報恩記

1話 報恩記(1)

4,787字 約10分 1998年12月19日 公開

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     阿媽港甚内(あまかわじんない)の話

 わたしは甚内(じんない)と云うものです。苗字(みょうじ)は――さあ、世間ではずっと前から、阿媽港甚内(あまかわじんない)と云っているようです。阿媽港甚内、――あなたもこの名は知っていますか? いや、驚くには及びません。わたしはあなたの知っている通り、評判の高い盗人(ぬすびと)です。しかし今夜参ったのは、盗みにはいったのではありません。どうかそれだけは安心して下さい。

 あなたは日本(にほん)にいる伴天連(ばてれん)の中でも、道徳の高い人だと聞いています。して見れば盗人と名のついたものと、しばらくでも一しょにいると云う事は、愉快ではないかも知れません。が、わたしも思いのほか、盗みばかりしてもいないのです。いつぞや聚楽(じゅらく)御殿(ごてん)へ召された呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)手代(てだい)の一人も、確か甚内と名乗っていました。また利休居士(りきゅうこじ)珍重(ちんちょう)していた「赤がしら」と称える水さしも、それを贈った連歌師(れんがし)本名(ほんみょう)は、甚内(じんない)とか云ったと聞いています。そう云えばつい二三年以前、阿媽港日記(あまかわにっき)と云う本を書いた、大村(おおむら)あたりの通辞(つうじ)の名前も、甚内と云うのではなかったでしょうか? そのほか三条河原(さんじょうがわら)の喧嘩に、甲比丹(カピタン)「まるどなど」を救った虚無僧(こむそう)(さかい)妙国寺(みょうこくじ)門前に、南蛮(なんばん)の薬を売っていた商人、……そう云うものも名前を明かせば、何がし甚内だったのに違いありません。いや、それよりも大事なのは、去年この「さん・ふらんしすこ」の御寺(みてら)へ、おん母「まりや」の爪を収めた、黄金(おうごん)舎利塔(しゃりとう)を献じているのも、やはり甚内と云う信徒だった筈です。

 しかし今夜は残念ながら、一々そう云う行状を話している暇はありません。ただどうか阿媽港甚内(あまかわじんない)は、世間一般の人間と余り変りのない事を信じて下さい。そうですか? では出来るだけ手短かに、わたしの用向きを述べる事にしましょう。わたしはある男の魂のために、「みさ」の御祈りを願いに来たのです。いや、わたしの血縁のものではありません。と云ってもまたわたしの刃金(はがね)に、血を塗ったものでもないのです。名前ですか? 名前は、――さあ、それは明かして()いかどうか、わたしにも判断はつきません。ある男の魂のために、――あるいは「ぽうろ」と云う日本人のために、冥福(めいふく)を祈ってやりたいのです。いけませんか?――なるほど阿媽港甚内に、こう云う事を頼まれたのでは、手軽に受合う気にもなれますまい。ではとにかく一通り、事情だけは話して見る事にしましょう。しかしそれには生死を問わず、他言(たごん)しない約束が必要です。あなたはその胸の十字架(くるす)に懸けても、きっと約束を守りますか? いや、――失礼は(ゆる)して下さい。(微笑)伴天連(ばてれん)のあなたを疑うのは、盗人(ぬすびと)のわたしには僭上(せんじょう)でしょう。しかしこの約束を守らなければ、(突然真面目(まじめ)に)「いんへるの」の猛火に焼かれずとも、現世(げんぜ)(ばち)(くだ)る筈です。

 もう二年あまり以前の話ですが、ちょうどある(こがらし)の真夜中です。わたしは雲水(うんすい)に姿を変えながら、京の町中(まちなか)をうろついていました。京の町中をうろついたのは、その()に始まったのではありません。もうかれこれ五日ばかり、いつも初更(しょこう)を過ぎさえすれば、必ず人目に立たないように、そっと家々を(うかが)ったのです。勿論何のためだったかは、註を入れるにも及びますまい。殊にその頃は摩利伽(まりか)へでも、一時渡っているつもりでしたから、余計に(かね)の入用もあったのです。

 町は勿論とうの昔に人通りを絶っていましたが、星ばかりきらめいた空中には、()やみもない風の音がどよめいています。わたしは暗い軒通(のきづた)いに、小川通(おがわどお)りを(くだ)って来ると、ふと辻を一つ(まが)った所に、大きい角屋敷(かどやしき)のあるのを見つけました。これは京でも名を知られた、北条屋弥三右衛門(ほうじょうややそうえもん)の本宅です。同じ渡海(とかい)を渡世にしていても、北条屋は到底(とうてい)角倉(かどくら)などと肩を並べる事は出来ますまい。しかしとにかく沙室(しゃむろ)呂宋(るそん)へ、船の一二(そう)も出しているのですから、一かどの分限者(ぶげんしゃ)には違いありません。わたしは何もこの(うち)を目当に、うろついていたのではないのですが、ちょうどそこへ来合わせたのを幸い、一稼(ひとかせ)ぎする気を起しました。その上前にも云った通り、()は深いし風も出ている、――わたしの商売にとりかかるのには、万事持って来いの寸法(すんぽう)です。わたしは路ばたの天水桶(てんすいおけ)(うしろ)に、網代(あじろ)の笠や杖を隠した上、たちまち高塀を乗り越えました。

