浮かぶ飛行島

13話 浮かぶ飛行島(13)

9,396字 約19分 2005年6月2日 公開

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 飛行島は、俄然活気をおびた。

 まだ収容しつくさなかった爆撃機や戦闘機などが、シンガポールから海を越えて続々と到着し、飛行甲板にまい下りた。中には飛行池に着水する水上機もあった。総出の整備員は、汗だくだくの大童(おおわらわ)となって、新着の飛行機をエレベーターにのせ、それぞれの格納庫へおろした。

 弾薬庫は開かれ、二十インチ砲弾をはじめ数々の砲弾が、それぞれの砲塔へおくりやすいように、改めて並べかえられた。

 甲板や舷側から、戦闘に不用なものは、ことごとく取除かれた。

 室内においても、不用な箱や卓子(テーブル)などが別にせられ、そして甲板から海中へ投げ捨てられた。

 秘密砲塔を隠している仮装掩蓋(えんがい)は、しばしば電気の力をかりて、取外されたり、また取付けられた。

 共楽街は、大勢の水兵の手により、片端からうち壊され、小屋といわず、道具といわず、映写機のような高価なものまで惜し気もなく海中へ叩きこまれた。

 こうして夕方ちかくには、飛行島の内外は、生まれかわったように軍艦らしくなった。

 海を圧する浮城、飛行島!

 丁度そのとき、この飛行島戦隊に編入せられた巡洋艦、駆逐艦、水雷艇、潜水艦、特務艦などが合わせて四十六隻舳艫をふくんで飛行島のまわりに投錨した。

 リット提督は、得意満面、大した御機嫌で司令塔上から麾下(きか)の艦艇をじっと見わたした。

「ほほう、わが飛行島戦隊の威容も、なかなか相当なものだ。これなら日本の本土強襲は、案外容易に成功するであろう」

 提督は、戦わないうちに、自分の戦隊の勝利をふかく信ずるようになった。

 やがて夜となった。

 一切の出航準備は成った。

 ただ一つ気がかりなことは、昨日にひきつづき風が依然として治らないことだった。

 午後八時、リット提督はついに出航命令を下した。

「錨揚げ!」

 命令一下、電動機は重くるしい唸をあげて太い錨鎖をがらがらとまきあげていった。

 このとき飛行島内のエンジンは、一基また一基、だんだんに起動されていって、その響は飛行島の隅々までもごとごとと伝わっていった。巨大のエンジン群のはげしい息づかいだ。

「前進! 微速!」

 山のような飛行島は、しずかに海面をゆるぎだした。

 麾下の艦艇もまた、順序正しく航行をはじめた。

 駆逐戦隊の横列を先頭に、それにやや(おく)れて潜水戦隊がつづき、その次に前後左右を軽巡洋戦隊にとりまかれて飛行島の巨体が進み、最後列には特務艦や病院船、給油船が臆病らしく固まり、殿(しんがり)には巡洋艦を旗艦とする別の駆逐戦隊がしっかり護衛していた。

 航空部隊の一部は、全艦隊の外二キロメートルの円周にそい、はるかな高度をとって、ぐるぐる旋回し、夜暗とはいいながら不意打の敵に対する警戒を怠らなかった。

 ああなんという堅い陣形であろう。海面、海底、空中の三方面に対し、いささかも抜目のない厳戒ぶりであった。さすがにこれこそ世界一の海軍国として、古き伝統を誇る英国艦隊の出動ぶりであった。

 風はしきりに吹き募り、暗夜の海面に、波浪は次第に高い。赤や青や黄の艦艇の標識灯さえ、ときには光を遮られ、しばらく見えなくなることさえあった。それは艦首にどっとぶつかる怒濤が、滝のように甲板上に落ちてくるせいだった。

「ほう、外はいよいよしけ模様だな」

「うむ。しかし不連続線だそうだよ。いまにはれるだろう」

 細い艦内通路を、肩をならべて歩いてゆく若い士官の会話だ。

 出航用意からはじまってここまで、まるで火事場のような忙しさの中にきりきり舞をしていた飛行島の乗組員たちは、やっと一息つく暇を見出した。艦内士官酒場へ入ると、そこではしきりにコップのかちあう音がきこえ、葉巻の高い香が匂っていた。

