人間豹

9話 仮面時代

4,474字 約9分 2019年10月21日 公開

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「レビュー仮面」。まったくそれは奇態な流行であった。

 人間というやつは、昔々から、生れついた生地(きじ)の顔を、人前にさらすことを、ひどくはにかむ傾向がある。日本では頭被(かつぎ)編笠(あみがさ)頭巾(ずきん)の類が、その時々の人間の顔を隠してきた。西洋でも、男という男がかつらをかぶった時代がある。女という女が厚い面紗(ヴェール)をかけた時代がある。仮面舞踏会などが人々に喜ばれるのも、花見の客に眼かつらが売れるのも、同じ人間心理の現われに違いない。

 その人間の弱点につけ込んで、考案されたのが「レビュー仮面」である。はじめは不良青年か何かが、気まぐれに、おもちゃのお面をかぶって、レビュー劇場の客席にはいったのがきっかけであった。一人まね、二人まね、チラホラと仮面見物が人の眼を()くころには、機敏な商人が「レビュー仮面」と銘うって、商標登録を申請し、同一型のセルロイド面をドッと売り出したものである。

 若い見物たち、(こと)に学生や商店員たちは、得たりかしこしと、このお面を利用し、その(かげ)に顔を隠して、舞台の踊子を、思う存分野次(やじ)り飛ばした。女学生は女学生で、このお面のカムフラージュによって、あこがれのボーイッシュ・ガールを、声を()しまず声援することができた。はてはおとなの男女までも、少しばかり面はゆいレビュー見物のてれ隠しに、仮面を利用する者が続々とふえて行った。

 今や「レビュー仮面」は時の寵児(ちょうじ)であった。発売元の出張所が、劇場の入口に設けられ、見物人は、切符と一緒に、その一箇(いっこ)十銭のセルロイド面を、買わねばならないようなことになってしまった。

 大劇場の観客席は、階上も階下も、まったく同じ表情をした、仮面の群衆によってうずめられた。見物席の何千人というお(そろ)いの顔が、どんなすばらしい舞台よりも、一そうすばらしい見ものであった。

 その上、「レビュー仮面」の表情というものが、又、実に巧みにできていた。それは、お神楽(かぐら)のお多福面をもっと男性化して、口を横に広くひらいて、ニヤニヤと笑わせた、単純な打ち出し面であったが、その笑い顔が、さもさもおかしそうな表情で、お面をかぶった同士が顔を見合わせると、お互いのお面の中で、クックッと笑い出さないではいられぬほど、真に迫ってできていた。

 お面の流行が、劇場内の空気をほがらかにしたことは非常なものであった。舞台の踊子たちは、いつもえがおを絶やさなかった。それに呼応するように、何千人の見物が、まったく同じ笑顔でニコニコと笑っているのだ。舞台も見物席も、別天地のように明るくなった。お面の(うわさ)にひきつけられて、レビュー(ぎら)いの人々までも、続々と見物に押しかけてきた。どの劇場も、レビューとさえいえば満員であった。つまり、「レビュー仮面」は、もう今では、劇場経営者のマスコットとさえなってしまったのだ。

 いや、そればかりではない。劇場内の「レビュー仮面」は、やがて徐々に街頭に進出しはじめた。

 銀座の夜をそぞろ歩きする過半の人々が、同じ笑いの表情に変って行った。電車の中も、地下鉄の中も、同一表情の男女によってうずめられた。大げさにいえば、東京じゅうが、同じセルロイドの顔でニコニコと笑い出したのである。

 そういう流行が()る程度に達すると、一方に弊害(へいがい)の生ずるのは止むを得ないところであった。横着ものが、お面に隠れて、さまざまのいたずらをはじめたというのは、さもありそうなことであるが、更に困ったことには、このお面が、悪漢たちの大っぴらな覆面として役立つことがわかってきた。仮面の万引、仮面の空巣(ねら)い、はては「仮面強盗」という名称さえも、新聞の社会面に現われはじめた。

 前章の、江川蘭子が、まったく見知らぬ男と車を共にし、握手までかわしたという椿事(ちんじ)も、そういう仮面流行の際であったからこそ、起こり得たことであった。

「くだらないお面なんかがはやるもんだから、そういういたずらを思いつくやつが出てくるんだ。君、よっぽど注意しなくちゃだめだぜ。もしそいつが悪人だったら、握手ぐらいですみやしないんだから。これからは、充分僕だってことを確かめてから車に乗るんだぜ」

 神谷は、もしや獣人恩田の仕業(しわざ)ではないかと、かすかな疑いを抱いたものだから、それとなく、くどいほど注意を与えた。

 蘭子も、すっかり(おび)えてしまって、それからは充分気をつけてはいたのだけれど、まさか人間(ひょう)なんて怪物が、この世に存在しようとは思いもよらず、それに、相手の欺瞞(ぎまん)手段が巧妙をきわめていたので、或る夜のこと、ついまたしてもにせものの車に乗り込んでしまった。

