1話 鍵から抜け出した女(1)
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黄風島にて
今夜こそ、かねて計画していたとおり、僕はこの恐ろしい精神病院を脱走しようと決心した。――
そもそも僕は、どうしてこの島の精神病院などに入れられるようなことになったのか、その訳を知らなかった。第一僕は、こんな島なんかに来たくなかったのだ。母親のお鳥に連れられ、内地をおさらばしてこの北国の黄風島に移住してきたのだが、なぜ母親があの気持のいい内地を去るような気持になったのか腑に落ちない。まさか母親お鳥は、僕をこの精神病院に入れるために、わざわざ内地を捨てて黄風島に来たわけでもあるまいと思うが……。
とにかくこれは夢ではないのだ。僕はいまたしかに精神病院の一室に監禁せられているのだ。入口の扉はこっちからはどうしても開かなかったし、また窓という窓には厳重な鉄格子が嵌っていた。そしてこの不潔な小室には、少年が二人まで同室しているのだった。
母親お鳥が今まで一度も僕をこんなところに入れると云ったことがない。母親と二人でこの島へ着いたときは、かねて内地で親しくしていた森虎造というおじさんが迎えに出てくれた。森おじさんは僕たちに向い、さぞお前たちは土地不案内で困るだろうし、また島にいま適当な家も空いていないことだから、とりあえず自分の邸にくるがいい。室を二つ三つ明けてあげるから当分それへ入っていて、ゆるゆる空家を探すのがいいだろうと親切に云ってくれた。それで僕たちは、島の斜面に建っている豪勢な洋館へ案内され、そこで三室ほど貸しあたえられた。なんでも森おじさんは、内地にいた頃とは違って、たいへん成功し、この島の中では飛ぶ鳥落とす勢力があり、何でもおじさんの思うとおりになるそうだ。
一と月あまり、それでも物珍らしく楽しい日を送ったが、或る日のこと、母親は下町へ行って、僕一人で留守番をしていたことがあった。僕は留守番というのがたいへん好きだった。実はすこし悪い病であるが、留守をしながら、いつもは手をつけては怒られるような戸棚の中や梱の底などをソッと明けてみるのが非常に楽しみだったのである。その日も留守を幸い、こっそり僕等の部屋を抜けだし、森おじさんの書斎へ忍びこんで、散々に秘密の楽しみを味わった後、そこにあった安楽椅子に豪然と凭れて、おじさん愛用の葉巻をプカプカやっていた。すると誰もいないと思っていた扉が急に開いて、その向うから突然四五人の詰襟服の男が現われ、僕の顔を見ると、
「ああ、此奴だ。こいつを連れてゆくのだ。それッ……」
と叫んだ。その声の下に、ドッと飛びこんできた詰襟服の一団は、有無をいわさず手どり足どり、僕を担ぎあげて、表に待たせてあった檻のような自動車の中に入れてしまった。僕はあまり思いがけない仕打ちに愕いて、大声で喚きたてたが、母親は不在だったし、それから生憎と森おじさんも留守だったので、誰も僕の味方になってくれる者もなく、結局僕を知らない連中は、あれが変なのかといわぬばかりに好奇の眼を輝かせて見送るばかりで、誰一人僕を助けてくれるものはなかった。そうして僕は、やすやすとこの精神病院に入れられてしまったのだった。
「僕は気が変じゃないぞ。早く母親を呼べ。――僕を変だと診断するのか。そんな院長こそ変だ!」
僕は腹立ちまぎれに、そんな風に怒鳴りちらした。だが、その結果は反ってよくなかった。僕はますます気が変のように見られ、しまいには自分自身でも、或いは僕は変になっているのじゃないかと錯覚を起こしたくらいだった。