「一たいこれからわが飛行島は、どんな任務につくのかなあ」

 若い機関部の士官が、これはまた頼りない質問を、ある主砲の分隊付をしている同僚に出した。

「なんだ、これからどんな任務につくのかだって、そいつは、いくら機関部だって、ひどい質問だ。分かっているじゃないか、日本の本土を南の方角から強襲するのだ」

「やっぱりそうか。南の方から強襲するのか」

「なあんだ、君にも分かっているんじゃないか」

「そういう話は、機関部でも、もっぱらの噂なんだ。しかしそう簡単に、敵の本土に近づけるかなあ」

 と、たいへん心配そうである。

   極秘の作戦

「ははあ、分かった。君は日本の艦隊がどのように猛烈な抵抗をするか、それを心配しているんだろう」

 と、分隊付の士官は、赤い顔を前につきだした。

「そうさ。大きな声ではいえないが、連盟脱退後の日本艦隊はどこまで強いのか、底力の程度がわからないてえことだぜ」

 機関士官は、だいぶん恐日病にかかっているらしい。

「心配するな。こっちの作戦にもぬかりはないんだ。いいかね、こうなんだ。近くウラジボを根拠地とするソ連艦隊が、北方から日本海を衝こうとする一方、われわれは南から同時に衝く。そうなると日本の艦隊は、いきおい勢力を二分せにゃならんじゃないか。そこが付け目なんだ。日本の艦隊をして、各個撃破の挙に出でしめないのが、そもそも英ソ軍事同盟の一等大きな狙所(ねらいどころ)なのだ」

「ふーむ、うまいことを考えたなあ」

 機関士官は、嬉しそうに、はじめてにやりと笑った。

「それみろ、いくら優勢海軍でも、二分されては、一匹の鮫が二匹の鮭になったようなもので、まるでおとなしいものさ。そこを狙って、こっちは爆弾と砲弾とでもって、どどどどっとやっつける」

「おい大丈夫かね。しかし日本の連合艦隊は、今も南洋付近に頑張っているのじゃないかね。そしてわれわれは当然、生のままの連合艦隊にぶつかるようなことになるんじゃないか」

「大丈夫だとも。今ごろ、敵の連合艦隊は、大騒ぎで北艦隊と南艦隊とに二分され、ウラジボに向かうやつは、重油をふんだんに焚いて、波を蹴たてて北上しているころだろう。北上組は巡洋艦隊で、南洋の辺に残っているのは主力艦隊だろうよ」

「うむ、すると戦艦淡路、隠岐(おき)、佐渡、大島や、航空母艦の赤竜、紫竜、黄竜などというところがわれわれを待っているわけだね。相手の勢力は二分されたといっても、これは相当な強敵だ。わが飛行島戦隊にとっては、烈しすぎる大敵だ。僕は、とても勝利を信ずることができない」

 機関士官は、また蒼くなった。

「あっはっはっはっ。貴公にゃ、臆病神がついていて、放れないらしい。そこのところには、こういう作戦があるんだ。いいかね。南洋方面にいる日本の主力艦隊に対しては、わが東洋艦隊が総がかりでもってぶつかることになっているんだ。しかもこちらから積極的に、敵の根拠地を襲撃するんだ。戦闘水面は、おそらくマリアナ海一帯であろう」

「ふーん、わが東洋艦隊は印度やシンガポールや香港を空っぽにして日本の主力艦隊にかからにゃ駄目だ」

「もちろんのことさ。しかしこういう場合を考えて、わが東洋艦隊は約三倍大の勢力に補強されてあるから、心配はない。そうして敵艦隊に戦闘をさせておいて、一方わが飛行島戦隊は、戦闘地域の隙を狙って、東径百四十度の線――というと、だいたい硫黄列島とラサ島との中間だが、そこを狙って北上するんだ。そうなると、われわれは明放しの日本本土の南方海面に侵入できるんだ。そこで早速飛行島から爆撃飛行団を飛ばせて、一挙にトーキョーを葬り去るんだ。なんといういい役どころではないか。われわれ飛行島戦隊なるものは、日本攻略戦の主演俳優みたいなものだ。大いにその光栄を感謝しなけりゃならん」

