西湖の屍人

1話 西湖の屍人(1)

4,645字 約9分 2007年11月1日 公開

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     1

 銀座裏の酒場(バー)、サロン(ふね)を出たときには、二人とも、ひどく酩酊(めいてい)していた。

 私は私で、黄色い(まば)らな街燈に照らしだされた馴染(なじみ)の裏街が、まるで水の中に(つか)っているような気がしたし、帆村(ほむら)のやつは帆村のやつで、黒いソフトを名猿(めいえん)シドニーのように横ちょに被り、洋杖(ステッキ)がタンゴを踊りながら彼の長い二本の(すね)をひきずってゆくといった恰好(かっこう)だった。

 私はそれでも、ロマンチストだから(かま)わないようなものの、かれ帆村なるものは、商売が私立探偵ではないか。帽子の天頂(てっぺん)から靴の裏底まで、およそリアリズムであるべきだった。しかるに今夜、彼はそれ等の特徴を見事ふりおとして、身体中が(すき)だらけであるかのように見えた。もし彼に怨恨(うらみ)のある前科者(ぜんかもの)どもが、短刀逆手(さかで)に現われたとしたらどうするだろうと、私は気になって仕方がなかった。

 すると、背後から大声でもって、警告してやりたい程、矢鱈無性(やたらむしょう)に不安に襲われた。この嘔気(はきけ)のようにつきあげてくる不安は、あながち酩酊(めいてい)のせいばかりでは無いことはよく判っていた。近代の都市生活者の九十九パーセントまでが知らず識らずの間に(かか)っているといわれる強迫観念症(きょうはくかんねんしょう)仕業(しわざ)にちがいないのだ。

 帆村が蹣跚(よろ)めくのを追って、私が右にヨタヨタと寄ると、帆村は意地わるくそれと逆の左の方にヨロヨロと(かたむ)いてゆくのだった。銀座裏は時刻だから、いたずらに広々としたアスファルトの路面がのび、両側の家はヒッソリと寝しずまり、さまざまの形をした外燈が、半分夢を見ながら足許(あしもと)を照らしていた。

 酔っ払いにとって、四ツ(かど)至極(しごく)(なつか)しいものである。三間先のコンクリート壁体(へきたい)()めるようにして歩いていた帆村は、四ツ角を見付けると嬉しそうに両手をあげ、まるでゴールのテープを()るような恰好をして、蹣跚(よろ)けていった。そのとき私は後からそれを眺めていて、急にハッとしたのだった。

 ――その四ツ角へ、別の横丁から、おかしな奴がノコノコやってくる!

 その姿は、本当には薩張(さっぱ)り見えないのだ。それにも(かかわ)らず、見えない横丁に歩いている人間の姿が見えたような気がした。いや、矢張(やは)りハッキリと見えたのだ。それは不思議なようで、別に不思議はないことだ。私達のように永年(ながねん)都会に()んで、極度に神経を敏感以上、病的に(けず)られている者は、別に特殊な修練(しゅうれん)()ないでも、いつの間にか、ちょっとした透視(とうし)ぐらいは出来るようになっているのだった。これはいつも、そういう話の出たときに、私の言う話であるが、(こころ)みに諸君は身体の調子のよいときに、ポケットの懐中時計をソッと()のうちに握って、

(はて、いま何時何分かなァ――)

 と考えてみたまえ、すると目の前に、白い時計の文字盤が朦朧(もうろう)とあらわれ、短い針と長い針の傾きがアリアリと判るのだ。そうして置いて、(てのひら)を開き、本当の文字盤を見る。果然(かぜん)! 一分と(たが)わず二つは一致している――これでも諸君は信じないというか?

 四ツ角では、帆村ともう一人の黒い影とが、(もつ)れあっているのだった。

 私は、応援してやりたい気持一杯で、ペイブメントを蹴って駈けだしたのであるが、駈けるというよりは、泳ぐというに近かった。

「ぼぼぼ僕は、いいい生きているでしょうか」

 と帆村の前に立つ(あや)しの男が、熱心に(たず)ねている。

 帆村は、その男に胸倉(むなぐら)をとられたまま、

「ウウ、ううウ」

 と低く(うな)っているばかりだった。

「ちょいと、僕の身体を触ってみてください。この辺を触ってみて下さい」

 泣かんばかりに()の男は(わめ)くのであった。そして帆村を離すと、ベリベリと音をさせて、われとわがワイシャツを()きその間から(しかばね)のように青白い胸部を露出させた。私は、初めてその男の姿をマジマジと観察したのだったが、思ったよりは遙かに、若い男だった。年齢(とし)のころは二十四五でもあろうか。だが非常に憔悴(しょうすい)していた。皮膚には一滴の()()もなく下瞼(したまぶた)がブクリと(ふく)れて()(さが)り、大きな眼は乾魚(ひもの)のように光を失っていた。