はじめは腹が立って腹が立って、ろくろく飯も咽喉を通らなかったが、そのうち、いつとはなしに諦めの心ができて、乱暴することを控えるようになった。しかし監禁室の生活はとても退屈だった。思ってもみるがいい。三度の飯をたべる以外に何の仕事がある訳ではなく、本も新聞もないのだ。窓から外を見ようとすれば、塀が意地わるくふさいでいた。
この退屈な監禁室の生活に、ただ一つ僕を慰めてくれたものがあった。それはひそかに身に隠して置いた一個の鍵だった。それは実は森おじさんの戸棚にもぐりこんだとき、隅に落ちていたのを失敬したものであるが、極く昔、和蘭あたりで作られたものでないかと思うほど、古ぼけた珍らしい形の鍵だった。そしてもう一つ奇妙なことに、その鍵の握り輪の内側が、丁度若い女の横顔をくりぬいたような形になっていた。そこがたいへん僕の気に入って、無断で貰ってきたのだったが、その鍵だけは監視人の眼も胡魔化しおおせて、いまだに僕の手にあり、僕はそれを唯一の玩具――いや宝物として退屈きわまる毎日をわずかに慰めていたのだった。
その後、ついに会えないかと思った母親にも、また森おじさんにも、たった一度だけ会う機会があった。しかもそのときは二人揃って一緒に、この病室を訪れた。僕は天にも昇る悦びで、僕は気が変ではないから直ぐ出してくれるようにと熱心に頼んだのである。しかしどういうものか二人は僕の頼みにすぐには賛成してくれなかった。反って二人して僕に詰問するような態度で、
「ねえ準一や。お前はおじさんの室から、何か盗みだして持ってやしないかい。そうなら早くお返しするんだよ。でないと妾は困ってしまう……」
「北川君。そいつは何処に隠してあるんだか話してくれんか。教えてくれりゃ、なんとか早く癒って退院できるように骨を折ってみるが……」
といった。この唐突の話には面喰ってしまった。始めは一体なんのことを云っているのか分らなかったが、そのうちに、
(ハハア。ひょっとすると、これは横顔女の鍵のことを云っているのかしら?)
と気がついた。けれども僕はその鍵をどうしても渡す気になれなかった。鍵を渡した代償に、この病院を出すというが、それは嘘ッ八だということがよく読めた。それでは大損だった。それにもう一つ鍵を渡したくない理由があった。それは――それはちょっと言うのも恥かしい話であるが、実は僕はいつとなくこの鍵の握り輪のところに刻まれている横顔の婦人に恋のようなものを感じていたからだった。この世で一番大事な恋人を誰が人手に渡すものか!
そのことあって以来、僕は母親お鳥も森おじさんも一向頼りにならないことを知った。そしてこの上は何とかして、この恐ろしい精神病院を自力でもって逃げださねばならないと思った。
それから僕は、この困難な脱走の手を、あれやこれやと考えぬいた。そしてとうとう、これならうまくゆくに違いないという方法を発見したのだった。この上は、いい機会がくるのを待つばかりとなった――
さて今夜こそ、絶好のチャンスだった。今夜こそ、どうしても脱走を決行しなければならない。だがもし、その脱走が失敗に帰したとしたら、それこそ森おじさん――イヤ、これからはもうおじさんなんて呼ばないことにしよう――森虎造の掌中に握られているようなこの島の中のことだから、僕の生命は無いものと覚悟していなければならないだろう。
決死の脱走計画
僕が覘ったのは、この監禁室の入口の扉だった。
その扉は大きな鉄扉でできていた。壁は鉄筋の入った厚いコンクリートの壁だった。どっちもそのままでは破ることができない。
その鉄扉と壁体とは、外から大きな鉄の腕金が横に仆れて、堅固なつっぱりになる仕掛だった。その上、下ろされた腕金には逞しい錠前が懸るようになっていた。
