春の潮

1話 春の潮(1)

8,455字 約17分 2008年11月8日 公開

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      一

 隣の家から嫁の荷物が運び返されて三日目だ。省作は養子にいった家を出てのっそり(もど)ってきた。婚礼をしてまだ三月と十日ばかりにしかならない。省作も何となし気が(とが)めてか、浮かない顔をして、わが家の門をくぐったのである。

 家の人たちは山林の下刈りにいったとかで、母が一人(ひとり)大きな家に留守居していた。日あたりのよい奥のえん側に、居睡(いねむ)りもしないで一心にほぐしものをやっていられる。省作は表口からは上がらないで、内庭からすぐに母のいるえん先へまわった。

「おッ()さん、追い出されてきました」

 省作は笑いながらそういって、えん側へ上がる。母は手の物を置いて、眼鏡越(めがねご)しに省作の顔を()つめながら、

「そらまあ……」

 驚いた母はすぐにあとのことばが出ぬらしい。省作はかえって、母に()ったら元気づいた。これで見ると、省作も出てくるまでには、いくばくの煩悶(はんもん)をしたらしい。

「おッ母さん、着物はどこです、わたしの着物は」

 省作は立ったまま座敷の中をうろうろ歩いてる。

「おれが今見てあげるけど、お前なにか着替も持って来なかったかい」

「そうさ、また男が風呂敷包(ふろしきづつ)みなんか持って歩けますかい」

「困ったなあ」

 省作は出してもらった着物を引っ掛け、兵児帯(へこおび)のぐるぐる巻きで、そこへそのまま寝転(ねころ)ぶ。母は省作の脱いだやつを衣紋竹(えもんだけ)にかける。

「おッ母さん、茶でも入れべい。とんだことした、菓子買ってくればよかった」

「お前、茶どころではないよ」

と言いながら母は省作の近くに(すわ)る。

「お前まあよく話して聞かせろま、どうやって出てきたのさ。お前にこにこ笑いなどして、ほんとに笑いごっちゃねいじゃねいか」

 母に(しか)られて省作もねころんではいられない。

「おッ母さんに心配かけてすまねいけど、おッ母さん、とてもしようがねんですよ。あんだっていやにあてこすりばかり言って、つまらん事にも目口(めくち)を立てて小言(こごと)を言うんです。近頃はあいつまでが時々いやなそぶりをするんです。わたしもう(しゃく)(さわ)っちゃったから」

「困ったなあ、だれが一番悪くあたるかい。おつねも何とか言うのかい」

「女親です、女親がそりゃひどいことを言うんです。つねのやつは何とも口には言わないけれど、この頃失敬なふうをすることがあるんです。おッ母さん、わたしもう何がなんでもいやだ」

「おッ母さんもね、内々(ないない)心配していただよ。ひどいことを言うって、どんなこと言うのかい。それで男親は悪い顔もしないかい」

「どんなことって、ばかばかしいこってす。おとっさんの方は別に悪くもしないです」

「ウムそれではひどいこっちはおとよさんの事かい、ウム」

「はあ」

「ほんとに困った人だよ。実はお前がよくないんだ。それでは全く知れっちまたんだな。おッ母さんはそればかり心配でなんなかっただ。どうせいつか知れずにはいないけど、少しなずんでから知れてくれればどうにか治まりがつくべいと思ってたに、今知れてみると向うで厭気(いやけ)がさすのも無理はない」

 母はこういってしばらく口を閉じ、深く考えつつ溜息(ためいき)をつく。暢気(のんき)そうに、笑い顔している省作をつくづくと()つめて、老いの眼に心痛の色が(あふ)れるのである。やがてまた思いに()えないふうに、

