてしまったので、お互いに迷惑しなければならないなどと、老人たちは呟いていた。
もう一つの近所迷惑は、かの餅搗きであった。米屋や菓子屋で餅を搗くのは商売として已むを得ないが、そのころには俗にひきずり餅というのが行なわれた。搗屋が臼や釜の諸道具を車につんで来て、家々の門内や店先で餅を搗くのである。これは依頼者の方であらかじめ糯米を買い込んでおくので、米屋や菓子屋にあつらえるよりも経済であると云うのと、また一面には世間に対する一種の見栄もあったらしい。又なんという理窟もなしに、代々の習慣でかならず自分の家で搗かせることにしているのもあったらしい。勿論、この搗屋も大勢あったには相違ないが、それでも幾人か一組になって、一日に幾ヵ所も掛いて廻るのであるから、夜のあけないうちから押し掛けて来る。そうして、幾臼かの餅を搗いて、祝儀を貰って、それからそれへと移ってゆくので、遅いところへ来るのは夜更けにもなる。なにしろ大勢がわいわい云って餅を搗き立てるのであるから、近所となりに取っては安眠妨害である。殊に釜の火を熾んに焚くので、風のふく夜などは危険でもある。しかしこれに就いても近所から苦情が出たという噂も聞かなかった。
運が悪いと、ゆうべは夜ふけまで隣りの杵の音にさわがされ、今朝は暗いうちから向うの杵の音に又おどろかされると云うようなこともあるが、これも一年一度の歳の暮れだから仕方がないと覚悟していたらしい。現にわたしなども霜夜の枕にひびく餅の音を聴きながら、やがて来る春のたのしみを夢みたもので――有明は晦日に近し餅の音――こうした俳句のおもむきは到るところに残っていた。
冬至の柚湯――これは今も絶えないが、そのころは物価が廉いので、風呂のなかには柚がたくさんに浮かんでいるばかりか、心安い人々には別に二つ三つぐらいの新しい柚の実をくれたくらいである。それを切って酒にひたして、ひび薬にすると云って、みんなが喜んで貰って帰った。なんと云っても、むかしは万事が鷹揚であったから、今日のように柚湯とは名ばかりで、風呂じゅうをさがし廻って僅かに三つか四つの柚を見つけ出すのとは雲泥の相違であった。
冬至の日から獅子舞が来る。その囃子の音を聴きながら柚湯のなかに浸っているのも、歳の暮れの忙しいあいだに何となく春らしい暢やかな気分を誘い出すものであった。
わたしはこういう悠長な時代に生まれて、悠長な時代に育って来たのである。今日の劇しい、目まぐるしい世のなかに堪えられないのも無理はない。(大正13・12「女性」)