脳の中の麗人

2話 脳の中の麗人(2)

6,278字 約13分 2003年3月20日 公開

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 ひとりになった宮川は、あらためて戦慄(せんりつ)の復習をやった。

 なんというおそろしい男だろう。

 一旦自分の脳を売っておきながら、その金で相場をやって、儲かればその金で、自分の脳を買い戻そうというのだった。

 買い戻すといっても、彼の脳は、いまはちゃんと他人の脳室に入っているのである。いくら金を積んでも、いやだといったら、彼矢部は一体どうするつもりだろうか。

 暴力か? あの権幕(けんまく)では、腕ずくで、持ってゆくかもしれない。暴力ならば、たとえ金がなくても実行ができるのだ。

(これはたいへんなことになった!)

 と、宮川はぶるぶるとふるえた。

 彼は、もう立ってもいてもいられなかった。そこで街をとおりかかるタクシーを呼びとめると、助けを乞うために、黒木博士の病院にとかけつけた。

「なあんだ、そのことですか。別に心配することはないですよ」

 博士は、すこぶる落付いたものであった。

「ねえ、宮川さん。こういうことを考えたらいいではありませんか。たとえ矢部という男が百万の金を(わし)の前に積んだとしても、儂が手術を(ことわ)れば、それでどうにも仕方がないではないですか」

「それは本当ですか、博士」と宮川はおもわず博士の手を握りしめたが、「だが、あの男は暴力でもって、私の頭蓋骨をひらいて脳をとりかえすかもしれません」

「いくら暴力をふるおうと、脳の手術の出来るのは、自慢でいうじゃないが、この儂一人なんだから、儂がいやだといえば、矢部がいくら騒いでも何にもならんではないですか」

「そうですね。それでは、本当に安心していて、いいわけですね」

 宮川は、はじめて気が落付くのを感じた。

 その後、矢部はちょくちょく宮川のところへやって来た。そしてそのたびに、五十円だとか六十円だとかを、せびっていった。金さえもらえば、矢部は案外おだやかな人物であった。宮川は、ようやく本当に矢部に出会(しゅっかい)以来の落付をとりもどすことが出来たのだった。

 宮川が、矢部事件による緊張から解放されると、こんどは生活が急に退屈になってきた。彼は女の友達が欲しくなった。

 彼は思い出して、机のひきだしの奥から、例の青い革表紙(かわびょうし)の手帖をとりだして、にやりにやりと笑いながら、いくども読みかえした。大したことも書いてないながら、その簡単な日記文に現れるYという女のことが、妙に(なつか)しがられてくるのだった。

 このYという女は、その後どうしたろう。この手帖の主人公と別れてしまったようだが、その後どうしているのであろうか。とにかく、このYという女は、手帖の主人公をたいへん()(した)っているのだ。その主人公の筆蹟が、彼の筆蹟とおなじであるのは、一体どうしたわけであるか。

 この疑問をとくため、彼は或る日博士をたずねて、この問題を出した。

「えっ、そんなものがあったかね」

「ありますとも。ここに持ってきました」

 彼は青い手帖をとりだした。

 博士は、深刻な顔をして、手帖の頁をくっていたが、(にわか)に笑いだした。

「ああ、これは(わし)のところの助手で谷口という男の手帖ですよ」

「でも、その手帖は、私の机の中にあったんです」

「そ、それですよ。じつは、谷口を、君のアパートの引越のとき、手伝いにつれていったんです。そのときポケットからとりおとしたのを、他の誰かが拾って、宮川さんのものだと思って、机の中に入れたのでしょう。いや、それにちがいありません」

「それはおかしいですね。筆蹟が、私のにそっくりなんです」

「こういう字体は、よくあるですよ。なんなら谷口をよんでもいいが、いま生憎(あいにく)郷里(きょうり)へかえっているのでね」

「私は、そのYという女に会いたくてしかたがないのです」

「えっ、それは駄目だ」と博士は目をむいていった。

「駄目です、駄目です。他人の女にかかりあってはいけない」

「本当に、そのYというのは、谷口さんの愛人なんですかね」

「そうです。それにちがいありません」

 博士はひどくせきこんで、なるべく早く宮川を納得(なっとく)させようとしている。

 このとき宮川はいった。

「博士。私はちかごろになって気がついたんですが、いろいろな記憶を失っているんです。どうも気持がわるくてなりません。博士、どうぞ教えてください。あの黄風荘(こうふうそう)というアパートにいた前、私はどこに住んでいたのでしょうか。どうか、その前住居(ぜんじゅうきょ)を教えてください」

