1話 露萩(1)
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「これは槙さん入らっしゃい。」
「今晩は――大した景気ですね。」
「お化に景気も妙ですが、おもいのほか人が集りましたよ。」
最近の事である。……今夜の怪談会の幹事の一人に、白尾と云うのが知己だから槙を別間に迎えながら、
「かねがね聞いております。何時も、この会を催しますのに、故とらしく、凄味、不気味の趣向をしますと、病人が出来たり、怪我があったりすると言います――また全くらしゅうございますからね。蒟蒻を廊下へ敷いたり、生大根の片腕を紅殻で落したり、芋で蛇を捩り下げたり、一切そんな悪戯はしない事にしたんですよ。ですが、婦人だけも随分の人数です。中には怪談を聞く人でなくて、見るつもりで来ているのも少からずと言った形ですから、唯ほんの景ぶつ、口上ばかりに、植込を向うへ引込んだ離座敷に、一寸看板を出しました――百もの語にはつきものですが、あとで、一人ずつ順に其処へ行って、記念の署名をと云った都合なんで、勿論、夜が更けましてから……」
――この時もう十一時を過ぎていた。槙真三が、旅館兼料理屋の、この郊外の緑軒を志して、便宜で電車を下りた時は、真夏だと言うのに、もう四辺が寂寞していたのであった。
「……尤も、行儀よく一人ずつ行くのではありません。いずれ乱脈でしょうから、いまのうち凄い処――ははは、凄くもありますまいが、ひとつ御覧なすって、何うぞまた、何かと御注意、御助言を下さいまし。」
「御注意も何もありませんが、拝見をさして頂きましょう」
「さ、何うぞ此方へ。」
――後で芳町のだと聞いた、若い芸妓が二人、馴染で給仕をして、いま頃夕飯を、……ちょうど茶をつがせて箸を置いた。何う見ても化ものには縁の遠そうな幹事の白尾が、ここで立つと、「あら、兄さん、私も。」「私も。」と取りつくのを、「お前さんたちはあとにおし。」で、袖を突いて、幹事室を出るのに、真三は続いた。
催はまだはじまっていない。客は会場の広室に溢れ、帳場にこぼれ、廊下に流れて、わやわやとざわめく中を、よけるようにして通って、一つ折曲る処で、家内総出で折詰の支度に料理場、台所を取乱したのを視ながら、また一つ細く成る廊下を縫うと、其処にも、此処にも、二三人、四五人ずつは男、女が往来う、彳む。何しろ暑いので、誰も吹ぬけの縁を慕うのであった。
「では、此処から庭へ――」
「あれですか。」
真三は、この料亭へは初めてだったし、夜である。何の樹とも知らないが、これが呼びものの、門口に森を控えて、庭の茂は暗いまで、星に濃く、燈に青く、白露に艶かである。その幹深く枝々を透して、ぼーッと煤色に浸んだ燈は、影のように障子を映して、其処に行燈の灯れたのが遠くから認められた。
二枚か、四枚か。……半ばは葉の陰にかくれたが、亭ごのみの茶座敷らしい。障子を一枚細目に開けてあるのが、縦に黒く見えて、薄か、蘆か揺ぐにつれて、この催とて、思いなしか、長く髪の毛の動くような色が添った。
「下駄があります、薄暗うございますから。」
「やあ、きみじゃったな、……先刻のは。――」
縁のすぐ傍に居て、ぐるりと毛脛を捲ったなりで、真三に声を掛けたものがある。言つきで、軍人の猛者か、田舎出の紳士かと思われるが、そうでない。赭ら顔で一分刈の大坊主、六十近いが、でっぷり膏肥がしたのに酒気をさえ帯びている。講中なんぞの揃らしい、目に立つ浴衣に、萌葱博多の幅狭な帯をちょっきり結びで、二つ提げ淀屋ごのみの煙草入をぶらつかせ、はだけにはだけた胸から襟へ、少々誇張だけれど、嬰児の拳ほどある、木の実だか、貝殻だか、赤く塗った大粒を、ごつごつごつと、素ばらしい珠数を掛けた。まくり手には、鉄の如意かと思う、……しかも握太にして、丈一尺ばかりの木棍を、異様に削りまわした――憚なく申すことを許さるるならば、髣髴として、陽形なるを構えている。
