人間豹

39話 大空の爆笑

7,544字 約15分 2019年10月21日 公開

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 見物たちはまだおしだまっていた。大テントの下はまるで墓場のように静まり返っていた。だが、その沈黙の中に、何かしらお化けみたいな(はげ)しい疑惑がただよいはじめているように見えた。

「これがお芝居なのかしら。お芝居にあれほど真に迫った恐怖の表情ができるものだろうか。第一いくら商売といっても、美しい肌に、あんなひどい傷をつけられて、平気でいるなんて、常識では考えられないことだ」

「ひょっとしたら、あの女は猛獣使いでもなんでもない、素人(しろうと)娘かもしれないぞ。すると、これはまあなんて恐ろしいことがはじまったものだろう。大群集の面前での人殺しじゃないか。しかも、猛獣の(きば)にかけて、一寸だめし五分だめしの、無残この上もない人殺しじゃないか」

 見物たちの頭の中に、そんな判断力が、ぼんやりとよみがえりかけていたとき、突如として、どこかしら高い所から、男の笑い声が降ってきた。カラカラという()からびたような、しかし、ひどく傍若無人な高笑いであった。

 千百の顔が、一斉(いっせい)に天井を見上げた。

 天井には、曇り日の空のような白っぽいテントがあった。テントのすぐ下には、荒縄(あらなわ)でくくった丸太棒(まるたんぼう)が縦横無尽に交錯(こうさく)していた。その丸太棒の一本に、ポッツリと(すずめ)のようにとまっている人の姿があった。そいつが、舞台の惨劇を見おろして、さもおかしくて(たま)らないというふうに、ゲラゲラと笑っているのだ。その男の顔立ちは、遠くてはっきりしなかったけれど、見物たちは、彼のつぶらな両眼がまるでけだもののように、青く燃え立っているのを見のがさなかった。(りん)のように光る眼だ。とうとう、あいつが姿を現わしたのだ。

 群集はそれを見ると、一そう気違いじみた昏迷(こんめい)におちいらないではいられなかった。気の弱い人々は、一目散にテントのそとへ逃げ出したい衝動を感じた。

 舞台の(おり)の中では、美しい半人半獣が、今は気力も尽きはてて、グッタリと倒れたまま動かなかった。気を失ったのであろう。虎の鼻面(はなづら)がすぐ眼の前に迫っても、声も立てなければ、身動きさえもしなかった。その白蝋(はくろう)のように美しい肌の上に、一条の血汐(ちしお)が、赤い(へび)となってからみついていた。

 檻の横手にたたずむ猛獣団長の顔はドス黒く昂奮(こうふん)して、その偉大なる将軍ひげは激情にうち(ふる)え、つぶらな両眼はまっかに充血していた。彼は手にする(むち)を、物狂わしく空中に振りつづけた。

 ヒューッ、ヒューッという(あらし)のような音響が、血に()えた虎を、いやが上にもいらだたせた。彼は見物席に向かって()と声高く咆哮(ほうこう)したかと思うと、いきなり二本の前脚を倒れている美女の胸にかけて、その喉笛(のどぶえ)に、今度こそは生きた人間の喉笛に、(きば)を突き立てようとした。

 ガブリ、ただ(くび)(あご)の筋肉が一と縮みすれば事は終るのだ。一個の人命が断たれるのだ。

 見物たちのうちに、これをしもお芝居と考えるものは、一人もいなかった。千百の顔が、一刹那(いっせつな)ハッと色を失って思わず舞台の上から眼をそらした。次に起こるべきあまりにもむごたらしい光景を、正視するに忍びなかったのだ。婦人客は両手で眼を(おお)った。

 読者諸君、われらのヒロイン明智文代さんの一命は、かくして猛虎(もうこ)の筋肉の一と縮みにかかっているのだ。諸君もすでに推察されたように、人間(ひょう)親子は、美しい明智夫人を誘拐(ゆうかい)して、熊の毛皮をかぶせ、大胆不敵にも、公衆の面前で、見るもむごたらしい悪魔のリンチを行なおうとしているのだ。

 天井の丸太棒につかまった「人間豹」恩田と、猛獣使い大山ヘンリーになりすまして、鞭をうち振るその父親とは、数丈の上と下とで、ひそかに顔を見合わせて、わが事成れりと(うなず)き合った。そして、父親の鞭は、いよいよその音を高め、「人間豹」の笑い声はますます傍若無人になりまさるのであった。