 世間の(うわさ)を聞いて御覧なさい。阿媽港甚内(あまかわじんない)は、忍術を使う、――誰でも皆そう云っています。しかしあなたは俗人のように、そんな事は本当と思いますまい。わたしは忍術も使わなければ、悪魔も味方にはしていないのです。ただ阿媽港(あまかわ)にいた時分、葡萄牙(ポルトガル)の船の医者に、究理の学問を教わりました。それを実地に役立てさえすれば、大きい錠前を《ね》じ切ったり、重い(かんぬき)を外したりするのは、格別むずかしい事ではありません。(微笑)今までにない盗みの仕方、――それも日本(にっぽん)と云う未開の土地は、十字架や鉄砲の渡来と同様、やはり西洋に教わったのです。

 わたしは一ときとたたない内に、北条屋の(うち)の中にはいっていました。が、暗い廊下(ろうか)をつき当ると、驚いた事にはこの夜更(よふ)けにも、まだ火影(ほかげ)のさしているばかりか、話し声のする小座敷があります。それがあたりの容子(ようす)では、どうしても茶室に違いありません。「(こがらし)の茶か」――わたしはそう苦笑(くしょう)しながら、そっとそこへ忍び寄りました。実際その時は人声のするのに、仕事の邪魔(じゃま)を思うよりも、数寄(すき)を凝らした囲いの中に、この()の主人や客に来た仲間が、どんな風流を楽しんでいるか?――そんな事に心が()かれたのです。

 (ふすま)の外に身を寄せるが早いか、わたしの耳には思った通り、(かま)のたぎりがはいりました。が、その音がすると同時に、意外にも誰か話をしては、泣いている声が聞えるのです。誰か、――と云うよりもそれは二度と聞かずに、女だと云う事さえわかりました。こう云う大家(たいけ)の茶座敷に、真夜中女の泣いていると云うのは、どうせただ事ではありません。わたしは息をひそめたまま、幸い明いていた(ふすま)(すき)から、茶室の中を(のぞ)きこみました。

 行燈(あんどん)の光に照された、古色紙(こしきし)らしい(とこ)の懸け物、懸け花入(はないれ)霜菊(しもぎく)の花。――(かこ)いの中には御約束通り、物寂びた趣が漂っていました。その床の前、――ちょうどわたしの真正面(ましょうめん)に坐った老人は、主人の弥三右衛門(やそうえもん)でしょう、何か(こま)かい唐草(からくさ)の羽織に、じっと両腕を組んだまま、ほとんどよそ眼に見たのでは、釜の()え音でも聞いているようです。弥三右衛門の下座(しもざ)には、(ひん)()笄髷(こうがいまげ)の老女が一人、これは横顔を見せたまま、時々涙を拭っていました。

「いくら不自由がないようでも、やはり苦労だけはあると見える。」――わたしはそう思いながら、自然と微笑を()らしたものです。微笑を、――こう云ってもそれは北条屋(ほうじょうや)夫婦に、悪意があったのではありません。わたしのように四十年間、悪名(あくみょう)ばかり負っているものには、他人の、――殊に幸福らしい他人の不幸は、自然と微笑を浮ばせるのです。(残酷な表情)その時もわたしは夫婦の歎きが、歌舞伎(かぶき)を見るように愉快だったのです。(皮肉な微笑)しかしこれはわたし一人に、限った事ではありますまい。誰にも好まれる草紙(そうし)と云えば、悲しい話にきまっているようです。

 弥三右衛門はしばらくの(のち)吐息(といき)をするようにこう云いました。

「もうこの羽目(はめ)になった上は、泣いても(わめ)いても取返しはつかない。わたしは明日(あす)にも店のものに、(ひま)をやる事に決心をした。」

 その時また烈しい風が、どっと茶室を()すぶりました。それに声が(まぎ)れたのでしょう。弥三右衛門の内儀(ないぎ)の言葉は、何と云ったのだかわかりません。が、主人は(うなず)きながら、両手を膝の上に組み合せると、網代(あじろ)の天井へ眼を上げました。太い(まゆ)、尖った頬骨(ほおぼね)、殊に切れの長い目尻、――これは確かに見れば見るほど、いつか一度は会っている顔です。