「お前はそんな暢気な顔をしていて、この年寄の心配を知らないのか」

 そういわれて省作は(にわ)かに居ずまいを直した。そうして、

「おッ母さん、わたしだってそんなに暢気でいやしませんよ。年寄にそう心配さしちゃすまないですが、実はおッ母さん、あの家はむこうで置いてくれてもわたしの方でいやなんです。なんのかんの言ったって、わたしがいる気で少し気をつければ、わけはないですけど、なんだか知らんが、わたしの方で(いや)になっちまったんでさ。それだからおッ母さん心配しないでください」

 これは省作の今の心の事実であるが、省作の考えでは、こういったら母の心配をいくらかなだめられると思うたのである。ところがそう聞いて母の顔はいよいよむずかしくなった。老いの眼はもう涙に(うるお)ってる。母はずっと省作にすり寄って、

「省作、そりゃおまえほんとかい。それではお前、あんまり我儘(わがまま)というもんだど。おッ母さんはただあの事が深田へ知れては、お前も居づらいはずだと思うたに、今の話ではお前の方から厭になったというのだね。それではおまえどこが厭で深田にいられない、深田の家のどいうところが気に入らないかえ。おつねさんだって初めからお互いに知り合ってる間柄だし、おつねさんが(いや)なわけはあるまい。その年をしてただわけもなく厭になったなどというのは、それは全く我儘(わがまま)というものだ。少しは考えてもみろ」

 省作はだまってうつむいている。省作は全く何がなし厭になったが事実で、ここがこうと明瞭(めいりょう)に意識した点はない。深田の家に別に気に入らないというところがあるのではない。つまるところ省作の頭には、おとよの事が深く深く()みこんでいるから、わけもなく深田に気乗りがしない。それにこの頃おとよと隣との関係も話のきまりが着いて、いよいよおとよも(ほか)に関係のない人となってみると、省作はなにもかにもばからしくなって、(にわ)かに思いついたごとく深田にいるのが厭になってしまった。しかしそれをそうと()っつけに母にも言えないから、母に問い詰められてうまく返答ができない。口下手(くちべた)な省作にはもちろん間に合わせことばは出ないから、黙ってしまった。母も省作のおちつかぬはおとよゆえと承知はしているが、わざとその点を避けて遠攻めをやってる。省作がおつねになずみさえすれば、おとよの事は自然忘れるであろうと思いこんで、母はただ省作を深田の方へやって置きたいのだ。

「お前も知ってのとおり深田はおら(うち)などよりか身上(しんしょう)もずっとよいし、それで旧家ではあるし、おつねさんだって、あのとおり十人並み以上な娘じゃないか。女親が少しむずかしやだという評判だけど、そのむずかしいという人がたいへんお前を気に入ってたっての懇望(こんもう)でできた縁談だもの、いられるもいられないもないはずだ。人はみんな省作さんは仕合せだ仕合せだと言ってる、何が不足で厭になったというのかい。我儘いうもほどがある、親の苦労も知らないで……。お前は深田にいさえすれば仕合せなのだ。おッ母さんまで安心ができるのだに。どういう気かいお前は、いつまでこの年寄に苦労をかける気か」

 母は自分で思いをつめて鼻をつまらせた。省作は子供の時から、随分母に苦労をかけたのである。省作が永く()(わずら)った時などには、母は不動尊に塩物断(しおものだ)ちの心願(しんがん)までして心配したのだ。ことに父なきあとの一人(ひとり)の母、それだから省作はもう母にかけてはばかに気が弱い。のみならず省作は天性あまり強く()を張る(たち)でない。今母にこう言いつめられると、それでは自分が少し無理かしらと思うような男であるのだ。

「おッ母さんに苦労ばかりさせて済まないです。なるほどわたしの我儘に違いないでしょう、けれどもおッ母さん、わたしの仕合せ不仕合せは、深田にいるいないに関係はないでしょう。あの家にいても、面白くなくいては、やっぱり不仕合せですからねイ。またよしあそこを出たにしろ、別に面白く暮す工夫(くふう)がつけば、仕合せは同じでありませんか。それでもあの家にいさえすればわたしの仕合せ、おッ母さんもそれで安心だと思うなら考えなおしてみてもえいけれど、もうこうなっちゃっては仕方がなかありませんか」

