2話 木曽道中記(2)
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身輕手輕と夫ばかりを專にしたる旅出立なれば二方荒神の中に縮まりてまだ雨を持つ雲の中に上る太華山人其の寒さを察し袷羽織を貸さる我が羽織の上へ重ね被ても大きければ向ふ山風に吹き孕みて恰かも母衣の如し後の馬の露伴梅花の兩子いろ/\に見立て嘲み笑ふ此は信濃の山中なり見惡しとて寒さにかへられんや左云ふ君等の顏の色を見よと詞戰かひ洒落も凍りて可笑しきは出ず峯には櫻溪には山吹唐松の芽出の緑鶯のをり/\ほのめかすなど取あつめたる景色旅の嬉しさ是なりと語りかはして
山響き谷こたへて後しづかなり雉子の聲
と無理を吐く羊膓たる阪路進むが如くまた退るが如し馬をしばしと止めて元來し方を顧みれば淺間の山はすでに下に見られて其身は白雲の上にあり昨日此山を見て一睨みして置きしが今日は昨日宿りし處を見んとして見えず何となく氣壯んになりて身に膓胃ある事を忘れたり此山路秋は左こそと青葉を紅に默想し雪はいかにと又萬山を枯し盡して忽ち突兀天際に聳ゆる銀の山を瞑思すつひに身ある事を忘れたり澤を傳ひ峯に上る隨分峻しき峠なれど馬にまかせて嶮しき事を知らず東もち屋村といふは峠の上にして人家四五軒あり名物の餡餅あり此にて馬を下り圍爐裏の火に龜みし手足を温めながら其名物を試む梅花道人物喰に於て豪傑の稱あり此にてもまた人々に推尊せられて二盆の外我分までを啖ひ盡すやがて此を出で是より下りなればとて例の鐵脚を踏み轟かす道人餡餅腹に入りて重量を増したるにや兎角に後に下る露伴子は昨年此道中をせしとて甚だ通なり甞て出立の時に曰く木曾海道美人に乏し和田峠西もちや村の餅屋に一人また洗馬に一人あり洗馬のは予未だ其比を見ざる眞に絶世の美人なり餅屋のはこれに亞ぐと物覺え惡き一行なれど是は皆々領裏にでも書留て置きしやよく覺えて夫となく此より荷物を包み直し領掻き合せ蝙蝠傘に薄日を厭ふ峠の上の平坦なるを過ぎて下り口に至りて西の方を一望すれば眼界新たに曠て昨日までの景色と異なり群山皆な雌伏此の峠の外に山と仰ぐべきなし何か自分が此山になつたやうな氣持にて傲然としてまた一睨みす下りは元は急にて上りより難儀なりしを御巡幸の節道を直し今は行人安樂なりといふ左れど尚ほ屈曲の險坂幾段なるや知らず古しへの險阻おもふべきなり下り終らんとする所即ち西もちや村なり此は人家十餘軒ありて宿屋の前に女ども出てお休みな/\と客を呼ぶスハヤ尤物は此中に在るぞと三人鵜の目鷹の目見つけなば其所に入らんとする樣子なり我は元より冷然として先に進み道のかたへの菫蕗の薹蒲公英茅花など此に殘の春あるを賞して騷しき方は見もかへらず三人跡より喘ぎ來りて無し/\影もなし大かたは此邊の貴家豪族が選び取て東京紳士の眞似をなし贋雪舟と共に床の間にあがめ置くなるべし憎むべし/\といふ
呼子鳥おぼつかないで尚床し
日も温かに鳥の聲も麗かなりぶらり/\と語りながら行くに足は勞れたり諏訪の湖水はまだ見えずや晝も近きにと云うち下の諏訪と記したる所に出たり旅宿もあり此ならんと思へばこれは出村にてまだ一里といふ
第八囘