 その時である。

 観客たちは、何かしら頭の(しん)を貫くような、一瞬の衝動を感じた。おやっ、どうしたんだ。ああ多分やられたのに違いない。彼らは、鮮血にまみれた(とら)の顎を想像しながら、でも(こわ)いもの見たさに、そらしていた眼を、一斉(いっせい)に舞台に向けた。

 すると、これは一体何事が起こったのだ。殺されていたのは、人間ではなくて虎の方であった。彼は脳天から一と筋の血を(したた)らして、グッタリと横たわっていた。もう身をもがく力もない。おそらく一瞬にして息絶えたものであろう。

 美しい半人半獣の方は、やっぱり失神したままであったけれど、肩の()き傷のほかにはなんの別状もなく、危くも虎の顎をのがれたのである。

 丸太棒の上の笑い声がパッタリとやんだ。大山ヘンリー氏の(むち)が動かなくなった。彼は何がなんだかわからず、キョトンとして見物席を(なが)めていた。

 すると、彼の視線の中を、見物席をかき分けながら前に進んでくる人物があった。職工姿の明智小五郎だ。神谷青年だ。それから制服私服の一団の警察官だ。言うまでもなく、危機一髪の(さかい)猛虎(もうこ)を射殺した名射撃手は明智であった。彼の右手に握られたコルト拳銃(けんじゅう)から、名残りの白煙がかすかに立ち昇っていた。

 彼のあとにつづく警官は、明智の電話によって恒川警部が手配してくれた、K警察署からの先発隊であった。明智がZ曲馬団の木戸口に着いた時には、彼らはもう自動車を降りて明智の到着を待ち構えていた。

「明智さんだ。明智さんだ」

 変装はしていたけれども、さすが大衆の眼早さで、見物席のどこからともなく、名探偵讃美の声が起こった。彼らは新聞記事によって、明智小五郎と「人間(ひょう)」との対立をよく知っていた。明智夫人誘拐(ゆうかい)事件についても、けさの新聞を読んだばかりだ。その明智探偵が、物々しい警官隊と共に乗り込んできたからには、怪人「人間豹」がこの小屋の中に(ひそ)んでいることは十に一つも間違いはない。いや、それどころか、あの(おり)の中で虎の餌食(えじき)になろうとした美しい人は、きっと明智夫人文代さんにきまっている。ああ、なんという恐ろしい場面に出くわしたものだろう。敏感な人々は、たちまち事の真相を悟って身震(みぶる)いを禁じ得なかった。

 大山ヘンリーに変装した「人間豹」の父親は、明智の姿を認めると、サッと顔色を変えて逃げ出そうと身構えたが、すばやい警官隊は、むろんその余裕を与えず、ドカドカと舞台に()け上がって、彼のまわりを取り囲んでしまった。

 するとさすがは老怪物、逃げ腰になっているのをシャンと立て直して、将軍ひげを震わせながら、声のない笑いを笑った。そして、ゆっくりゆっくりズボンのポケットに手を入れると、一挺(いっちょう)の小型ピストルを取り出して、警官たちの鼻の先につきつけるのであった。

 その頃、場内は津波のような混乱におちいっていた。木戸口に殺到する群集のわめき声、将棋(しょうぎ)倒しの下敷きになって悲鳴を上げる老人、泣き叫ぶ女子供、その騒然たる物音の中に()ときわ高い怒号の声が、彼方此方(かなたこなた)に響きわたっていた。

「人間豹だ」

「人間豹があすこにいる」

「ああ、逃げ出した。人間豹は屋根の上へ逃げ出したぞ」

 見上げると、天井に交錯(こうさく)した丸太棒(まるたんぼう)の上を、さいぜんの笑い声のぬしが、一匹の黒猫(くろねこ)のように、眼にも見えぬ早さで走っていた。(ある)いは縦によじ登り、或いは斜めにすべり、或いは横に綱渡りをして、丸太棒から丸太棒へと、伝い伝って、彼はついに、テントの裂け目から屋根の上に出てしまった。

