人間豹

37話 Z曲馬団

4,897字 約10分 2019年10月21日 公開

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 東京市民生活の触手が、田園農民生活の中へ突入し、市民と農民とそれから小工場労働者とが渦を巻いて入れまじっているような、大東京西南の一隅M町の、ほこりっぽい古道具市で有名な広場に、一か月ほどもうちつづけている大サーカスがあった。その名はZ曲馬団。

 その曲馬団の大テントの正面に、きのうから、突如として無気味な絵看板が掲げられた。三間四方もある大看板一杯に、黄色に黒く斑紋(はんもん)美しい猛虎(もうこ)と、まっ黒な大熊とが、双方後肢(あとあし)で立ち上がって、お互いの肉に鋭い(つめ)をうち込みながら、まっ赤な口、まっ白な(きば)()み合わせ、血みどろになって格闘している凄惨(せいさん)の場面が、毒々しい泥絵具で描いてある。

(とら)と熊とがどっちか死ぬまで戦うんだって」

()うか喰われるかだよ」

 絵看板の前の人だかりは、恐ろしい見世物の刻限午後一時が近づくにつれて、刻一刻その数を増して行った。

「さあ、お早くお早く、虎と熊の格闘がいよいよはじまる。これを見落としたら二度と再び見られぬ。孫子の末までの語り草だ」

 木戸口に半纏(はんてん)姿の男が、顔をまっ赤にしてどなっている。

 その木戸口には、ゾロゾロと数珠(じゅず)つなぎの入場者だ。そこをはいると、いつもの見物席のほかに、曲馬の馬場の中まで一面に(むしろ)を敷いた臨時見物席、見渡す限り頭、頭、頭、ギッシリのお客さんだ。それが、シーンと鳴りを静めて、やがてはじまろうとする異常の見世物に、期待の胸をときめかせている。

 正面の一段高い舞台には、古びたビロードのドンチョウが、そのうしろにいるに違いない激情的な生きものを隠して、なにげなく下がっていた。赤茶けた色のドンチョウには、金モールでZという巨大な文字が浮き出している。

「ゴーン、ゴーン、ゴーン……」

 突如として耳を(ろう)するドラの響き。

 一としきり、稲穂の波打つような客席のざわめき。あちこちに起こる咳払(せきばら)いの音。やがてそれもピッタリと静まって、水をうったような広いテントの下。

 スルスルとドンチョウが上がった。

 舞台中央に立った一人の異様な人物、金モールの飾りいかめしい赤ビロードの上衣(うわぎ)、ズボン、同じくピカピカ光るビロード帽子、スペインの闘牛士そのままの扮装(ふんそう)である。しかもその人物の顔のまん中には、これはこれはと驚くばかり立派やかな、ピンと耳のそとまではねかえった、まっ黒な将軍ひげが、物を言うたびごとに、ピョコピョコと動いていた。これぞ猛獣団長大山ヘンリー氏その人である。

 彼は猛獣用の(むち)を両手にもてあそびながら、将軍ひげにふさわしいもったいぶった口調で、しきりと前口上を述べ立てている。

「……さて、いよいよあれなる二つの(おり)を、ピッタリと密着いたし、あいだの(とびら)をひらきまして、(とら)と熊とを一つにいたしまする」

 彼が鞭で指さす舞台後方には、車のついた二つの檻が、奥深く、薄暗く見えて、その一方の檻には、さも精悍(せいかん)な一匹の虎が、狭い鉄棒のあいだを、ノソリノソリ、往ったり来たりしながら、時々「ウオー」とすさまじい咆哮(ほうこう)を発している。もう一つの檻の中には、虎に比べて二倍もあるような黒い大熊が、これはまあなんといくじのないことか、さもさも相手が(こわ)くてたまらないという恰好(かっこう)で、隅っこの方に身をすくめ、すっかりおびえきっているようすだ。

「……熊は臆病(おくびょう)者でござりまする。だが、観客諸君、決してご心配には及びません。ああ見えましても、いざ敵の襲撃を受けますると、彼はたちまちその本性をあらわし、猛然と立ち上がるのでござります。熊はおそらく最初まず張りの()と手を用いるでありましょう。しかして虎は低く()い下がって、そのするどい(きば)(つめ)を存分に(ふる)うでありましょう。さてしばらく()み合いまするうちに、猛獣のいずれかが傷つくは必定(ひつじょう)、さあ、一たん血を見ますると、肉に()えたる彼らは、俄然(がぜん)としてその兇暴(きょうぼう)性を増しきたり、ついには敵の喉笛(のどぶえ)を、バリバリと()い裂かずしてはやまぬのでござりまする」

