二世の契

1話 二世の契(1)

5,642字 約11分 2009年5月31日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

        一

 真中に一棟(ひとむね)、小さき屋根の、(あたか)朝凪(あさなぎ)の海に難破船の(おもかげ)のやう、()つ破れ且つ傾いて見ゆるのは、()広野(ひろの)を、久しい以前汽車が横切(よこぎ)つた、()時分(じぶん)停車場(ステエション)名残(なごり)である。

 (みち)(わずか)に通ずるばかり、枯れても()(むぐら)(むす)ぼれた上へ、煙の如く降りかゝる小雨(こさめ)を透かして、遠く其の(さび)しい(さま)(なが)めながら、

「もし、お(ばあ)さん、彼処(あすこ)までは()のくらゐあります。」

 と尋ねたのは効々(かいがい)しい猟装束(かりしょうぞく)顔容(かおかたち)(すぐ)れて清らかな少年で、土間(どま)草鞋穿(わらじばき)(あし)を投げて、英国政府が王冠章の刻印(ごくいん)打つたる、ポネヒル二連発銃の、銃身は月の如く、銃孔(じゅうこう)は星の如きを、(ななめ)古畳(ふるだたみ)の上に差置(さしお)いたが、()う聞く(うち)に、其の鳥打帽(とりうちぼう)掻取(かきと)ると、(しずく)するほど額髪(ひたいがみ)の黒く(やわら)かに()れたのを、幾度(いくたび)も払ひつゝ、(いた)野路(のじ)の雨に悩んだ風情(ふぜい)

 縁側もない破屋(あばらや)の、横に長いのを二室(ふたま)にした、古び(ゆが)んだ柱の根に、(よわい)七十路(ななそじ)に余る一人の(おうな)、糸を()つて車をぶう/\、(しずか)にぶう/\。

()うぢやの、もの十七八(ちょう)もござらうぞ、さし(わた)しにしては沢山(たんと)もござるまいが、人の歩行(ある)(みち)は廻り廻り(うね)つて居るで、半里(はんり)()もござりましよ。」と首を引込め、又揺出(ゆりだ)すやうにして、旧停車場(ステエション)(かた)を見ながら言つた、媼がしよぼ/\した目は、()うやつて遠方のものに(こす)りつけるまでにしなければ、見えぬのであらう。

 それから顔を上げ(おろ)しをする(たび)に、(つね)何処(どこ)にか(かく)して置くらしい、がツくり(くぼ)んだ胸を、(のば)()(すく)めるのであつた。

 素直に伸びたのを其のまゝ()でつけた白髪(しらが)(それ)よりも、(なお)多いのは(はだ)(しわ)で、就中(なかんずく)最も深く刻まれたのが、()を低く、(ちょう)ど糸車を前に、枯野(かれの)の末に、埴生(はにゅう)の小屋など(ひっ)くるめた置物同然に媼を(たた)み込んで置くのらしい。一度胸を(のば)して(うしろ)()るやうにした今の様子で見れば、()せさらぼうた脊丈(せたけ)、此の(よわい)にしては()と高過ぎる位なもの、すツくと立つたら、五六本(ほそ)いのがある背戸(せど)(はん)樹立(こだち)(ほか)に、珍しい枯木(かれき)に見えよう。肉は(ひから)び、皮(しな)びて見るかげもないが、手、胸などの巌乗(がんじょう)さ、渋色(しぶいろ)亀裂(ひび)が入つて下塗(したぬり)(うるし)で固めたやう、()だ/\目立つのは鼻筋の判然(きっぱり)と通つて居る顔備(かおぞなえ)と。

 黒ずんだが鬱金(うこん)の裏の附いた、はぎ/\の、(これ)はまた美しい、()せては居るが色々、浅葱(あさぎ)(あさ)の葉、鹿子(かのこ)()、国の(ならい)で百軒から(きれ)(ひと)ツづゝ集めて()ぎ合す(ところ)がある、其のちやん/\を着て、前帯(まえおび)で坐つた形で。

