浮かぶ飛行島

1話 浮かぶ飛行島(1)

9,105字 約18分 2005年6月2日 公開

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   川上機関大尉の酒壜

 わが練習艦隊須磨、明石の二艦は、欧州訪問の旅をおえて、いまやその帰航の途にあった。

 印度を出て、馬来(マレー)半島とスマトラ島の間のマラッカ海峡を東へ出ると、そこは馬来半島の南端シンガポールである。大英帝国が東洋方面を睨みつけるために築いた、最大の軍港と要塞とがあるところだ。

 そのシンガポールの港を出ると、それまでは東へ進むとはいえ、ひどく南下航路をとっていたのが、ここで一転して、ぐーっと北に向く。

 そこから、次の寄港地の香港まで、ざっと三千キロメートルの遠方である。その間の南北にわだかまる大海洋こそ、南シナ海である。

 練習艦隊はシンガポールを出てからすでに三昼夜、いま丁度北緯十度の線を横ぎろうとしているところだから、これで南シナ海のほぼ中央あたりに達したわけである。

 カレンダーは四月六日で、赤紙の日曜日となっている。

 夜に入っても気温はそれほど下らず、艦内は蒸風呂のような暑さだ。

 この物語は、二番艦明石の艦内において始る。――

 天井の低い通路を、頭をぶっつけそうにして背の高い逞しい士官が、日本酒の壜詰を下げてとことこ歩いてゆく。汐焼した顔は、赤銅色(しゃくどういろ)だ。彼は歩きながら、エヘンと咳払(せきばらい)をした。

 士官は、ある一つの私室の前で足をとめた。そして大きな拳固をふりあげて、こつこつと案外やさしく(ドア)を叩く。

「おう、誰か」

 と内側から大きな声がする。

 訪問の士官は、ちょっと緊張したが、やがて硬ばった顔をほぐして、

「俺だ。川上機関大尉だ。ちょっと邪魔をするがいいかい」

 するといきなり(ドア)が内側にぽかりと開いて、

「なんだ、貴様か。いつもに似ず、いやに他人行儀の挨拶をやったりするもんだから、どうしたのかと思った。おう、早く入れ」

「はっはっはっはっ」

 のっぽの川上機関大尉は笑いながら、ぬっと室内に入る。

「おい長谷部。これを持ってきた」

 と、酒壜を眼の前へさし出せば、長谷部大尉は眼をみはり、

「やあ、百キロ焼夷弾か。そいつは強勢だ。まあ、それへ掛けろ」

 長谷部大尉は、上はシャツ一枚で、狭いベッドの上にあぐらをかく。川上機関大尉は椅子にどっかと腰を下した。

 二人は同期の候補生だった。そして今も同じ練習艦明石乗組だ。

 もっとも兵科は違っていて、背高のっぽの川上大尉は機関科に属しており、長谷部大尉は第三分隊長で、砲を預かっていた。

「これでやるか、――」

 と長谷部大尉は、バスケットから九谷焼の小さい湯呑と、オランダで土産に買った硝子(ガラス)のコップとをとりだす。

「ええ(さかな)は――と」

 といえば、川上機関大尉は、

「肴は持ってきた」

 といいながら、ポケットから乾燥豚の缶詰をひっぱり出した。

「いよう、何から何まで整っているな。おい川上、今日は貴様の誕生日――じゃないが、何か、ああ――つまり貴様の祝日なんだろう」

「うん、まあその祝日ということにして、さあ一杯ゆこう」

「やあ、いよいよ焼夷弾を腹へおとすか。わっはっはっはっ」

 二人は汗をふきながら、生温かい故国の酒をくみかわすのであった。

   南シナ海の怪物

 しばらくすると、二人の若い士官は、どっちも真赤になってしまった。

「なあおい長谷部。貴様と俺とは、昔から不思議にどこへでもくっついて暮すなあ」

「うん、そうだ。血は分けていないが、本当の兄弟とよりも、貴様とこうやって一緒に暮している月日の方が長いね。なんしろ小学校時代からだからねえ」

「これまで、よく貴様に厄介をかけたなあ」

 と、川上は急にしんみりいう。

「厄介をかけたり、かけられたりさ。これが本当の腐れ縁だ。はっはっはっ。貴様は今夜どうかしとるぞ。さあ元気を出せ。持ってきた酒を空にしてみせろ」

 と、長谷部大尉は、また酒をなみなみと友のコップの中に注いで、

「おい川上、そういえば報告を聞いたろうが、明日はいよいよ海上に面白いものを見られるぞ」

 と、話題をかえる。

「うん、あの飛行島のことかい」

「そうだ、飛行島だ。こいつはこんどの遠洋航海中随一の見物だぞ」

 明日は見られるという飛行島!

 それは広い広い海の真只中に作られた飛行場だった。もちろんその飛行場は、水面に浮かんでいるのだった。沢山の丈夫な錨によって海底へつながっているから、どんな風浪にもびくともしない。

 大きさは、ドイツの大飛行船ヒットラー号よりも何十メートルか大きいというから、東京駅がそのまま載って、まだ両端へ百メートルずつ出るという長い滑走路を造るのだそうだ。

 この飛行島は、目下建造中である。

 南北及び東西の航空路の安全をはかるため、特に南シナ海の真中に、飛石のように置いた不時着飛行場で、これさえあれば、その両航空路はどんなに安全さを加えるかしれないというのだ。

 そのために、飛行島株式会社というのが出来て、南シナ海をとりまく諸国――つまり英国が主となり、仏国、米国、オランダ、暹羅(シャム)、中国の諸国を表面上の株主として、莫大な建造費を出しているのだった。工費は、おどろくなかれ千五百万ポンドというから、日本の金に直して、約二億五千万円となる。なんにしても、凄いものである。

 この大工事を引きうける会社をつのったところ、入札の結果、それは英国のトレント船渠(ドック)工場会社に落ちた。だから南シナ海へのりだして海中作業をやっているのは英国系の技師だった。その大工事に、いま働いている人員は三千人というおどろくべき数に達していた。三千人といえば、その毎日の食料品を考えてみただけでも大変な費用だった。

 いまや世界中がおどろきの眼をあつめているこの飛行島が見られるというのだから、わが須磨明石二艦に乗組んでいる血の気の多い士官候補生たちにとっても、明日という日がどんなにか待たれていた。

 その時川上機関大尉は、コップの酒をぐっとのみほして、長谷部大尉にさしながら、

「おい、貴様は今から飛行島にすっかり呑まれてしまっとるようだが、なぜあんなところに飛行島をこしらえたか知っとるか。どうだ、長谷部」

 一方は九谷焼で酒をうけながら、

「ははあ、また貴様の口頭試問がはじまったな。俺は飛行島を少しも気にしていないよ。ただ築造中の飛行島を見て、ちょっと驚きたいと思っているばかりさ。それとも貴様はなにか、あの飛行島をこしらえるわけをくわしく知らにゃ許さんというのか、たかがああいう馬鹿げた無用の不時着場を、――」

 川上機関大尉はにやりと笑って、

「それ見ろ、気にしていないなんていっていながら、貴様はちゃんと飛行島のことを考えているじゃないか。無用の不時着場!(無用の)といったね」

「それはそうさ。飛行機は、ますます安全なものになり、快速になってゆく。だからあんな飛行島なんてものはいらなくなるよ。無用の長物とはあのことだ。わが国でもしあれに金を出すやつがいたら、俺は大いに笑ってやるつもりでいた」

「しかしなあ長谷部。そこのところをよく考えおかないじゃ、未来の連合艦隊司令長官というわけにはゆかないよ」

「うふ、未来の連合艦隊司令長官か、あっはっはっ。俺がなることになっていたっけ」

 長谷部大尉は、酔うといつもそういう気焔をあげるのが癖だった。

「それなら一つ考えろ」

「なにを考えるんだ」

「つまりこういうことだ。たかが長谷部大尉にもよくわかる無用の長物の飛行島を、なぜ、千五百万ポンドの巨費をかけてつくるのだろうか。しかも飛行島を置くなら、なにもあんな南シナ海などに置かず、大西洋の真中とか、大洋州の間にとか、いくらでももっと役に立つところがあるんだ」