「ほほう、わが飛行島戦隊は、日本攻略戦の花形俳優にあたるのかね。ああそれはすばらしい幸運をひきあてたものだ。さあ、それならここで一つ、景気よく前祝(まえいわい)として乾杯しょうじゃないか」

「よかろう。さあはじめるぞ。皆、こっちへよって来い」

「よし、集ったぞ」

「では、はじめる。飛行島戦隊の戦士たち、ばんざーい」

「ばんざーい。――この次は、飛行島をヨコハマの岸壁につけたときに、乾杯しようや」

「ああそれがいい。愉快愉快」

 士官酒場は、すっかりお祭騒になってしまった。

   濡れる二勇士

「おい杉田、どうだ、傷痕は痛むか」

 飛行島の縁の下ともいうべき組立鉄骨の間で、声がした。

 あたりは真暗で、人の輪郭も見えない。ひゅうひゅうと鉄骨の間をぬってくる烈風の響、ざざざーっと支柱を()いのぼる激浪の音に、応える人の声はもみ消されて聞えない。

「そんな弱気を出してはいかんじゃないか。いや、俺のことなぞ心配しないでいい」

「でありますが――でありますが、上官の足手まといになる杉田であります。杉田は早く死んでしまいたいのです。私が死ねば、上官は、それこそ何事にもわざわいされずに、思いきって奮闘できるのであります。ああ私は、上官に大迷惑をかけるために、ついてまいったようなものです。ざ、残念この上もありません」

 わーっと男泣きに泣く声が、風の間に聞えた。二人の会話は、ちょっと杜絶えたが、

「ああ、もう何もいうな、杉田。川上は、そんなことをなんとも思っちゃいないぞ。敵と闘って、名誉の戦傷を負った貴様じゃないか。普通なら、病院船の軟らかいベッドの上に横たわって、故国の海軍病院に送還される身の上だ。しかしここは敵地だ。いや敵地どころか、敵の懐の中なのだ。可哀そうだが、これ以上、どうしてやりようもない」

「も、もったいないことです。上官、もう沢山です」

「うん、泣くな。俺のいいたいことは、そういう重傷をうけた身でいながら、今もこの潮に洗われている鉄骨の間で頑張っている貴様のおどろくべき忍耐力を褒めてやりたいのだ。おい杉田、貴様ぐらい立派な帝国軍人はないぞ。そしてまた貴様ぐらい上官(おもい)の忠勇なる部下はないぞ」

「上官、もう杉田は……」

 といって、その後は波浪の砕ける音に消えてしまったようである。

 療養まだ半ばにして、汽船ブルー・チャイナ号から海中にとびこんだ杉田二等水兵は、いくたびか波浪にのまれようとした。そのたびに川上機関大尉の逞しい腕が傍からさしのべられ、彼は溺死(できし)から救われたのだ。そしてついに、目ざす飛行島の鉄骨にとりつくことができたのだった。

 今では飛行島上には、英人以外の乗組員はただ一人もいなかった。だから彼等二人は、よしや飛行島に泳ぎついたとしても、もし島内でその姿を発見されれば、たちどころに引捉えられなければならなかった。折よく飛行島は出航準備で島内の警戒がゆるんだので、二人の隠れ場所は安全となったが、それは一時のことである。彼等の運命は、依然として風前の灯であった。

 だが日東男児は、いかなる危険をも恐れない。いかなる艱難(かんなん)も、よくこれを(しの)ぐのである。ことに川上機関大尉には、まだはたしおわらない大任務があった。それは飛行島の偵察だ。いやそればかりではない。彼は一命を賭して、飛行島の爆沈を計画しているのであった。この恐るべき大飛行島を、このまま祖国の近海に近づけては、たまるものではない。二十インチの巨砲群、八十台にあまる重爆機隊、そういうものの(ねらい)の前に、一天万乗(いってんばんじょう)の君まします帝都東京をはじめ、祖国の地を曝させてはたいへんである。一命のあらんかぎり、彼は飛行島の爆破を断行する決心だったのである。

