侏儒の言葉

3話 侏儒の言葉(3)

8,977字 約18分 1999年1月13日 公開

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 或新時代の評論家は「蝟集(いしゅう)する」と云う意味に「門前雀羅(じゃくら)を張る」の成語を用いた。「門前雀羅を張る」の成語は支那人の作ったものである。それを日本人の用うるのに必ずしも支那人の用法を踏襲しなければならぬと云う法はない。もし通用さえするならば、たとえば、「彼女の頬笑(ほほえ)みは門前雀羅を張るようだった」と形容しても好い(はず)である。

 もし通用さえするならば、――万事はこの不可思議なる「通用」の上に懸っている。たとえば「わたくし小説」もそうではないか? Ich-Roman と云う意味は一人称を用いた小説である。必ずしもその「わたくし」なるものは作家自身と定まってはいない。が、日本の「わたくし」小説は常にその「わたくし」なるものを作家自身とする小説である。いや、時には作家自身の閲歴談と見られたが最後、三人称を用いた小説さえ「わたくし」小説と呼ばれているらしい。これは勿論独逸人(ドイツじん)の――或は全西洋人の用法を無視した新例である。しかし全能なる「通用」はこの新例に生命を与えた。「門前雀羅を張る」の成語もいつかはこれと同じように意外の新例を生ずるかも知れない。

 すると或評論家は特に学識に乏しかったのではない。(ただ)(いささ)か時流の外に新例を求むるのに急だったのである。その評論家の揶揄(やゆ)を受けたのは、――兎に角あらゆる先覚者は常に薄命に甘んじなければならぬ。

   制限

 天才もそれぞれ乗り越え難い或制限に拘束されている。その制限を発見することは多少の寂しさを与えぬこともない。が、それはいつの間にか(かえ)って親しみを与えるものである。丁度竹は竹であり、(つた)は蔦である事を知ったように。

   火星

 火星の住民の有無を問うことは我我の五感に感ずることの出来る住民の有無を問うことである。しかし生命は必ずしも我我の五感に感ずることの出来る条件を(そな)えるとは限っていない。もし火星の住民も我我の五感を超越した存在を保っているとすれば、彼等の一群は今夜も亦篠懸(すずかけ)を黄ばませる秋風と共に銀座へ来ているかも知れないのである。

   Blanqui の夢

 宇宙の大は無限である。が、宇宙を造るものは六十幾つかの元素である。是等(これら)の元素の結合は如何に多数を極めたとしても、畢竟(ひっきょう)有限を脱することは出来ない。すると是等の元素から無限大の宇宙を造る為には、あらゆる結合を試みる外にも、その又あらゆる結合を無限に反覆して行かなければならぬ。して見れば我我の棲息(せいそく)する地球も、――是等の結合の一つたる地球も太陽系中の一惑星に限らず、無限に存在している(はず)である。この地球上のナポレオンはマレンゴオの戦に大勝を博した。が、茫々(ぼうぼう)たる大虚に浮んだ他の地球上のナポレオンは同じマレンゴオの戦に大敗を(こうむ)っているかも知れない。……

 これは六十七歳のブランキの夢みた宇宙観である。議論の是非は問う所ではない。(ただ)ブランキは牢獄(ろうごく)の中にこう云う夢をペンにした時、あらゆる革命に絶望していた。このことだけは今日もなお何か我我の心の底へ()み渡る寂しさを蓄えている。夢は既に地上から去った。我我も慰めを求める為には何万億(マイル)の天上へ、――宇宙の夜に懸った第二の地球へ輝かしい夢を移さなければならぬ。

   庸才

 庸才(ようさい)の作品は大作にもせよ、必ず窓のない部屋に似ている。人生の展望は少しも利かない。

   機智

 機智とは三段論法を欠いた思想であり、彼等の所謂(いわゆる)「思想」とは思想を欠いた三段論法である。

   又

 機智に対する嫌悪の念は人類の疲労に根ざしている。

   政治家

 政治家の我我素人よりも政治上の知識を誇り得るのは紛紛たる事実の知識だけである。畢竟某党の某首領はどう言う帽子をかぶっているかと言うのと大差のない知識ばかりである。