 将軍ひげの猛獣使いは、そこでちょっと言葉を切って、彼の弁舌の効果を確かめるように、静かに場内を見まわした。

「観客諸君、皆さんは実に果報者でいらせられまするぞ。一頭一万円もしまする猛獣が、傷つき、倒れ、皮を破られ、肉を食い裂かれ、骨となるまでの、身の毛もよだつ光景を、今まざまざとごらんなさるのでござります。いやいや観客各位、そればかりではありませんぞ。猛獣は泣き叫ぶのです。狂乱して逃げまどうのです。ああ、まるで、それは人間のように、か弱い美しい女のように、助けを求めて泣きわめくのです。皆さんの前に、どんなむごたらしい光景が展開いたしますことやら。凄絶(せいぜつ)、惨絶、奇絶、怪絶、おそらくは観客諸君の夢にも想像されぬところでござりましょう」

 ひげの猛獣使いは、何かしらわけのわからぬことを口走った。ただ観客を(こわ)がらせるための誇張にすぎないのであろうか。それとも、彼のこの異様な言葉の裏には、真実何か恐ろしい意味が隠されていたのではあるまいか。

「さて、長口上はこれにとどめ、いよいよ、喰うか喰われるか、猛獣血闘の実演をごらんに供するでござりましょう」

 (むち)(しゃ)に構えて、気取ったお辞儀をすると、金ピカ猛獣使いは、舞台の隅にしりぞいて、道具方に合図をした。

「ゴーン、ゴーン、ゴーン……」

 またしても鳴り響くドラの音。

 舞台に走り出た八人の男は、二つの(おり)に四人ずつ、ゴロゴロとそれを滑らせて、舞台前方に引き出し、檻と檻とをピッタリ合わせて、厳重な金具をはめた。

 大山ヘンリー氏が、またしても一歩前に進んで、丁寧(ていねい)な御挨拶(あいさつ)。すると、男どもの手で、檻と檻とのあいだの二枚の(とびら)が、ガラガラと引き上げられた。たちまちにして、二つの檻は一つとなった。

 明智小五郎と神谷青年とが、浅草公園横の大通りで、タクシーを呼び止めたのが、ちょうどその時分であった。

「M町の三つまただ。料金はいくらでも出す。五分間で飛ばしてくれたまえ」

 明智が車上の人となるや、運転手にどなった。

「五分間ですって! いやあ、そいつあ無理ですよ。どんなに飛ばしたって、十分はかかりまさあ」

 だが、運転手はまだ若いすばしっこそうな男だった。

「速力の規定なんか無視しても構わん。僕は警察関係のものだ。決して面倒はかけない」

「だって、市内ではいくら飛ばそうたって、先がつかえてまさあ」

 運転手はもうスピードを出しながら、どなり返す。

「よし、それじゃ、懸賞つきだ。前の自動車を一台抜くたびに十円だ」

「十円? 心得たっ。だが、旦那(だんな)、何十台抜くかわかりませんぜ。あとで冗談だなんて言いっこなしだぜ」

 たちまち車は矢のように飛んだ。

 道行く人々が急流のように後方に流れ去る。ああ、一台又一台、電車も、自動車も、トラックも、すれ違ってはあとに残されて行く。十字路の信号燈を無視したことも一度や二度ではなかった。

「コラ、待てっ!」

 大手をひろげてどなっているおまわりさんのまっ赤な顔が、しかし、みるみる小さく小さく遠ざかって行く。

 舞台では一つになった(おり)の中で、二匹の猛獣の(にら)み合いがつづいていた。睨み合いといっても、熊の方はさいぜんの姿勢のまま、首を垂れてじっとうずくまったまま、死んだように動かない。それに反して精悍(せいかん)猛虎(もうこ)は、長い尾をクルックルッと表情たっぷりに廻転(かいてん)させながら、首を低く、身を縮めて、襲撃の前奏曲、低い(うな)り声をゴロゴロと鳴らしている。

「熊あ、熊あ、しっかりしろっ!」

 へんてこなかけ声が客席の一隅に起こった。

虎公(とらこう)、やっつけろ。ほらっ、飛びかかれっ」

 また別の声援が、突拍子(とっぴょうし)もない声で響きわたった。

 だが、猛獣はなかなかおだてに乗らず、(にら)み合いをつづけたまま動かない。ただ、徐々に徐々に、猛虎(もうこ)(うな)り声が高まって行くのが感じられた。

 たまりかねた観客席から、ついに怒濤(どとう)のような喊声(かんせい)()き起こった。

「やれ、やれえ……」

「やっつけろい……」

「ワッショイ、ワッショイ、ワッショイ……」

 猛獣よりも先に、見物が昂奮(こうふん)してしまった。大テントの下は、今や汗みどろの激情のルツボであった。

 満を持して動かなかった猛虎も、この騒擾(そうじょう)刺戟(しげき)されないではいられなかった。彼は一刹那(いっせつな)、弓のように身を縮めたかと思うと、たちまち一発の巨大な弾丸となって、熊を目がけて飛びかかっていった。