 ()の古戦場を(よぎ)つて、矢叫(やさけび)の音を風に聞き、浅茅(あさじ)(はら)の月影に、(いにしえ)の都を忍ぶたぐひの、心ある人は、此の(おうな)が六十年の昔を(すい)して、世にも(まれ)なる、容色(みめ)よき(じょうろう)としても差支(さしつかえ)はないと思ふ、何となく(おか)(がた)き品位があつた。其の(とんが)つた(あぎと)のあたりを、すら/\と(なび)いて通る、綿(わた)の筋の(かすか)に白きさへ、やがて(しも)になりさうな(つめた)い雨。

 少年は()の上へ両手を真直(まっすぐ)(かざ)し、(ななめ)に媼の胸のあたりを(うかご)うて、

「はあ其では、何か、(ほか)に通るものがあるんですか。」

 媼は見返りもしないで、真向(まっこう)正面に渺々(びょうびょう)たる荒野(あれの)を控へ、

(ほか)に通るかとは、何がでござるの。」

(いいえ)、今()つたぢやないか、人の通る(みち)は廻り/\(うね)つて居るつて。だから聞くんですが、(ほか)に何か歩行(ある)きますか。」

「やれもう、こんな原ぢやもの、お客様、(きつね)も犬も通りませいで。(きり)がかゝりや、(ある)かうず、雲が(おり)りや、(はし)らうず、蜈蚣(むかで)(もぐ)れば(いなご)も飛ぶわいの、」と孫にものいふやう、(かえり)みて打微笑(うちほほえ)む。

        二

 此の口からなら、(たと)ひ鬼が通る、魔が、と言つても、疑ふ(ところ)もなし、又()う信ずればとて驚くことはないのであつた。少年は姓桂木氏(かつらぎし)、東京なる(なにがし)学校の秀才で、今年夏のはじめから一種憂鬱(ゆううつ)(やまい)にかゝり、日を()るに従うて、色も、心も死灰(しかい)の如く、やがて石碑(いしぶみ)の下に形なき(まつり)()けるばかりになつたが、其の病の原因(もと)はと、(かれ)()く知る友だちが(ひそか)に言ふ、仔細あつて世を(はよ)うした恋なりし人の、其の姉君(あねぎみ)なる貴夫人より、一挺(いっちょう)最新式の猟銃を(たま)はつた。が、(ここ)差置(さしお)いた即是(すなわちこれ)

 武器を参らす、郊外に猟などして、(みずか)ら励まし(たま)へ、聞くが如き其の容体(ようだい)は、薬も看護(みとり)(かい)あらずと医師のいへば。(ただし)御身(おんみ)(つつが)なきやう、わらはが手はいつも銃の口に、と心を()めた手紙を添へて、両三(にち)以前に御使者(ごししゃ)到来。

 ()りかゝつた胸の離れなかつた、机の(そば)にこれを受取ると、(ひたい)に手を加ふること頃刻(けいこく)にして、桂木は猛然として立つたのである。

 (さて)今朝(こんちょう)、此の辺からは煙も見えず、音も聞えぬ、新停車場(ステエション)(ただ)(にん)()り立つて、朝霧(あさぎり)(こま)やかな野中(のなか)()して、雨になつた()(とき)過ぎ、(おうな)住居(すまい)()け込んだまで、()(かつ)て一度も煙を銃身に(から)めなかつた。

 桂木は其の()まざる(ぜん)の性質に(ふく)したれば、貴夫人が(なさけ)ある贈物に(むく)いるため――函嶺(はこね)を越ゆる時汽車の中で()つた同窓の学友に、何処(どちら)へ、と問はれて、修善寺(しゅぜんじ)の方へ蜜月(みつづき)の旅と答へた――最愛なる新婚の()、ポネヒル姫の第一発は、(あだ)田鴫(たしぎ)山鳩(やまばと)如きを打たず、願はくは目覚(めざま)しき獲物を(ひっさ)げて、土産(みやげ)にしようと思つたので。

 時ならぬ洪水、不思議の風雨(ふうう)に、(ひま)なく線路を(そこな)はれて、官線ならぬ鉄道は其の停車場(ステエション)()へた位、(こと)に桂木の(いっ)家族に取つては、祖先、此の国を領した時分から、屡々(しばしば)(やす)からぬ奇怪の歴史を有する、三里の荒野(あれの)跋渉(ばっしょう)して、目に見ゆるもの、手に立つもの、対手(あいて)が人類の形でさへなかつたら、覚えの狙撃(ねらいうち)()て取らうと言ふのであるから。

