2話 鬼仏洞事件(2)
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特務機関長が、最大級の言葉でもって、風間三千子の功績を褒めてくれたのは、もちろん当然のことであった。
「ああ、これで新政府は、正々堂々たる抗議を○○権益財団に向けて発することができる。いよいよ敵性第三国の○○退却の日が近づいたぞ」
そういって、特務機関長は、はればれと笑顔を作った。
「抗議をなさいますの。鬼仏洞は、もちろん閉鎖されるのでございましょうね」
「やがて閉鎖されるだろうねえ。しかし、今のところ、抗議をうちこむため、鬼仏洞は大切なる証拠材料なんだ。現場へいった上で、あなたが撮影した顔子狗の最期の映画をうつして見せてやれば、何が何でも、相手は恐れ入るだろう」
特務機関長は、もうこれで、すっかり前途を楽観した様子である。
その翌日、新政府は、○○権益財団に向けて、厳重なる抗議文を発した。
“わが政府は、○○の治安を確立するため、同地に、警察力を常置せんとするものである。之につき、わが警察力は実力をもって、第一に、鬼仏洞を閉鎖し、第二に、鬼仏洞内にて殺害されたるわが忠良なる市民顔子狗の死体を収容し、第三に、右の顔殺害犯人の引渡しを要求するものである”
といったような趣旨の抗議文であった。
ところが、相手方は、これに対し、まるで木で鼻をくくったような返事をよこした。
“○○の治安は、充分に確保されあり、鬼仏洞内に殺人事件ありたることなし”
これではいけないというので、新政府は、更に強硬なる第二の抗議書を送り、且つその抗議書に添えて、風間三千子が撮影した顔子狗の最期を示すフィルムの一齣を引伸し写真にして添付した。
これなら、相手方は、ぎゃふんというだろうと思っていたのに、帰って来た返事を読むと、
“なるほど、洞内に於て、何某が死亡しているようであるが、その写真で明瞭であるとおり、何某から五六メートルも離れた位置より、彼等の内の何人たりとも何某の首を切断することは不可能事である。況んや、彼等の手に、一本の剣も握られていないことは、この写真の上に、明瞭に証明されている。理由なき抗議は、迷惑千万である”
とて、真向から否定して来たのであった。
なるほど、そういえば、相手方のいうことも、一理があった。
だが、一旦抗議を発した以上、このまま引込んでしまうことは許されない。そこでまた、相手方の攻撃点に対して、猛烈な反駁を試みた。
そのような押し問答が二三回続いたあとで、ついに双方の間に、一つの解決案がまとまった。それはどんな案かというのに、
“では、鬼仏洞内の現場に於て、双方立合いで、検証をしようじゃないか”
ということになって、遂に決められたその日、双方の委員が、鬼仏洞内で顔を合わすこととなった。
新政府側からは、八名の委員が出向くことになったが、うち三名は、特務機関員であって、風間三千子も、その一人であった。
その朝、新政府側の委員五名が、特務機関へ挨拶かたがた寄ったが、三千子は、その委員の一人を見ると、抱えていた花瓶を、あわや腕の間からするりと落しそうになったくらいであった。
「まあ、あなたは帆村さんじゃありませんか」
帆村というのは、東京丸の内に事務所を持っている、有名な私立探偵帆村荘六のことであった。彼は、理学博士という学位を持っている風変りな学者探偵であって、これまでに風間三千子は、事件のことで、いくど彼の世話になったかしれなかった。殊に、仕事中、彼女が危く生命を落しそうなことが二度もあったが、その両度とも、風の如くに帆村探偵が姿を現わして、危難から救ってくれたことがある。
そういう先輩であり、命の恩人でもある帆村が、所もあろうに、大陸のこんな所に突然姿を現わしたものであるから、三千子が花瓶を取り落としそうになったのも、無理ではない。
帆村は、にこにこ笑いながら、彼女の傍へよってきた。
「やあ、風間さん、大手柄をたてた女流探偵の評判は、実に大したものですよ。それが私だったら、今夜は晩飯を奢ってしまうんですがねえ」
「あら、あんなことを……」
「いや、遠慮なさることはいらない。何しろあの場合の、咄嗟の撮影の早業なんてものは、人間業じゃなくて、まず神業ですね」
「おからかいになってはいや。で、帆村さんは、政府側の委員のお一人でしょうが、どんなお役柄ですの」
「僕ですか。僕はその、戦争でいえば、まあ斥候隊というところですなあ」