「ワーッ……」

 と上がる喊声、見物席は総立ちとなった。だが、なんというあっけなさ。大熊はまったく無抵抗であった。虎の一撃にゴロリと倒されるとそのまま、四肢(しし)を上にして、仰臥(ぎょうが)してしまった。

「熊あ、しっかりしろっ」

 (とら)は相手の無抵抗に、かえっておびえたように、又もとの位置にしりぞいて、第二の襲撃の姿勢を取り、じっと敵の動静をうかがっている。

 すると、その時まで、まるで眠っているか死んでいるとしか思えなかった大熊が、仰臥のままモガモガと、四肢(しし)を動かしはじめた。そして、やっとのことでまともに起き直ると、じっと虎の方を見つめていたが、ああ、これはどうしたというのだ、熊はまるで気でも違ったように(おり)隙間(すきま)からそとへ逃げ出そうと、みじめにもがきはじめるのであった。それと同時に、どこからか、かすかにかすかに身の毛もよだつ女の悲鳴が、客席にひろがって行った。

 だが激情の見物たちは、まだその悲鳴に気づかなかった。騒擾(そうじょう)の中で聞き取るには、あまりにもかすかな声であったから。

 熊は檻のそとへ出られぬことがわかると、いきなり後足で立ち上がり、飛んだり跳ねたり、気違い踊りをはじめた。踊りながら、広くもあらぬ檻の中を、縦横無尽に()けまわった。

 そのあいだ、いぶかしい女の悲鳴は切れてはつづいていた。()と声、一と声とその悲しさを増してつづいていた。

「おい、どっかで女が泣いてるじゃねえか」

「ウン、そうよなあ、おれもさっきから不思議に思っていたんだよ」

 見物席の騒擾の中に、あちらでもこちらでも、ボソボソと、そんなささやきが取りかわされた。

 しばらくは熊の狂態にあっけに取られて、攻撃を忘れていたかにみえる猛虎(もうこ)も、そうそうはじっとしていなかった。そればかりか、敵の狂態が(はげ)しい昂奮(こうふん)剤となって彼の闘志を刺戟(しげき)した。

「ウオーッ……」

 ただ一と声、凄惨(せいさん)咆哮(ほうこう)が響いたかと思うと、虎は矢のように第二の突撃をこころみた。

 黄色と黒とが、一瞬にして一団となり、クルクルと(おり)の中をころがりまわった。

「ワーッ、ワーッ」

 と上がる喊声(かんせい)、だが、その喊声を縫うようにして、さっきからの哀れな女の叫び声が、かん高く、細く細く、見物たちの耳の底に突き通った。

 ああ、一体どんな女が、どこで泣き叫んでいるのであろう。ともすれば、それは可哀(かわい)そうな大熊が、救いを求めて、悲鳴を上げているのではないかとさえ幻覚された。でも、まさか、あの図体の猛獣が人間の若い女みたいな泣き声を立てるはずもないのだが。

「キーッ」

 と悲鳴のようなブレーキの音を立てて、明智たちの乗っている自動車が急停車した。

「チェッ、ご丁寧(ていねい)に貨物列車ときてやがらあ」

 運転手が憎々しげに舌うちしたのももっともであった。彼らの前には、黒と黄のだんだら染めの交通遮断機(しゃだんき)が長々と横たわり、その向こうを、まっ黒な機関車が、ゼイゼイ息を切らしながら、何十台という長い長い貨物車を引っぱって、ゴットンゴットン、さも呑気(のんき)らしく通過していたのである。

「あっ、しまった。神谷君、運の尽きだ。見たまえ、もう一時を十五分も(まわ)っている。ひょっとしたら間に合わないかもしれん」

 明智がまっ青な顔をして、眼を血走らせて、うめくように言った。

 だが、神谷青年にはその意味がよくわからなかった。

「さっきから聞こう聞こうと思っていたのですが、いったい僕たちはどこへ行くんですか。間に合わないというのは何に間に合わないのですか」

「僕の家内の命の瀬戸ぎわです。殺されかけているんです。探偵のくせに女房一人救えないなんて……畜生(ちくしょう)、どんなことがあっても、救ってみせるぞ」

 彼は燃えるような敵意をこめて言い放ったが、次の瞬間には、又しても不安と焦慮(しょうりょ)にくずおれていた。

「ああ、しかし、だめかもしれない……この長い長い貨物列車が、僕の悪運を象徴しているのかもしれない」

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