 霧も雲も歩行(ある)くと語つた、仔細ありげな(おうな)(ことば)を物ともせず、暖めた手で、びツしよりの草鞋(わらじ)(ひも)()きかける。

 油断はしないが俯向(うつむ)いたまゝ、

「私は(また)不思議な物でも通るかと思つて悚然(ぞっ)とした、お(ばあ)さん、此様(こん)(ところ)に一人で居て、昼間だつて(おそろ)しくはないのですか。」

 桂木は()く媼の口の、炎でも()けよかしと、()()なく誘ひかける。

 媼は(ひたい)の上に綿(わた)を引いて、

「何が(おそろ)しからうぞ、今時の若いお人にも似ぬことを言はつしやる、(おおかみ)より雨漏(あまもり)が恐しいと言ふわいの。」

 と(また)背を(かが)め、胸を張り、手でこするが如くにし、()(かた)(のぞ)いたが、

「むかうへむく/\と霧が出て、そつとして居る時は天気ぢやがの、此方(こちら)の方から雲が出て、そろ/\両方から歩行(あよ)びよつて、一所(ひとつ)になる時が此の雨ぢや。びしよ/\降ると寒うござるで、老寄(としより)には何より恐しうござるわいの。」

「あゝ、私も雨には弱りました、じと/\其処等中(そこらじゅう)染込(しみこ)んで、この気味の悪さと云つたらない、お(ばあ)さん。」

「はい、御難儀(ごなんぎ)でござつたろ。」

「お邪魔(じゃま)ですが此処(ここ)を借ります。」

 桂木は足袋(たび)を脱ぎ、足の爪尖(つまさき)を取つて見たが、泥にも(まみ)れず、綺麗(きれい)だから、其のまゝ(むしろ)の上へ、ずいと腰を。

 たとひ洗足(せんそく)を求めた(ところ)で、(おうな)は水を()んで()れたか()うだか、根の生えた居ずまひで、例の仕事に余念のなさ、小笹(おざさ)を風が渡るかと……音につれて積る白糸(しらいと)

        三

 桂木は()れた上衣(うわぎ)を脱ぎ()てた、カラアも(はず)したが、炉のふちに(なお)油断なく、

「あゝ、腹が()いた。()う/\降るのと(たま)つたので濡れ(とお)つて、帽子から(しずく)が垂れた時は、色も慾も無くなつて、(むしろ)が一枚ありや極楽、其処(そこ)で寝たいと思つたけれど、()うしてお世話になつて雨露(あめつゆ)(しの)げると、今度は虫が合点(がってん)しない、(なん)ぞ食べるものはありませんか。」

()ればなう、(おそろ)()な音をさせて、汽車とやらが向うの草の中を走つた時分(ころ)には、客も少々はござつたで、(うり)なと()いて進ぜたけれど、見さつしやる通りぢやでなう。(わし)(たべ)る分ばかり、其も(きび)()いたのぢやほどに、(とて)もお口には合ふまいぞ。」

(いいえ)(めし)は持つてます、()うせ、人里(ひとざと)のないを承知だつたから、竹包(たけづつみ)にして兵糧(ひょうろう)は持参ですが、お(さい)にするものがないんです、何か(ちっ)と分けて(もら)ひたいと思ふんだがね。」

 (おうな)は胸を折つてゆるやかに打頷(うちうなず)き、

「それならば待たしやませ、(しょ)ツぱいが味噌漬(みそづけ)(こう)の物がござるわいなう。」

「待ちたまへ、味噌漬なら(あえ)てお手数(てすう)に及ぶまいと思ひます。」

 と手早(てばや)(ささ)の葉を(ほど)くと、(こわ)いのがしやつちこばる、(つつみ)の端を(おさ)へて、草臥(くたび)れた両手をつき、(かしこま)つて(じっ)と見て、