旅にて聞くを厭ふ詞二つまだと餘なり初日碓氷にて勞れしとき舊道へ入るの道の標を見るに輕井澤まで二里餘とあり喘ぎ/\上りてやがて二里餘も來らんと思ふに輕井澤は見えず孤屋の婆に聞けば是からまだ二里なりといふ一行落膽し偖は是程に草臥て餘だけしか來らざりしかと泣かぬばかりに驚きたり是より道を問ひて餘の字を付加へらるゝ時はスハヤと足を擦りたり又まだと云は頓て其處ならんと思ふて問ふとき付加へられて力を落す詞なり和田峠の上りは馬に乘りたれば野々宮高砂なりしが下りは侮りて遊び/\歩きたる爲め三里に足らぬと聞くに捗取らぬこと不思議なるうへ下口はドカ/\と力も足に入る故か空腹甚しく餡餅二盆半の豪傑すら何ぞやらかす物はないかと四方を見す程なれば我は餘ほど北山やら西山やら知らぬ方角の山吹躑躅見るも目のまはる程となりしに曲り下りる坂下に町家ありし事なればしかも下諏訪とありし事なれば嬉しや此ぞと先へ驅けしが心あての龜屋なし立どまりて露伴子に聞けば何でも此を越して夫から諏訪の湖水が見えて夫から下諏訪だ此は云て見ればお前立といふやうなものとの答へまだ付の一里是からの長きこと限りなく山吹を折りて帽子にしたり蓮華草を摘んだり道草は喰へど腹は脹れず何やら是だけが餘計の道のやうに思はれて小腹も立てば
飛ぶ蝴蝶羽をかはして我を乘せよ
とダヽを捏ねるイヨ藤浪由縁之助と聲をかけらるゝにまた取敢ず
術なさに倒るゝまでも菫かな
と狂句すればイヨ忍月居士と云此に始めて忍月居士が愛慕さるゝは菫御前なることを知り又通人を褒めてイヨすみれは置かれませんと挨拶するは此事より起りたる詞ならんと悟りぬ兎角いふうち入まじへたる山の盡るほとりに一面の名鏡現れたり此ぞ諏訪の湖なると露伴子の指すに俄に足も輕く氣も勇み始めて心づきて四方を眺望するに山々には殘りの花あり雲雀鶯の聲は野に滿ち下は湖水へ注ぐ大河ありて岩波高きに山吹危うげに咲き溢れたる此景色今まで何とて目には入らざりしといぶかる頓て下の諏訪秋の宮に詣づ神さびたるよき御社なり上の諏訪に春の宮あり莊嚴目をおどろかすと聞しが夫へは詣でず此宿より上の諏訪はまだ三里もありと聞ばなり正午少し過るころ下諏訪の温泉宿龜屋に着く一浴して快と賞し鯉鯰などにて小酌しながら偖も今日半日の勞れの恐しさよ小敵と見て侮りたる故此敗は取りしならん是よりは愼みて一里の道も百里を行くの勇氣を以てあたるべしと語るうち下座敷に月琴の響き聞ゆ怪しの物の音や東京を出て未だ鳥の謠ひ奏づる外人間の音樂は聞ずさすがに此は遊浴繁花の地とて優しくも聞くものかな且つ其調も拙なからず微めて唄ふに聲はさだかならねど人もさぞと慕はしきにいざや此へ呼びて一曲を所望せん彼の潯陽の江頭ならで諏訪湖邊に月琴を聽くもまた面白からずやと直ちに手を鳴らして女を呼び下にて月琴を彈くは何者ぞと問へば此家の娘なりといふ容貌も温泉に濯ひて清げならん年は幾許ぞ。ハイ九歳でまだネカラ手がりません。此答へに一座唖然たり
第九囘
二方荒神の味を覺えて鹽尻峠も馬に遊ばんと頼み置きて寐に就く温泉にて勞れを忘れ心よく睡りたれば夜の明けたるも知らず宿の者に催されて漸やくに眼を擦りながら浴室に至れば門前に待ち詫びたる馬の高く嘶くにいよ/\慌て朝餉の膳に向へば昨日鯉の濃汁を褒めたればとて鍋ごと盛んに持ち出で勢ひに呑まれてか豪食の三傑詞にも似ず椀の數少なし馬は何時頃より來り待つぞと問へば江戸のお客樣は氣短でお出でなさるゆゑマダ來ぬかと叱られぬ爲め夜明前より門に來て居りました私共も四時から御膳の支度して御手の鳴るを待ちましたと云ふ諸事左樣來て貰ひたしさすがは下諏訪の龜屋なりと稱へ土産にとて贈られたる名物氷餅を旅荷物の中へ入れて馬ち遠であツたと馬士にも挨拶して此を立ち出づ宿の朝景色何處も勇ましく甲斐々々しく清々しきものなるが分きて此宿は馬で心よく搖られ行く爲か面白し宿を離るれば諏訪の湖水朝霧立こめて空も雨を催ひて寒し馬士の道々語りて云ふ此宿も今は旅人を當にもなさず先づ養蠶一方なり田を作るも割に合はぬゆゑ皆な斯樣に潰して畑となし豆を作るか桑を殖るかなり元は隨分繁昌な所で有りましたがナア又曰く此の流れはアレ彼山の間を川に流れて天龍川に落ちますナニお前さん氷は張りますが馬は危ないので通行は致しません人は見當をつけて向ふの村へ何處でも行きます廣さは十三里と云ますが左樣はございません狐が渡るといふのも昔の話でハイ鯉や鮒鰻は大層捕れますダガ十月から彼岸時分まで氷で漁は出來ませんナニサ兎は少し取れますが獸は何處も此處も開けたので一疋も居なくなりましたハイ遊廓なんテ見られたもんでは無いと矢鱈と謙遜なりポクリ/\と鹽尻峠を上りながら晴た日だと是から富士が見えますと指さす顧みれば水面わずかに白く四方は朝霧にて山の形さへ定かならず此の鏡へ姿を寫す富士の俤さぞと胸に畫けば煙霧糢糊たる間一種の風景あり馬士また云ふ昨夜私の方で大喧嘩が有りました湯の中で騷いだので大きに迷惑します一体湯を引いて湯塲を作るのは大分の入費で夫は村から出し合て誰でも無代で入れますのだが此頃新道を作る人足が大勢入り込んで宜い湯治塲へ行た氣で無代で湯へ入り其上威張散して喧嘩を仕かけたので村の者は怖しがり女や年寄は最う入らぬ位ですナント馬鹿々々しいではございませんか昨夜の喧嘩も土方同士でイヤハヤ新道一件ではいろ/\な事がございます如何か人足の暴れるだけもせめて取締ツて貰ひたい金を出した湯の持主が隅へ小さくなツて何處の者か知れぬ奴が無代で巾を利かせて歌など唄ツて騷ぐとはエライ話しだと不平を云ふ一体に新道には不平と見え馬も舊道行人も舊道なり只運送馬車のみ道は遠けれど平坦ゆゑ新道を驅けるとぞ此邊の屋作り皆な玄關搆へにて嚴めしく男も雪見袴とかいふものを着て古風なり松本道の追分あり此より十五六里なりと午前九時鹽尻の宿へ着く
乘り捨し馬を繋ぐや散る李花
此邊にては人の妻を呼びてお方と云ふ女働らき男樂する風なり土地は桔梗が原に續いて田畑多し
第十囘
鹽尻の茶店の爐に暖まり温飩掻込みながら是よりなら井まで馬車一輛雇ふ掛合を始む直段忽ち出來たれど馬車を引來らず遲し/\と度々の催促に馬車屋にては頓てコチ/\と破れ馬車を繕ひ始めたりイヤハヤ客を見て釘を打つ危ない馬車に乘らるべきか外に馬車なくば破談にすべしと云へばナニお客樣途中で破れるやうな事はございません破れても上の屋根だけですから轉がり落る程の事は有ませんサアお乘りなさいと二十三四の馬丁平氣なれば餘義なくこれに乘る二十三四の小慧き奴客を客とも思はばこそ遊び半分にラツパを吹きて先を驅くガタ/\ゴロ/\隨分と烈し鹽尻を過れば一望の原野開墾年々にとゞきて田畑多しこれ古戰塲桔梗ヶ原雨持つ空暗く風慘し六十三塚など小さき丘に殘れり當年の矢叫び鬨の聲必竟何の爲ぞ
田鼠や化りおほせても草隱れ
興敗つひに夕鶉の一悲鳴草の葉に露置くを見れば小雨の降り來りしなり馬車を驅ること飛が如くなれば手帳へ字などなか/\書けず只破れかゝりし臺の横木に掴まりて落ても怪我のないやうにと心に祈るばかりなり忽ちに二里を馳せ洗馬へ着く昔はよき驛なりしならん大きな宿屋荒果て憐なり此に木曾義仲馬洗の水といふ有りといへど見ず例の露伴子愛着の美人も尋ねずわづかに痩馬に一息させしのみにて亦驅け出す此宿より美濃の國境馬籠までの間の十三宿が即ち木曾と總稱する所なり誠に木曾に入りしだけありて此より景色凡ならず谷深く山聳へ岩に觸るゝ水生茂る木皆な新たに生面を開きたりソレ彼の瀧ホラ向ふの岩奇絶妙絶と云ふうちには四五反は馳せ過る馬車の無法飛せ下は藍なす深き淵かたへは削りなせる絶壁やうやくに車輪をのするだけの崕道を容赦も酌もなく鞭を振つて追立るなれば其の危うさは目もくるめき心も消るばかりなりあはれ斯る景色再びとは來られねば心のどかに杖を立て飽までに眺めんと思ふに其甲斐なし命一ツ全きを願ふばかり付燒刄の英雄神色少し變じたり馬丁にあまりに烈し少し靜にせよと云へば斯る所はハヅミに掛つて飛さねば却て誤ちありナアニ此樣な所此はまだいろはです是から先が些ばかり危ないのですと鼻唄の憎さよ坂を眞下りに下る時は泥犁の底に落る如くまた急なる塲所を上る時は直立して天に向ふ此は危なし下んと云へど聞かぬ顏にていよ/\飛ばす山は恰も驅るが如く樹は飛が如くに見ゆ快と云ば快爽と云ば爽なれどハツ/\と魂を驚かすあまり壽命の藥でもなし呉々も重ね/\も木曾見物の風流才士は此を馬車にて飛ぶべからず同行例の豪傑揃ひなれば一難所一急坂を過る時は拍手して快を呼ぶ馬丁ます/\氣を得て驅けさすこといよ/\烈し一句を吐んと思ひ込みしに冗と仕たり瞬間に本山に着けど馬に水もかはず只走りに走る梅澤櫻澤などいふ絶景の地に清く廣やかの宿屋三四軒あり此に一宿せざることの憾しさよ山吹躑躅今を盛りにて仙境の想あり聞く熱川には温泉の出る所ありと此等に暑を避けて其の湯に塵を洗ぐならば即身即仙とんだ樂しき事なるべきに
第十一囘
見上る山には松にかゝりて藤の花盛りなり見下せば岩をつゝみて山吹咲こぼれたり躑躅石楠花其間に色を交へ木曾川は雪と散り玉と碎け木曾山は雲を吐き烟を起す松唐松杉檜森々として雨ならずとも樹下は濕ひたり此間に在りて始めて人間の氣息緩かなるべきを無法飛せの馬車なれば(是よりして木曾の山中にも無法飛ぶのは馬車ではないか抔定めて洒落始めしならん)下手な言文一致の詞のやうにアツヱツ發矢など驚きて思はず叫ぶばかり山も川も只飛び過ぎ熱川より奈良井の間の諏訪峠といふ所は車の片輪を綱にて結びてらぬやうにし片輪のみにて落し下すに石に軋りて火花を出す凄じさ譬へて云んやうもなし又本山と熱川の間なりし崕道崩て往來なり難きにより木曾川の河原へ下り川を二度渡りかへして道へ出る所などは會釋もなく川の中へ馬車をやり入れたるが水は馬の太腹にも及び車の臺へ付く程なれば叩き立られたる痩馬向ふの岸に着きかねて喘ぐに流石の我武者馬丁も術なくて己川中へ下り立ち四人を負ひて川原へ下し馬車にして辛うじて引上げしが道を作り居たる土地の者崖の上より見下して乘り入れたる馬丁も強し下りぬ客人も大膽やと賞るか譏るか聲を發して額に手をば加へたり此の時少し篁村息を吐き河原に立やすらひて四方を眺め崩たる崕道を見上るに夫婦連の旅人通りかゝり川へ下りんも危うし崖を越んも安からずと彳み居しが頓て男は崩たる處ろへ足を踏み出し足溜りをこしらへてはまた踏み固め二間餘のところ道をつけ偖立戻り蝙蝠傘の柄の先を女に確と掴ませ危うくも渡り越して互にホト息して無事を悦び合ふ愛情いと尊くも嬉しけれ早々乘れ雨の來らんにと急かれて心ならねど又馬車に乘り先の嶮岨をいろはなりと云しに違はずだん/\危うくせず京あたりの難所も首尾よく飛せ越えて奈良井へ着しは晝前なり是より直に鳥居峠なれば馬車を下りしに馬丁は意氣揚々としてドウですお客樣一番鳥居峠を追立て見ませうかと云ふ我手を振りて是を願ひ下げ此にて晝餉を認めしが雨はいよ/\本降となりしゆゑ豫て梅花道人奉行となりて新調せしゴム引の合羽を取り出し支度だけ凛々敷此所を出れば胸を突くばかり直に峠にて馬車の上に縮みたる足なればチト息ははづみたり此峠に古しへは棧橋ありしとか思ふに今にして此嶮岨なれば棧橋は強ち一ヶ所に限らず所々に在しならん芭蕉の「かけはしや命をからむ蔦かづら」と詠みしも今の棧橋の所にては有まじ四五丁上りかけて谷に寄たる方に土地の者の行く近道あり折々此の近道あれど草深く道の跡も定ならで危ければ是を通道と名け通と云れたがる者ならでは通らず梅花道人少し後れたるテレ隱しに忽ち此道に驅け上る危ないぞと聲を掛るうち姿は見えずナニ幾許ほど近いものかハアハア云つて此上あたりに休み居るならんト三人嘲みながら上るに道人は居ず五六丁の間は屈曲てもよく先が見えるに後影もなし若しやは近きを貪りて谷へ轉げ落ちしにあらずや此谷に落たるを救ひ上げんには三人の帶を繋ぐとも屆くまじ如何はせんと谷底を覗き見ながら雨を凌ぎて上る