いつも内部で気をつけていると、鉄の腕金の方は下ろされ、錠前の方は午後十一時の点検がすむとピチンと下ろされるが、それまではいつも外されていることが分った。すると結局扉の外の横になっている腕金だけ、縦にできさえすれば、この部屋から出られることになるのだが、室内からその腕金に手を届かせられるような都合のよいことにはなっていなかったし、その腕金を見ることもできなかった。それに腕金は端の方に、時計の振子を大きくしたような相当な錘りがついていたから、腕金を上げるのにかなり骨が折れた。――しかし結局、僕の覘いどころは、この腕金を監禁室の内部から外すことにあった。
脱走計画のことで、最初に僕を元気づけたものは、この扉のすぐ左側の壁の、その一番下のところに三寸四方ほどの四角い穴が切ってあることだった。これは空気抜けの穴でもあったし、また室内を水で洗浄するとき、その水の捌け口でもあった。この穴に手首を入れてみると、楽に入った。しかし腕の附け根まで入れてみても、手首は腕金にはとうてい届かない距離にあった。その距離は約二尺だった。もう二尺だけ手が長ければ腕金の錘りにとどいて腕金を起こすことができるのだが、人間の手がこの上二尺も長かったら、それは化物である。
しかし兎に角、問題は二尺の距離だった。もし二尺ばかりの棒切れが手許にありさえすれば、こいつを手に握って腕金の錘りにまで届かせることができるのだった。だが監禁室にはそんな棒切れは厳禁になっている。いや棒切れどころか、硬いものは釘一本小楊子一本でも許されないのだ。――遂にこの計画は実行ができないのであろうか。
ところが人間の知恵なんて恐ろしいもので、僕はとうとう二尺ばかりの棒切れを手に入れることができたのだった。といって監守を買収したのではない。だれの厄介にもならずに僕一人で二尺の棒切れを作りあげたのだった。
そういうと、僕がまるで手品でも使ったように聞えるが、――そうだ、これはやはり手品のうちかも知れない。とにかく僕は考えるところがあって、母親のところへ使を立て、腹をこわしているので朝と昼とはうどんを差入れてくれるように頼んでもらった。すると返事があって、監守が伝えた。
「オイ北川、悦んでいいぞ、これから朝昼二食はうどんを取ってやる。但しいつも一杯だけだぞ」
それから僕は二食をうどんにし、夕方だけ飯を食べた。本当は、別に腹をこわしているわけでもなく外に思わくがあったのだった。うどんを食べるには、必ず杉の割箸がついてくるが、僕は食べ終ると、これをポキンと二つに折って丼の中へ投げ込み、下げてもらった。が、実はそこに種があるのだった。箸は二つに折れて、丼の中に入っているようであったが、本当は僕はそれを三つに折り、両端の二つを丼の中に入れ、そして真中の部分をひそかに貯えはじめたのだった。だから二つに折れているものを継いでみると、箸の寸法が足りないことがすぐ分る筈だった。しかし監守は箸が二つに折れていることに安心して、寸法の足りないところまでに気がつかなかった。
辛抱に辛抱を重ねて、短い杉箸を集めていった僕は、もうよかろうというところに達した。こんどは方針をかえて、夕飯のときの御飯をすこしずつポケットに忍びこませた。そして監守が膳を下げ、身体を点検して帰ってしまうと、その飯をとりだして、練りあわせて練飯を作った。そしてよく練れた練飯でもって、杉箸の片を四方一束に貼りあわせ、且つ一本ずつ少しばかり端を不揃いにして置いて、だんだん先へ長く継いでいった。結局一と月かかったけれどこんな風にしてとうとう二尺あまりの丈夫な棒切れを作ることが出来た。幸いに隠し方がうまかったので、監守に見つからずに済んだ。これさえあればもうしめたものである。これを手にもって、例の四角な穴から外へだし、腕金の錘りをつきあげれば扉は開く筈だった。
