明治十二三年頃の出版だと思ふ――澤村田之助曙双紙と云ふ合卷ものの、淡彩の口繪に、黒縮緬の羽織を撫肩に引つ掛けて、出の衣裝の褄を取つた、座敷がへりらしい、微醉の婀娜なのが、俥の傍に彳ずんで、春たけなはに、夕景色。瓦斯燈がほんのり點れて、あしらつた一本の青柳が、裾を曳いて、姿を競つて居て、唄が題してあつたのを覺えて居る。曰く、(金子も男も何にも入らぬ微醉機嫌の人力車)――少々間違つて居るかも知れないが、間違つて居れば、其の藝妓の心掛で、私の知つた事ではない。何しろ然うした意氣が唄つてあつた。或は俥のはやりはじめの頃かも知れない。微醉を春の風にそよ/\吹かせて、身體がスツと柳の枝で宙に靡く心持は、餘程嬉しかつたものと見える。
今時バアで醉拂つて、タクシイに蹌踉け込んで、いや、どツこいと腰を入れると、がた、がたんと搖れるから、脚を蟇の如く踏張つて――上等のは知らない――屋根が低いから屈み腰に眼を据ゑて、首を虎に振るのとは圖が違ふ。第一色氣があつて世を憚らず、親不孝を顧みざる輩は、男女で相乘をしたものである。敢て註するに及ばないが、俥の上で露呈に丸髷なり島田なりと、散切の……惡くすると、揉上の長い奴が、肩を組んで、でれりとして行く。些と極端にたとへれば、天鵞絨の寢臺を縱にして、男女が處を、廣告に持歩行いたと大差はない。
自動車に相乘して、堂々と、淺草、上野、銀座を飛ばす、當今の貴婦人紳士と雖も、これを見たら一驚を吃するであらう。誰も口癖に言ふ事だが、實に時代の推移である。だが其のいづれの相乘にも、齊しく私の關せざる事は言ふまでもない。とにかく、色氣も聊か自棄で、穩かならぬものであつた。
――(すきなお方と相乘人力車、暗いとこ曳いてくれ、車夫さん十錢はずむ、見かはす顏に、その手が、おつだね)――恁う云ふ流行唄さへあつた。おつだね節と名題をあげたほどである。何にしろ人力車はすくなからず情事に交渉を持つたに相違ない。
金澤の人、和田尚軒氏著。郷土史談に採録する、石川縣の開化新開、明治五年二月、其の第六號の記事に、
先頃大阪より歸りし人の話に、彼地にては人力車日を追ひ盛に行はれ、西京は近頃までこれなき所、追々盛にて、四百六輌。伏見には五十一輌なりと云ふ。尚ほ追々増加するよし……其處で、東京府下は總數四萬餘に及ぶ。
と記して、一車の税銀、一ヶ月八匁宛なりと載せてある。勿論、金澤、福井などでは、俵藤太も、頼光、瀧夜叉姫も、まだ見た事もなかつたらう。此の東京の四萬の數は多いやうだけれども、其の頃にしろ府下一帶の人口に較べては、辻駕籠ほどにも行渡るまい、然も一ヶ月税銀八匁の人力車である。なか/\以て平民には乘れさうに思はれぬ。時の流行といへば、別して婦人が見得と憧憬の的にする……的となれば、金銀相輝く。弓を學ぶものの、三年凝視の瞳には的の虱も其の大きさ車輪である。從つて、其の頃の巷談には、車夫の色男が澤山あつた。一寸岡惚をされることは、やがて田舍まはりの賣藥行商、後に自動車の運轉手に讓らない。立志美談車夫の何とかがざらにあつた。
しばらくの間に、俥のふえた事は夥しい。
人力車――腕車が、此の《にんべん》に車と成つた、字は紅葉先生の創意であると思ふ。見附を入つて、牛込から、飯田町へ曲るあたりの帳場に、(人力)を附着けて、一寸(分)の字の形にしたのに、車をつくりに添へて、大きく一字にした横看板を、通りがかりに見て、それを先生に、私が話した事がある。「そいつは可笑しい。一寸使へるな。」と火鉢に頬杖をつかれたのを覺えて居る。
……更めて言ふまでもないが、車賃なしの兵兒帶でも、辻、巷の盛り場は申すまでもない事、待俥の、旦那御都合で、を切拔けるのが、てくの身に取り大苦勞で。どやどやどや、がら/\と……大袈裟ではない、廣小路なんぞでは一時に十四五臺も取卷いた。三橋、鴈鍋、達磨汁粉、行くさき眞黒に目に餘る。「こいつを樂に切拔けないぢや東京に住めないよ。」と、よく下宿の先輩が然う言つた。
十四五年前、いまの下六番町へ越した頃も、すぐ有島家の黒塀外に、辻車、いまの文藝春秋社の前の石垣と、通を隔つた上六の角とに向ひ合ひ、番町學校の角にも、づらりと出て居て、ものの一二町とはない處に、其のほかに尚ほ宿車が三四軒。
――春は櫻の賑ひよりかけて、なき玉菊が燈籠の頃、續いて、秋の新仁和賀には、十分間に車の飛ぶこと、此の通りのみにて七十五輌。
と、大音寺前の姉さん、一葉女史が、乃ち袖を卷いて拍子を取つた所以である。