「それ、言はないこツちやない、果して此の(さい)も味噌漬だ。お(ばあ)さん、大きな野だの、奥山へ入るには、梅干(うめぼし)を持たぬものだつて、宿の者が言つたつけ、()うなのかね、」と顔を上げて又(みまも)つたが、(かか)相好(そうごう)(おうな)を見たのは、場末の寄席(よせ)(せき)として客が(ただ)二三の時、片隅(かたすみ)に猫を抱いてしよんぼり坐つて居たのと、山の中で、(たきぎ)背負(しょ)つて歩行(ある)いて居たのと、これで三人目だと桂木は思ひ出した。

 媼は(しわ)だらけの(つら)の皺も動かさず、

()うござらうぞ、食べて悪いことはなからうがや、野山の人はの、一層(いっそ)のこと霧の毒を消すものぢやといふげにござる。」

()う、」とばかり見詰(みつ)めて居た。

 此時(このとき)()だるさうにはじめて振向(ふりむ)き、

「あのまた霧の毒といふものは(おそろ)しいものでなう、お前様、今日は(あれ)が雨になつたればこそ()うござつた、ものの半日も冥土(よみじ)のやうな煙の中に包まれて居て見やしやれ、生命(いのち)を取られいでから三月(みつき)四月(よつき)(わずら)うげな、此処(ここ)の霧は又格別(かくべつ)ぢやと言ふわいなう。」

「あの、霧が、」

「お客様、お前さま、はじめて此処(ここ)歩行(ある)かつしやるや?」

 桂木は大胆に、一口食べかけたのをぐツと呑込(のみこ)み、

「はじめてだとも。聞いちや居たんだけれど。」

()うぢやろ、然うぢやろ。」と(おうな)はまた(うなず)いたが、(ただ)()うであらうではなく、(まさ)()うなくてはかなはぬと言つたやうな語気であつた。

()して何かの、お前様()の鉄砲を打つて歩行(ある)かしやるでござるかの。」と糸を()る手を両方に(ひら)いてじつと、此の媼の目は、怪しく光つた如くに思はれたから、桂木は(はし)を置き、心で身構(みがまえ)をして、

「これかね。」と言ふをきツかけに、ずらして取つて引寄せた、空の模様、小雨(こさめ)の色、孤家(ひとつや)(うち)も、媼の姿も、さては炉の中の火さへ淡く、(すべ)枯野(かれの)に描かれた、幻の如き(あいだ)に、ポネヒル連発銃の銃身のみ、青く(きらめ)くまで磨ける鏡かと壁を()て、弾込(たまごめ)したのがづツしり手応(てごたえ)

 我ながら頼母(たのも)しく、

「何、まあね、()うぞこれを打つことのないやうにと、内々(ないない)祈つて居るんだよ。」

「其はまた何といふわけでござらうの。」と(すま)して、例の糸を()る、五体は悉皆(しっかい)、車の仕かけで、人形の動くやう、媼は少頃(しばらく)も手を休めず。

 驚破(すわ)といふ時、綿(わた)(すじ)射切(いき)つたら、胸に不及(およばず)咽喉(のんど)不及(およばず)(たま)()()えて媼は(ただ)一個(いっこ)朽木(くちき)の像にならうも知れぬ。

 と桂木は心の(うち)

        四

 構はず兵糧(ひょうろう)を使ひつゝ、

「だつてお(ばあ)さん、此の野原は滅多(めった)に人の通らない(ところ)だつて聞いたからさ。」

「そりや()眺望(ながめ)というても池一つあるぢやござらぬ、(わずか)ばかりの(ちがい)でなう、三島はお富士山(ふじさま)の名所ぢやに、此処(ここ)()一目千里(ひとめせんり)の原なれど、何が邪魔(じゃま)をするか見えませぬ、其れぢやもの、ものずきに来る人は無いのぢやわいなう。」

(いいえ)さ、景色がよくないから遊山(ゆさん)()ぬの、便利が悪いから旅の者が通行せぬのと、そんなつい通りのことぢやなくさ、私たちが聞いたのでは、此の野中(のなか)へ入ることを、俗に身を投げると言ひ伝へて、無事にや帰られないんださうではないか。」

「それはお客様、此処(ここ)といふ(かぎり)はござるまいがなう、(つまず)けば転びもせず、転びやうが悪ければ怪我(けが)もせうず、打処(うちどころ)が悪ければ死にもせうず、野でも山でも海でも川でも同じことでござるわなう、其につけても、()(また)人のいふ(ところ)へ、お前様は何をしに来さつしやつた。」