あとは機会を待つだけのことだったが、いよいよ今夜は、待ちに待ったその夜だった。今夜からこの黄風島の夏祭りが始まるのだった。北国にも夏はあった。それは極めて短い夏であったが、それだけに一年中で夏は尊いのだった。島は現地の人といわず、日本人といわず、昼も夜ものべつ幕なしに、飲み歌い踊って暮すのだった。僕たちの監守にとっても、それはやはり尊い夏祭りの夜だったのである。
午後九時に、僕たちの部屋を二人の監守が見まわるのが常例になっていた。そのときは人員の点呼をし、健康状態がよいかどうかをたしかめた上、就寝させられることになっていた。
果してその夜も、常例の点呼が始まった。
「第四号室。――皆居るかア。――」
一人の監守は、室内に入ると扉の陰に立って入口を守り、もう一人の監守は、室の向うの隅こっちの隅でそれぞれ勝手なことをやっている患者の傍へいちいち行って、まるで郵便函の中の手紙を押すように身体を点検した。いつも裸になっている患者には、慣例によって西洋寝衣のようなものを被せた。――最初に監守は僕の傍へ近よったが、プーンとひどく酒くさかった。入口の監守はと見ると、扉につかまったまま、靴尖でコツコツと佐渡おけさを叩き鳴らしていた。
「皆、おとなしく、早く寝ちまうのだぞオ。――」
そういい置いて、二人の監守は室を出ていった。――靴音はだんだん遠のいて、次の室を明けるらしいガチャンガチャンという音が聞えてきた。僕はなおも五分間を待った。監守が鉤型に折れた向うの病棟へ廻るのを待つためだった。
いよいよ、時は熟した。
僕は煎餅蒲団の間から滑りだすと、大胆に行動を開始した。扉の上の欄間に隠してあった杉箸細工の棒切れをとりだすと、かねての手筈どおり、扉の下に腹匍い、棒切れをもった腕を空気穴から出して棒の先で壁を軽く叩きながら、腕金を探った。そんなことをしながらも、もしや廊下を誰かが通りかかって、この大胆な振舞を見られていやしないかと、外が見えぬ僕は、たいへん心配だった。
――棒の先にコツンと錘りが触った。それをコンコンと叩きながら、程よい真中あたりに見当をつけ、そこへ棒切れを押しつけた。僕の心臓はにわかに激しく高鳴った。さあ、巧くゆくか失敗するか、次の瞬間に決るのだ。
「うーン」
棒の先に、だんだんと力を籠めていった。ギイギイギイと腕金の錘りが浮きだした。僕はここぞと思ってあらん限りの力を出して腕をつっぱった。……
ビシリッ!
「失敗った。――」
と思ったときは、もう遅かった。杉箸細工の棒切れはもろくも折れて、腕は空を衝き、勢あまって頭を壁にガーンとぶっつけた。
生死の分岐点
そのときの僕の残念さといったら、口にも文字にもあらわせなかった。二月ばかり、並々ならぬ苦心をして、やっと作りあげた棒が、最後の舞台で脆くも折れてしまったのだから、その口惜しさといったらなんといってよいか、腸が熱くなるようであった。
僕は床の上から力なく起きあがった。運命の神はこんなにも意地悪なものかと慨きながら……。
僕は暫くジッと鉄扉を睨みつけていた。あの箸棒さえ折れなかったら、今ごろはこの扉がギイッと明いたのだ――と思いながら、指さきで鉄扉をちょんと弾いた。
「呀ッ。――」
僕は思わず大声で喚いた。なんという思いがけないことだろう。僕の指さきに籠めた僅かばかりの力で、城壁のように動かないと思っていた扉がギイッと音をたてて外へ開いたのだった。渓谷のような深い失望から、たちまち峻岳のように高い喜悦へ、――。
