我らの哲学

7話 七 宇宙

2,334字 約5分 2017年11月7日 公開

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 ある哲学書に次のようなたとえ話しがあった。フランス語の少しも分からぬ支那人が二人パリに来て、芝居を見物した。その中の一人はしきりに舞台や楽屋の仕掛けを見て歩き、幕はいかにして上げるか、光はどこから照らすか、(なみ)は何で動かすか、風の音は何で鳴らすかというごときことをつまびらかに知ろうとつとめた。他の一人は静かに座席に腰をかけたままで、熱心に役者の所作を見て、狂言の筋を了解しようと試みた。前者は自然科学者が宇宙に向かう態度であり、後者は哲学者が宇宙に向かう態度である。これはちょっと考えるとすこぶる巧みなたとえのようであるが、われらから見ると、類推の誤りが根本に潜んでいるゆえ、決して真実を示しているとは思われぬ。このたとえはまず第一に宇宙には芝居の狂言と同じように一定の筋が必ずあるものと見なしてかかっているが、これはそもそもいかがであろうか。何ごとをも用心してまず疑うてかかる者から見れば、これが第一に疑問である。またかりに一歩を譲って、宇宙の狂言の筋があるものとしたところで、それが人間に了解せられうべき性質のものか否かが、大いに疑わしい。マーテルリンクの蜜蜂の本を一冊読んでみても知れるとおり、人間以外の世界には、われわれの了解とはまるで性質の違うた了解が幾通りもあるように思われるが、もしもさようとすれば、了解を人間の専売のごとくに考え、わが有する種類の了解のほかには了解はないと独断するのは少しく早計ではあるまいか。このような果てしのないことを論ずるのは全くむだなようにも思われるが、世間には宇宙には一定の目的があって、その方向に狂言が進んでゆくものと信じている人も多いようであるゆえ、ここにはただ子供の心を出発点とし、一歩一歩まちがいの入りきたらぬように充分に注意して、理屈を考えたのでは、決してそのような決論には到着せぬということを述べるだけにとどめる。

 また目に見える宇宙のほかに、別になお一つ目に見えぬ宇宙があると信じている人がすこぶる多い。「見えぬ宇宙」という書物をむかし読んだことがあるが、霊魂があると考える人は、霊魂の住宅として、見えぬ宇宙を認めるのほかに道はなかろう。形もなく、物質もなく、見える宇宙に例外なく行なわれている、物理学や化学の法則を超越したある物が存すると信ずる以上は、見える宇宙のほかに、それとは性質を異にした別の宇宙が存すると考えねば、そのものの入れどころがない。見える宇宙のほかに見えぬ宇宙を想像する人は、頭の中に二階造りの宇宙を画いている。すなわち下の座敷は見える宇宙であって、われわれは現にそこに住んでいる、二階の座敷はすなわち見えぬ宇宙であって、そこには霊魂が大勢下宿している。人間は死ぬと身体だけは腐ってなくなるが、霊魂は早速梯子(はしご)を登って二階にゆき、前からそこにいた連中の仲間に加わる。いったん二階に登った以上はふたたび下へは降りてこられぬ。それゆえ、二階に登ることを帰らぬ旅に立ったとも言う。昔のエジプト人は、霊魂はふたたび二階から降りてくるものと信じたゆえ、そのさい自分の身体がなくなっては困るであろうとの心配からきわめて念入りに死骸を保存した。これがすなわち数千年後の今日まで残っているミイラである。宴会の帰りに、外套や靴が見えなくても大いにまごつくことを思えば、自分の合い札の身体が見つからぬときの霊魂の迷惑はまったく察せられる。とにかく、身体から離れた霊魂なるものがありと信ずる以上は、宇宙を二重に考えることを避けることはできぬ。

 あの世とか、未来とか、天国とか、霊の世界とか名はさまざまに違うても、見えぬ宇宙は要するに見える宇宙の二階である。しこうしておもしろいことには、二階座敷はいつも下の座敷によく似ている。人は想像によってすでに知っていることをいろいろに組み合わせることはできても、全く別の物は考え出せぬものとみえて、天国はどこの国でも、下界にあるだけの物で造り、ただそれが理想化せられてある。ある農夫は、もしもオレが王様になったら、肥桶の(たが)を黄金で造ると言うたそうであるが、天国もそのとおりで、エスキモーの天国には(にしき)のごときアザラシが泳いでい、インドの天国には車輪のような蓮花(れんげ)が咲いている。アフリカの天国ではおそらくゴリラや獅子(しし)が温順で、南洋の天国では多分空いっぱいにバナナがぶら下がっていることであろう。すべてかような具合に、霊の世界の材料は自分の手近にある見える宇宙から取ってある。そのありさまは、低能な作者がいかに努力しても低能な小説より書けぬのに異ならぬ。されば虚心平気に、世界各民族の天国を比較研究したならば、その想像物なることは明らかに知れよう。

 前にも述べたとおり、われらの考えによれば、身体から離れた霊魂なるものがあると思うのがまちがいである。しこうしてかかる物がありと思わねば、二重の宇宙を想像する必要は全く消滅する。目に見える物だけをありと信ずる子供の心を出発点とし、言葉に捕えられぬように用心しながら確かに知り得たことだけを考えに入れて論を立てると、見える宇宙のほかになお一つ別の宇宙を想像せねばならぬ理由は少しも出てこぬ。実をいうと、もしも今までの伝統的の考え方をことごとく忘れて、初めから全く新しく考えなおしてみたならば、宇宙は一重か二重かというようなことは問題にものぼらぬ。われらがここに宇宙を二重に考える必要はないというのは、決して宇宙は一重か二重かという問題を研究の価値あるものとしてとり上げ、充分に研究をとげた結果、二重と考えるにおよばずとの結論に達したわけではない。かかることを念頭におかぬ子供の心のそのままの引き続きとして、念頭におかずにいるだけである。

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