 透き通って見える白い帆布(ほぬの)の上を、動物とも人間とも見分けのつかぬ奇怪な黒影が、丸くなって、飛ぶがごとく()ねるがごとく走って行く。

 今や場内に居残った大群集は残らず「人間豹」の敵であった。彼らは声を(そろ)えて、逃げ行く悪魔を(はや)し立てた。気の早い兄いたちは、二人三人と、勇敢(ゆうかん)にも丸太棒をよじ登って、「人間豹」を追っかけはじめた。Z曲馬団の人たちもおくれはしない。道具方の青年、空中曲芸の軽業師(かるわざし)などが四人五人、明智小五郎の指図を受けて、猿のように天井へと()け上って行った。

 Z曲馬団と「人間豹」親子とは、別に深い関係があるわけではなかった。ただ二匹の猛獣をつれた親子のものが、西洋帰りと称して、Z曲馬団に取っては非常に有利な条件で、臨時加入を申し込んだものだから、殺人犯人とは夢にも知らず、その申し込みに応じて、宣伝などをしたまでであった。したがって、Z曲馬団の全員も、今は決して「人間豹」の味方ではなかった。

「そとへ(まわ)れ、そとへ廻れ、人間豹は屋根から飛び降りて逃げる気だぞ」

 群集の叫び声に教えられるまでもなく、明智はすでにその手配をしていた。警官隊の一部と曲馬団の男たちが、テントのそとへ飛び出して、小屋の周囲に散兵線を敷いた。明智自身も彼らのあとにつづいてそとに出ようとした。そとの広場に立って、屋根の上の捕物(とりもの)を監視したいと思ったのだ。だが、彼がそうして木戸口へ急いでいるとき、うしろの舞台で、突如として一発の銃声が聞こえたかと思うと、人々の(はげ)しい(ののし)り声が爆発した。

 ハッとして振り向く眼の前に、一つの悲劇が終っていた。将軍ひげいかめしい闘牛士は、金モールの胸から血を流して不恰好(ぶかっこう)にくずおれていた。彼は包囲の警官たちを威嚇(いかく)していたピストルで、われとわが胸を射貫(いぬ)いたのだ。運の尽きを悟ってか、悪魔に似合わぬいさぎよい最期(さいご)であった。

 ちょうどそのとき、又しても一隊の警察官が、木戸口からなだれ込んできた。

「おお、明智君、奥さんは大丈夫か」

 先頭に立った恒川警部が、()ずそれを尋ねた。

「ウン、やっと間に合った」

 明智は舞台の一方を(あご)でしゃくって見せた。そこには、曲馬団の人たちの手で、(おり)から助け出された文代夫人が、まだ意識を失ったまま、座蒲団(ざぶとん)を積みかさねた上にグッタリとなっていた。

「だが、残念なことに、犯人の一人が自殺してしまった」

「ああ、そこに倒れている……するとあれが恩田のおやじだね」

「そうだよ。猛獣使いに化けていたんだ」

「で、息子(むすこ)の方は?」

「屋根の上へ逃げ出した。あれを見たまえ」

 明智が指さす大テントの天井には、右往左往する捕物(とりもの)の人々が、異様な影絵となって入り乱れていた。

「そとへ出てみよう」

 明智と恒川警部と新来の警官たちとは、大急ぎで木戸口を出ると、見世物小屋のうしろの広場へ()けつけた。そこは、先に配置された警官や、曲馬団員や、帰りそびれた見物たちで、黒山の人だかりであった。

 明智たちは、それらの群集のうしろの小高い場所に立って、テントの屋根の斜面上での、(はげ)しい捕物を監視した。

 まっ黒な背広を着た「人間(ひょう)」は、彼の本性の四つん()いになって、広いテントの白地の上を、縦横無尽に()ねまわっていた。だが、追手(おって)の中には、野獣にも負けぬ軽業(かるわざ)の名手が、二人も三人もまじっている。その上、逃げるのは一人、追っ()けるのは十人に近い人数だ。さすがの「人間豹」も徐々に徐々に、屋根の隅へと追いつめられて行った。