「きみは、おおお面白いことを云う」帆村が口のあたりについている(よだれ)らしいものを手の甲で(ぬぐ)(なが)ら云うのであった。

「生きているかァ? ウンここにあるのは、きみィの胸ではないか、だッ」

 帆村は腰をかがめ、指先を自分の眼の前にチラチラふるわせて云った。

「では、僕の手を握ってください」

「よオし、握った」

 帆村はよろけながら、怪青年の手を()った。

「その手は、僕の身体に(つなが)っているでしょうか」

「ばば馬鹿なことを云いたまえ。ついていなくて、どうするものかッ」

「僕が(しゃべ)るときには、この唇が動いているでしょうか」

「なに、唇が……。パクン、パクンあいたり、しまったりしてるじゃねえか、こいつひと()めやがって」

 帆村は、気合(きあい)をかけると、

「ええいッ」

 と青年の頭をガーンと、どやしつけた。

 青年は痛そうな顔一つしない。

 が、彼はたちまち恐怖の色を浮べて(わめ)きだした。

「おお(にく)むべき幻影(げんえい)よ。わが前より消えてなくなれ。消えてなくなれ!」

 彼は両眼(りょうがん)をカッと見開き、この一見意味のない台辞(せりふ)()きちらしていたが(やが)てブルブルと身震(みぶる)いをすると、パッと身を(ひるがえ)して駈け出した。

「それッ、逃がすな!」

 と叫んだ帆村の声は、いつの間にか普段(ふだん)の、あの胸のすくような名調子に変っていた。

「よオし、(つかま)えてやる!」

 と私は呶鳴(どな)った。

(これは冗談ごとではなくて、なにか事件かもしれない)私の酔いは、やっと()めかかった。

 私は兵士のように身を(てい)して、怪青年の背後に追いすがった。右の(ひじ)をウンと伸すと、運よく彼の肩口に手が触れた。勇躍(ゆうやく)

「ヤッ!」

 と飛びかかった。

「無念!」

 ひっぱずされて(酒精(アルコール)(たた)りもあって)身体が宙にクルリと一回転した揚句(あげく)、イヤというほど腰骨(こしぼね)をうちつけた。じっと地面にのびているより(ほか)に仕方がなかった。帆村が勇敢にも私の身体を飛び越えて、追駈けていったのがぼんやりわかった。だが、こっちは全身がきかないのだ。どこに自分の腕があり、どこに自分の足があるのだか、皆目(かいもく)見当(けんとう)がつかなかった。気がついたのは――此際(このさい)呑気(のんき)な話であるが――なにかしら、馥郁(ふくいく)たる(におい)とでもいいたい(かおり)()の辺にすることだった。

麝香(じゃこう)というのは、こんな匂いじゃないかしら)

 そんな風なことを思いながら、夢をみているような気持だった。

 突然、意識が鮮明になった。朝霧が風に吹きとばされて、あたりが急に明るく晴れてゆくように……。

(こんなものを、頭から(かぶ)ってたじゃないか)

 私は、真黒い(ぬの)を、顔からとりのけて、上半身を起した。真黒い布と思ったのは、洋服の上衣(うわぎ)だった。

(そうだ。怪しい男を(つかま)えたっけが、彼奴(あいつ)の上衣なのだ!)

 (あや)しい(かおり)も、その上衣から発散することが判ってきた。それにしても、いい(にお)いだが、なんという異国情調的(エキゾティック)な香なんだろう。私の手は無意識に伸びて、その上衣のポケットを、まさぐっていた。

(おお、なんだか、入っているぞ!)

 (てのひら)に握れるほどの大きさのものだった。出してみた。()かしてみた。そして()でまわしてみた。何だか(びん)のようだ。

 突如! 近くで私の名を呼ぶ声がする。私はムックリ起上った。

 横丁をすりぬけて、飛鳥(ひちょう)のように駈出してゆく人影! やッ、彼奴(あいつ)だ! 彼奴が引返してきたのだ!