(そうだ。杉箸の棒は折れたけれど、折れる前に、扉の腕金をすっかり起していたのだ! 万歳)
僕は咄嗟の間に真相を悟った。
僕は喜びのあまり、すぐに扉の外へとびだした。そして気がついて背後をふりかえると、さっきから僕のすることを興味ぶかげに寄ってみていた同室の二人が、これも続いて室内から飛び出してこようとするところだった。
「うぬッ――」
僕はふりかえりざま、二人を室内に押し戻すと、鉄扉をピシャンと閉めてしまった。いま一緒に出られては、すぐ監守に見つかってしまう。それでは二ヶ月の苦心も水の泡だった。――押し戻された二人は、争って覗き穴のところから顔をつきだし、まるで獣のように咆えたてた。
僕は鉄扉の外から、腕金を横に仆して、もう誰も出られないようにした。そして暗い廊下の壁に身体をピタリとつけ、蜘蛛のように匍いながら出口の方へ進んだ。
出口には、とても頑丈な鉄格子があって、その真中が、鉄格子の扉になっていた。そしてその外に、監守の詰所があった。そこには灯があかあかと点っていた。
出口の鉄格子はピシャンと閉っていた。しかしその格子には、大きな錠前がついていながら、いつも錠が下りていないことを僕は予め知っていた。それは出入が頻繁なので、いちいち掛けておいたのではたいへん不便なせいであろう。
「あの関所さえ越せば……」
僕は幸いあたりに人のいないのを見澄すと、胸を躍らせて鉄格子の扉に近づいた。――果然今夜も鉄格子には錠が下りていなかった。
「しめた」
僕は鉄格子に手をかけると、ソッと押してみた。
ギギギギギイ。
鉄格子には狂いが来ているらしく、甲高い金属の擦れあう音がして、僕の肝を冷やりとさせた。
こいつはいけない! と思ったが、格子を開けなければ外へ出られない。僕は更に気をつけて、ソッと扉を押しつづけたが、それでもギギギギギイと鉄格子はきしんだ。監守詰所にいる人に、悟られなければよいが……。
「だッ、誰? 清田君か――」
と、突然詰所のうちから声がした。かなりアルコールが廻っているらしい声だった。僕は電気にひっかかったように、その場に震えだした。露見か?
「おウ……」
僕は大胆にも作り声をして返事をした。
「早くしろ、早く。出かけるのが遅くなるじゃないか。……」
「うむ――」
僕は鉄扉を開くと、スルリと外へ出た。そして腰をかがめて、詰所の窓下を通りぬけ、あとは廊下をなるべく音をたてずに疾走したのだった。
「なにをしとるんだ。――」
そのとき詰所の硝子窓がガラリと開いた。
「おい。……誰だ。呀ッ、逃げたなッ。――」
監守の怒号する声、――それにつづいて乱暴にも、ダダーン、ダダーンと拳銃の響き!
ヒューッ、ヒューッ――、廊下を飛ぶように走ってゆく僕の耳許を掠めて、銃丸がとおりすぎた。そして或る弾は、コンクリートの壁に一度当ってから、足許にゴロゴロ転がって来た。いま僕は生死の境に立っていた。無我夢中に、どこをどう突走ったか覚えがないが、建物の外へ出ると、真暗な庭にとびだし、それから、つきあたったところの高い塀にヤッと飛びついて、転がり落ちるように塀の外に落ちた。そのとき精神病院の塔の上で、ウーウーウーとサイレンが鳴りだしたのを聞いた。――僕はそれを後にして、ドンドンと祭の夜の灯の街の方へ逃げだしていった。
そのとき僕の服装は、病院の患者に支給される西洋寝衣だったので、ある橋の畔まで来たとき、それをすっかり脱いで、小脇に抱えて来た紙包を解いて予て用意の詰襟の学生服に着かえ、寝衣の方は紙包みにし、傍に落ちていた手頃の石を錘し代りに結び、河の中へドボーンと投げこんでしまった。そこで、どこから見ても、学生になりすましたのだった。僕は大威張りで、明るい灯の街へ入っていった。