「いよいよあいつも運の尽きだね。飛び降りるか、でなきゃあ……」

 恒川警部がそんなことをつぶやいた時、まるで言い当てでもしたように、空の黒豹は、屋根の端からすばらしい跳躍をしたのである。

 四つん這いの黒いからだが、尺とり虫のように縮んだかと思うと、やにわにサッと延びて、空中に見事な弧を描いた。

 それを見ると、地上の群集は「ワーッ」と叫んで、逃げ足立ったが、不思議なことに、いつまでたっても、黒豹(くろひょう)は墜落してこなかった。

「アッ、風船だ。風船へ逃げた」

 誰かのどなり声に、人々は又一斉(いっせい)に空を見上げた。すると、これはどうだ。逃げる場所もあろうに、「人間豹」はアド・バルーンの綱にすがりついて、屋根のそとの空中にぶら下がっていたのである。

 広告風船は、風にゆらめきながら、銀色の巨体を、(はる)かの空に浮かべていた。風船の下には「猛獣大格闘……Z曲馬団」の紅文字が、ヒラヒラとひらめいて、そこからスーッと流れた一条の綱が、ちょうど明智たちの立っている広場の片隅、風船昇降用のロクロまでつづいていた。

「ロクロを()け、ロクロを捲け」

 人々は叫びながら、ロクロに()け寄って、三人四人五人と力を合わせ、ヨイトマケ、ヨイトマケ、広告風船の綱を捲きとりはじめた。

 あわれ稀代(きだい)の殺人魔「人間豹」も、もはやのがれるすべはなかった。ロクロの廻転(かいてん)につれて風船の綱はみるみる縮まって行く。そして結局風船が地上におろされたとき、「人間豹」も逮捕の運命をまぬがれることはできないのだ。この大捕物の大団円も、もはや五分、三分の後に迫っていた。

 だが、綱につかまった「人間豹」は、(あきら)めわるく上へ上へと昇って行く。ロクロが一尺捲きとれば、彼も一尺昇るのだ。そして、巨大な風船が、テントの屋根とすれすれまで引きおろされた時にも、黒豹は依然として元の空中にただよっていた。すでに「Z曲馬団」の四文字を昇りつくし「大格闘」の大の字のあたりにしがみついていた。

「オーイ、むだな骨折りをさせるな、早く降りてこい」

 地上の警官たちが業をにやして、空中の犯人に呼びかけた。

「ワハハハハハ、諸君、君たちこそむだ骨折りはよしたまえ」

 空中からの応答が、風に吹き飛ばされながら、かすかに聞こえてきた。

「ああ、明智君、恒川君もそこにいるんだね。ご苦労さま。だが、君たちは又むだ骨折りをするばかりだぜ」

「人間豹」は赤い「大」の字の前にぶら下がって、傍若無人の憎まれ口を(たた)いた。

「馬鹿野郎、文句はあとでゆっくり聞いてやる。早く降りてこおい。往生ぎわがわるいぞう」

 警官が負けずに応酬した。

「アハハハハハ、君たちおれをつかまえた気でいるのかい。ハハハハハ、こいつはお笑い草だ。なぜといってね、おれは決してつかまらないからな」

 叫ぶかと思うと、空中の恩田の右手にキラリと光るものがあった。大型ナイフだ。そのナイフが彼の腰のあたりの綱の上を(はげ)しく左右に動くよと見る間に、たちまち綱はプッツリと切断された。切断されるが早いか、今までロクロと数人の力とで地上に引きつけられていた風船は、まるで鉄砲玉のように恐ろしい早さで天空に舞い上がって行った。

「ワハハハハハ明智君、あばよ。恒川君、あばよ。ワハハハハハ」

 飛び上がる風船と共に、悪魔の哄笑(こうしょう)は、スーッと、尾を引くように、(はる)かの天空へと消えて行った。しばらくのあいだは、銀色の風船の下に、片手と両足でつかまった、小さな黒い人の姿が、地上の群集に向かってしきりと手を振っているのが(なが)められたが、やがてそれも見えなくなって、ただゴム(まり)ほどの銀色のものが、風のまにまに白い雲のあいだを縫って、東京湾の方角へ流れ流れて行くのを見るばかりであった。

 その翌日、相模半島の漁船が、沖合遥かの海上に、銀色の大ダコのような怪物がただよっているのを発見した。調べてみると、それはZ曲馬団のアド・バルーンに違いないことがわかったが、「人間(ひょう)」恩田の死体は、ついにどこの海岸に打ち上げられたという報告にも接しなかった。彼は風船と悪運を共にして海底の藻屑(もくず)と消えたのであろうか。それとも、運命強く通りがかりの船などに救われ、まだこの世のどこかの隅に、あの燐光(りんこう)の眼を光らせて、再度の悪事を計画しているのであろうか。