「うむ、なるほど」

 長谷部大尉は、ぎくりとして九谷焼を下に置いた。そして腕組をすると、

「なるほどねえ、――」

 と、もう一度なるほどをいった。

 川上機関大尉は、すっかりいい気持になって、盛んに酒盃をあげながら、

「おい、未来の提督よ。飛行島の話はそれまでだ。この次、日本酒をのむことがあったら、そのとき今のことをもう一度思い出してみてくれよ。いや、口頭試問はこの辺で打切として、まあ落第点は可哀そうだから、大負けに負けて六十点をやるかな。うわっはっはっ」

 川上機関大尉は、はじめて腹の底から声を出して笑った。

   司令官に面会

 その翌朝のことであった。

 長谷部大尉は、毎朝の日課の点検その他が終ると、ひとりでことことと狭い鉄梯子を伝って機関部へ下りていった。

 当番下士官が、椅子からとびあがって、さっと敬礼をした。

「おう。川上機関大尉はいられるか」

 するとその兵曹は直立したまま、

「はっ、川上機関大尉は只今御不在であります」

「ほう、どこへ行かれたのか」

「旗艦須磨へ行かれました。司令官のところにおられます」

「なに、司令官のところへ。――うむ、ではまたあとから来よう」

 長谷部大尉は、また元の梯子をのぼっていった。

 昨夜(ゆうべ)は川上機関大尉のもちこんだ日本酒でひどくいい気持になり、いいたいことをいって寝てしまったが、今朝になると、なんだか昨夜のうちに落し物をしたような気がしてならない。

(はて、何かな?)

 と思って考えてみて、やっとのことで思い当った。

(そうだ、川上のやつ、なんだかいやに影が薄かったぞ)

 そこで友の身の上を思って、機関部までたずねてきたわけだが、いまも聞けば、彼は旗艦へ行って、司令官のところにいるという。朝から何の用事だか知らないが、元気にやっていればなによりのことだった。

 大尉の足は、いつしか甲板へ出ていた。

 きょうも熱帯の海は、穏やかに()いでいる。見渡せば、果しのない碧緑の海であった。そして海ばかりであった。ただ前方二百メートルを距てた向こうに、旗艦須磨が黒煙をはきながら白い水泡(みなわ)をたててゆく。

 ぽぽーと、汽艇の響が、右舷の下でする。

 舷梯下に、汽艇がついたらしい。

 大尉が見ていると、舷門についていた番兵が、さっと捧銃(ささげつつ)の敬礼をした。誰か下から上ってきたようである。

 はたして長身の士官が上ってきた。川上機関大尉であった。

「おお川上が帰ってきた」

 長谷部大尉はそれを見ると、にこりと笑ってその方へ足早に歩いていった。

「おい川上。いま貴様を訪ねていったところだ」

「よお、長谷部か。はっはっはっ、もう酒はないぞ」

「酒はもうのまんことにきめた。おや、貴様は一杯機嫌だな。朝から酒とは、どうも不埒千万、けしからんじゃないか」

「はっはっはっ。ここへもう出とるか」と川上機関大尉は、自分の頬を指さした。昨日とはちがって、みちがえるように朗らかだった。

「司令官をお訪ねしたら、『一盞(いっさん)やれ』と尊い葡萄酒を下されたんだ」

 と心持形をあらため、あとは、

「いい味だったよ。はっはっはっ」

 と笑にまぎらせる。

「おい、川上。司令官のところでは、なにかいい話でもあったのか。あったら俺にも聞かせろ」

「いや、それは何でもないことなんだ。隠すわけじゃないが、悪く思うな。司令官と雑談のときに貴様の話も出たぞ。閣下は貴様を信頼していられる。長谷部のことは心配いらぬ。といっていられた。彼は沈黙の(はがね)の塊みたいな男だ。川上――というと俺のことだが、川上とはまるで違った種類の男だ。彼が健在であることは帝国海軍にとっても喜ばしいことだなどと、大いに聞かされちまった」