夜の街は、沸きかえるような賑かさだった。両側の飲食店からは、絃歌の音がさんざめき、それに交って、どこの露地からも、異国情調の濃い胡弓の音や騒々しい銅鑼のぶったたくような音が響いて来た。色提灯を吊し、赤黄青のモールで飾りたてた家々の窓はいずれも開放され、その中には踊り且つ歌う人の取り乱した姿が見えた。また街路の上には、音頭を歌って手ふり足ふり、踊りあるく一団があるかと思うと、また横丁から大きな竜の作りものを多勢で担ぎ出してきて、道路を嘗めるように踊ってゆくのだった。
ラランラ、ララ……。
シャットシャット、ヨイヨイヨイ。
ヒョウヒョウヒョウヒョウ。
いろんな掛け声が、舗道から屋根の上へと狂気乱舞する。僕の心は脱走者であることさえ一時忘れ、群衆の熱狂にあおられ、だんだんと愉快な気持になっていった。
そんな好い気持になってきたのも、あまり長い間のことではなかった。
この歓楽の巷に、突如として響いて来たサイレンの音、――人々は回転の停った活動写真のように踊りの手をやめて、其の場に棒立ちになった。向うの大通りから、ヘッドライトをらんらんと輝かして自動車隊が闖入してきた。僕はツと壁ぎわに身を隠した。
「ああ――、静まれ、静まれ。いま重大な布告があるぞオ」
車上の男は、各国語で、同じことをペラペラと叫んだ。その車の奥を見ると、僕はギクリとした。そこには着飾った森おじ――ではない森虎造が落ちつかぬ顔をしながら、強いて反り身になって威厳を保とうとしているのだった。
「布告を読みあげる。――」と、森虎造の横に掛けていた金ピカの警務署長らしいのが立ち上った。
「先刻、精神病院から、凶悪な患者が脱走した。年齢は二十四歳、日本人で北川準一という男だ。背丈は一メートル六十、色の白い青年で、額の生え際に小さい傷跡がある。服装は、鼠色の寝衣風のズボンと上衣とをつけている。非常に凶悪な青年だから、放置しておいては危険千万である。注意を払って、見つけ次第逮捕するように。場合によっては、射殺するも已むを得ない。逮捕又は射殺者には銀二千ドルの賞金を与える。……」
僕は、自分で自分の逮捕布告を聞いた。銀二千ドルの生命か! その価値は高いとは云えなかったけれど、そんな賞金を出してまで逮捕――いや射殺までしようというのは何ごとか。僕はそんな恐ろしい人間なのだろうか。見ていると、これはどうやら、森虎造が賞金を出すのじゃないかと思われた。森虎は、亡き父の親友だと聞いていた。父が米国で死んだとき、それを当時東京に住んでいた僕たちに詳しく知らせてくれたのは、森のおじさんだった。またこの地へ、母のお鳥と僕とを心よく迎えてくれ、室まで僕たちに貸し与えてくれて好意を見せた森のおじさんだった。それが間もなく僕を苛酷に扱い、精神病院に入れたり、揚句の果は、僕を射殺しろとまで薦めている。……なんという恐ろしい変り方だ。……僕にはサッパリ理解ができないことだった。
賞金として銀二千ドル!
群衆は踊りのことも歌のことも、一時忘れてドッと歓声をあげた。
「畜生! お前らに掴まってたまるかい」
僕は建物の陰で拳をにぎり、ブルブルと身体を震わした。
そのときのことだった。
何者とも知れず、突然横合いから腕をグッと捉えた者があった。
「北川準一!」
失敗った! ハッと振りかえってみると、そこには結いたての島田髷に美しい振袖を着た美しい女が立っていて、僕の両腕の急所を、女とは思えぬ力でもってグッと締めつけているのだった。
絶体絶命! 僕はこの女のため、金に変えられて仕舞う運命なのだろうか?
秀蓮尼庵室