   又

 所謂「床屋政治家」とはこう言う知識のない政治家である。()()れ識見を論ずれば必ずしも政治家に劣るものではない。(かつ)又利害を超越した情熱に富んでいることは常に政治家よりも高尚である。

   事実

 しかし紛紛たる事実の知識は常に民衆の愛するものである。彼等の最も知りたいのは愛とは何かと言うことではない。クリストは私生児かどうかと言うことである。

   武者修業

 わたしは従来武者修業とは四方の剣客と手合せをし、武技を磨くものだと思っていた。が、今になって見ると、実は己ほど強いものの余り天下にいないことを発見する為にするものだった。――宮本武蔵伝読後。

   ユウゴオ

 全フランスを(おお)う一片のパン。しかもバタはどう考えても、余りたっぷりはついていない。

   ドストエフスキイ

 ドストエフスキイの小説はあらゆる戯画に()()ちている。(もっと)もその又戯画の大半は悪魔をも憂鬱(ゆううつ)にするに違いない。

   フロオベル

 フロオベルのわたしに教えたものは美しい退屈もあると言うことである。

   モオパスサン

 モオパスサンは氷に似ている。尤も時には氷砂糖にも似ている。

   ポオ

 ポオはスフィンクスを作る前に解剖学を研究した。ポオの後代を震駭(しんがい)した秘密はこの研究に潜んでいる。

   森鴎外

 畢竟鴎外先生は軍服に剣を下げた希臘人(ギリシアじん)である。

   或資本家の論理

「芸術家の芸術を売るのも、わたしの(かに)鑵詰(かんづ)めを売るのも、格別変りのある筈はない。しかし芸術家は芸術と言えば、天下の宝のように思っている。ああ言う芸術家の(ひそ)みに(なら)えば、わたしも亦一鑵六十銭の蟹の鑵詰めを自慢しなければならぬ。不肖行年六十一、まだ一度も芸術家のように莫迦莫迦(ばかばか)しい己惚(うぬぼ)れを起したことはない。」

   批評学

    ――佐佐木茂索君に――

 或天気の好い午前である。博士に化けた Mephistopheles は或大学の講壇に批評学の講義をしていた。尤もこの批評学は Kant の Kritik や何かではない。(ただ)如何に小説や戯曲の批評をするかと言う学問である。

「諸君、先週わたしの申し上げた所は御理解になったかと思いますから、今日は更に一歩進んだ『半肯定論法』のことを申し上げます。『半肯定論法』とは何かと申すと、これは読んで字の通り、或作品の芸術的価値を半ば肯定する論法であります。しかしその『半ば』なるものは『より悪い半ば』でなければなりません。『より善い半ば』を肯定することは(すこぶ)るこの論法には危険であります。

「たとえば日本の桜の花の上にこの論法を用いて御覧なさい。桜の花の『より善い半ば』は色や形の美しさであります。けれどもこの論法を用うるためには『より善い半ば』よりも『より悪い半ば』――即ち桜の花の(にお)いを肯定しなければなりません。つまり『匂いは正にある。が、畢竟それだけだ』と断案を下してしまうのであります。若し又万一『より悪い半ば』の代りに『より善い半ば』を肯定したとすれば、どう言う破綻(はたん)を生じますか? 『色や形は正に美しい。が、畢竟(ひっきょう)それだけだ』――これでは少しも桜の花を(けな)したことにはなりません。

勿論(もちろん)批評学の問題は如何に或小説や戯曲を貶すかと言うことに関しています。しかしこれは今更のように申し上げる必要はありますまい。

「ではこの『より善い半ば』や『より悪い半ば』は何を標準に区別しますか? こう言う問題を解決する為には、これも度たび申し上げた価値論へ(さかのぼ)らなければなりません。価値は古来信ぜられたように作品そのものの中にある訳ではない、作品を鑑賞する我我の心の中にあるものであります。すると『より善い半ば』や『より悪い半ば』は我我の心を標準に、――或は一時代の民衆の何を愛するかを標準に区別しなければなりません。