――槙真三は、ここへ来る、停車場を下りた処で、実は一度、この大坊主に出会った。居処は違ったらしいが、おなじ電車から、一歩おくれて、のっしのっしと出たのである。――馴切った、土地の人らしいのが三四人、おりると直ぐに散ったほかは、おなじ向きに緑軒へ志すらしいものの影も見えなかった。思いのほかで。……夜あかしだと聞く怪談には、この時刻が出盛りで、村祭の畷ぐらいは人足が落合うだろう。俥も並んでいるだろう、……は大あて違い。ただの一台も見当らない。前の広場も暗かった。
改札口を出たまでで、人に聞かぬと、東西を心得ぬ、立淀んで猶予う処へ、顕われたのが大坊主で、
「やあ、君。」
と、陣笠なりの汚れくさったパナマを仰向けて、
「緑軒の連中じゃあないかな――俺も此処ははじめてだ。乗った電車から戻り気味に、逆に踏切を一つ越すッてこッたで、構わずその方角へ遣つけよう。……半分寝ている煙草屋なんぞで道を訊くのもごうはらだからな。」
真三は連立った。
「化ものの会じゃあねえか、気のきかねえ。人魂でも白張提灯でも、ふわりふわり出迎えに来れば可い。誰だと思う、べらぼうめ。はッはッはッ。」
最う微酔のいい機嫌で、
「――俺は浅草の棍元教と言う、新に教を立てた宗門の先達だよ。……あとで一説法刎ねかすが。――何せい、この一喝を啖わすから、出て来た処で人魂も白張も、ぽしゃぽしゃは、ぽしゃぽしゃだ。」
と、そいつが斑剥だが真赤に朱で塗ってある――件の木棍で掌をドカンと敲いた。
真三は、この膏濃い入道は、処も、浅草だと言う……むかしの志道軒とかの流を汲む、慢心した講釈家かなんぞであろうと思った。
会場へ着いて、帳場までは一所だったが、居合せたこの幹事に誘われて、そして彼は別室へ。
「ええ、先刻は……彼処に、一寸した、つくりものがあるんだそうです。」
「うむ、御趣向かい。見ものだろう。見ぶつするかな。……わい。」
どしんと縁へ尻餅を搗いた。
「苔が、辷る。庭下駄の端緒が切れていやあがる。危えじゃねえか。や、ほかに履きものはがあせんな。はてね。」
「お気をつけなさいまし。」
それなり行こうとした幹事の白尾を、脛を投出したまま呼留めた。
「気をつけねえじゃいられねえや――もし、徽章を着けていなさるからには世話人だね、肝煎だね。この百二三十も頭数のある処へ、庭へ上り下りをするなり、その拵えものを見に行くなりに、お前さんたちが穿いて二足、緒の切れた奴が一足、たった三足。……何、二足片足しかねえと云うのは何う云う理合のもんだね。」
「何うも相済みません。ですが、唯今は、ほんのこれは内々の下見なので。……後に御披露の上、皆さんにおいでを願う筈に成っています。しかし、それとても、五人十人御一所では……甚だ幼稚な考えかも知れませんが、何の凄味も、おもしろみもありません。……お一人、せいぜいお二人ぐらいずつと思いまして、はきものの数は用意をしません。庭を御散歩なさいますなら、下足をお取りに成って……御自由に。――」
「あら、一人ずつで行くの、可恐いわね。」
と、傍ぎきして、連らしいのに、そう云った頸の白い女がある。
「何が可恐いものか。へん、俺がついてる。」
その連でもないのに、坊主は腕まくりをして、陽木棍で膝を敲いて出しゃ張った。
「坊主、一言もありませんな。」
植込を低う抜けながら、真三が言った。その槙だが、いまの弁解を聞くまでは、おなじく、この人数に、はきもののその数は、と思ったのだそうである。
処が、
「いいえ、出たらめに遣ッつけましたがね、……ハッと思いましたよ。まったくの処不行届きだったんです。……あれではとても足りません。何てッたって、どうせ大勢でしょうから、大急ぎで草履でも買わせて間に合せる事にしなければなりますまい。」