 杉田二等水兵は、上官の後を慕ってこの飛行島に泳ぎついたが、上官のこの大決心を察していた。彼は上官の腕となり脚となって働こうと思っていた。しかし不幸にも敵弾をうけて、今では平生の十分の一の力もない。自分が生きていたのでは、川上機関大尉が、自由に活動できない。この上は無念ながら、せめて自殺して、大尉の足手まといになることを避けたいと思ったが、早くもそれを悟った川上は、杉田二等水兵をきびしく叱りつけ、そして励ましているのだった。このところ杉田にとっては、生きるに生きられず、死ぬに死なれぬ苦しさであった。

「おい杉田」

 川上機関大尉の声だ。

「はい」

「俺はこれから、ちょっと上へのぼって、飛行島の様子をさぐってくる。お前は、短気をおこさず、ここに待っていろ」

「はっ。上官、杉田もぜひおつれください。私とて敵の一人や二人は――」

「いや、まだ襲撃をやるわけではない。いずれ襲撃をやるときは、かならずお前をつれてゆく。それを楽しみに待っておれ。今は偵察にゆくんだ。敵状を知らねば、斬りこみようもないではないか」

 と、川上機関大尉は持っていた日本刀の柄を叩いた。

 この日本刀は、大尉が一振、杉田が一振もっていた。こんなところで日本刀を手に入れたのは、不思議というほかはないが、実はこれにも神明の加護があったのである。それは川上がブルー・チャイナ号に乗船したときのことだった。彼は飛行島に潜入したときに近づきになった比島の志士カナモナ氏が数本の日本刀を持っているのを見て、無理にねだって、二本を譲りうけたものであった。それは二人の勇士にとって、この上もなき利器であった。

「はっ、では杉田は、ここで部署を守っております」

「よし、しっかり頼んだぞ」

「では、御無事を祈っています」

「うむ、行ってくる。くれぐれも短気をおこしてはならんぞ。――ああそうだ。俺が行ってしまって、力のないお前が、万一激浪にさらわれてはいけない。そういう危険のないように、お前の体を、この鉄骨にしばりつけておいてやろう」

 川上機関大尉の心は、どこまでも注意ぶかく、そして傷つける部下の身の上にやさしかった。

   小暗い下甲板

 川上機関大尉は、半裸体に、日本刀を背中に斜に負い、組立鉄骨をのぼっていった。

 鉄骨の表面は、海水にじめじめと濡れていて、リベットに足をかけると、そのままずるずると滑りおちて腕をすりむいたり、足の生爪をはがしたり、登攀(とうはん)はなかなか容易な業ではなかった。それでも三十分あまりの後、彼はとうとう最下層の甲板までたどりついた。

 甲板の隅で、川上機関大尉はしばらく息をいれていたが、そのうちに元気をとりかえしたものと見え、その狭い通路を匐うようにしてそろそろと場所をうごきだした。

 すると、真正面から、いきなりあらあらしい足音が近づいた。

 川上機関大尉は、はっと体を縮めるなり、飛鳥のようにカンバスのうしろにとびこむと、そのかげに平蜘蛛のようにぴったりとはりついた。

 やがて彼の眼の前を、長身の水兵が鼻唄まじりで、風のように通りすぎた。

(おお、気づかれずにすんだか。もちっとで鉢合せをして、呼笛でもふかれるところであった)

 川上機関大尉は、ほっと胸をなでながら、積みかさねられたカンバスの山のかげから姿を現した。

 すると今度は、反対に後方から、別のあらあらしい足音が聞えた。

(あっ、見つかってはたいへん!)

 もうカンバスの山にかえる暇はなかったので、思いきって通路を向こうへ、つつーと栗鼠(りす)のように駈けぬけた。

(どこか、隠れるところはないか)

 と、そこに見えた横道にとびこむと、これがなんと行きどまりの袋小路だった。

(しまった!)