「たとえば今日の民衆は日本風の草花を愛しません。即ち日本風の草花は悪いものであります。又今日の民衆はブラジル珈琲を愛しています。即ちブラジル珈琲は善いものに違いありません。或作品の芸術的価値の『より善い半ば』や『より悪い半ば』も当然こう言う例のように区別しなければなりません。

「この標準を用いずに、美とか真とか善とか言う他の標準を求めるのは最も滑稽(こっけい)な時代錯誤であります。諸君は赤らんだ麦藁帽(むぎわらぼう)のように旧時代を捨てなければなりません。善悪は好悪を超越しない、好悪は即ち善悪である、愛憎は即ち善悪である、――これは『半肯定論法』に限らず、(いやし)くも批評学に志した諸君の忘れてはならぬ法則であります。

(さて)『半肯定論法』とは大体上の通りでありますが、最後に御注意を促したいのは『それだけだ』と言う言葉であります。この『それだけだ』と言う言葉は是非使わなければなりません。第一『それだけだ』と言う以上、『それ』即ち『より悪い半ば』を肯定していることは確かであります。しかし又第二に『それ』以外のものを否定していることも確かであります。即ち『それだけだ』と言う言葉は(すこぶ)る一揚一抑の趣に富んでいると申さなければなりません。が、更に微妙なことには第三に『それ』の芸術的価値さえ、隠約の間に否定しています。勿論否定していると言っても、なぜ否定するかと言うことは説明も何もしていません。(ただ)言外に否定している、――これはこの『それだけだ』と言う言葉の最も著しい特色であります。(けん)にして(かい)、肯定にして否定とは正に『それだけだ』の(いい)でありましょう。

「この『半肯定論法』は『全否定論法』或は『木に()って魚を求むる論法』よりも信用を博し易いかと思います。『全否定論法』或は『木に縁って魚を求むる論法』とは先週申し上げた通りでありますが、念の為めにざっと繰り返すと、或作品の芸術的価値をその芸術的価値そのものにより、全部否定する論法であります。たとえば或悲劇の芸術的価値を否定するのに、悲惨、不快、憂欝(ゆううつ)等の非難を加える事と思えばよろしい。又この非難を逆に用い、幸福、愉快、軽妙等を欠いていると(ののし)ってもかまいません。一名『木に縁って魚を求むる論法』と申すのは後に挙げた場合を指したのであります。『全否定論法』或は『木に縁って魚を求むる論法』は痛快を極めている代りに、時には偏頗(へんぱ)の疑いを招かないとも限りません。しかし『半肯定論法』は()(かく)或作品の芸術的価値を半ばは認めているのでありますから、容易に公平の看を与え得るのであります。

()いては演習の題目に佐佐木茂索氏の新著『春の外套(がいとう)』を出しますから、来週までに佐佐木氏の作品へ『半肯定論法』を加えて来て下さい。(この時若い聴講生が一人、「先生、『全否定論法』を加えてはいけませんか?」と質問する)いや、『全否定論法』を加えることは少くとも当分の間は見合せなければなりません。佐佐木氏は兎に角声名のある新進作家でありますから、やはり『半肯定論法』位を加えるのに限ると思います。……」

    * * * * *

 一週間たった後、最高点を採った答案は下に掲げる通りである。

「正に器用には書いている。が、畢竟それだけだ。」

   親子

 親は子供を養育するのに適しているかどうかは疑問である。成種牛馬は親の為に養育されるのに違いない。しかし自然の名のもとにこの旧習の弁護するのは確かに親の我儘(わがまま)である。()し自然の名のもとに如何なる旧習も弁護出来るならば、まず我我は未開人種の掠奪(りゃくだつ)結婚を弁護しなければならぬ。