 博士は、首を大きく左右にふって、

「ねえ宮川さん。あんたはつまらんことを気にしていけないですよ。脳の手術はもうすんだが、まだ養生期(ようじょうき)だということを忘れてはいけないです。もうすこし落付くと、きっと記憶は元のように戻ってきます。それまでは、辛かろうが、一つしんぼうするのですな」

   矢部の愛人

 宮川の生活は、それ以来さらに退屈を加えたようであった。

 或る日、例の青年矢部が金をもらいにやってきたとき、彼はいつになく、手をとらんばかりにして矢部を室内に(しょう)()れた。

「よく来たね。矢部君。きょうは君に八十円ばかり用達(ようたし)をしてもいいと思っていたところだ」

「ほんとですか」

 矢部は、すぐれない顔色に、微笑をうかべていった。

「ほんとだとも。そのかわり、僕のどんな質問に対しても、君は正直にこたえるんだよ。いいかね」

「ははあ、交換条件ですか。ようございます。八十円いただけますなら、当分栄養をとるのに事かきませんから。なんですか、質問というのは」

 それを聞くと、宮川はにやりと笑い、

「大いによろしい。いや、質問といっても、大したことじゃないんだ。君はちかごろ、美枝子(みえこ)さんというひとに会うかね」

「美枝子にですか。いや、会いません。こんなあさましい(やつ)(かた)で会えば、愛想(あいそう)をつかされるだけのことですからねえ」

「それはへんだね。そんなに永く美枝子さんに会わないでいられるとは、おかしいじゃないか。君の愛情が冷えたのではないか」

「そういわれると、すこしへんですがね。第一ちかごろ健康状態もよくないことも、原因しているのでしょう。質問というのはそんなことですか」

「いや、もう一つあるんだ。その美枝子さんというのは、丸顔のひとで、唇が小さく、そして両頬に()くぼのふかいひとじゃないかね」

「ああ、そのとおりです。あなたは、どうしてそれを知っているんですか」

「いや、この前いつだか君から話をきいたことがあったじゃないか」

 と、宮川は嘘言(うそ)をついた。美枝子のことをなぜ宮川が知っているか。それをいえば、矢部はきっとびっくりするに相違ない。

「どうだい、矢部君。これから二人して、美枝子さんがどうしているか、その様子をそっと見にいってみようじゃないか」

「そ、そんなことを……」

 と、矢部は尻ごみしたが、宮川はおっかけいろいろといい含めて、ついに矢部をひっぱり出すことに成功したのだった。

 矢部の案内で、宮川は丸の内の或るビルの前へいった。

 宮川は、新調の背広に赤いネクタイをむすんで、とびきり豪奢(ごうしゃ)な恰好をしているのに対し、矢部は例によって、くたびれきった服に身体をつつんでいた。

 やがて時刻とみえて、ビルの横合(よこあい)の出口から、若い男や女が、ぞろぞろと出てきた。

 それを見ると、矢部はすっかり怯気(おじけ)づいて、逃げてゆこうとした。宮川は、その手をしっかと握って、自分の傍にひきつけて放さなかった。

 宮川は、ビルの中から出てくるおびただしい女たちの顔を、いちいち首実験していたが、そのうちに、矢部の手をぐっと強く握って、

「おい、あの女だろう。空色のジャンバーを着て、赤い細いリボンをまいた黒い帽子をかぶっているあの女――ほら、いまハンドバッグを持ちかえた女だ」

「そうです、美枝子ですよ。宮川さん、放してください。僕は美枝子に会うのはいやだ」

「そんな気の弱いことでどうするんだ。ほら、美枝子さんは、こっちへ来る」

 そういっているとき、美枝子の視線が二人の男の方に向いた。そしてはっとした様子で、足早(あしばや)にちかよってくる。矢部は、宮川の手を力一杯ふりきって、逃げてしまった。

