絵のない絵本 01 絵のない絵本

33話 第三十二夜

895字 約2分 2018年4月2日 公開

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 寒い風がぴゅうぴゅう()いていました。雲が飛び去って行きました。月はただときおり見えるだけでした。

「静かな大空をとおして、わたしは飛び行く雲を見おろしています」と、月は言いました。「大きな(かげ)が地上を走って行くのが見えます。

 このあいだ、わたしは牢獄(ろうごく)の建物を見おろしました。窓をしめた一台の馬車が、その前でとまりました。ひとりの囚人(しゅうじん)が連れだされることになっていたのです。わたしの光は格子(こうし)のはまっている窓から(かべ)のところまで()し入って行きました。囚人はこの世の別れに、何か二、三行壁にきざみつけました。しかしこの男の書いたのは言葉ではありません。一つのメロディーでした。この場所ですごした最後の夜に、心の底からほとばしり出た一つのメロディーだったのです。戸が開きました。囚人は外へ連れだされました。そのとき、わたしのまるい月の輪をふりあおぎました。――

 雲がわたしたちのあいだを走りました。まるで、わたしがこの男の顔を見てはならないように、そしてまた、この男がわたしの顔を見てはならないとでもいうかのようでした。男は馬車に乗りました。馬車の戸がしめられました。むちがヒューッと鳴りました。馬はこんもりとした森の中へ()けこんで行きました。そこでは、わたしの光は後を追って行くことができません。けれども、わたしは牢獄の格子の中をのぞいてみました。わたしの光は、あの男の最後の別れである、壁にきざまれたメロディーの上をすべって行きました。言葉の力の(およ)ばないところでは、音の調べがものを言うものです。――

 しかし、ただきれぎれの音譜(おんぷ)しか、わたしの光は照らすことができませんでした。その大部分は、わたしにとってはいつまでも暗闇(くらやみ)の中に残されることでしょう。あの男の書いたのは死の讃歌(さんか)だったのでしょうか? 喜びの歓声だったのでしょうか? あの男は死のもとへ行ったのでしょうか、それとも、愛人に()かれるために行ったのでしょうか? 月の光は人間が書くものをさえ、ことごとく読んでいるわけではありません。

 ひろびろとした大空をとおして、わたしは飛び行く雲を見おろしています。大きな影が地上を走って行くのが見えます!」

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