10話 浮かぶ飛行島(10)
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予定からちょうど二十四時間も遅れて、海の大怪物浮かぶ飛行島は、いよいよその巨体をゆるがせつつ、しずかに海面をすべりだした。
墨をながしたような闇夜だった。
ああなんたる壮観であろうか!
これがもし昼間であったら、飛行島の乗組員たちは、手のまい足のふむところをしらないほど、狂喜乱舞したことだろう。
だが、昼間の航行は、絶対に禁物であった。そんなことをすれば、たちまち世界の注意は、この飛行島のうえにあつまり、今後極秘の行動をとることは、はなはだむずかしいことになるであろうし、また飛行島が隠しもっている意外な武器も明るみに出て、その攻撃力が少からず殺がれてしまうであろう。試運転は闇夜にかぎるのだ。
いま島内の乗組員、住民達は、みな眼をさましてきき耳をたてているのだった。
そうであろう、耳をすませば、遠い地鳴のような音がゴーッと響いて来るのである。内燃機関がこのようにはげしい音をたてたのは、今夜がはじめてのことだった。
飛行島は、いまや海上を航行しているのだ。いくら堅固につくられてあるとはいえ、さすがに鋼鉄の梁も壁も、気味わるくかすかに震動するのであった。
「あっ、あれは何の音だ」
「いやに不気味な音じゃないか。おや変だぞ、部屋が傾くようだぜ」
部屋が傾くのではない、飛行島が傾くのであった。波浪ははげしく飛行島舳部の支柱を噛んでいる。住民たちの多くは、部屋が傾くのを知って、飛行島が航行しているのに気づかないのであった。
「おっ、飛行機だ」
「一たいどうしたのだろう」
「今夜はどうやら演習らしいぞ」
と、下甲板から顔を出した労働者がいった。
「おや、あの灯はなんだ。うむ、飛行島のまわりをぐるっと取巻いている。軍艦の灯じゃないか」
というのも当っていた。
試運転中の飛行島の空は、六十余機の戦闘機と偵察機とにまもられ、またその周囲は、三十隻の駆逐艦と十五隻の潜水艦によって、二重三重に警戒されているのであった。
空からなりと、海面からなりと、一機の敵飛行機であれ、一隻の怪ジャンクであれ、向こうから近づけば、どんなことがあっても生かしては帰さぬ決心であった。飛行島の秘密は、あくまで守らねばならない。
闇夜の海面を圧する轟々たる爆音は、護衛の飛行団が発するエンジンの響であった。
飛行島の周囲に、ちらちらする灯火は、護衛駆逐艦の標識灯であった。
また護衛の潜水艦は、飛行島の前方の海面下を警戒しつづけている。
この三段構の警戒網を突破し得る不敵の曲者は、よもやあり得ないものと信ぜられた。
建設団長のリット少将は、いまやこの飛行島の艦長然として、はじめて司令塔に入ったのである。この司令塔の内部こそ、およそ近代科学の驚異であった。
一言でいいあらわせば、人間の脳の組織を顕微鏡下で見たとでもいうよりほかないであろう。
飛行島の甲板、砲塔、格納庫、機関部、操縦室、監視所、弾薬庫、各士官室、無電室、その他ありとあらゆる島内の要所から、この司令塔内へ向かって、幾十万、幾百万の電線が集っているのであった。
それは通信線もあれば、点火装置もあれば、速度調整装置、照準装置、そのほか飛行島のすべての働きが電流仕掛で司令塔内より至極手軽に動かされるようになっていた。そういう設備の末の端が円形のジャック孔となって、まるで電話交換台の展覧会というか、蜂の巣を壁いっぱいに貼りつけたというか、司令塔の壁という壁をあますところなく占領していた。
その間に、幾段もの縞模様となって、丸形の計器や水平形の計器などが、ずらりと並んでいた。それ等はすべて夜光式になっていて、たとえ司令塔の電灯が消えても、ちゃんと計器の指針がどこを指しているかが分かるように造られてあった。
「速度、十五ノットか。よし、この辺で、もう五ノット上げてみい」
リット少将は、飛行島の速度を、さらに注意ぶかく上げることを命じた。
二十ノットに速度を上げよと、電話は機関部にとどいた。
「おう、二十ノット」
命令は、伝声管や高声器でもって、半裸体で働いている部員に伝えられてゆく。