 そのあとからバラバラと追ってきたのは、帆村(ほむら)だった。

「元気をだせ! 走れ、早く!」

 と帆村は私の方に投げつけるように叫んで、怪人物の跡を追った。そのあとから、真夜中ながら弥次馬(やじうま)のおしよせてくる気配(けはい)がした。私は弥次馬に追越されたくなかったので、驀地(まっしぐら)に駈けだした。今度は大丈夫走れるぞと思った。

 その鼠のような怪青年は、目にとまらぬ速さで逃げまわった。街燈が黄色い光を斜になげかけている町角をヒョイと曲るたびに、

「ソレあすこだ!」

 と、怪青年の黒影(こくえい)が、ぱッと目に入るだけだった。私達と弥次馬とは、ずっと間隔(かんかく)ができてしまった。そして、いつの間にか、(まる)(うち)()りの、(ほり)ちかくまで来ているのに気がついた。

「あッ、しめた。袋小路(ふくろこうじ)へ入ったぞ。彼奴(あいつ)が、ひっかえしてくるところを(おさ)えるんだッ」

 帆村の声に、私は最後の五分間的な力走(りきそう)をつづけた。果然(かぜん)その袋小路の入口へきた。

「待て!」

 帆村は、その入口に忍びよると、倒れるように地に()ってそッと下の方から、袋小路をのぞきこんだ。

 三十秒、四十秒、五十秒、帆村は動かない。

 三分も()ってから、帆村は塵を払って立ちあがった。彼は私の耳許で(ささや)いた。

 コートの(えり)を立て、巻煙草を口にくわえた酔漢(すいかん)が二人、腕を組みあって、ノッシ、ノッシと、袋小路に(まぎ)れこんだ――勿論、帆村と私とだった。

 その袋小路は、ものの五十メートルとなかった。両側に三軒ずつの家があった。右側は、みな仕舞屋(しもたや)ばかりで、すでに戸を締めている。左側は表通りと連続して、古い煉瓦建の三階建があって、カフェをやっているらしく、ほの暗い入口が見える。その奥は、がっちりした和風建築の二階家で、これも戸が閉まっている。この袋小路のつきあたりは、お(ほり)だった。

 そんなわけで、起きているのはカフェばかりだった。

 私達は、カフェ・ドラゴンとネオンサインで書かれてある入口を(のぞ)いてみた。

「まア、いい御気嫌(ごきげん)ね、ホホッ」

 誰も居ないと思った入口の、造花(ぞうか)の蔭に女がいた。僕は帆村の腕をキュッと握りしめて緊張した。

「君、君ンとこは、まだ飲ませるだろうな」

「モチよ、よってらっしゃい」

「おいきた。友達甲斐(がい)に、もう一軒だけ、つきあってくんろ、いいかッ」

 帆村が、私の顔の前で、酔払(よっぱら)いらしくグニャリとした手首をふった。私にはその意味がすぐわかったのだった。

 入口へ入ろうとすると、

「おッとっとッ」

 急に帆村は、私の腕をもいで、つかつかとお濠端(ほりばた)まででると、前をまくって、シャーシャー音をたてて小便をした。帆村のやつ、小便にかこつけて、お濠の形勢を(うかが)っていることは、私にはよく判った。

 入ってみると、そこは何の変哲(へんてつ)もないカフェだった。広いと思ったのは、表だけで、莫迦(ばか)奥行(おくゆき)のない家だった。帆村は先登(せんとう)に立って、ノコノコ三階まで上った。各階に客は四五人ずついたが、私達の探している相手らしいものの姿は、どこにも見当らなかった。

「なに召上って?」

 入口にいた女給が、三階までついてきた。

「ビールだ。で、君の名前は?」

「マリ子って、いうわ、どうぞよろしく」

 イートン・クロップのお河童頭(かっぱあたま)がよく似合う子だった。前髪が、切長(きれなが)(すず)しい眼とスレスレのところまで()れていた。なによりも可愛いのは、その、発育しきらないような(あご)だった。

「おいマリちゃん」すかさず帆村が、彼女の名を呼んだ。「ここ、特別室(スペシャル・ルーム)があるんだろう。地下室か、なんかに、そこへ案内しろよ」

「地下室なんて、ないわよ。この三階がスペシャルなんじゃないの、ホホッ」

 と、やりかえして、マリ子は下へ降りていった。

 煙草の箱を探そうと思ってポケットへつきこんだ指先に、カチリと硬い物が当ったので、私は思いだした。

「おい、戦利品(せんりひん)だ」私は、帆村の脇腹(わきっぱら)をつついて置いてから例の男の上衣(うわぎ)から失敬したものを、卓子(テーブル)の下にソッと取り出した。

「なんだか、薬壜(くすりびん)のようだネ」万事(ばんじ)了解(りょうかい)したらしい様子の帆村が、低声(こごえ)で云った。

「レッテルが貼ってある。ボラギノール」と私は(かろ)うじて、薬の名を読んだ。

「ボラギノールって、()の薬じゃないか」

 帆村は、謎々(なぞなぞ)新題(しんだい)にぶつかったような顔付をして、一寸(ちょっと)首を曲げた。

 そこへマリ子がバタバタ階段をあがってくる気配がしたので、私は帆村に、あとを聞いてみる余裕もなく、その薬壜をまた元のポケットに(しま)いこんだ。

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