   又

 子供に対する母親の愛は最も利己心のない愛である。が、利己心のない愛は必ずしも子供の養育に最も適したものではない。この愛の子供に与える影響は――少くとも影響の大半は暴君にするか、弱者にするかである。

   又

 人生の悲劇の第一幕は親子となったことにはじまっている。

   又

 古来如何に大勢の親はこう言う言葉を繰り返したであろう。――「わたしは畢竟失敗者だった。しかしこの子だけは成功させなければならぬ。」

   可能

 我々はしたいことの出来るものではない。只出来ることをするものである。これは我我個人ばかりではない。我我の社会も同じことである。恐らくは神も希望通りにこの世界を造ることは出来なかったであろう。

   ムアアの言葉

 ジョオジ・ムアアは「我死せる自己の備忘録」の中にこう言う言葉を挟んでいる。――「偉大なる画家は名前を入れる場所をちゃんと心得ているものである。又決して同じ所に二度と名前を入れぬものである。」

 勿論「決して同じ所に二度と名前を入れぬこと」は如何なる画家にも不可能である。しかしこれは(とが)めずとも好い。わたしの意外に感じたのは「偉大なる画家は名前を入れる場所をちゃんと心得ている」と言う言葉である。東洋の画家には(いま)(かつ)落款(らくかん)の場所を軽視したるものはない。落款の場所に注意せよなどと言うのは陳套語(ちんとうご)である。それを特筆するムアアを思うと、(そぞ)ろに東西の差を感ぜざるを得ない。

   大作

 大作を傑作と混同するものは確かに鑑賞上の物質主義である。大作は手間賃の問題にすぎない。わたしはミケル・アンジェロの「最後の審判」の壁画よりも(はる)かに六十何歳かのレムブラントの自画像を愛している。

   わたしの愛する作品

 わたしの愛する作品は、――文芸上の作品は畢竟作家の人間を感ずることの出来る作品である。人間を――頭脳と心臓と官能とを一人前に(そな)えた人間を。しかし不幸にも大抵の作家はどれか一つを欠いた片輪である。((もっと)も時には偉大なる片輪に敬服することもない(わけ)ではない。)

   「虹霓関」を見て

 男の女を猟するのではない。女の男を猟するのである。――ショウは「人と超人と」の中にこの事実を戯曲化した。しかしこれを戯曲化したものは必しもショウにはじまるのではない。わたくしは梅蘭芳(メイランファン)の「虹霓関(こうげいかん)」を見、支那にも既にこの事実に注目した戯曲家のあるのを知った。のみならず「戯考」は「虹霓関」の外にも、女の男を(とら)えるのに孫呉の兵機と剣戟(けんげき)とを用いた幾多の物語を伝えている。

董家山(とうかざん)」の女主人公金蓮、「轅門斬子(えんもんざんし)」の女主人公桂英、「双鎖山(そうさざん)」の女主人公金定等は(ことごとく)こう言う女傑である。更に「馬上縁」の女主人公梨花を見れば彼女の愛する少年将軍を馬上に(とりこ)にするばかりではない。彼の妻にすまぬと言うのを無理に結婚してしまうのである。胡適(こてき)氏はわたしにこう言った。――「わたしは『四進士』を除きさえすれば、全京劇の価値を否定したい。」しかし是等の京劇は少くとも甚だ哲学的である。哲学者胡適氏はこの価値の前に多少氏の雷霆(らいてい)の怒を和げる(わけ)には行かないであろうか?