「……」

 長谷部大尉はなんの感情もあらわさない。いきなり川上機関大尉の手をとってぐっと握り、

「俺のことはどうでもいい。おい川上、ただ俺は貴様の武運を祈っとるぞ」

「何っ、――」

 と川上機関大尉が意外な顔をする。

「はっはっはっ」

 と、こんどは身体の丸い長谷部大尉が川上機関大尉の肩をたたいて哄笑した。

 丁度そのときだった。

 前檣楼の下の(ヤード)に、するすると信号旗があがった。下では当直の大きな叫声(さけびごえ)

「右舷寄り前方に、飛行島が見える!」

 おお飛行島!

 いよいよ飛行島が見えだしたか。

 非番の水兵たちは、だだだっと昇降口をかけあがってくる。

   飛行島上陸

 望遠鏡をとって眺めると、水天いずれとも分かちがたい彼方の空に、一本の煙がすっとたちのぼっている。

 煙の下に焦点をあわせてゆくと、なんだかマッチ箱を浮かせたようなものが見える。まだまだ飛行島は、はるか二十キロの彼方だ。

 士官候補生は、艦橋に鈴なりとなって、双眼鏡を眼にあてている。

「あれが飛行島か。なるほど奇怪な形をしているわい」

「あのなかに、三千人もの人が働いているんだとは、ちょっと思えないね」

「誰だ、いまから驚いているのは。そんなことでは傍まで行ったときには、腰をぬかすぞ」

 軍艦須磨と明石は、信号旗をひらめかしながら、ぐんぐん飛行島さして進んでゆく。

あと三四十分もすれば、その横につけることができるであろう。

 艦隊は、前もって打合せをしてあるとおり、あの飛行島で二十四時間を過すことになっている。その間に士官候補生たちはこの最新の海の怪物の見学をする予定だった。

 艦内では、いよいよ繋留(けいりゅう)用意の号令が出て、係の兵員は眼のまわるような忙しさだ。

 午前十時四十八分、須磨明石の両艦は遂に歴史的の構築中の飛行島繋留作業を終る!

 物事に動じないわが海軍将兵も、この飛行島の大工事には少からず驚いた。

 なんという途方もない大構築だろう。

 地上でもこれほどのものはあるまいと思われるのに、波浪狂う海洋の真只中の工事である。

(これが、人間のやった仕事だろうか?)

 と、ただ眼を(みは)るばかりである。

 士官候補生たちもよく見た。祖国を出るまえ靖国神社参拝のとき見た東京駅なんか、くらべものにならない。

 飛行島はU字型になっていた。

 海上へ出ているのは、大きなビルディングの寸法でいうと、三階あたりの高さに相当する。下から見ると、その飛行甲板が大きな屋根のように見える。

 飛行甲板の下は、太い数十本の組立鉄塔で支えられている。その鉄塔は水面下に没していて下はよく見えないが、話によると一本一本のその鉄塔は下に大きな鉄筋コンクリートのうきを下駄のように履いているという。つまりこの大きな建造物は、海中に宙ぶらりになっている鉄筋コンクリートのうきによって浮かんでいるのである。

 しかしそのままでは、風浪に流されてしまう心配があるから、約三十条の驚くほど太い鎖と錨とでもって海底に固定されている。

 そのほか、まだ出来上っていないが、波浪にゆれないように、鉄塔が水面につくところには、波浪平衡浮標というものをつけることになっているそうだし、飛行甲板の下につけることになっている専属修繕工場や住居室もでき上っていない。

 それにひきかえ、鉄塔の中を上下しているエレベーターとか、これ等のものを動かす発電動力室などはすっかり完成していて、三千人の技師職工たちに手足のように使われている。

 軍艦須磨と明石が横づけになったところは、この飛行島の西側であるが、そこはまだ骨ぐみだけしか出来ていないが桟橋になっていて、将来は四五万トンの大汽船を六隻ぐらいは一度に横づけできるというから、それだけでも大きさのほどが知れるであろう。