「おん(あるじ)、『えす・きりすと』様。何とぞ我々夫婦の心に、あなた様の御力を御恵み下さい。……」

 弥三右衛門は眼を閉じたまま、御祈りの言葉を(つぶや)き始めました。老女もやはり夫のように天帝の加護を乞うているようです。わたしはその(あいだ)瞬きもせず、弥三右衛門の顔を見続けました。するとまた(こがらし)の渡った時、わたしの心に(ひらめ)いたのは、二十年以前の記憶です。わたしはこの記憶の中に、はっきり弥三右衛門の姿を(とら)えました。

 その二十年以前の記憶と云うのは、――いや、それは話すには及びますまい。ただ手短に事実だけ云えば、わたしは阿媽港(あまかわ)に渡っていた時、ある日本(にほん)の船頭に(あやう)い命を助けて貰いました。その時は互に名乗りもせず、それなり別れてしまいましたが、今わたしの見た弥三右衛門は、当年の船頭に違いないのです。わたしは奇遇(きぐう)に驚きながら、やはりこの老人の顔を見守っていました。そう云えば()かつい肩のあたりや、指節(ゆびふし)の太い手の恰好(かっこう)には、(いまだ)珊瑚礁(さんごしょう)(しお)けむりや、白檀山(びゃくだんやま)の匂いがしみているようです。

 弥三右衛門は長い御祈りを終ると、静かに老女へこう云いました。

「跡はただ何事も、天主(てんしゅ)御意(ぎょい)次第と思うたが()い。――では釜のたぎっているのを幸い、茶でも一つ立てて貰おうか?」

 しかし老女は今更のように、こみ上げる涙を(こら)えるように、消え入りそうな返事をしました。

「はい。――それでもまだ()やしいのは、――」

「さあ、それが愚痴(ぐち)と云うものじゃ。北条丸(ほうじょうまる)の沈んだのも、()(ぎん)の皆倒れたのも、――」

「いえ、そんな事ではございません。せめては(せがれ)弥三郎(やさぶろう)でも、いてくれればと思うのでございますが、……」

 わたしはこの話を聞いている内に、もう一度微笑が浮んで来ました。が、今度は北条屋(ほうじょうや)の不運に、愉快を感じたのではありません。「昔の恩を返す時が来た」――そう思う事が嬉しかったのです。わたしにも、御尋ね者の阿媽港甚内(あまかわじんない)にも、立派(りっぱ)に恩返しが出来る愉快さは、――いや、この愉快さを知るものは、わたしのほかにはありますまい。(皮肉に)世間の善人は可哀そうです。何一つ悪事を働かない代りに、どのくらい善行を(ほどこ)した時には、嬉しい心もちになるものか、――そんな事も(ろく)には知らないのですから。

「何、ああ云う人でなしは、居らぬだけにまだしも仕合せなぐらいじゃ。……」

 弥三右衛門は苦々(にがにが)しそうに、行燈(あんどん)へ眼を()らせました。

「あいつが使いおった金でもあれば、今度も急場だけは(しの)げたかも知れぬ。それを思えば勘当(かんどう)したのは、………」

 弥三右衛門はこう云ったなり、驚いたようにわたしを眺めました。これは驚いたのも無理はありません。わたしはその時声もかけずに、(さかい)(ふすま)を明けたのですから。――しかもわたしの身なりと云えば、雲水(うんすい)に姿をやつした上、網代(あじろ)の笠を脱いだ代りに、南蛮頭巾(なんばんずきん)をかぶっていたのですから。

「誰だ、おぬしは?」

 弥三右衛門は年はとっていても、咄嗟(とっさ)に膝を起しました。

「いや、御驚きになるには及びません。わたしは阿媽港甚内と云うものです。――まあ、御静かになすって下さい。阿媽港甚内は盗人(ぬすびと)ですが、今夜突然参上したのは、少しほかにも(わけ)があるのです。――」

 わたしは頭巾(ずきん)を脱ぎながら、弥三右衛門の前に坐りました。

 その(のち)の事は話さずとも、あなたには推察出来るでしょう。わたしは北条屋(ほうじょうや)危急(ききゅう)を救うために、三日と云う日限(にちげん)を一日も違えず、六千貫の(かね)を調達する、恩返しの約束を結んだのです。――おや、誰か戸の外に、足音が聞えるではありませんか? では今夜は御免下さい。いずれ明日(あす)明後日(あさって)(よる)、もう一度ここへ(しの)んで来ます。あの大十字架(おおくるす)の星の光は阿媽港(あまかわ)の空には輝いていても、日本(にっぽん)の空には見られません。わたしもちょうどああ云うように日本では姿を(くら)ませていないと、今夜「みさ」を願いに来た、「ぽうろ」の魂のためにもすまないのです。

 何、わたしの逃げ(みち)ですか? そんな事は心配に及びません。この高い天窓(てんまど)からでも、あの大きい暖炉(だんろ)からでも、自由自在に出て行かれます。ついてはどうか呉々(くれぐれ)も、恩人「ぽうろ」の魂のために、一切他言(たごん)(つつし)んで下さい。

     北条屋弥三右衛門の話

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