   経験

 経験ばかりにたよるのは消化力を考えずに食物ばかりにたよるものである。同時に又経験を(いたず)らにしない能力ばかりにたよるのもやはり食物を考えずに消化力ばかりにたよるものである。

   アキレス

 希臘(ギリシア)の英雄アキレスは(かかと)だけ不死身ではなかったそうである。――即ちアキレスを知る為にはアキレスの踵を知らなければならぬ。

   芸術家の幸福

 最も幸福な芸術家は晩年に名声を得る芸術家である。国木田独歩もそれを思えば、必しも不幸な芸術家ではない。

   好人物

 女は常に好人物を夫に持ちたがるものではない。しかし男は好人物を常に友だちに持ちたがるものである。

   又

 好人物は何よりも先に天上の神に似たものである。第一に歓喜を語るのに好い。第二に不平を訴えるのに好い。第三に――いてもいないでも好い。

   罪

「その罪を憎んでその人を憎まず」とは(かならず)しも行うに難いことではない。大抵の子は大抵の親にちゃんとこの格言を実行している。

   桃李

桃李(とうり)言わざれども、下(おのずか)(けい)を成す」とは確かに知者の言である。(もっと)も「桃李言わざれども」ではない。実は「桃李言わざれば」である。

   偉大

 民衆は人格や事業の偉大に籠絡(ろうらく)されることを愛するものである。が、偉大に直面することは有史以来愛したことはない。

   広告

侏儒(しゅじゅ)の言葉」十二月号の「佐佐木茂索君の為に」は佐佐木君を(けな)したのではありません。佐佐木君を認めない批評家を(あざけ)ったものであります。こう言うことを広告するのは「文芸春秋」の読者の頭脳を軽蔑(けいべつ)することになるのかも知れません。しかし実際或批評家は佐佐木君を貶したものと思いこんでいたそうであります。(かつ)又この批評家の亜流も少くないように聞き及びました。その為に一言広告します。尤もこれを公にするのはわたくしの発意ではありません。実は先輩里見(さとみとん)君の煽動(せんどう)によった結果であります。どうかこの広告に憤る読者は里見君に非難を加えて下さい。「侏儒の言葉」の作者。

   追加広告

 前掲の広告中、「里見君に非難を加えて下さい」と言ったのは勿論(もちろん)わたしの常談(じょうだん)であります。実際は非難を加えずともよろしい。わたしは或批評家の代表する一団の天才に敬服した余り、どうも多少ふだんよりも神経質になったようであります。同上

   再追加広告

 前掲の追加広告中、「或批評家の代表する一団の天才に敬服した」と言うのは勿論反語と言うものであります。同上

   芸術

 画力は三百年、書力は五百年、文章の力は千古無窮とは王世貞(おうせいてい)の言う所である。しかし敦煌(とんこう)の発掘品等に徴すれば、書画は五百年を(けみ)した後にも依然として力を保っているらしい。のみならず文章も千古無窮に力を保つかどうかは疑問である。観念も時の支配の外に超然としていることの出来るものではない。我我の祖先は「神」と言う言葉に衣冠束帯の人物を髣髴(ほうふつ)していた。しかし我我は同じ言葉に(ひげ)の長い西洋人を髣髴している。これはひとり神に限らず、何ごとにも起り得るものと思わなければならぬ。

   又

 わたしはいつか東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)の似顔画を見たことを覚えている。その画中の人物は緑いろの光琳波(こうりんは)を描いた扇面を胸に開いていた。それは全体の色彩の効果を強めているのに違いなかった。が、廓大鏡(かくだいきょう)(のぞ)いて見ると、緑いろをしているのは緑青(ろくしょう)を生じた金いろだった。わたしはこの一枚の写楽に美しさを感じたのは事実である。けれどもわたしの感じたのは写楽の(とら)えた美しさと異っていたのも事実である。こう言う変化は文章の上にもやはり起るものと思わなければならぬ。

   又

 芸術も女と同じことである。最も美しく見える為には一時代の精神的雰囲気或は流行に包まれなければならぬ。

   又

 のみならず芸術は空間的にもやはり(くびき)を負わされている。一国民の芸術を愛する為には一国民の生活を知らなければならぬ。東禅寺に浪士の襲撃を受けた英吉利(イギリス)の特命全権公使サア・ルサアフォオド・オルコックは我我日本人の音楽にも騒音を感ずる(ばか)りだった。彼の「日本に於ける三年間」はこう言う一節を含んでいる。――「我我は坂を登る途中、ナイティンゲエルの声に近い(うぐいす)の声を耳にした。日本人は鶯に歌を教えたと言うことである。それは()しほんとうとすれば、驚くべきことに違いない。元来日本人は音楽と言うものを自ら教えることも知らないのであるから。」(第二巻第二十九章)