 なにしろここは南シナ海の真中のこととて軍艦は投錨しようにも、錨は海底へとどかないので、太い縄でもって桟橋にゆわえつけるのであった。

 いま飛行島は、工事は三分の二を終ったところであった。工事は、まず鉄塔が組立てられると、横に鉄材の腕が伸び、その先へだんだん新しい別のうきつきの鉄塔が取付けられ、上には飛行甲板が張られる。こういう順序に、中央から始って両側へと、骨組の難工事はおしすすめられてゆくのだった。それが出来上ると、甲板上の大きな室ができたり、そのほかこまごました装置が取付けられたりして、飛行島の内臓や手足ができてゆく。その後で、さらに飾りつけそのほかの艤装(ぎそう)がついて完成するのであった。

 工事に従っているのは、前にものべたように英国の技師と職工が中心になり、その外の労働者たちは、印度人もいれば中国人もいるというわけで、まるで世界の人種展覧会みたいな奇観を呈していた。

 須磨、明石の両艦では、半舷上陸が許されることになった。尤も時間がきめられていて、夕刻までには両舷とも上陸見学を終ることになっていた。

 川上機関大尉は、午後三時から始る後の方の上陸組に入っていた。

 お昼すぎになると、もうのこのこ帰って来る水兵があった。尤も本当に帰艦したわけではなく、指をくわえて待ちくたびれている兵員たちに、すこしでも早く、この珍奇な飛行島の様子を知らせてやろうという友達思いの心からだった。

「おい、早く飛行島の様子を知らせろ」

 と、艦内から旗のない手旗信号をやっている兵がある。

 帰ってきた水兵は、桟橋の上から、これに応じてしきりにこれも手旗信号をやっている。

 その信号を読んだ艦内の水兵が顔をくずして仲間の者に呶鳴(どな)る。

「おい、上陸人の斥候(せっこう)報告があった。上には食堂のすばらしいのがあるぞう。酒も洋酒だが、なかなかうまいそうだあ。――ああ、なに、うんそうか、土産ものも売っとるう、写真に絵はがき、首かざり、宝石入指環、はみがきに靴墨。――ちぇっ、そんなものは沢山だ」

   怪事件突発!

 なにしろこういう絶海の孤島も同じようなところで、まっくろになって昼夜を分かたず、激しい労働に従っている人たちが三千人もいるのであるから、人間の心もあらくなっている。だから彼等をなぐさめるために、食堂とか酒場とか映画館その他の見世物までもあり、人気のわるいことは格別であった。

