15話 悪魔の足跡
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その夜、神谷芳雄は、大都劇場を見物たちが残らず立ち去ったあと、警官の捜索が終るまで居残って、手に汗を握るようにして、その結果を待っていたが、人間豹恩田はもちろん、江川蘭子までが、どこから逃げ去ったのか、影も形もないとわかると、もうがっかりしてしまって、夢遊病者みたいな恰好で、フラフラと劇場を出た。
失望に眼もくらんで、どこをどう歩いたとも知らず、それでも無事にわが家にたどりつくと、出迎えた女中に物もいわず、家人に挨拶もせず、離れ座敷の居間にはいって、そこに取ってあった床の中へ、ころがりこんでしまった。
ああ、なんということだ。悪魔はまたしても彼の恋人を奪い去ったのだ。いずれは蘭子も、かつての弘子と同じ目にあうのであろう。いや、ひょっとしたら、彼女はもう生きてはいないかもしれぬ。
手も足も離れ離れに血みどろになった、ゾッとするような幻影が、まざまざと瞼の裏に浮かんでくる。
「おれはどうしたらいいんだ。畜生っ、おれはどうしたらいいというんだ」
血のにじむほど唇を噛んで、彼はやり場のない憤怒にもだえた。
「あいつにかかっては、警察でさえ、手も足も出ないではないか。それを、このおれに、どうすることができるというんだ。相手は人間ではない、一匹の野獣だ。その野獣がおれの恋敵なのだ。チェッ、おれはけだものを相手に、一人の女を争っていたんだ」
彼は蒲団の中で、むやみに寝返りをうちながら、いつまでも甲斐なき物思いにふけった。
やがて、疲労のあまり、ついウトウトとしかけると、そこには恐ろしい悪夢が待ち受けていた。彼の眼の前に、白い蘭子の肉体と、骨ばった人間豹のからだとが、あらゆる姿態をつくして踊り狂っていた。そして、最後には、夢の世界が鮮かな血潮の色に塗りつぶされた。彼はまっ赤な夢を見たのだ。まっ赤な殺人の夢を見たのだ。
コトコト、コトコト、いつまでもつづく妙な物音が、ふと彼の眼をさました。風かしら、いや、風ではない。誰かが庭から窓の雨戸を叩いているのだ。
「誰だっ」
どなりつけても、答えはなくて、音はやっぱりつづいている。
神谷は寝間着のままはね起きて、手早く窓の障子と雨戸とをひらいてみた。まさか、そんなものがいようとは、夢にも考えていなかった。何かが軒にぶら下がっていて、それが雨戸を叩くのではないかと調べてみるために窓をあけたのだ。
だが、雨戸をくって、ヒョイとそとを覗くと、彼は驚きのあまり、思わず蒲団の上に飛びしさった。
そこには、降りそそぐ月光を背に受けて、思いもよらぬ恐ろしい物の姿が、じっとこちらをうかがっていたのだ。
そのものの輪郭を縁取る毛は、月光のために銀色にかがやいて見えた。全身、毛におおわれたものであった。本来四つ足で這うべきやつが、ちょうど犬がお預けをするように、前脚を宙に浮かせて、ニュッと突っ立っていた。それは一匹の大きな虎であった。
神谷はあまりに意外な動物の出現に、恐れるよりは、あっけにとられてしまった。いつか、動物園の檻を抜けだした虎の話を聞いたことがある。その非常に珍しい出来事がいま起こったのであろうか。そして、町から町をさまよった猛獣が、偶然にも彼の部屋の窓へやってきたのであろうか。
だが、妙なことに、この虎は、人間とそっくりに雨戸をノックする術を心得ていた。それに、こいつはなぜ後脚で立ち上がっているのだろう。
「アハハハハハ、驚いたかね」
突如として、虎が物をいった。
神谷はそれを聞くと、心底からたまげてしまった。夢にしてもなんという変てこな夢であろう。
