グレゴール・メンデル

2話 メンデルの生涯

2,136字 約4分 2018年7月20日 公開

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 メンデルの名はグレゴール・ヨハンと()うのですが、一八二一年の七月二十二日にオーストリーのシュレジーエンにあるごく小さな村ハインツェンドルフで生まれました。家は農家でありましたが、中学に当るギムナジウムを卒業してから、ブリュンという(ところ)にある僧院で神学教育を受け、それを終えて一八四七年にそこの僧院の司祭となりました。そしてそれでともかく一人前の僧侶となったのですが、メンデルにはそのような僧職がどうも十分には気が向かないように感ぜられました。それで何か学問を(おさ)めたいという心が(しき)りに起って来たので、(つい)に決心を定めて、一八五一年にオーストリーの首都であるヴィーンに(おもむ)き、そこの大学に入って、数学、物理学、および博物学を熱心に学びました。メンデルは、この時もはや三十歳にもなっているので、普通の学生とは年齢の上でもちがうわけですが、ひたすら学問を(おさ)めたいという心から、一生懸命に勉強したのでした。そして三年の後に、大学を卒業してから、一八五四年にもとのブリュンの町に帰り、そこで()る実科学校の教師となりました。

 ブリュンの町に戻るとなると、僧侶の職の方も勤めないわけにはゆかないので、それは以前のように行っていましたが、大学で(おさ)めた博物学に大いに興味を感じていたので、それからは僧院のなかに自分でいろいろの動物を飼ったり、また植物を栽培して、それらをこまかく観察することを楽しみとしました。そしてその間に遺伝の問題に不思議を感じ、これを実験して見ようと思い立ったのです。

 僧院の庭はさほど広くもなかったのですが、それでも六十坪ほどの土地を利用して、豌豆(えんどう)を栽培して見ました。そして豌豆(えんどう)のいろいろな種類の間に交配を行うと、どんな雑種ができるかを、一々しらべて見ました。メンデルはこの実験を八年間もつづけて行ったということです。そしてその結果が一通りわかって来たので、一八六五年にブリュンの博物学会の会合の席で、これを発表し、その翌年にはこの学会の記要に「雑種植物の研究」という題で、論文を(おおや)けにしました。これが遺伝の法則を始めて明らかにした大切な論文なのです。この外に、メンデルは柳やたんぽぽのような植物についても、また蜜蜂や(ねずみ)などの動物についてもそれぞれ交配を行わせて遺伝の研究をつづけて居ました。

 このようにしてブリュンの僧院には一八六八年まで十五年間を過ごしましたがこの年に僧正の職についたので、その後は自分の研究を進めるだけの暇がなくなってしまったのは、メンデルにとっては遺憾のことであったのでしょう。それにメンデルのそれ(まで)の研究についても、今日でこそそれの重大な意味を誰しもが認めているのですが、その頃の人々には一向に顧みられず、そのままに見過ごされていたのでした。これは()わばメンデルだけが時代に先んじてもいたので、やむを得ないことでもあったのでしょうが、やはり彼にとっては残念な次第でもあったわけです。ところが、そればかりではなく、僧正の職についてその仕事を忠実に行って来たのはよかったにしても、その頃政府が特別の税金をこの僧院に課したので、これを不当であるとしてメンデルは政府と争い、いかにしてもこれに屈しなかったということです。これは一八七二年頃のことでありましたが、その後いろいろと好ましからぬ出来事にであい、もともと快活でもあり友情も並みはずれて深かった性格にまでも影響して、だんだんに世人を嫌うようになったとも()われています。そして一八八四年の一月六日に腎臓炎をわずらって歿くなりました。

 メンデルの研究は、かくて世間からは全く知られずに、その後も久しく埋もれていましたが、それがようやく見つけ出されたのは一九〇〇年のことで、メンデルがブリュンの学界でこれを発表してから、実に三十五年も経ってからのことでした。

 どうしてメンデルの研究がこのとき発見されたかと()いますと、それにはおもしろい話があるのです。ちょうどその頃同じく遺伝について研究していた三人の学者がありました。それは、ドイツのコレンス、オーストリーのツェルマック、およびオランダのド・フリースであります。この人たちの研究の結果がそれぞれ学会で発表されてみると、ふしぎにもそれらが互いに一致しているので、これは確かな事がらであるとして認められるようになったのでしたが、そうなると、同じ事がらを研究した学者が以前にもありはしなかったかと()うことが、学界の話題となりました。そして古い論文をしらべてゆくうちに、メンデルの研究が見つけ出されたのです。そしてすでに三十五年も前に、メンデルが立派に同じ結果を出して居て、(かつ)それを詳しく説明していることまで、すっかりわかったのでした。それでこれをメンデルの法則と(たた)えるようになったのです。メンデルはつまりこのような事を何も知らないで、歿くなったのでしたが、学問の上の仕事は、それが正しければ、立派に残っていて、いつかは見つけ出されて、その偉大な栄誉をになうことのできるものであるということが、この一事によってもみごとに証拠立てられるのです。かくてメンデルは、たとえ不遇のうちに歿したとしても、その名は、科学の歴史の上に限りなく燦然(さんぜん)と輝くことでもありましょう。

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