 母は少し省作を(にら)むように見て、

「別に面白く暮す工夫て、お前どんな工夫があるかえ。お前心得違いをしてはならないよ。深田にいさえすればどうもこうも心配はいらないじゃないか。(いや)と思うのも心のとりよう一つじゃねいか。それでお前は今日(きょう)どういって出てきました」

「別にむずかしいこと言やしません。家へいってちょっと持ってくるものがあるからって、あやつにそう言って来たまでです」

「そうか、そんなら仔細(しさい)はないじゃないか。おらまたお前が追い出されて来ましたというから、物言いでもしてきた事と思ったのだ。そんなら仔細はない、今夜にも帰ってくろ。お前の心さえとりなおせば向うではきっと仔細はないのだよ。なあ省作、今お前に戻ってこられるとそっちこちに面倒が多い事は、お前も重々(じゅうじゅう)承知してるじゃねいか」

 省作はまただまってる。母もしばらく口をあかない。省作はようやく口重く、

「おッ母さんがそれほど言うなら、とにかく明日(あす)は帰ってみようけれど、なんだかわたしの気が変になって、厭な心持ちでいたんだから、それで向うでも少し気まずくなったわけだとすると、わたしは心をとりなおしたにしろ、向うで心をなおしてくんねば、しようがないでしょう」

「そりゃおまえ、そんな事はないよ。もともと懇望されていったお前だもの、お前がその気になりさえすりゃ、わけなしだわ」

 話は随分長かったが、要するに覚束(おぼつか)ない結局に陥ったのである。これからどうしてもおとよの話に移る順序であれど、日影はいつしかえん側をかぎって、表の障子をがたぴちさせいっさんに奥へ二人(ふたり)の子供が飛びこんできた。

「おばあさんただいま」

「おばあさんただいま」

 顔も手も墨だらけな、八つと七つとの重蔵(しげぞう)松三郎が重なりあってお辞儀(じぎ)をする。二人は()ちさまに同じように帽子をほうりつけて、

「おばあさん、一銭おくれ」

「おばあさん、おれにも」

 二人は肩をおばあさんにこすりつけてせがむのである。

「さあ、おじさんが今日はお菓子を買ってやるから、二人で買ってきてくれ、お前らに半分やる」

 二童(ふたり)は銭を握って表へ飛び出る。省作は茶でも入れべいと()った。

      二

 翌朝、省作はともかくも深田に帰った。帰ったけれども駄目(だめ)であった。五日ばかりしてまた省作は戻ってきた。今度はこれきりというつもりで、朝早く人顔の見えないうちに、深田の家を出たのである。

 母は折角(せっかく)言うていったんは帰したものの、初めから危ぶんでいたのだから、再び出てきたのを見ては、もうあきらめて深く小言(こごと)も言わない。兄はただ、

「しようがないやつだなあ」

 こう一言(ひとこと)言ったきり、相変らず夜は縄をない昼は山刈りと土肥作りとに側目(わきめ)も振らない。弟を深田へ縁づけたということをたいへん見栄(みえ)に思ってた(あによめ)は、省作の無分別をひたすら口惜(くや)しがっている。

「省作、お前あの家にいないということがあるもんか」

 何べん繰り返したかしれない。(ころ)は旧暦の二月、田舎(いなか)では年中最も手すきな時だ。問題に趣味のあるだけ省作の離縁話はいたるところに盛んである。某々がたいへんよい所へ片づいて非常に仕合せがよいというような(うわさ)は長くは続かぬ。しかしそれが破縁して気の毒だという場合には、多くの人がさも心持ちよさそうに面白く興がって噂するのである。あんまり仕合せがよいというので、小面憎(こづらにく)く思った(やから)はいかにも面白い話ができたように話している。村の酒屋へ瞽女(ごぜ)を留めた夜の話だ。瞽女の(うた)が済んでからは省作の噂で持ち切った。