   天才

 天才とは(わず)かに我我と一歩を隔てたもののことである。(ただ)この一歩を理解する為には百里の半ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ。

   又

 天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。同時代は常にこの一歩の千里であることを理解しない。後代は又この千里の一歩であることに盲目である。同時代はその為に天才を殺した。後代は又その為に天才の前に香を()いている。

   又

 民衆も天才を認めることに(やぶさ)かであるとは信じ難い。しかしその認めかたは常に(すこぶ)滑稽(こっけい)である。

   又

 天才の悲劇は「小ぢんまりした、居心の好い名声」を与えられることである。

   又

 耶蘇(やそ)「我笛吹けども、汝等(なんじら)踊らず。」

 彼等「我等踊れども、汝足らわず。」

 我我は如何なる場合にも、我我の利益を擁護せぬものに「清き一票」を投ずる(はず)はない。この「我我の利益」の代りに「天下の利益」を置き換えるのは全共和制度の《うそ》である。このだけはソヴィエットの治下にも消滅せぬものと思わなければならぬ。

   又

 一体になった二つの観念を採り、その接触点を吟味すれば、諸君は如何に多数のに養われているかを発見するであろう。あらゆる成語はこの故に常に一つの問題である。

   又

 我我の社会に合理的外観を与えるものは実はその不合理の――その余りに甚しい不合理の為ではないであろうか?

   レニン

 わたしの最も驚いたのはレニンの余りに当り前の英雄だったことである。

   賭博

 偶然即ち神と闘うものは常に神秘的威厳に満ちている。賭博者(とばくしゃ)も亦この例に()れない。

   又

 古来賭博に熱中した厭世(えんせい)主義者のないことは如何に賭博の人生に酷似しているかを示すものである。

   又

 法律の賭博を禁ずるのは賭博に()る富の分配法そのものを非とする為ではない。実は(ただ)その経済的ディレッタンティズムを非とする為である。

   懐疑主義

 懐疑主義も一つの信念の上に、――疑うことは疑わぬと言う信念の上に立つものである。成程それは矛盾かも知れない。しかし懐疑主義は同時に又少しも信念の上に立たぬ哲学のあることをも疑うものである。

   正直

 若し正直になるとすれば、我我は(たちま)ち何びとも正直になられぬことを見出すであろう。この故に我我は正直になることに不安を感ぜずにはいられぬのである。

   虚偽

 わたしは或つきを知っていた。彼女は誰よりも幸福だった。が、余りにの巧みだった為にほんとうのことを話している時さえをついているとしか思われなかった。それだけは確かに誰の目にも彼女の悲劇に違いなかった。

   又

 わたしも亦あらゆる芸術家のように(むし)ろには巧みだった。が、いつも彼女には一籌(いっちゅう)()する外はなかった。彼女は実に去年のをも五分前ののように覚えていた。

   又

 わたしは不幸にも知っている。時にはに依る外は語られぬ真実もあることを。

   諸君

 諸君は青年の芸術の為に堕落することを恐れている。しかしまず安心し給え。諸君ほどは容易に堕落しない。

   又

 諸君は芸術の国民を毒することを恐れている。しかしまず安心し給え。少くとも諸君を毒することは絶対に芸術には不可能である。二千年来芸術の魅力を理解せぬ諸君を毒することは。

   忍従

 忍従はロマンティックな卑屈である。

   企図

 成すことは必しも困難ではない。が、欲することは常に困難である。少くとも成すに足ることを欲するのは。

   又

 彼等の大小を知らんとするものは彼等の成したことに依り、彼等の成さんとしたことを見なければならぬ。

   兵卒

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