「二十ノット。よろしい、いま重油の弁をあけるよ」
弁を預かっていた面長な男が、大きなハンドルをしずかにまわしながら、計器の針の動くのをじっとみつめている。と、突然、
「おや、お前は誰だ」
そこへ監督にやってきた機関大尉フランクが、うしろから呼びかけた。
面長な東洋人は、フランクの声が聞えないふりをして、なおもしずかにハンドルをまわしていた。
「ええ、二十ノット、出ました」
彼は落着いた語調で、伝声管の中に報告をふきこんだ。
諸君、このものしずかな東洋人は、一たい何者であったろうか。
怪東洋人
まっ暗な南シナ海の夜であった。
文明の怪物ともいうべき飛行島は、いま波濤を蹴って、南へ南へと移動してゆく。
飛行島の前後左右は、それをまもる艦艇がぐるっととりまき、一片の浮木も飛行島に近づけまいとしている。
空には、空軍の精鋭が、かたい編隊をくんで、もし空から近よる敵機あらば、何国のものたるをとわず、一撃のもとに撃ちおとしてくれようと、ごうごうと飛びつづけている。
飛行島は、だんだんにスピードを上げていって、いまや時速二十ノット!
夜間のこととて、わずかにもれる光に、舷側の白い波浪や艦尾に沸くおびただしい水沫、それから艦内をゆるがす振動音などが乗組員たちの耳目をうばっているにすぎないが、昼間だったら、まさに言語に絶する壮観であったに違いない。
飛行島を動かしている機関部の諸エンジンは、すこぶる好調であった。これでゆけば、最大スピードの三十五ノットを出すことも、さほど難しくはなかろうと思われた。
ここはその飛行島の機関部――
重油の弁を巧みに開いて、飛行島のスピードを今二十ノットに上げたばかりの機関部員は、面長の東洋人であった。
(二十ノット、出ました)
と、伝声管のなかにおとした音声も、どっしりとおちついている。まことに頼もしい機関部員だ。
それを傍から見下している機関大尉フランクの顔は、これはまた反対に、非常に険しい。彼の右手は、ピストルのサックを探っているではないか。
東洋人にはフランクのこうした様子が見えないのか、彼は顔色一つかえないで、じっとメートルの面を見守っている。
「エンジンはつづいて好調」
かの東洋人は、憎いほどものしずかな調子で、だが歯ぎれのよい英語で、伝声管から司令塔へ報告する。
「おい! 貴様は誰だ?」
フランクは憤りをこらえかねて呶鳴りつけた。が、東洋人は、びくともしない。いや、自分のことと思っていないのか、
「はあ、はあ、リット少将閣下ですか。エンジンの調子は見込よりもむしろ実際の方がずっとよろしいようであります。――はあ、どのエンジンにつきましても、すでに検査をおえました。さすが大英帝国の機械だけあります。――はあ、はあ、承知いたしました。なお細心の注意をおこたらず、身命を賭して、エンジンをおあずかりいたします。どうか御安心ください」
これを聞いていた機関大尉フランクの顔といったらなかった。まず真赤になり、眼をとび出すほど見開いて、やがて蒼白になっていった。
司令官リット少将と、なれなれしく会話をとりかわしているこの東洋人は、一たい何者であろうか。
フランク大尉は今まで見たこともない男が、自分が受けもっている機関部で、何の不思議もなく働いているのに、まずあっけにとられ、次の瞬間頭がくらくらとするほど驚いた。
それにしても、いつもここにいる部員たち、殊に、彼が最も信頼しているケント兵曹は、今どこへ行って、何をしているのか。
彼は、飛行島にとって最も恐るべきことが、目前に起っていることを感じると、最早ためらうべき時でないと、ずっしりと重いピストルを握りなおして、東洋人の頭にぴたりと銃口を向けた。
「こら」その声はふるえを帯びていた。
「貴様は何者だ。命が惜しかったら、いまから十かぞえる間に姓名を名のれ。その間に名のらなかったら、おれは機関部第二分隊長の実力をもって、貴様を射殺する」
ピストルを握ったフランク分隊長の右手は、わなわなとふるえていた。
いうまでもなく、この東洋人こそ、われらの大勇士、川上機関大尉の変装姿であったのだ。
川上機関大尉現る!