――で、後にその草履の用意は出来た。変化、妖怪、幽霊、怨念の夜だからと言って、そのために裾、足の事にこだわるのではないのだが、夜半に、はきものの数さえ多ければ、何事もなかったろう。……多人数が一所だから。処が、庭はじとじとしている。秋立って七日あまりも過ぎたから、夜露も深い。……人の出あしは留めなかったが、日暮方、町には薄い夕立があった、それがこの辺はどしゃ降りに降ったと言う。停車場からの窪地は道を拾うほど濡れていた。しかも植込の下である。草履は履く時からべっとりして、踏出すとぐっしょりに成る。納涼がてらの催だが、遠出をかけて、かえりは夜があけるのだから、いずれも相応めかしていて、羽織、足袋穿が多かった。またその足袋を脱ぐのが、怪しい仕掛のあると云う、寮構へ踏込むのに、人住まぬ空屋以上に不気味だから、無造作に草履ばきでは下立たないで、余程ものずきなのが、下駄のあくのを待って一人、二人ずつでないと、怪しい席へ入らなかった、――そのために事が起ったのである。
さて、濡縁なりで、じかに障子を、その細目にあけた処へ、裾がこぼれて、袖垣の糸薄にかかるばかり、四畳半一杯の古蚊帳である。
「……ゆきかえりに、潜らせようッてつもりですが、まあ、あとで中を御覧なさい。」
そう言って、幹事の白尾は、さらさらと蚊帳を押しながら、壁を背高く摺って、次の室へ抜けて行く。……続くと、一燭の電燈、――これも行燈にしたかったと言う――朦朧として、茄子の牛が踞ったような耳盥が黒く一つ、真中に。……青く錆びたわたしを掛けて、鉄漿壺を載せ、羽毛楊枝が渡してある。……横斜に、立枠の台に、円形の姿見を据えた。壺には念入りに鉄漿を充してあるので、極熱の気に蒸れて、かびたような、すえたような臭気が湧く。
「巫女の言ぐさではありませんが、(からのかがみ)と云った方が、真個は、ここに配合が可いのですが、探した処で磨がないでは、それだと顔がうつりません。――いろいろ凄い話を聞いて、ここへ来て、ひょいと覗く。……こう映ると……」
首を伸ばした白尾に釣られて、斉しく伸ばした頸を、思わず引込めて真三は縮まった。
「我ながら気味が悪かろうと言ったつもりなんで。……真夜中の事ですからね。――その窓際の机に向って署名となると、是非ここが気に成るように斜違に立てました。――帳面がございます。葬礼の控のように逆とじなどと言う悪はしてありませんから、何なら、初筆を一つ……」
「いや、いずれ。」
と云って、真三は立って覗いた。丸窓の小障子は外れていて、外に竹藪のある中に、ハアト形にどんよりと、あだ蒼い影が、ねばねばと、鱗形に溶けそうに脈を打って光っている。
「仕掛ものですよ。」
「蒟蒻。」
「いえ、生烏賊で。」
いきれにいきれて、腥く、暖くプンと臭って来る。おはぐろのともつれ合って、何とも言えない。……それで吐き戻したものがあった。――
床の間には、写で見て知っている、応挙の美女の幽霊が、おなじく写して掛っていた。これは、長崎の廓で、京から稚い時かどわかされた娘に、癆の死際に逢って、応挙があわれな面影を、ただそのままに写生したと言う伝説の添った絵なのである。目のきれの長い、まつげの濃い、下ぶくれの優しい顔が、かりそめに伝うる幽霊のように、脱落骨立などしているのでない。心もちほどは窶れたが卯の毛ほどの疵もなく、肩に乱れた黒髪をその卯の花の白く分けて、寂しそうにうっとりして、しごき帯の結びめの堆いのに、却って肌のかぼそさがあらわれて、乳のあたりはふっくりと艶である。大きく描いて、半身で、何にもなしにつッと、軸の宙で消えている。
香炉に線香を立てて、床に短刀が一口あった。
「魔よけだと申しますから、かたがた。……では蚊帳の中を一つ。……あとでは隔へ襖を入れますつもりです。」