 後に宮川はひとりで立っていた。彼の眼は、いきいきと輝いていた。まるでゲーテが、久方(ひさかた)ぶりで街で愛人ベアトリッチェに行きあったような恰好であった。

「ああ美枝子さん」

「まあ、どなたですの」といって女は宮川につかまれた手をふりほどきながら、「ああ、あの人をつかまえてください、矢部さんを」と身体をもだえた。

「ああ、矢部君のことですか。彼はあなたに会うのが(はずか)しいといって逃げたんです。だが、私にまかせて置きなさい。わるいようにはしない」

「まあ、あなたは一体どなたですの。矢部さんのお友だち? ――ちょっと、皆がみていますわ。手をはなしてくださらない」

 宮川は、いつの間にか、女を両腕の中に抱いていたのだ。彼女に注意されて、びっくりして腕を()いた。なぜ彼は、そんなに昂奮(こうふん)したのか、彼自身にもふしぎなくらいだった。

「ねえ、美枝子さん。私はぜひあなたに会いたいと思って、矢部君に案内してもらったんですよ。どうです、これからどこかで御飯でもたべながら、ゆっくりお話をしようじゃありませんか」

 宮川の唇から、すらすらとこんな言葉がでてきた。これもふしぎであった。

「まあ、はじめてお目にかかったのに、ずいぶん積極的ね。――でもいいわ、御馳走になりますわ。あなた、ほんとにすばらしい方ね」

 そういって美枝子は、宮川のすんなりとした身体を背広のうえから撫でた。

   待っていた怪女

 その翌日のことだった。

 宮川は、久しぶりで黒木博士を病院に訪ねたのだった。

「おお宮川さん。だんだん元気がつかれて、結構ですな」

 宮川はそれには、挨拶(あいさつ)もせずに、

「博士、今日は折いっておねがいに来ました。あの矢部君の残りの脳を買いとって、私のここに入れてください」

 そういって彼は、自分の頭を指さした。

「それはまたどうしたのですか」

「いや、女の問題です。じつはこういうわけです」

 と、語りだしたところによると、宮川は、手術恢復後(かいふくご)、頭の中に一人の女性の(まぼろし)がありありと見えるようになった。彼はその女性がたいへん(した)わしくて、なんとかしてその本人があるなら会いたいと思っていた。ところが、その幻の女こそ、矢部の愛人山崎美枝子(やまざきみえこ)だということがわかった。

 その美枝子に、宮川はきのうはじめて会った。そして幻の女は、まちがいなくこの女であると(たし)かめた。美枝子もはじめて会った彼に、たいへん熱情をよせた。

 彼が矢部のことをたずねたところ、彼女はきっぱりと説明した。

(矢部さんはあたしが大好きだというんです。そしていろいろと自分でも無理算段(むりさんだん)をしたようですわ。でもあたし、矢部さんがどうしてもすきになれませんのよ)

(でも、さっき、あなたは矢部君をよびとめたではありませんか)

(そうよ。だって、あの人がいろいろ無理をして買ってくれたものがあるんですもの。あたし、それをかえしたいとおもったのよ)

 そこで宮川の胸もはれて、美枝子の手をとったというのだ。

 そこまではよかったけれど、やがてのこと彼は、美枝子をすっかり憂鬱(ゆううつ)にさせてしまったというのだ。

「それはどうしたわけですか」

 博士は宮川の(おもて)を熱心にみつめながら(たず)ねた。

「それはつまり、私の心が冷たいといって、彼女が口惜(くや)しがりだしたんです」

「あんたはなにか冷淡(れいたん)仕打(しうち)をしたのですか」

「そこなんですよ博士、はじめは私も熱情を(ほとばし)らせたようですが、あるところまでゆくと、急にその熱情が中断してしまったのです。そして(にわか)に不安と不快とに襲われたのです。そのとき頭の中に、別の一人の女の顔が現れました。それは日本髪を結った白粉(おしろい)やけのした年増の女なんです。その女が、(まげ)の根をがっくりと(かたむ)け、いやな目付をして私に迫ってくるのです。払えども払えども、その怪しい年増女が迫ってきます。そういう不快な心のうちを、どうして美枝子に話せましょう。彼女にとって私が冷淡らしく見えたというのは、まだよほど遠慮した言葉づかいでしょう。きっとそのとき私は、塩を()めた木乃伊(ミイラ)のように、まずい顔をしていて、しゃちこばっていたに相違ありません」