おお川上機関大尉!
どこにどうしていたのか、川上機関大尉は、再び、われらの前に現れたのだ。
そもそも飛行島の秘密を探る命令が川上大尉にくだったのは、もちろん彼が、飛行島を動かすエンジンなどの諸機械にくわしいところを見こまれたからであるが、しかし理由はただそれだけではない。彼の鋭い頭の働きと、底知れぬ大胆さと、そしていかなる死地にあっても、くそおちつきにおちついて物事を考える。そして、よしとなったらどんなことでもやり通さずにはおかない恐るべき実行力を見こまれたからであった。
一たい人間というものは、その相手から思いきった大胆なことをやられると、却って気をのまれてしまって、なにも手だしができないものである。これが死地にあって敵と闘うときの最上の極意である。わが川上機関大尉は、この尊い極意をちゃんと心得ていたのだ。
フランク大尉はピストルの引金に手をかけた。
「覚悟はよいか。一から十まで数えおわれば、この引金をひくのだぞ。さあ数えるぞ、一イ、二ウ、三イ、……」
数え出したフランク大尉の緊張にひきつってゆく真青な顔。
だが見よ、どうしたというのだ。川上機関大尉は、死が数秒の後に迫っているというのに、エンジンの前のハンドルを懸命にあやつり、メートルの指針をいちいち直してゆく操作ぶりのあざやかさ! まるで目前の仕事に身も魂も打ちこんでいる真剣そのものの姿ではないか。フランク大尉は、その凄じい気魄にたじたじとなったが、必死にこらえて、
「――五ツ、六ウ、……」
のこるはわずか、あと四つの数だ!
ピルトルの引金を握りしめた右手から油汗がにじみ出した。
轟々たるエンジンの唸は、室内をゆりうごかして、一段とものすごい。
「――七、八ア、九ノ……」
あっ、のこりの数は、もうあと一つ!
そのとき突然、高声器が大きな声を発した。
「二十五ノットに、スピードを上げい!」
司令塔からの号令だ。
「はい、二十五ノットに上げまあす」
川上機関大尉は、一秒のおくれもなく、伝声管のなかに復誦した。そしてただちに給油弁を開くために、ハンドルをぐるぐる廻しはじめた。
(十オ!)
と、最後の数字をかぞえようとして、フランク大尉は、それを喉の奥にのみこんだ。すっかり気を奪われたのであろう。ピストルの銃口だけは、川上機関大尉の方に向いているが、引金にあたっている指にはもう力がはいっていない。
気が臆したフランク分隊長は、こうなればもう銅像みたいなものだった。
「はい、二十五ノット、よろしい。エンジンはいずれも快調です。異常変動、全くみとめられず!」
川上機関大尉の声は、いよいよ冴えた。
その声がフランク大尉の鼓膜をうつと、彼は反射的にピストルの引金をぎゅっと握りしめた。
(十オ!)