敷居からすぐに潜ったが、唯、見る目も涼しく、桔梗の藍が露に浮く、女郎花に影がさす、秋草模様の絽縮緬をふわりと掛けて、白のシイツを柔に敷いた。桃色の小枕ふっくりと媚かしいのに、白々と塔婆が一基(釈玉)――とだけ薄りと読まれるのを、面影に露呈に枕させた。頭に捌いて、字にはらはらと黒髪は、髢を三房ばかり房りと合せたのである。ぬしありやまた新に調えたか、それは知らない、ただ黒髪の気をうけて、枕紙の真新しいのに、ずるずると女の油が浸んでいた。
「あの行燈には苦心しました。第一、金が出ています。」
と笑いながら、
「古さと言い、煤け工合、鼠の巣のようなぼろぼろの破れ加減を御覧下さい。……四谷怪談にも使うのを、そのままで小道具から借出しました。浅草でしてね。俳優の男衆が運んだんですが、市電にも省線にも、まさか此奴は持込めません。――ずうと俥で通しですよ。」
「自動車も大袈裟となりますと、持ものに依っては、電車では気がさしますし、そうなると俥です。……」
と、ふと、もの思う状に、うっかりした様子で真三が言った。
「私も、――昨年ですが、塔婆を持って、遠道を乗った事があるんです。……」
「へい、貴方が塔婆を……」
と、古行燈の目を移して、槙の顔と枕を見た。視たが、
「おや、塔婆が真白だ。」
と、熟と白尾が瞳を寄せ、頬を摺るばかりおかしく傾いて鼻できいて、
「白粉だ。――誰か悪戯に塗ったと見えます。ちょッ馬鹿な……御覧なさい、薄化粧ですぜ。この様子じゃ、――信女……とある処へ、紅をさしたかも知れません。」
「はあ、この塔婆は、婦人のですか。」
問う声も何となくぼんやりする。そのわけで……枕の色も、閨の姿も、これは、一定さもあるべきを、うかうか聞くのであったから。
「勿論です――何処か、近まわりの墓地から都合をするように、私たちで、此家のうちへ頼んだんですが、それには、はなから婦人のをと云う註文でしたよ。」
さらぬだに、魔の行燈と、怨霊の灯と、蚊帳の色に、鬱し沈んだ真三の顔を、ふと窺いつつ、
「尤も、無縁なのを、……それに、成りたけ、折れたか、損じたかしたのをと誂えたんです。――見ましたがね、この塔婆は、随分雨露に曝されたと見えて、半分に折れていました。……」
「で、婦人だと分りましたか。」
「確です、(信女――)尤も、ささくれてはいましたが。――何か、貴方?……」
「いいえ。」
と、ややはっきりして、
「何でもありません……唯、此処へ来ます道に、線路の踏切がありましょう。……停車場から此方は、途中真暗でした。あの踏切のさきの処に、一軒氷屋がまだ寝ないでいましたが、水提灯が一つ、暗くついただけ、暖簾は掛ばなしで、誰も人は居ないのです。檐下に、白と茶の大きな斑犬が一頭、ぐたりと寝ていました。――あの大坊主と道づれでしたが。……彼奴、あの調子だから、遠慮なしに店口で喚いて、寝惚声をした女に方角をききましたっけ。――出かかると、寝ていた犬がのそりと起きて、来かかる先へ、のすんです。――私は大嫌ですがね――(犬が道案内をするぞ、大先達の威力はどうだ。)ッて坊主は得意でいました。踏切がこんもりと、草の中に乾いた川のように、こう高く土手を築いた処で、その、不性たらしい斑が、急に背筋に畝を打って狂って飛上るんです。何だか銜えて、がりがり噛りながら狂うんですよ。越すのに邪魔だから、畜生畜生!……呶鳴ると、急にのろりとして、のさのさと伸びた草の中へ潜りました。あとにその銜えたものが落ちています。――(宝ものかと思えば、何だ、塔婆の折端を。)一度拾ったのを、そう言って、坊主が投出す――ああ、草の中へでも隠したら、と私が思ううちに、向うへ投ったもんですから、斑犬がぬいと出て、引銜えると、ふッと駈けて、踏切むこうへ。……もう氷屋の灯の届かない処へ消えたんですが。(何の塔婆ぐらい。……犬に骨を食わせるも悟だぜ。