「斥候隊は、向こうへいって、どんなことをなさいますの」
「そうですねえ。要するに、斥候隊で、敵の作戦を見破ったり、場合によれば、一命を投げだして、敵中へ斬り込みもするですよ」
「まあ、――」
といったが、三千子は、帆村の身の上に、不吉な影がさしているように感じて、胸が苦しくなった。
鬼気せまる鬼仏洞内での双方の会見は、お昼前になって、ようやく始まった。尤も明り窓一つない洞内では昼と夜との区別はないわけである。
○○権益財団側からは、やはり同数の八名の委員が出席したが、その外に、前には姿を見せなかった鬼仏洞の番人隊と称する、獰猛な顔付の中国人が、太い棒をもって、あっちにもこっちにもうろうろしていた。
いよいよ交渉が始まった。
相手方から、背のひょろ高い一人の委員が、一番前にのりだしてきて、
「わしは、この鬼仏洞の長老で、陳程という者だ。お前さん方は、この鬼仏洞の治安が乱れているとか、中で善良な市民が謀殺されたとか、有りもしないことを、まことしやかにいいだして、わが鬼仏洞にけちをつけるとは、怪しからん話だ」
と、始めから、喧嘩腰であった。
三千子は、後から、その長老陳程と名乗る男の顔を一目見たが、胸がどきどきしてきた。この長老こそ、先日顔子狗たちを連れて各室を廻っていた莫迦笑いの癖のある案内役であることを確認したからである。
彼女は、そのことを帆村にそっと告げようとしたが、その前に帆村は、前へとび出していた。
「やあ、陳程委員さん、私は帆村委員ですがね、こんなところで押し問答をしても仕方がない。現場へいって、常時の模様をよく説明してください」
「現場かね。現場は、ちゃんと用意ができている。すぐ案内をするが、あなた方は、洞内の規定を守ってもらわなければならん。第一、わしの許可なくして、物に手を触れてはならない。第二、煙草をすってはならない。第三に……」
「そんなことは常識だ。さあ、現場へ案内してください」
一同は、やがて問題の第三十九号室に、足を踏み入れた。
室内の様子は、前と同じで室内には例の赤色灯が点いていた。ただ、顔子狗の斃れていたところには、白墨で人体と首の形が描いてあることが、特筆すべき変り方であった。三千子は、あの日のことを、まざまざと思い出した。あやしい振動が、足の裏から、じんじんじんと伝ってくるような気がした。
「……顔の自殺死体のあったのは、あそこだ。われわれは四五メートル離れたこのへんに固っていた。これは、お前方の提供した写真にも、ちゃんとそのように出て居る」
陳程長老は、手にしていた白墨で、欄干の下に、大きな円を描いて、
「こんなに遠くへ離れていて、顔の首を斬ることは、手品師にも、出来ないことじゃ。それとも出来るというかね。はははは」長老は、勝ち誇ったように笑った。
帆村探偵は、別に周章てた様子も見せなかった。彼は、長老の方に尻を向けて、顔の倒れていた場所へ近よった。
「ほう、ちょうどこの水牛仏の前で、息を引取ったんだな。水牛仏に引導を渡されたというわけか。すると顔は、丑年生れか。ふふふん」
帆村は、いつもの癖の軽口を始めた。そして手にしていた煙草を口に啣えて、うまそうに吸った。
「おい、こら。煙草は許されないというのに。さっき、あれほど注意しておいたじゃないか」
長老陳程が、顔を赤くして、とんできた。
「ほい、そうだったねえ」
帆村は、煙草を捨てた。火のついた煙草は、しばらく水牛仏の傍で、紫煙をゆらゆらと高く、立ちのぼらせていた。
そのとき帆村は、なぜか、その煙の行手に、真剣な視線を送っていた。
幻影の静止仏
(水牛仏がふりまわしているあの青竜刀は、本当に斬れそうだな。しかし、まさか顔子狗は、わざわざあそこへ首を持っていったわけではないのだ。こっちで斃れていたんだからなあ)
帆村は、興味ありげな顔付で、じっと水牛仏が、右へ払った青竜刀を瞶めた。帆村は、その青竜刀が、高さからいうと、ちょうど、人間の首の高さにあり、その刃は水平に寝ているのが気になった。
(なるほど。すると、この人形が、このまま一まわりぐるっと廻転したとすると、あの青竜刀はここに立っている人間の首をさっと斬り落せるわけだ。してみると……)
帆村は、長老の傍へいって、
「長老、あの水牛仏は動きだしませんかね。いや、ぐるぐると廻転しませんかね」
長老は、それを聞くと、かっと眼を剥いたが、次の瞬間には、口辺に笑みを浮べ、
「とんでもない。人形が動いたり廻ったりしてはたいへんだ。傍へいって、よく調べたがいいじゃろう」