「省作がいったいよくない。一方の女を思い切らないで、人の婿になるちは大の不徳義だ、不都合きわまった話だ。婿をとる側になってみたまえ、こんなことされて(たま)るもんか」

 こう言うのは深田贔屓(びいき)の連中だ。

「そうでないさ、省作だって婿になると決心した時には、おとよの事はあきらめていたにきまってるさ。第一省作が婿になる時にゃ、おとよはまだ清六の所にいたじゃないか。深田も懇望してもらった以上は、そんな過ぎ去った噂なんぞに心動かさないで大事にしてやれば、省作は決して深田の家を去るのではない。だからありゃ深田の方が悪いのだ。何も省作に不徳義なこたない」

 これは小手贔屓(びいき)の言うところだ。

「えいも悪いもない、やっぱり縁のないのだよ。省作だって、身上(しんしょう)はよし、おつねさんは(にく)くなかったのだから、いたくないこともなかったろうし、向うでも懇望したくらいだからもとより置きたいにきまってる、それが置けなくなりいられなくなったのだから、縁がないのさ」

 こんなこというは婆と呼ばれる酒屋の内儀(おかみ)だ。

「みんな省さんが悪いんさ、ほんとに省さんは憎いわ。省さんはあんなえい人だからおとよさんがどうしてもあきらめられない、おとよさんがあきらめねけりゃ、省さんは深田にいられやしない。深田のおッ母さんはたいへんおとよさんを恨んでるっさ。おつねさんもね、実は省さんを置きたかったんだって、それだから、省さんが出たあとで三日寝ていたっち話だ。わたしゃほんとにおつねさんがかわいそうだわ、省さんはほんとに憎いや」

 これは女側から出た声だ。

「なんだいべらぼう、ほめるんやらくさすんやら、お気の毒さま、手がとどかないや。省さんほんとに憎いや、もねいもんだ」

「そんなに言うない。おはまさんなんかかわいそうな所があるんだアな、同病相憐(あいあわれ)むというんじゃねいか、ハヽヽヽヽヽ」

「あん畜生、ほんとにぶちのめしてやりたいな」

「だれを」

「あの野郎をさ」

「あの野郎じゃわからねいや」

「ばかに下等になってきたあな、よせよせ」

 おはまがいるから、悪口もこのくらいで済んだ。おはまでもいなかったら、なかなかこのくらいの悪口では済まない。省作の悪口を言うとおはまに憎がられる、おはまには悪くおもわれたくないてあいばかりだから、話は下火になった。政公の気焔(きえん)が最後に(ふる)っている。

「おらも婿だが、昔から(たとえ)にいう通り、婿ちもんはいやなもんよ。それに省作君などはおとよさんという人があるんだもの、清公に聞かれちゃ悪いが、百俵付けがなんだい、深田に田地が百俵付けあったってそれがなんだ。婿一人の小遣(こづか)い銭にできやしまいし、おつねさんに百俵付けを(くく)りつけたって、(からだ)一つのおとよさんと比べて、とても天秤(てんびん)にはならないや。一万円がほしいか、おとよさんがほしいかといや、おいら一秒間も考えないで……」

「おとよさんほしいというか、(かかあ)にいいつけてやるど、やあいやあい」

 で話はおしまいになる。おはまが帰って一々省作に話して聞かせる。そんな次第だから省作は奥へ引っ込んでて、夜でなけりゃ外へ出ない。隣の人たちにもどうも工合が悪い。おはまばかり以前にも増して一生懸命に同情しているけれど、向うが身上(しんしょう)がえいというので、仕度にも婚礼にも少なからぬ費用を投じたにかかわらず、四月(よつき)といられないで出て来た。それも身から出た(さび)というような始末だから一層兄夫婦に対して肩身が狭い。自分ばかりでなく母までが肩身狭がっている。平生(へいぜい)ごく人のよい省作のことゆえ、兄夫婦もそれほどつらく当たるわけではないが、省作自ら気が引けて小さくなっている。のっそり坊も、もうのっそりしていられない。省作もようやく人生の苦労ということを知りそめた。