 と思ったが、もうおそい。

 足音はいよいよ近づいた。息をのむ間もなく、飛べば二足ほどの向こうの角へ一人の下士官が姿を現した。

(見つかった)

 下士官は、川上機関大尉のとびこんだ袋小路へ顔を向けた。そしてあっというなり、たじたじと後へさがったが、すばやく右手を肩にかけたサックに伸ばしたと思うと、とりだした一挺のピストル。

 もうおしまいだった。

「えい!」

 川上機関大尉の体が前かがみになったと思ったら、右手にさっと閃いた白刃(はくじん)

 ばさりという鈍い物音と、う――むといううなり声とが同時におこった。下士官はピストルをがらりと投げすてると、首のところへ手をもってゆくような仕種(しぐさ)をしたが、そのときはもう甲板の上に、仰向けになって倒れ、呼吸(いき)がたえていた。

 じつに見事な腕の(さえ)であった。相手の下士官は、ついに一発の弾丸も放たないで、あの世へ旅立ったのだ。

「おお、この服装が欲しかったのだ」

 川上機関大尉の狙っていたお土産は、向こうから転がりこんだようなものであった。彼は駈けよるなり、早いところ倒れている下士官の服を脱がしてしまった。そしてすばやく自分の身につけた。傍に転がっている下士官帽も役にたった。彼はすっかり英国海軍の下士官になりすました。百八十(センチ)の長身をもった川上機関大尉に、それはちょうど頃合の制服だった。

(やあどうも、すっかり結構な支度を頂戴してしまった。遺骸に御礼をいって、人に見られないうちに、片づけてしまおう)

 大尉は、下士官の遺骸を横抱にかかえ、舷側から海中へ放りこんだ。逆まく波は、その遺骸をのんでちょっとした水煙をたてたが、水音は嵐に消されて、それほど耳にたたなかった。

「おう、どうしたんだ」

 突然、うしろから肩を叩かれた。それはまったく思いがけないできごとだった。

 その瞬間、川上機関大尉の脳髄は、びりびりと痺れた。とうとう見つかったのか。

「おや、ここに変なものが転がっている。これは日本刀じゃないか。そして、あっ、たいへんな血だ! おい、これは一体どうしたんだ」

 とうとう最悪の場合となった。

 しかし、あわててはいけない。

「なあに、大したことではないよ」

「なに?」

「黙れ!」

 川上機関大尉は、くるりと身をかえすが早いか、相手の脾腹めがけて、得意の当身を一つ、どーんと食わせた。

「うーむ」

 へたへたと足許に崩れるようにのびたのを見れば、これも下士官だった。なんと弱い奴ばかりではないか。

(そうだ。杉田の用に、この下士官の服をもらってゆこう)

 川上機関大尉は、また相手の服をぬがせにかかった。

 ところが、この相手はなかなか手強い奴だった。彼は人事不省を装っていたのだ。だから川上機関大尉のちょっとの油断をみすますなり、隠しもっていた呼笛を口にあてて、ぴーいと一声高く、乗組員に急をつげた。

「うむ、やったな!」

 川上機関大尉は、電気にかかったようにとびあがった。そこへつけこんで、相手の巨漢は、むずと組みついてきた。

 川上機関大尉は、舷に押しつけられてしまった。大した力の相手だった。川上は懸命に、相手の胸許にこっちの頭をつけて、押し潰されまいと耐えているが、相手は勝ち誇ったように、いよいよぐんぐん押しつける。

 川上機関大尉の武運は、眼に見えて悪くなった。そうでなくとも、ここ連日の苦闘と空腹とに、かなり疲れている川上機関大尉だった。はりきった牡牛のような英国下士官とは、とてもまともな力くらべはできまいと思われた。

 そのとき、向こうの方で、あわただしく集合喇叭(ラッパ)が鳴った。さっきの呼笛を聞きつけて、警備班が出動をはじめたらしい。早くも奥の通路から、入りみだれた靴音が聞えてきた。こうなっては、わが川上機関大尉がいかに勇猛であるといっても、敵勢を押しかえすことは、まず困難ではないかと思われた。

 壮図はついに空しく、わが大勇士川上機関大尉は飛行島の下甲板に散るのであろうか。

 もしそんなことがあれば、いま組立鉄骨の間に病体をしばりつけて、ひたすら彼のかえりを待ちわびているはずの杉田二等水兵は、どうなるであろうか。

 このときわが勇士の様子をみるなれば、彼は、猛牛のごとき敵の下士官とがっちり組みあったまま、一、二、三、四としずかに呼吸をかぞえていた。そして彼の眼は、ときどきちらりと足許に転がっている日本刀の方へうごいていた。

