比島投降記 ある新聞記者の見た敗戦

16話 南の海

1,890字 約4分 2017年3月17日 公開

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 僕の乗っていたLSTと僚艦とは、マニラで水や食料を積込んだ上、東海岸のカシグランという所へ向うことになった。ルソン島の中北部で山の中へ逃げこんだ邦人のほとんど唯一の希望は、東海岸に出るということだった。海岸へ出れば塩水はある、魚もある、貝もある、食える海草もあるだろう。ロビンソン・クルーソーみたいな生活をしている内には、戦争も終るだろうと考えたものである。僕なども真面目にそんなことを考え、玉蜀黍から豆、さてはひでり草の種子まで準備した。実際問題としては、中部ルソンから東海岸へぬける路は、一本か二本しかなく、それがゲリラによって阻止されているとすれば、山越えをしなくてはならない。高い山は西海岸の方にあるが、山は低くとも猛烈なジャングルをくぐって、果して海岸まで行けるかどうか。また行ったところで、タヤバス州の中部から北は、断崖絶壁つづきで、人間の住むような場所があるのかどうか、分ったものではないが、とにかく「東海岸へ! 東海岸へ!」というのが、ひとつの流行言葉にさえなっていた。事実、東海岸への探検に向った隊もあるが、クマオ地区から出た隊は、僅か二キロ程行っただけで、どうにも動きがとれず、引返して来た。この附近のジャングルは、向うの見透しはきくのだが、とげの生えた蔓草が多く――竹も枝を出し、それにはとげがある――おまけにどこもかしこも同じようで、迷うにはもって来いである。

 東海岸ほどの「人気」はなかったが、ゴンサカ街道ということも、よくいわれた。ゴンサカのことは前にもちょっと書いたが、国道五号線に出られないので、それにほぼ並行した間道を北へとり、ゴンサカに出ようというのである。出てどうするつもりか知らぬが、そっちの方へ逃げこんだ人々も決してすくなくはない。それやこれや考えると、まだ相当な数の日本人が、山の中にいるのではあるまいかと思われる。

 それはともかく、中部ルソンから東海岸へぬける路の一本の終点がカシグランなのである。そこに日本の兵隊が四十人と、比島のゲリラが五百人だかいるが、兵隊はみんな担送患者であり、ゲリラも雨季に入って山越が出来ないので、これを収容に行けという命令が出たのである。連絡は飛行機で行ったのだが、その後どうなっているか分らない。万事は行って見ての上のことだという話で、マニラを出港したのである。僚艦にも通訳が一人乗りこんでいた。

 マニラから南下して、ルソン島の南端を通った。天気のいい日もあり、雨の日もあった。島に近く航海する時は穏かだったが、随分揺れた時もある。僕は全くすることがなく、毎日三度三度すごい御馳走になっては本を読んだ。水兵の食堂の棚がライブラリで、そこには詰らぬ本もあったが、前に書いた THE MOUNTAINS WAIT のような、いい本も何冊かあった。

 食糧不足の今日、こんなことを書くと怨まれるかも知れないが、軍艦の食事は、アパリの米営舎での昼飯よりもはるかに大したものだった。ある朝は、大きなホットケークに本物のメープル・シラップをだぶだぶとかけて食った。日曜日の昼飯はフライド・チキンで、しかも一羽の完全な半分であり、これにマッシド・ポテトにグリン・ピースが山ほど添えてあった。パンは米国でビスケットというマフィンみたいな物で、熱いのを食う。ブラックベリイの煮たのがデザート、コーヒは飲み放題。いつだか昼飯に大きなビフテキが出た時は、流石の僕も晩飯が食えなかった位である。

 こんな御馳走を食って、濃紺の海を航海していると、なんだか今日(こんにち)さまに相済まぬような気が起る。比島の島々はまことに美しく、飛魚はとぶし、空はきれいだし、ああ、一体何年ぶりでの船旅だろうかと、すっかり、のんびりしてしまうのだった。

 ひどい吹き降りの日があった。僕は終日サックに横たわって本を読んだが、ふとスカイライトから黄色い日光がさしているのに気がつき、甲板に出た。すると左手に、まっかな夕焼の空を背景に、富士山よりも、もうすこし鋭い斜面を持つ、完全な円錐形の山が見えた。「ああ、マヨン火山だ」と僕はすぐ気がついた。マヨンが左手に見えるとすると、いつの間にかルソン島の南端を廻って、北上していることになる。「あれがマヨンだ。あれは活火山だ」と話し合っている水兵や陸軍の兵隊と一緒に、しばし僕は舷側によりかかって、この美しい、あまりに形が整い過ぎた山を眺めた。まったく、敗戦のおかげで、山岳州を歩き廻り、大密林の中に住み、今度は名山、マヨンまで見ることが出来たのである。そうでなかったら、僕の比島生活は、マニラだけで終ったことであろう。

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