 じろりと流盻(しりめ)に見ていつた。

 桂木はぎよつとしたが、

理窟(りくつ)を聞くんぢやありません、私はね、実はお前さんのやうな人に()つて、何か変つた話をして(もら)はう、見られるものなら見ようと思つて、遙々(はるばる)出向いて来たんだもの。人間の(ほか)歩行(ある)くものがあるといふから、(さて)こそと乗つかゝりや、霧や雲の動くことになつて(しま)ふし、()かしちや返さぬやうな者が住んででも居るやうに聞いたから、其を尋ねりや、怪我(けが)過失(あやまち)は所を定めないといふし、それぢや(ちっ)とも張合(はりあい)がありやしない、何か珍しいことを話してくれませんか、私はね。」

 (ひざ)を進めて、(ひとみ)()ゑ、

「私はね、お(ばあ)さん、風説(うわさ)を知りつゝ()うやつて一人で来た位だから、打明けて云ひます、見受けた(ところ)、君は何だ、様子が宛然(まるで)野の(ぬし)とでもいふべきぢやないか、何の馬鹿々々(ばかばか)しいと思ふだらうが、好事(ものずき)です、()うぞ一番(ひとつ)構はず云つて聞かしてくれ(たま)へな。

 ()ういふと何かお(ばけ)の催促をするやうでをかしいけれど、()れツたくツて(たま)らない。

 (もと)より其のつもりぢや来たけれど、私だつて、これ当世の若い者、はじめから何、人の命を取るたつて、野に居る毒虫か、函嶺(はこね)を追はれた(おおかみ)だらう、今時(いまどき)(つま)らない妖者(ばけもの)が居てなりますか、それとも野伏(のぶせ)山賊(やまだち)(たぐい)ででもあらうかと思つて来たんです。霧が毒だつたり、怪我(けが)過失(あやまち)だつたり、心の(まよい)ぐらゐなことは実は此方(こっち)から言ひたかつた。其をあつちこつちに、お前さんの口から聞かうとは思はなかつた。其の癖、此方(こっち)はお(ばあ)さん、お前さんの姿を見てから、(かえ)つて()と自分の意見が違つて来て、成程(なるほど)これぢや怪しいことのないとも限らぬか、と考へてる位なんだ。

 お聞きなさい、私が縁続きの人はね、商人(あきうど)で此の(せつ)は立派に暮して居るけれど、若いうち一時(ひとしきり)困つたことがあつて、瀬戸(せと)のしけものを背負(しょ)つて、方々国々を売つて歩行(ある)いて、此の野に行暮(ゆきく)れて、其の時(くさ)茫々(ぼうぼう)とした中に、五六本樹立(こだち)のあるのを目当に、一軒家へ辿(たど)り着いて、台所口から、用を聞きながら、旅に難渋(なんじゅう)の次第を話して、一晩泊めて(もら)ふとね、快く宿をしてくれて、()うして()うして行暮れた旅商人(たびあきうど)如きを、待遇(もてな)すやうなものではない、銚子(ちょうし)(さかずき)が出る始末、(わか)い女中が二人まで給仕について、寝るにも紅裏(べにうら)絹布(けんぷ)夜具(やぐ)枕頭(まくらもと)()(かおり)(こう)()く。容易ならぬ訳さ、せめて一生に一晩は、()ういふ身の上にと、其の時分は思つた、其の(とお)つたもんだから、夢なら覚めるなと一夜(ひとや)明かした迄は()かつたさうだが。

 翌日(あくるひ)になると帰さない、其晩(そのばん)女中が云ふには、お奥で(やかた)が召しますつさ。

 其の人は今でも話すがね、館といつたのは、其は()うも何とも気高い美しい婦人(おんな)ださうだ。しかし何分(なにぶん)生胆(いきぎも)を取られるか、薬の中へ錬込(ねりこ)まれさうで、(こわ)さが先に立つて、片時も目を(ねむ)るわけには()かなかつた。

 私が縁続きの其の人はね、親類うちでも評判の美男だつたのです。」

        五

目次に戻る

目次