 もちろん非番の者にちがいないが、ぐでんぐでんに酔払ったり、その揚句のはてに呶鳴ったり打つ蹴るの激しい喧嘩をやっている者もある。

 まるで裏(まち)みたいなところもある。

 その間を、帝国軍人はきちんとして通り、皇軍の威容を、飛行島の連中にも心に痛いほど知らせることができた。

 夕方の午後六時になって、総員帰艦を終った。

 総員の点呼がはじまった。

 もちろん、一人のこらず皆、帰艦している――と思いの外、ここにはからずも意外な椿事(ちんじ)が起った。

「川上機関大尉が見えません」

 驚くべきことが、副長のもとへ届けられた。

「なに、川上機関大尉がまだ帰艦していないというのか」

 副長もさすがに驚きの色をかくすことができなかった。

「もう一度、手分して艦内をさがせ」

 そこでまたもや捜索となったが、どうしても川上機関大尉の姿が見えない。

 どうしたというのだろう。

 大尉の身のまわりをしている杉田二等水兵が副長の前によびだされた。

「川上機関大尉の上陸したのを知っているか」

「はい知っております。午後三時十分ごろ、自分と一しょに舷門を出て行かれました」

「うむ、それからどうした」

「はあ。それから機関大尉と甲板の上まで一しょにあがりましたが、そこで私は機関大尉と別れたのであります。それ以後のことは、私は――私は知らんのであります」

「知らない。ふむ、そうか」

 副長はさらに大勢の兵員を集めて聞いてみたがどうも分からない。

 川上機関大尉が帰艦していないことは、長谷部大尉の耳にも入らずにはいなかった。

 彼はすぐさま機関室へとんできた。

「川上機関大尉が帰らぬというが本当か」

 それは遺憾ながら本当のことだった。

「これはけしからぬ。よし、俺がいって探してこよう」

 長谷部大尉は、すぐさま艦長のところへ駈けつけて、機関大尉を探すために上陸方をねがい出でた。

 すると艦長は、

「司令官にお聞きするから、暫く待て」

 といった。

 暫くたって、長谷部大尉は艦長によばれていってみた。嬉しや上陸許可が下りたかと思いの外、

「司令官はお許しにならぬ。誰一人も上陸はならぬといわれる。また一般にも、言葉をつつしみ、ことに飛行島の方に川上機関大尉のことを洩らすなとの厳命だ。のう、分かったろう。分かったら、そのまま引取ってくれ」

 艦長は、長谷部大尉の胸中を思いやって、苦しそうにいった。

 そういわれれば、下るよりほかない軍律だった。しかし長谷部大尉の肚のうちは、煮えかえるようだった。

 不安と不快との夜はすぎた。遠洋航海はじまっての大椿事だ。

 帝国海軍の威信に関することだから、全艦隊員は言葉をつつしめということなので、皆の胸中は一層苦しい。

 夜が明けた。

 早速捜索隊が派遣されるものと思いこんでいた長谷部大尉は、それにぜひとも参加をさせてくれるようにと、艦長のところへ願い出でた。

 艦長は、眉をぴくりと動かして、

「捜索隊は出さぬことになった」

「えっ、それはどうして――」

「司令官の命令である。帰艦するものなら、そのうちに帰ってくるだろう。捜索隊などを上へあげて、それがために脱艦士官があったなどと知れるのはまずいといわれるのだ」

「それはあまりに――」

 といったが、考えてみると司令官の言葉にも一理はある。といって、どうして捜索隊を出さずにいられるものか。川上機関大尉をめぐって、飛行島上には何か変ったことがあったのにちがいない。このままにおけば、午前十時すぎには、空しくここを出港してしまうのだ。そんなことになってはいけない。

 長谷部大尉は、艦橋につったったまま、眼を閉じてじっと考えこんだ。

(許さん――と一旦司令官がいわれたら、なかなか許すとはいわれない)

 そのとき大尉が思い出したのは、川上機関大尉の部屋をしらべてみるということだった。

 彼はすぐさま、その足で川上機関大尉私室へいってみた。

 すると、その私室の前には、四五名の兵員が声高になにか論争していた。

 彼等は長谷部大尉の姿を見ると、ぴたりと口を閉じて、一せいに敬礼をした。

「お前たちは、何を騒いどるのか」

 すると兵の一人が、

「はっ、私は不思議なることを発見いたしました。川上機関大尉の衣服箱を検査しましたところ、軍帽も服も靴も、すべて員数が揃っております。つまり服装は全部ここに揃っているのであります。機関大尉は素裸(すっぱだか)でいられるように思われます」

「なに、服装は全部揃っているって。なるほど、それでは裸でいなければならぬ勘定になるが、しかし川上機関大尉は軍服を着て舷門から出ていったんだぞ。それは杉田二等水兵が知っとる」

「おかしくはありますが、本当に揃っているのでありまして、不思議というほかないのであります」

 兵は自説をくりかえした。

 そうなると、長谷部大尉も、ふーむとうならないわけにゆかなかった。一たいどうしたというのだろう。浮かぶ飛行島をめぐる怪事件の幕は、こうして切って落された。

 極東の風雲急なるとき、突如として練習艦隊内に起ったこの事件は、そもいかなる意味があるのか。

 南シナ海の上は、今日もギラギラと熱帯の太陽が照りつけて、海は毒を流したように真青であった。

   おしゃべり水兵

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