その瞬間、
「あっ、分隊長! な、なにをなさるんです」
フランク分隊長の話
左手の通路から、おどりこんできたのは、ケント兵曹だった。
「あっ、あぶない」
と叫ぶのも口のうち、彼はフランク大尉と川上機関大尉との間に、すばやく立ちふさがった。
「おい、退け。なにをするんだ」
「フランク大尉、あなたこそ、何をなさるんです」
「ケント兵曹。のかんか!」
「お待ち下さい。――まちがいがあってはなりません」
「なに、まちがい? 何のまちがいだ」
「ああ、御存じないのですか。いまわが飛行島は試運転中で、それにつきまして、リット少将閣下は、わが機関部が最善の成績を上げるようにと訓令せられました」
「そんなことは、よく分かっている」
「ところが、さっきこの第四ディーゼル・エンジン班の一人の部員が急にめまいがしてぶっ倒れましたが、それにつづいてたおれる者続出、今では十六七名という多数にのぼっております」
「そ、そんなことがあるものか。俺は、そんな報告に接しておらぬぞ」
「あれ、フランク大尉は御存じなかったのですか」
ケント兵曹は、あきれ顔で大尉の顔を見上げた。
「――で、でも、そんなことがあろうはずがありません。機関部は上を下への大騒動でありました。上官にその報告が行っていないなんて……」
フランク大尉は、それを聞くと、何を思い出したか、
「そうだ。ふむ、あれかもしれぬ」
「えっ、なんとおっしゃいます」
「うむ。実は今から三十分ほど前、リット少将の副官から電話がかかってきて、『飛行島の三十六基のエンジンのうち、調子の合わないものが二三あるらしく、司令塔のメートルをみていると、あるところへ来ると、変な乱調子が起る。だから、貴官はすぐさま、三十六基のエンジンの仕様書と試験表とを各班からあつめて、すぐこっちへ持ってこい』という命令だ。そこで俺は、あとをゼリー中尉にたのんで、さっそく仕様書と試験表をあつめに出かけたのだ」
「おや、そんなことがありましたか。そのゼリー中尉が、真先にぶっ倒れたのですが、御存じでしょうな」
「いや、知らない。その報告も受けていない」と、フランク大尉はつよくかぶりをふった。
「俺は、試験部へ行って、リット少将閣下が命令せられたものを集めるのに夢中になっていた。ところがその仕様書はすぐ集ったが、試験表の方がなかなか揃わない。それに手間どって、試験部の責任者を呶鳴りつけたりしているうちに、時間はどんどん廻って、二三十分かかってしまった」
「では、大尉は、ずっと試験部におられたのですね」
ケント兵曹は、やっと話がのみこめたという風だった。
「そうだ。試験部の、机の引出をみな引き出して、やっと試験表を三十通までみつけたが、あとの六通が見あたらない。あまり遅れてもと思って、足りないままで、副官の前へ持って出たがとたんに大恥をかいた?」
「大恥とは何です?」
「うむ。副官はそんな電話をかけてそんな命令を出した覚がないといわれるのだ」
「そりゃ、変ですね」
「変だ。まったく変だ。とにかく副官に笑われて、ここへかえってきたのだ。重大な試運転の真最中に、誰か副官の声色をつかって、俺を一ぱいくわせたのかとむかっ腹をたててここへ帰ってくると、ほら、そこにいる怪しい東洋人が眼にうつったではないか」
「あ、なーるほど。それでよく分かりました」
ケント兵曹は、そういってから、はじめて、東洋人がこの機関部へきたわけを次のように話した。
「この男は、第六班から、応援によこした機関部員ですよ。フイリッピン人で、カラモという男です。なかなかよく働きます。三人分ぐらいの持場を、彼一人でひきうけていますが、少しもまちがわないです。こういう事故が起った際にはあつらえ向の男です」
フランク大尉は、うなずきながら聞いていたが、眼をぎょろりと光らせたかと思うと急に声を落して、
「だが、怪しい奴じゃないか。おいケント兵曹。殊によると、あいつは例の日本将校カワカミじゃないかねえ」
ピストルの監視下に
「カワカミですって?」
と、ケント兵曹はあきれ顔をしてといかえした。
「フランク大尉。監視隊は七名ものカワカミを捕らえ、リット少将の命令でみな殺してしまったそうですよ。いや、これは上官の方がよく御存じのはずですが」