「神谷君、君はこの声を忘れたかね。忘れるはずはないんだがね。思い出してみたまえ、ほら、一年ほど前、カフェ・アフロディテで、君がはじめて聞いた声だ」
虎が陰気な声でしゃべりつづけた。
わかった、わかった、こいつは人間豹恩田なのだ。それにしても、彼はいつの間に猛虎の姿になったのだろう。今までは、虎が人間に化けていたのかしら。
「だまっているね。おれの名を口に出すのが、君は怖いのかね。それじゃ名乗ってやろう。おれは恩田だよ。君の愛人を奪おうとした恩田だよ」
そこまで聞くと、神谷は、すべてを了解することができた。こいつは芝居に使う虎の縫いぐるみをかぶっているのだ。そういう変装をして捜索の眼をのがれ、劇場を抜け出してきたのに違いない。
「き、貴様、蘭子を、どこへ隠したのだ」
神谷は精一杯の気力をふるい起こしてきめつけた。
「隠しやしない。蘭子は、もうちゃんと自宅へ帰っているよ。どっさり護衛がついてね。君はその後の出来事をまだ聞いていないとみえるね。おれはしくじったのだよ。とうとう隠れ場所を発見されてね。蘭子を取り戻されてしまったのだよ。ハハハハハ。だが、なんでもないんだ。ちょっと失敗したというまでのことさ」
「それはほんとうか」
「ほんとうとも。ほんとうだからこそ、ちょっと君に警告するために、やってきたんだよ。なに、じき帰るから心配しないでもいい。ここで君を掴み殺すのはわけはないがね。それじゃ、あんまり惜しい気がするのだよ。いずれは君も生かしちゃおかないつもりだが、それは、もっともっと苦しめたあとのことだよ。ハハハハハ」
虎は月光に頸筋の毛を震わせて、人もなげに哄笑した。母屋の家人に聞こえはしないかと、神谷の方がかえってヒヤヒヤするほどであった。
「だが、そんなことよりも、君自身もう少し用心しなくてもいいのかね。たとえば、いま僕が大声で助けを求めたら、君の方が危なくはないのかね」
神谷はだんだん大胆になっていた。
「ウフフフフ、大声を立てるんだって? 君はそんなことできやしないよ。家族の命が惜しいだろうからね。もしここへ誰かが飛び出してきたら、おれは容赦なく掴み殺してしまうぜ」
「いったい貴様は僕になんの用事があるんだ」
「おお、そうそう、すっかり忘れていたよ。蘭子のことさ。おれは一度失敗したくらいで、あの女を諦めやしない。諦めないということを、君に告げ知らせにきたんだ。どうせ君はあらゆる防禦手段を講じるだろう。そうして君がやっきとなればなるほど、おれにとっては思う壺だぜ。つまりだね、君が死にもの狂いに守っている愛人を奪い取って、君を思う存分苦しめてやりたいのさ。ハハハハハ、じゃあ、せいぜい用心したまえ」
言い終ると、彼は突然四つん這いになって、月光の中を、本物の虎とそっくりの歩き方で、ノソノソと庭を横ぎって行った。そして、パッと一と飛びすると、そこの塀を飛び越えて、恐ろしい姿を消してしまった。あとには、やわらかい土の上に、まざまざと猛獣の足跡が残っていた。
神谷は全身脂汗に濡れて、その恐ろしいものを見送ると、今さらむだとは知りながら、警察に電話をかけて、ともかくもこの事を訴えておいた。
その夜は、まんじりともしないで、夜の明けるのを待って、彼は江川蘭子の自宅へ出かけていった。
蘭子は無事であった。床についてはいたけれど、それはゆうべの激動に熱を出したまでのことであった。
神谷はなにかと彼女を慰めながら、縁側の向こうの狭い庭を眺めていた。眺めているうちに、彼の眼が飛び出すばかり大きく大きく見ひらかれて行った。
彼はそこにゾッとするようなものを見つけたのだ。庭の土の上に、彼の家の庭に残っていたのと寸分違わない、大きなけだものの足跡が、三か所ほど、ハッキリと印せられていたのであった。