 深田の方でも娘が意外の未練に引かされて、今一度親類の者を迎えにやろうかとの評議があったけれど、女親なる人がとても駄目(だめ)だからと言い切って、話はいよいよ離別と決定してしまった。

 上総(かずさ)は春が早い。人の見る所にも見ない所にも梅は盛りである。菜の花も咲きかけ、麦の青みも(しげ)りかけてきた、この頃の天気続き、毎日長閑(のどか)日和(ひより)である。森をもって(わか)つ村々、色をもって分つ田園、何もかもほんのり立ち渡る(かすみ)につつまれて、ことごとく春という一つの感じに統一されてる。

 (はる)かに聞ゆる九十九里(くじゅうくり)の波の音、夜から昼から間断なく、どうどうどうどうと穏やかな響きを霞の底に伝えている。九十九里の波はいつでも鳴ってる、ただ春の響きが人を動かす。九十九里付近一帯の村落に()い立ったものは、この波の音を(ただ)ちに春の音と感じている。秋の声ということばがあるが、九十九里一帯の地には秋の声はなくてただ春の音がある。

 人の心を穏やかに穏やかにと間断なく打ちなだめているかと思われるは、この九十九里の春の音である。幾千年の昔からこの春の音で打ちなだめられてきた上総(かずさ)下総(しもうさ)の人には、ほとんど沈痛な性質を欠いている。秋の声を知らない人に沈痛な趣味のありようがない。秋の声は知らないでただ春の音ばかり知ってる両総の人の粋は温良の二字によって説明される。

 省作はその温良な青年である。どうしたって省作を憎むのは憎む方が悪いとしか思われぬ。省作は到底春の人である。慚愧(ざんき)不安の境涯(きょうがい)にあってもなお悠々(ゆうゆう)迫らぬ趣がある。省作は泣いても春雨(はるさめ)の曇りであって雪気(ゆきげ)時雨(しぐれ)ではない。

 いやなことを言われて深田の家を出る時は、なんのという気で大手(おおで)を振って帰ってきた省作も、家に来てみると、家の人たちからはお前がよくないとばかり言われ、世間では意外に自分を冷笑し、自分がよくないから深田を追い出されたように(うわさ)をする。いつのまか自分でも妙に失態をやったような気になった。臆病(おくびょう)慚愧心(ざんきしん)が起こって、世間へ出るのが(いや)(たま)らぬ。省作の胸中は失意も憂愁もないのだけれど、周囲からやみ雲にそれがあるように取り扱われて、何となし世間と隔てられてしまった。それでわれ知らず日蔭者(ひかげもの)のように、七、八日奥座敷を出ずにいる。家の人たちも省作の心は判然(はっきり)とはわからないが、もう働いたらよかろうともえ言わないで好きにさしておく。

 この間におはまは小さな胸に苦労をしながら、おとよ(かた)に往復して二人(ふたり)の消息を取り次いだ。省作は長い長い二回の手紙を読み、切実でそうして明快なおとよが心線に触れたのである。

 (しお)れた草花が水を吸い上げて生気を得たごとく、省作は新たなる血潮が全身にみなぎるを覚えて、命が確実になった心持ちがするのである。

「失態も糸瓜(へちま)もない。世間の(やつ)らが何と言ったって……二人の幸福は二人で作る、二人の幸福は二人で作る、他人(ひと)の世話にはならない」

 こう独言(ひとりごと)を言いつつ省作は感に()えなくなって、()って座敷じゅうをうろうろ歩きをするのである。省作はもう腹の中の一切のとどこおりがとれてしまって、胸はちゃんと()まった。胸が定まれば元気はおのずから動く。

