35話 三十五
読み方を変える
愛吉がいう処も、大雨の後をそよ吹く風も、太く身に染みた様子であった、金之助は改めて硝子杯を挙げ、「もう一杯景気をつけよう、大分引込まれて私まで妙になった、お前にも似合わない何も鬱ぐにも当るまい、」と、激ます人も何となく理に落ちて来たのである。
「ええ、この位にしておきましょう、何年ぶりかで不思議にこうやって折角真面目になったものを、また酔っちゃあ詰りません、ねえ先生、どうぞ可愛がって下さいまし、私はくらい酔ってそれなりけりでも構いませんが、お夏さんはほんとうに誰も便にするものがないんですから、後生でございます。旦那方のような紋着を着た方は大嫌なんだけれど、何、実の処は私等を軽蔑して取合って下さらないと相場が極ってるとおもいますから、じゃじゃ馬ですねてるんでさ、心細うございます。ほんとうにお夏さんは便りのない身でおいでなさるんですからね、御不便がありゃ、直ぐにでも柳屋へ引張って行って見せてえや、そしてこの先生がお前さんのことを身に染みて聞いて下すったって話したら、どんなにか喜ぶでしょう。」とさも懐しげにいうのである。
金之助も他所事とは取らない気色で、
「いや、私はこれでなかなか当世じゃあないんだから、女の児とお附合はちっと困る、しかしお前とは改めて朋達になろう。なあ、朋達――そうだ親類とでも何とでも思いなさい。用に立つことがあったら出来るだけ智慧も貸そうよ、身体も貸そうよ。込入った話でそのお夏さんのことについちゃ、こりゃ懸直無し私も一ツもの思いだ、帰ってからも路々も条を辿って考えよう、いやしかしお庇でおもしろい……といっちゃあ済まないような気もするね。」
「はい、」といったッきり、愛吉はしばらく差俯向いていたが、思出したように天窓を上げて、
「飛んだ頂きまして、もう御免を蒙ります。」
「一所に出ようか、そこいらまで同じ向だ。」
金之助は愛吉が返した、根岸の鴨川の討入の武器なる黒糸縅の五ツ紋を、畳んであるまま懐へ捻込んで、ボオイを呼んで勘定をすると、件の金袋を提げたのがその金袋は蓋し代金を受納めるために持っているのではなく、剰金を出す用意をしているもののよう、規則正しく返したのに、銀一ツ添えて金之助はここに長座を償ったが、断るまでもなく、ボオイはこれを別の衣兜に納れたのである。
「御機嫌よろしゅう、」
それと二人は卓子を挟んで斉しく立上ったのが、一所になり前後になって出ようとする、横合の椅子から、
「やあ、」と声を懸けたのは、件の兀頭の小男であった。
金之助ははじめて心着いて、はたと立留って顔を見て、不意だという面色で更に見直したが、
「おお、どうして、」と驚いて言った。
ここに先刻からおみこしを据えて、愛吉の物語に耳を傾けたり、士官の方をじろじろ見たり、あるいは空合を伺ってびっしょりの奇観を呈するなど、慌てたような、落着いたような、人の悪いような、呑気なような、ほとんど端倪すべからざる、たとえば竜のごとき否、むしろ大雨に就いて竜を黙想しつつありしがごとき、奇体なる人物は、渾名を外道と称えて、名誉の順風耳、金之助と同一新聞社の探訪員で、竹永丹平というのであった。