12話 偶合論(2)
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この説明の誤りあるは、第一に、天地間の万物ならびに人は、必ず五行の気を受けて生ずと憶断し、さらに、なんの理ありて五行の気より生ずるやを推究せず、ただ古書に五行の説あり、古代の聖人この説を信ぜり、ゆえにその説真なるべしと憶想するに過ぎず。しかるに、この五行の説はひとりシナに起こり、インドならびに西洋にその説なし。しかして、インドには地水火風の四大の説あり、西洋ギリシアにも四大の説あり。また、近世理化学世に出でてより、分子、元素の説大いに明らかなるに至る。シナと、インドならびに西洋とは、その説かくのごとく異なり。しかるに、ひとりシナの説を信じて、これを万世不易の金則として用うるは、あまりシナ一方に僻する偏見といわざるべからず。もし、これを不易の金則とするには、明瞭なる証明を与えざるべからず。今、その前に挙ぐる文によるに、『河図洛書』より出でたるものなれば、天の教ゆるたまものなりと述ぶるも、『河図洛書』になんの理ありて、かくのごとく信ぜざるを得ざるや。もしこれ、古書に出でたるものなれば、その事実疑うべからずとするか。しからば、いずれの国にても、古書の妄誕を伝えざるはなし。これみな、真実として信ぜざるべからず。かくのごとく論究するときは、九星も方位もともに信ずるに足らざるなり。しかして、実際その説の事実に的中することあるは、いわゆる偶然の暗合か、しからざれば、これを信ずる人に限りて効験あるのみにて、信ぜざる人および知らざる人には、さらに関係なきものならざるべからず。
以上は、偶合論より次第に説き去り説ききたりて、卜筮、方位、五行、九星のことに及ぶ。今、これを一結するに当たり、偶合のなんたるを明示せざるべからず。卜筮、予言等の事実に的中することあるは、要するに偶然の暗合というよりほかなし。偶然の暗合なれば、十は十ながら事実に合するにあらず、十中いくぶんか合中することあるのみ。例えば銅銭一銭を投じて、表面を示すか裏面を示すかを判ぜんとするに、当たることもあり、当たらぬこともあるべし。当たりたりとて、決して奇怪とするに足らず。卜筮も、なんぞこれと異ならんや。
しからば、世に偶合ありといわざるべからず。偶合、実にあり。しかれども、さらに進みて偶合のなんたるを究むれば、偶然の暗合にあらずして、必然の道理あるを知るべし。ゆえに、余ははじめに、偶然は必然を離れて別に存するにあらずといえり。例えば、銅銭を投じて表面出ずべしといいて表面出でたるとき、これを偶然の暗合というも、銅銭の表面を示したるゆえんも、わが方にて表面出ずべしといいたるゆえんも、みなしかるべき原因ありて起こりしものなれば、ともに必然といわざるべからず。今日にありて明日の晴雨は予定し難しといえども、その晴るるも雨降るも、ともに必然の規則によりて生ずる結果なれば、これみな必然といわざるべからず。しかるに、あるいは偶然と呼び、あるいは必然ととなえ、あるいはまた蓋然と称する等の別あるは、事実そのものの性質もとよりしかるにあらず、わが観察、推究の力の足ると足らざるとによりてこの別を生ずるのみ。
もし、事実の方の原因事情、種々複合して生ずる現象は予定し難く、単純なる規則によりて生ずる現象は予定しやすし。例えば、銅銭を投ずるがごときは極めて単純なる作用に似たるも、これによりてきたすところの結果は、手の方向ならびに力の強弱、銅銭の持ち方、その投ずる距離、空気の抵抗等、種々の原因事情相合して生ずるものなれば、極めて複雑なり。ゆえに判定し難し。もしまた、偶然と必然と果たして判然たる区域あるにおいては、その間に判然たる分界を定むることを得べき理なり。しかるに、昨年の偶然が今年に至りて必然となり、昨日の蓋然が今日に至りて必然となるの類、往々経験するところなるをもってこれを見るに、必然も蓋然も偶然も元来同一にして、分界あるにあらざるを知るべし。しかして、その分界を現ずるは、わが知力の発達のいまだ足らざるに起源すといわざるべからず。これ、余が偶然論の結言なり。
(付言)「妖怪学講義」ここに終わりを告ぐ。しかして、序言にも一言したるごとく、この講義が妖怪学として講述せるものにあらず、ただ心理学研究の一助となさんと欲して、これまで研究したる妖怪の事実につき、心理上の説明を与えたるのみ。読者、もし応用心理学の一部分として、この講義を参考せらるるならば、講者の本意を得るものなり。
出典 『哲学館講義録』第五学年度第四、九、一九―二〇、二八、三一―三二、三四、三六号(明治二四年一二月五日、同二五年一月二五日、五月五日、一五日、八月五日、九月五日、一五日、一〇月五日、二五日)