 川上機関大尉は、いま何を考えているのであろうか。

 飛行島戦隊は、この(さわぎ)をよそに、風雨荒れ狂う暗闇の南シナ海をついて、ぐんぐん北上してゆくのであった。

   消えぬ怨

「リット少将!」

 提督は、わが名を呼ばれてびっくりした。その声は少女の声であった。

「リット少将!」

 また呼んだ。

 リット少将は、その声のする方を見た。そこは真青な海原だった。絵に描いたような美しい夜の海原だった。少女の声は、すぐ下の波の間から聞えるのだった。

「誰か?」

「私です」

 それは聞いたことのある声だった。しかしリット提督には、声の主の姿が見えなかった。

(不思議なことがあればあるもの……)

 提督は念のために舷のところまで歩いていった。そして舷側につかまって下を見た。

「おお」

 提督はぎくりとした。

 舷側を洗う白い飛沫(しぶき)の上に、一人の少女の寝姿があった。梨花だ。中国少女の梨花だ。鋼鉄の宮殿の中を、栗鼠のようにちょこちょこととびまわって、雑用をつとめていた梨花の姿だった。

「梨花か。なぜそんなところに寝ているんだ。波にさらわれてしまうではないか。早く甲板へあがってこい」

「リット少将。私は、甲板へあがりたくてもあがれないんですの。リット少将、手を貸してください。私をひっぱりあげてください」

「ふん、厄介(やっかい)な奴じゃ。ほら、手を出せ」

 提督は手を出して、梨花の手を握った。それはびっくりするほど冷たい氷のような手であった。少女一人くらいと思って、提督はひっぱりあげにかかったが、どうしたのか大盤石のように重い。

「うーん、これは重い。梨花どうしたのか。お前なにか腰にぶらさげているのではないか」

「ええ、わたくしの腰から下に、皆さんがぶらさがっているのですわ」

「皆って、誰のことだ」

 提督は、ぎょっとして、改めて海面を見おろした。

 そのとき不思議にも、海の中は電灯がついたように、明るくなった。そして梨花の腰から下にとりすがっている真青な顔をした二人の看護婦の姿が見えた。またその看護婦の下には、顔や肩を赤く血に染めた大勢の苦力(クーリー)がぶらさがっている。そのまた下に、川上機関大尉や杉田二等水兵も見える。そのほか印度人やフイリッピン人や白人や、見れば見るほど何百人というたいへんな数である。彼等は、海底に横たわる一隻の汽船の船腹を足場として、人梯子をよじのぼってくる。海底にある地獄の風景だ!

 ぐーっと、肩もぬけそうな強い力が、リット提督を海中へひっぱりこもうとした。

「こら、無茶をするな」

 そのとき提督は、海底に横たわる船腹にブルー・チャイナ号という船名を読んだ。

「あ、ブルー・チャイナ号! わしが沈めた汽船だ。さては、この連中は」

 提督の背筋が急に冷たくなった。

「うっ、亡者ども、わしを海中へひっぱりこもうというのか。なにくそ、ひっぱりこまれてたまるか」

 提督は、あぶら汗をかいて、うんうんうなりだした。ひっぱりこまれまいとするが、刻一刻、提督の体は舷を超えて海面へ落ちようとする。恐しい執念だ。――

「リット提督!」

 提督の耳に、はげしく扉を叩く音が聞えた。

「ううーん、ううーん」

「提督、どうされました。スミス中尉です」

「なに、スミス中尉。お前もか」

 と叫んだが、途端に提督は夢からはっと覚めた。彼はベッドの中で、自分で自分の喉をしめていたのだ。

「ああ夢だったか。恐しい夢もあったものだ。ああ、夢でよかった」

 提督は、全身汗びっしょりだった。

 つづいてはげしいノックの音!

「提督、ど、どうされました。スミス中尉です。早くここを開けて下さい」

「おお」提督はほっと大きな息をついて、ベッドからよろよろと下り、「スミス中尉か。いま開けてやる」

 扉を開けると、外は真暗で、嵐を呼ぶ物凄い潮風が、ひゆうひゅうと鳴っていた。そして、きりっとした武装に身をかためたスミス中尉が、片手には手提(てさげ)電灯を、また片手にはピストルを握り、一隊の水兵をひきつれて立っていた。

   非常呼集

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