 翌朝省作は起こされずに早く起きた。

「おッ母さん仕事着は」

とどなる。

「ウム省作起きたか」

「あ、おッ母さん、もう働くよ」

「ウムどうぞま、そうしてくろや。お前に浮かぬ顔して引っ込んでいられると、おらな寿命が縮まるようだったわ」

 (なか)しきりの鏡戸(かがみど)に、ずんずん足音響かせてはや仕事着の兄がやってきた。

「ウン起きたか省作、えい加減にして土竜(もぐら)の芸当はやめろい。今日はな、種井(たねい)(さら)うから手伝え。くよくよするない、男らしくもねい」

 兄のことばの終わらぬうちに省作は素足で庭へ飛び降りた。

 彼岸がくれば籾種(もみだね)を種井の池に浸す。種浸す前に必ず種井の水を()みほして掃除(そうじ)をせねばならぬ。これはほとんどこの地の習慣で、一つの年中行事になってる。二月に入ればよい日を見て種井浚いをやる。その夜は茶飯(ちゃめし)ぐらいこしらえて酒の一升も買うときまってる。

 今日は珍しくおはま満蔵と兄と四人手揃(てぞろ)いで働いたから、家じゅう愉快に働いた。この晩兄はいつもより酒を過ごしてる。

「省作、今夜はお前も一杯やれい。おらこれでもお前に同情してるど、ウム人間はな、どんな事があっても元気をおとしちゃいけない、なんでも人間の事は元気一つのもんだよ」

(にい)さん、これでわたしだって元気があります」

「アハヽヽヽヽヽそうか、よし一杯つげ」

 省作も今日は例の穏やかな顔に活気がみちてるのだ。二つ三つ兄と杯を交換して、曇りのない笑いを(たた)えている。兄は省作の顔を見つめていたが、突然、

「省作、お前はな、おとよさんと一緒になると決心してしまえ」

 省作も兄の口からこの意外な言を聞いて、ちょっと返答に窮した。兄は語を進めて、

「こう言い出すからにゃおれも骨を折るつもりだど、ウン世間がやかましい……そんな事かまうもんか。おッ母さんもおきつも大反対だがな、隣の前が悪いとか、深田に対してはずかしいとかいうが、おれが思うにゃそれは足もとの遠慮というものだ。な、お前がこれから深田よりさらに財産のある所へ養子にいったところで、それだけでお前の仕合せを保証することはできないだろう。よせよせ、婿にゆくなんどいうばかな考えはよせ。はま公、今一本持ってこ」

 おはまは笑いながら、徳利を持って出た帰りしなに、そっと省作の肩をつねった。

「まあよく考えてみろ、おとよさんは少しぐらいの財産に替えられる女ではないど。そうだ、無論おとよさんの料簡(りょうけん)を聞いてみてからの事だ。今夜はこれで()めておく。とくと考えておけ」

 兄は見かけによらず(わか)った人であった。まだ若年な省作が、世間的に失敗した今の境遇を、兄は深く(あわれ)んだのである。省作の精神を大抵推知しながら先を越して弟に元気をつけたのである。省作は腹の中で、しみじみ兄の好意を謝した。省作は今が今まで、これほど解ってる人で、きっぱりとした決断力のある人とは思わなかった。省作はもう(うれ)しくて(たま)らない。だれが何と言ってもと心のうちで覚悟を()めていた所へ、兄からわが思いのとおりの事を言われたのだから嬉しいのがあたりまえだ。省作はあらん限りの力を出して平気を装うていたけれど、それでもおはまには妙な笑いをくれられた。省作は昨日の手紙によって今夜九時にはおとよの家の裏までゆく約束があるのである。

      三

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