――十分間に七十五輌、敢て大音寺前ばかりとは云はない。馬道は俥で填まつた。淺草の方の悉い事は、久保田さん(万ちやん)に聞くが可い。……山の手、本郷臺。……切通しは堰を切つて俥の瀧を流した。勿論、相乘も渦を卷いて、人とともに舞つて落ちる、江智勝、豐國あたりで、したゝかな勢に成つたのが、ありや/\、と俥の上で、蛸の手で踊つて行く。でつかんしよに、愉快ぶし、妓夫臺談判破裂して――進めツ――いよう、御壯、どうだい隊長と、喚き合ふ。――どうも隊長。……まことに御壯。が、はずんで下りて一淀みして《まは》る處から、少し勢が鈍くなる。知らずや、仲町で車夫が、小當りに當るのである。「澄まねえがね、旦那。」甚しきは楫を留める。彼處を拔けると、廣小路の角の大時計と、松源の屋根飾を派手に見せて、又はじめる。「ほんの蝋燭だ、旦那。」さて、最も難場としたのは、山下の踏切の處が、一坂辷らうとする勢を、故と線路で沮めて、ゆつくりと強請りかゝる。處を、辛うじて切拔けると、三島樣の曲角で、又はじめて、入谷の大池を右に、ぐつと暗くなるあたりから、次第に凄く成つたものだ――と聞く。
……實は聞いただけで。私の覺えたのは……そんな、そ、そんな怪しからん場所ではない。國へ往復の野路山道と、市中も、山まはりの神社佛閣ばかり。だが一寸こゝに自讚したい事がある。酒は熱燗のぐい呷り、雲助の風に似て、茶は番茶のがぶ飮み。料理の食べ方を心得ず。お茶碗の三葉は生煮えらしいから、そつと片寄せて、山葵を活きもののやうに可恐がるのだから、われながらお座がさめる。さゝ身の煮くたらしを、ほう/\と吹いてうまがつて、燒豆府ばかりを手元へ取込み、割前の時は、鍋の中の領分を、片隅へ、群雄割據の地圖の如く劃つて、眞中へ埋た臟もつを、箸の尖で穴をあけて、火はよく通つたでござらうかと、遠目金を覗くやうな形をしたのでは大概岡惚も引退る。……友だちは、反感と輕侮を持つ。精々同情のあるのが苦笑する。と云つた次第だが……たゞ俥に掛けては乘り方がうまい、と――最も御容子ではない――曳いてる車夫に讚められた。拾ひ乘だと、樹の下、塀續きなぞで、わざ/\振向いて然う言つた事さへある。
乘るのがうまいと言ふ下から、落ちることもよく落ちた。本郷の菊坂の途中で徐々と横に落ちたが寺の生垣に引掛つた、怪我なし。神田猿樂町で、幌のまゝ打倒れた、ヌツと這出る事は出たが、氣つけの賓丹を買ふつもりで藥屋と間違へて汁粉屋へ入つた、大分茫としたに違ひない、が怪我なし。眞夏、三宅坂をぐん/\上らうとして、車夫が膝をトンと支くと蹴込みを辷つて、ハツと思ふ拍子に、車夫の背中を跨いで馬乘りに留まつて「怪我をしないかね。」は出來が可い。師走の算段に驅け《まは》つて五味坂で投出された、此の時は、懷中げつそりと寒うして、心、虚なるが故に、路端の石に打撞かつて足の指に怪我をした。最近は……尤も震災前だが……土橋のガード下を護謨輪で颯と言ふうちに、アツと思ふと私はポンと俥の外へ眞直に立つて、車夫は諸膝で、のめつて居た。蓋し、期せずして、一つ宙返りをして車夫の頭を乘越したのである。拂ふほど砂もつかない、が、此れは後で悚然とした。……實の處今でもまだ吃驚してゐる。
要するに――俥は落ちるものと心得て乘るのである。而して、惡道路と、坂の上下は、必ず下りて歩行く事――
これ、當流の奧儀である、と何も矢場七、土場六が、茄子のトントンを密造する時のやうに祕傳がるには及ばない。――實は、故郷への往復に、其の頃は交通の必要上止むを得ず幾度も長途を俥にたよつたため、何時となく乘るのに馴れたものであらうと思ふ。……
汽車は、米原を接續線にして、それが敦賀までしか通じては居なかつた。「むき蟹。」「殼附。」などと銀座のはち卷で旨がる處か、ヤタ一でも越前蟹(大蟹)を誂へる……わづか十年ばかり前までは、曾席の膳に恭しく袴つきで罷出たのを、今から見れば、嘘のやうだ。けれども、北陸線の通じなかつた時分、舊道は平家物語、太平記、太閤記に至るまで、名だたる荒地山、歸、虎杖坂、中河内、燧ヶ嶽。――新道は春日野峠、大良、大日枝の絶所で、其の敦賀金ヶ崎まで、これを金澤から辿つて三十八里である。蟹が歩行けば三年かゝる。
最も、加州金石から――蓮如上人縁起のうち、嫁おどしの道場、吉崎の港、小女郎の三國へ寄つて、金ヶ崎へ通ふ百噸以下の汽船はあつた。が、事もおろかや如法の荒海、剩へ北國日和と、諺にさへ言ふのだから、浪はいつも穩かでない。敦賀は良津ゆゑ苦勞はないが、金石の方は船が沖がかりして、波の立つ時は、端舟で二三里も揉まれなければ成らぬ。此だけでも命がけだ。冬分は往々敦賀から來た船が、其處に金石を見ながら、端舟の便がないために、五日、七日も漾ひつゝ、果は佐渡ヶ島へ吹放たれたり、思切つて、もとの敦賀へ逆戻りする事さへあつた。