「それで、なぜあなたは矢部氏の脳をほしがるのですか」

「わかっているじゃありませんか。矢部君の脳室の中には、美枝子を(した)う情熱を出す部分がまだ残っているのにちがいありません。それを切り取って、私にうつし植えてください。私の持っている金は、いくらでも矢部君にあげてください」

 博士は、黙って考えこんだ。

「それからもう一つおねがいです。あのいやな日本髪の年増女(としまおんな)の幻が出るところの脳の部分を切り取って捨ててください。そうだ。もし矢部君が欲しいというのなら、その部分を、彼に植えてやってください」

「それはたいへんなことだ」

「博士、ぜひ早いところ、また手術をしてください。一体あの白粉(おしろい)やけのした年増女は、どこのだれなんですか」

 博士は、その質問にはこたえないで、

「うむ、とにかく矢部氏に相談してみよう」

 と、言葉すくなに云った。

 それから一週間ほどして、黒木博士は再び脳手術にとりかかった。手術室には、右に宮川、左に矢部が寝かされていた。

 こんどの手術は、わりあい簡単にいった。半年もすると、矢部の方は、まだいくぶん元気がなかったが、宮川の方はもう退院できるようになった。

「おい婦長。いよいよ宮川氏は明日退院させるが、君になにか意見はないかね」

「まあ、黒木博士(せんせい)。わたくしになんの意見がございましょう。この前は、宮川さんがたいへんな外傷(がいしょう)を負っていらしったせいで、あのように手術後の恢復も長引き、精神状態も危かしかったのでございましょうね」

「まあ、そんなところだろうよ」

 看護婦長すら満足したほどの治癒(ちゆ)程度で、宮川は退院した。

 病院の門を出て、彼が一つの町角(まちかど)を曲ると、そこには洋装の佳人(かじん)が待っていて、いきなり彼にとびついた。それは外ならぬ山崎美枝子だったのである。

「まあ、宮川さん。ずいぶん待ってたわよ」

「おお美枝子さん。こんどこそ僕は、君を失望させないよ」

 二人は小鳥のようにたのしそうによりそいながら、向うの通りに消えた。

 ところが、それから二三日たって、宮川は真白な救急車にはこばれて、黒木博士の病院へかえって来た。彼の顔には、白い(ぬの)がかぶせてあった。博士は、その布をのけて宮川の後頭部をしらべたが、そこには描写(びょうしゃ)のできないほどのひどい傷があった。

「警部さん、連れの女はどうしました」

「ああ、黒木博士、連れの女は、逃げてしまいました。行方を厳探中(げんたんちゅう)です」

「犯人の方はどうしましたか」

「ああ、八形八重(やがたやえ)という年増女ですか。これはその場で取押(とりおさ)えて、一時本庁へつれてゆきました」

「精神病院から逃げだしたんだそうですね」

「そうです。ですが、この八形八重という女は、どうも正気(しょうき)らしいですぜ。この前の事件で、刑務所に入るのがいやで、装っていたんじゃないですかなあ。被害者宮川のうしろから忍びよって兇器(きょうき)をふるったことを、こんどははっきりした語調でのべました」

「ふーん、そうですか」

「こんどまた被害者宮川が博士の手で生きかえれば、きっとまた殺さないでおくべきかといっていましたよ。まるで芝居のせりふもどきですよ、ははは」

「いや、この傷では宮川氏はもう二度と生きかえらないでしょう」

 宮川は、彼が捨てた八形八重のため、二度も兇刃(きょうじん)をうけたのだった。博士は宮川のためにそれをいわなかったが、あの青い手帖に書かれてあったYという女はこの八重にちがいなく、もちろんあの手帖は宮川のものにちがいなかった。ただ手帖を記憶していた脳の部分が欠損(けっそん)したので、その記憶を失っただけのことだ。

 この事件以来、博士は脳の移植手術をやることを好まなくなった。

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