第十二囘
雲雀より上にやすらふ峠かなと芭蕉が詠みしは此の鳥居峠なり雨は合羽の裙よりまくり上げに降る此曲降を防がんやうなく只濡なるに脊はまた汗なり一里に足らぬ峠なれど急上りの急下りなれば大辟易の形となりぬ頓て峠へ上りつきて餅屋にて云々の形の者は通らずやと聞けば先にお下りになりましたと云ふ偖は梅花道人も谷へは落ちざりしかと安心し下りとならば嶮しとて一跳にせんものと雨を凌ぎつゝ勢ひをつけて下る下りてやゝ麓近くなりしとき篁村小石に躓づきはづみを打て三四間けし飛びしが鞍馬育ちの御曹子を只散髮にした丈の拙者なればドツコイと傘を突き左りの足にて踏み止めぬアハヤと叫びし太華露伴の兩氏イヨ感心と褒めたるが實は此のドツコイ甚だ宜しからず踏み止めし左りの足ギクリとせしが是より少々痛みを覺え雨に傘は用ひずして左りの杖となしたるぞ無念なる下りきりては只の田甫道面白くもなくトボ/\としてやがて藪原に着く此はヤゴ原と讀み元は八五原と書くお六櫛と世に名高き櫛の名所にて八五は即はち九四に同じといふ附會説ありまだ午後の三時に及ばず今三里行けば木曾中第一の繁昌地福嶋なり其所まで飛ばせよといふ議も出しが拙者左りの足が危しければイヤサ繁花の所より此の山間の宿に雨を聽くがあはれも深いものだと弱身を隱して云ふに左らばと此宿に泊る梅花道人茶店に待てありしが一つになり見ぬ事とて早足の自慢大げさなり脇に羽の生えた跡もなけれど偖宿に入りて見れば家名は忘れしが家居廣く清らかにて隣りに大きな櫛店もあり宿中第一の大家とは知られぬ湯に入り名物の櫛を買ふうち頓て名代の蕎麥を持ち出す信濃路一体に輪嶋塗沈金彫の膳椀多しこれ能登よりの行商ありて賣り行くならん大きなる黒椀に蕎麥を山と盛り汁を同じく大椀に添へ山葵大根葱海苔等藥味も調ひたり蕎麥は定めて太く黒きものならん汁の《から》さもどれほどぞと侮どりたるこそ耻かしけれ篁村一廉の蕎麥通なれど未だ箸には掛けざる妙味切方も細く手際よく汁加甚はだ佳し思ひ寄らぬ珍味ぞといふうち膳の上の椀へヒラリと蕎麥一山飛び來りぬ心得たりと箸を振ひやゝ二杯目を喰ひ盡さんとする此時遲く彼時早く又もヒラリと飛び込みたり是はと驚く後より左りに持つ椀へ汁を波々注がれたりシヤ物々しと割箸のソゲを取り膳の上にて付き揃へ瞬く間に三椀を退治たりと思ふ油斷に四椀目は早くも投げ込まれぬ此の狼狽我のみならず飮食道に豪傑の稱ある梅花道人始め露伴子太華山人も呆れ果て箸を膳に置いて一息しよく/\見れば美くしき妻女清しき眼を見はり椀だに明かば投げ込んと盛り替の蕎麥を手元へ引つけて呼吸を量り若き女其後にありて盛替々々續けたり今一人は汁注を右に持ち中腰にて我々の後より油斷を見て汁を注がんと搆へたり此備へ美事喰崩して見せんものと云合さねど同じ心に一同また箸を擧げしが拙者は五椀目にて降參を呼はり投げ込みと欺し注を恐れて兩椀に手早く蓋をして其上を確と押へ漸く蕎麥責を脱れしが此時露伴子は七椀と退治和田の牡丹餅に梅花道人が辭してより久しく誰人の手にも落ちざりし豪傑號を得たりしは目ざましかりける振舞なり
第十三囘