「調べてもいいですか。あなたは、困りゃしませんか」
「あの人形が動いているのを見た人があったら、わしは水牛の背に積めるだけの銀貨を呈上する」
「本当ですな、それは……」
「くどい男じゃ、早く調べてみたがよかろう」
帆村は頷いて、後をふりかえると、水牛仏に、じっと目を注いだ。
そのとき、室内が、俄に明るくなった。天井の水銀灯が、煌々と点火したのであった。
「誰だ、照明をかえたのは……」
「照明は、自然にかわるような仕掛になっているのじゃ」
長老が返事をした。しかし帆村は、長老がひそかに廻廊の柱に手をかけて、ちょっと押したのを見落しはしなかった。
(へんなことをしたぞ。とたんに照明がかわったところを見ると、あの柱に、照明をきりかえるスイッチがついているのかもしれない)
煌々たる青白い光線が、室内を真昼のように照らしつける。水牛仏の顔が、一段と奇怪さを増した。
帆村探偵は、つかつかと水牛仏の方へ近づこうとしたが、そのとき、何に愕いたか、
「呀っ」
と、低く叫んだ。
「おい、その棒を貸せ」
帆村は、後を振返って、傍に立っていた番人の手から、棒を受取った。
「さあ、皆、僕に注意していてください」
そういったかと思うと、帆村は、その場に跼んだ。そして跼んだまま、そろそろと水牛仏の方へ歩きだした。
「この棒に注意!」
帆村は、跼んだまま棒を高く差上げた。そして、しずかに水牛仏の前に近づいていった。一同は、声をのんだ。
風間三千子だけは、帆村が何を見せようとしているかを感づいた。
ぴしり。
高い金属的な音がした。と思った刹那、帆村の差上げていた棒は、真二つに折れた。なぜ棒が折れたのか、一同にはわけが分らなかった。何にもしないのに、折れるというのはおかしいのだ。しかし棒はたしかに、真二つに折れた。
帆村は跼んだまま、後に振り返った。
「見えましたね。この太い棒が、鋭い刃物で斬られると同じように、切断されたのです。棒の切口の高さを目測してください。もしも僕が、こうして跼まないで、直立したまま真直こっちへ歩いて来たとしたら、この棒の代りに、僕の細首が、見事に切断されてしまった筈です。どうです、お分りですかな」
委員たちは、首を左右に振った。帆村の首が切断されたらということは分るが、なぜ、そうなるのか分らなかった。
「棒を切ったのは、鋭い刃物です。その刃物は、皆さんの目には見えないと思うでしょう。ところが、ちゃんと見えているのですよ。この水牛仏が手にしている大きな青竜刀――これが、今この棒を叩き斬ったのです」
「おい君。そんな出鱈目をいっても、誰も信用しないよ」
長老陳程が、憎まれ口をきいた。
「出鱈目だというのか。じゃ、君は、立ったまま、ここまで来られるか」
「行けないで、どうするものか」
「えっ、ほんとうか。危い、よせ!」
帆村が叫んだときは、もう遅かった。
長老は、つかつかと帆村の方へ駈けだした。
「ああッ」
次の瞬間、長老陳程の首は、胴を放れていた。そして鈍い音をたてて、床の上に転った。
「あ、危い。誰も近よってはいけない。われわれの目には見えないが、この水牛仏は、青竜刀を手にもったまま、独楽のように廻転しているのだ。生命が惜しければ、誰も近よってはいけない」
帆村は、そういうと、跼んで、一同のところへ引返してきた。
一同は、急に不安に襲われ、帆村より先に、前室へ逃げだそうとしたが、そこを動けば、また自分の首が飛ぶのじゃないかという恐れから、どうしていいか分らず、結局その場にへたへたと坐りこんでしまった。
ふしぎな残像
「風間さん。あれは、人間の眼が、いかに残像にごま化されているかという証明になるのですよ」
事件のあとで、帆村は風間三千子の質問に応えて、重い口を開いた。
「残像にごま化されているといいますと……」
「つまり、こうですよ。今、目の前に、回転椅子を持ってきます。僕がこれを、一チ、二イ、一チ、二イと、ぐるぐる廻します。そこであなたは、目を閉じていて、僕が、一とか二とかいったときだけ、目をぱっと開いて、またすぐ閉じるのです。つまり、一チ二イ一チ二イの調子にあわせて、目をぱちぱちやるのです。すると、この椅子が、どんな風に見えますか。ちょっとやってみましょう」
帆村は、廻転椅子を三千子の前において、それに手をかけた。
「さあ始めますよ。調子をうまく合わせることを忘れないで……。さあ、一チ、二イ、一チ、二イ、……」