「それはそうだったが、でもケント兵曹。あの横顔を見ろ、どっかカワカミに似ているじゃないか」
フランク大尉はしばし思案顔であったが、何事か決心したものとみえ、
「うむ、やっぱりカワカミに違いない。万一違っていた時は俺が責任をとればよいのだ」
といいざま、一旦しまったピストルを、ふたたびサックの中からだして、さっと川上の頭を狙った。
「あっ、なにをせられます」
「ケント兵曹。退け、俺は飛行島の秘密をまもらねばならぬ」
ふたたび怒れる獅子のようになったフランク大尉は、ピストルをつきつけたまま、
「おいカワカミ。仮面をぬげ」と叫んだ。
「分隊長。待ってください」
ケント兵曹も必死だった。
「飛行島は只今、試運転中であることをお忘れないように。もしこの東洋人を傷つけたら、この大切な第四エンジンの持場はどうなります。いや、重大な飛行島の航進はどうなります。あとに、代りの部員をもってこようとしても、どこの班でも、人員が足りないで困っている際ですぞ。分隊長」
これには、フランク大尉も、一言もなかった。
「――はい、只今、三十ノット出ました。エンジンはいずれも快調。油量速度五五・六。乱調子の傾向はみとめられません」
フイリッピン人カラモ――ではないわが川上機関大尉は、傍に立つフランク大尉とケント兵曹とを全然気にしていないものの如く、相変らずエンジンの操作に当っていた。
機関大尉の明鏡のような頭には、事の成行ははじめからわかっていたのだ。その悠々たるおちつきぶりを見よ。赤銅色の頬には不敵にも、誇らかな勝利の微笑さえ浮かんだではないか。
速力三十ノット。
もうすこしで、飛行島は最大速力を出すところだ。
飛行島の心臓部であるエンジンは快調をつづけている。何という頼もしさ。大英帝国が、平和の飛行場として建造した飛行島が、超大航空母艦として、真におどろくべき実力をもっていることは、最早、疑う余地はなくなった。
「うーむ」ケント兵曹はうなった。飛行島の大事を思うて、フランク分隊長をとめはしたものの、もしこれが本物のカワカミであったら、このままにしておくことは出来ない。
といって、今、この男を射殺すると、あとはどうなる。第四エンジンは、誰がうごかすのだ。飛行島の試運転はどうなるのだ。その時のリット少将の驚きと怒……はじめから何もかもリット少将に報告しておけばよかったものを、機関部の不名誉と責任問題になると思って、部内でこっそり後始末をしようとしたのがいけなかった。今となっては、リット少将に報告することさえ恐しいが、何にしても飛行島の運命にかかわる重大事だ。
(そうだ!)
とケント兵曹は、とっさに決心して、
「フランク大尉。もうこうなった以上、恥をしのんで、何もかもリット少将閣下に、報告してその指揮を仰いだ方が上分別ですぞ」
「なに、リット少将閣下に――」
フランク分隊長は、きっと顔をこわばらせた。
が、とっさに決心すると、ピストルをケント兵曹にわたして、東洋人カラモを監視せしめ、自分は電話をかけにいった。
それからものの五分間ほどして、フランク大尉はふたたび第四エンジン室にかえってきた。彼の顔はさらに大きな興奮に青ざめていた。
「どうしました。フランク分隊長」
と、ケント兵曹は聞いた。
しかしフランク大尉は、何もいわずにケント兵曹の手からピストルをもぎとった。
「もしフランク分隊長。リット少将閣下は、一たいどうおっしゃったのですか」
ケント兵曹は、かさねて聞いた。
フランク大尉は、それに答えようともせず、石像のようにつったったまま、変装の川上機関大尉にしっかり銃口を向けている。
そのとき司令塔からは、また次の命令が川上機関大尉のところへ伝わってきた。
「最大速力三十五ノットへ――」
「はい、最大速力三十五ノットへ」
川上機関大尉は、またあざやかな手つきで、エンジンの廻転数を上げた。それを後からフランク大尉は、いまいましそうににらみつけている。一たい、どうしたというのだ。
彼はリット少将に、何をいわれてきたのであろうか。
川上機関大尉は、相変らずフランクを嘲笑するようにおちつきはらって、エンジンの操作をつづけるのであった。ああ、それにしても何という奇妙な事実であろう。彼はフランク大尉のピストルの監視下にあって、敵国のために最も重大な役わりを懸命に果しているのであった。
試運転成功