 だが、それから一年以上のあいだ、われわれは彼の消息をまったく耳にしないのである。たとえ生き永らえているにせよ、人間獣の害悪は()()ずこの世から除き去られたと言わねばならなかった。

 かくして、私立探偵明智小五郎の名声は(ひと)り高く、彼の美貌(びぼう)の妻文代さんの()しき運命の物語はいたるところの話題にのぼり、長く人々を感動せしめたのである。

 ただここに一つ、永遠に解きがたき(なぞ)が残されていた。その眼は無気味な燐光を放ち、その(きば)は野獣のごとく鋭く、その舌は猫属のささくれを持つ怪物「人間豹」が、いかにしてこの世に生を()けたかという疑問である。事件の後、世間には人獣混血の説が喧伝(けんでん)された。恩田は生るべからざるに生れた地獄の子であったというのだ。彼らの論拠(ろんきょ)は、恩田の父親がなぜあれほど豹を愛したか。その豹を射殺しなければならなかった時、なぜあれほどまでに悲しんだか、そして、寵愛(ちょうあい)の豹を失った彼が、一年の後、浅草の動物園から、又しても同じ動物を盗み出さなければならなかった理由はなんであるか、というような漠然とした事柄にすぎなかった。言うまでもなく、単なる臆測(おくそく)である。科学の(がえん)じない臆測である。

 そこには、恩田の父親だけが握っている、恐ろしい秘密があったのかもしれない。だが、その父恩田はもはやこの世の人ではなかった。彼の自殺と共に、「人間豹」の奇怪事は、千古に解きがたき謎として残されたのである。

 では、あの浅草の動物園から盗み出した豹は、いったいどうなったのか。読者諸君は、それをいぶかしく思われるに違いない。だが、あの豹は父恩田と運命を共にして、サーカスの舞台で最期(さいご)をとげたのだ。檻の中の(とら)と見えたのは、実はお化粧をした豹であった。犯人たちは盗み出した豹の始末に困じ果てたに違いない。あのような眼立ちやすい生きものを連れて、人眼をくらましていることはまったく不可能であった。豹を隠さなければならない。だがどうして? 魔術師はそれについて実に奇想天外な手段を思いついたのであった。

 彼らは人間の白毛染め薬を用いて、豹の斑紋(はんもん)を巧みに染めつなぎ、動物のからだ一面に虎斑(とらふ)を描き上げたのだ。人々は豹を探している。虎を探しているのではない。それゆえ、虎を連れた猛獣使いが突如として東京に現われたとしても、ただちにそれと疑われる気遣いはなかったのだ。

 彼らはその虎と、文代さんを包んだにせ物の熊とを連れて、伝手(つて)を求めてZ曲馬団に加入した。むろん彼らの虎にも、熊にも、曲馬団の人たちを決して近寄らせなかった。かくして二重三重の目的が達せられた。恩田父子と豹とが安全に身を隠し得た上に、誘拐(ゆうかい)した文代さんまでも、まったく人眼のとどかぬ熊の(おり)の中に監禁しておくことができたのだ。いや、そればかりではない。猛獣格闘の見世物と称して、はれがましい大群集の面前で、その文代さんを豹の餌食(えじき)にして見せるという、無残きわまる大芝居さえ演じることができたのである。彼らはこの悪魔の虚栄心に、殺人演技の魅力に、なかば狂せるがごとく、ついにはわが身の危険をさえ忘れ果てたかのように見えた。

「人間豹」事件は、明智小五郎が取り扱った多くの犯罪事件の中でも、最も奇怪な色彩のものであった。当の被害者が、愛妻の文代さんであったという意味だけでも、彼には長く忘れがたい印象となって残った。

「僕はね、あの風船に乗った恩田のやつが、空の上から僕たちをあざ笑った気味のわるい笑い声が、いつまでも耳に残って離れないのだよ。夢に見るのだよ。おそらく一生涯あの声は忘れないだろうね」

 明智はそののち恒川警部に会うごとに、きまったようにそれを言い出すのであった。

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