三千子は、いわれたとおり、調子をあわせて、目をぱちぱちと開閉した。
「三千子さん、椅子は、どんな具合に見えましたか」
「さあ――」
「椅子は、じっと停っていたように見えませんでしたか」
「あ、そうです。椅子は、いつも正面をじっと向いていました。ふしぎだわ」
「そうです。それで実験は成功したのです。つまり、僕は椅子を廻転させましたが、あなたには、椅子がじっと停っているように見えたのです。これは、なぜでしょうか。そのわけは、あなたは、僕の号令に調子を合わせたため、椅子がちょうど正面を向いたときだけ、ぱっと目をあけて椅子を見たことになるのです。だから、椅子は、じっとしていたように感ずるのです」
「まあ、ふしぎね」
「そこで、あの恐しい水牛仏のことですが、あれも青竜刀をもって、ぐるぐる廻転していたのです。とても、目にもとまらない速さで廻っていたのです。しかしちょっと見ると、じっと静止しているように見えるのです」
「そう見えましたわ。でも、あたしたちは、誰も、目をぱちぱち開閉したわけではありませんわ」
「もちろん、そうです。しかし目をぱちぱち開閉するのと同じことが行われていたのです」
「同じことが行われていたというと……」
「水銀灯がつきましたね。あの水銀灯が、非常な速さで、点いたり消えたりしていたのです。しかも、水牛仏の廻転と、ちょうど調子が合っていたのです。つまり、水牛仏が正面を向いたときだけ、水銀灯は点いて、あの部屋を照らしたのです。だから、水牛仏は、廻転しているとは見えないで、いつも正面をじっと向いていたように見えたのです。お分りになりますか」
「ええ。それは、そうなりそうですけれど、しかしあたしは、あの水銀灯が、別に点滅しているように感じませんでしたわ」
「それは、人間の眼が残像にごま化されるからです。あなたは、普通の電灯が、明るくなったり暗くなったり、ちらちらしているように感じますか」
「いいえ。電灯は、いつも明るいですわ」
「ところが、あの電灯も、実は一秒間に百回とか百二十回とか、明暗をくりかえしているのです。しかし人間の眼は、大体一秒間に十六回以上明滅するちらつきには感じがないのです。本当は明滅するんだけれど、明滅するとは感じないのです。映画でも、そうですよ。あれは、一秒間に十六齣とか二十齣とかの規定があって、画面がちょうどレンズの前に一杯に入ったときだけ、光源から光がフィルムをとおして、映写幕のうえにうつるのです。その間は、映写幕は、まっくらなんですが、人間の眼には残像がしばらく残っているから、画面がちらちらしない。だから、フィルムをうんと遅く廻すと、画面がちらついて見えます」
「そのお話で、いつだか教わった映画の原理を思い出しましたわ」
「それが分れば、しめたものです。猛烈な勢いで廻転している水牛仏が、あたかも、じっと静止しているように見えるわけがわかったでしょう。分らなければ、今の廻転椅子のことを、もう一度思い出してください」
「やっと、分ったような気がしますわ。しかし水牛仏の前を通った人で、首を斬り落とされなかった人が沢山あるのじゃないでしょうか」
「そうです。赤色灯のついているときは、安全なんです。そのときは、水牛仏は静止しているのです。そして水銀灯に切り替ると、水牛仏が廻転を始めるのです」
「あの水牛仏が、廻りだしたことが、よくお分りになったものね。危かったわ」
「いや、本当に危いことでしたが、僕にそれを知らせてくれたのは、煙草でしたよ」
「煙草?」
「そうなんです。長老陳程に叱られて、僕が捨てた煙草は火のついたまま、真直に煙をあげていたのです。その煙が、急に乱れたので、僕は、はっと気がついたんです。尤も、それまでに、あの水牛仏の人形が、或いは廻りだすのじゃないかと疑いをもっていたが、煙草を捨てた直後には、煙がしずかにまいのぼるのを見たので、そのときは人形が動いていないことを知ったのです」
「そのときは、まだ赤色灯がついていたのですね」
「そうなんです。――そうそう、いいわすれましたが、自殺した長老陳程は、われわれにとっては悪い奴でしたが、永く某国で働いていた機械工だそうです。顔子狗を私刑したことから、はからずも一件の仕掛がばれて、彼の運命が尽きてしまったというわけです。
科学を悪用する不心得者の末路は、いつもこのように悲惨ですよ」
そういって、科学者の探偵帆村荘六は、彼の愛好惜まない紙巻煙草の金鵄に、又火をつけたのであった。