――また説いて聞かせよう。……だが、見ねえな、よみじ見たいな暗がりの路を、塔婆の折を銜えた処は犬の身骸が半分人間に成ったようだ。三世相じゃあねえ、よく地獄の絵にある奴だ。白斑の四足で、面が人間よ。中でも婦のは変な気味合だ。轆轤首は処女だが、畜生道は、得て眉毛をおとしたのっぺりした年増だもんだな、業しな。)……私は可厭な心持で、聞かない振をして黙りこくって連立って来たんですが――この塔婆も、折れたんだとお話しですから、ふと……何だか、踏切の、あの半分じゃあないかと云うような気がするんです。」
「怪談怪談。」
幹事は陽気に軽く手を拍って、
「そのお話を、是非一つ、会場の広間で願いましょう。少々、蛇体を加えて、ここに胴から上、踏切の尾の方と言うような事になれば実ものです。ねえ、槙さん。」
塔婆が青い。びくびくと蚊帳が揺れた。
「ええ、飛んでもない。」
「何、そのかわり楽屋では何でもない事――幾らもあります事です。第一この塔婆だって、束にして、麁朶、枯葉と一所に、位牌堂うらの壁際に突込んであったなかから、(信女)をあてに引抜いて来たッてね、下足の若い衆が言っていました。折れたのも挫げたのも、いくらも散らかっているんですよ。」
真三は、それでも引入れられそうに黙ったが、
「――(釈玉――)とだけ、あとは、白い撫子を含んだように友染の襟にかくれていますが、あなたは、そのあとを御存じでしょうかしら。」
「……見ました、下は、……香――です。――(釈玉香信女)です。確に、……何ですか、一つまくってお目にかかるとしますかね。」
真三は、手を圧えるように犇と留めた。
「串戯にも、女の字へ、紅をつけたろうなぞッてお話でした。塔婆は包んでありません。婦人の裸もおなじです。」
幹事は、世情に通じて、ものの分った人である。
「ああ、よくお留め下さいました。――決してこの蒲団はまくりますまい。――が、何か、貴方、お気になさる事があるんですか。」
「さあ、いいえ。」
「が、それでも。」
「戒名に、一寸似たのがあるんでしてね。」
「いや、それは。それならお気になさいますな、なさらぬが可うございます。この宗門の戒名には、おなじのがふんだんですよ。……特に女のは、こう云う処で申しては如何だけれど、現に私の家内の母と祖母とは戒名がおなじです。坊さん何を慌てたんだか、おまけにそれが、……式亭三馬の浮世床の中にあります。八百屋のお柚の(釈縁応信女。)――喧嘩にもならず、こまっちまいます。」
寂しい声だが、二人で笑った。
「さ、その気であちらへ参りましょうか。」
「いずれ悉しいお話を。」
「あ、蚊帳から何か出ましたかね。」
真三はゾッとした。が、何にも見えない。
「……小さな影法師のようなものが。」
「私たちの影でしょう。」
と、行燈の左右に立って、思わず四辺が《みま》わされた。
「槙さん。」
「は、」
「あなたは、おはぐろの煮える音は御存じでありますまいね。お互に時代が違いますが、何ですか、それ、じ、じ、じ……」
「虫ですかしら……油が煮えるのでしょう。」
幹事は耳を澄したが、
「いえ、行燈の灯は動きません。……はてな、おはぐろを嘗める音かしらん。」
「…………」
「それもお互に知りませんな――ああ、ひたひたと、何の音だか。」
「ああ。」
「あれだ。」
殆ど同時に声を合せた。次の六畳の真中の、耳盥から湧くように、ひらひらと黒い影が、鉄漿壺を上下に二三度伝った。黒蜻蛉である。かねつけ蜻蛉が、ふわふわと、その時立ったが、蚊帳に、ひき誘われたようにふわりと寄ると、思いなしか、中すいて、塔婆に映って、白粉をちらりと染めると、唇かと見えて、すっと糸を引くように、櫺子の丸窓を竹深く消えたのである。
幽霊の掛軸は、直線を引いて並んだ。行燈の左右のこの二人の位置からは見えない。が、白い顔の動いたような気勢がした。