「ラン子、今夜は家へ帰る前に、ちょっと寄り道をしようね」

 蘭子が神谷と信じていた、その仮面の男が、暗い車内で、風を引いたような声で言った。

「ええ、でも、どこへ寄るの?」

「ウン、じき近くだよ。ちょっと君を驚かせることがあるんだ。むろん、(うれ)しくって驚くことなんだよ」

「そう、なんでしょうか。思わせぶりね」

「ウン、ウン、思わせぶりさ。フフフフフ、君、きっと驚くぜ」

 蘭子は、やっと男の声がいつもと違っているのに気づいた。

「あら、あなた、風引いたの。声が変よ」

「ウン、春の風だよ。陽気があんまりいいんで、風を引いちゃった」

「あなた、だあれ?……神谷さんなんでしょうね」

「ハハハハハ、何を変なこといってるんだ。きまってるじゃないか。それとも誰か、ほかにも迎えにくる人があったのかい」

「そのお面、取ってくださらない。気味がわるいわ、ニヤニヤ笑っていて」

「ウン、これを取るのかい。取ってもいいよ。だが、ちょっと待ちたまえ。君に見せるものがあるんだ。ほら、これ、君に上げるよ」

 男は言いながら、ポケットから小さなサックを取り出して、パチンと(ふた)をひらいて蘭子の前にさし出した。薄暗い豆電燈にも、キラキラと五色に光る、一カラットほどのダイヤモンドの指環(ゆびわ)だ。

「まあ、美しい。これ、あたしにくれる?」

 レビュー・ガールは贅沢(ぜいたく)に慣れていなかったので、数万円はするであろうこの高価な贈り物に、すっかり昂奮(こうふん)してしまった。

「ウン、(もら)っていただくんだよ。つまりエンゲージ・リングってやつさ。受けてくれるかい」

「ええ、受けたげてよ。ありがと」こみ上げてくる(うれ)しさに、いつしか仮面のことも忘れてしまって、「あたしを驚かせるっていうの、これ?」

「いいや、これはつまりプレリュードなんだ。ほんとうに君をアッといわせるものは、まだ別にあるんだよ。大切にあとまで取っておくんだよ」

 そんな会話のあいだに、車はいつしか、劇場から程近い浜町(はまちょう)の、とある意気な門構えの家へ着いていた。

 あらかじめ言ってあったものとみえて、仮面のままの男を怪しみもせず、女中が案内したのは、奥まった六畳と四畳半の小座敷である。

 気取った塗り物の円卓を中にはさんで、座につくと、やがて運ばれるお茶、お菓子、そして、お酒。だが、男はまだ仮面を取ろうともしないのだ。

「ここ待合でしょう。おかしいわね。あたしこんな服なんかで、変でしょう」

 断髪洋装のレビュー・ガールと待合の小座敷とは、いかにも変てこな取り合わせであった。

「ウン、そんなことどうだっていいよ。さあ、さっきの指環お出し、僕がはめて上げるから」

「ええ」

 蘭子はいわれるままに、その指環のサックを差出したが、ふと心づいて、

「あら、まだお面かぶっていらっしゃるの。お座敷の中でおかしいわ。取ったげましょうか」

「まあ、いいから、手をお出し、指環の方を先にしよう」

 男の薄黒い毛むくじゃらの手が、ニュッと伸びて、蘭子の左手を(つか)み、指環をはめようとした。その手を一と眼見ると、彼女はギョッとして、思わず中腰になった。

「いけない。放してください。あなた誰です……神谷さんじゃない……早く、早く、そのお面を取って、顔を見せてください」

「ハハハハハ、そんなにせき立てなくたって、いま見せてあげるよ。ほら、君とエンゲージした男っていうのは、つまり僕なのさ」

 片手では、もう指環をはめてしまった蘭子の手をグッと握ったまま、一方の手で、「レビュー仮面」をむしり取った。その下から現われたのは、蘭子には初対面であったけれど、まぎれもない人間(ひょう)、恩田の()せた黒い顔であった。

「ハハハハハ、ずいぶん苦労をしたもんだよ。神谷君とそっくりの服を注文したり、髪をオール・バックにしたり、声を作ったりさ。だが、君がエンゲージ・リングを受けてくれたので、僕はやっと安心したよ。まさか君は、その指環を返そうとはいうまいね」

 蘭子は恩田の恐ろしさをまだ知らなかった。ただ、なんとなくいやらしい男と感じたばかりだ。

「あたし、人違いをしましたの。これをお返しします。そして、もう帰りますわ」

 彼女は指環を抜いて卓上に置き、いきなり立ち上がって帰りそうにした。

「だめだめ、その(ふすま)には錠前がついているんだ。(かぎ)は僕が持っている。ほしければ鍵を上げないものでもないが、それには条件があるんだよ」

「じゃあ、あたし、ベルを押して、ここの女中さんを呼びますわ」

「呼んだって来やしないよ。君が少しぐらい大きな声を立てたって、誰もこないことになっているんだ」

 蘭子は青ざめた顔をゆがめて、もう泣き出しそうになっていた。

「まあ、いいから、そこへ(すわ)りたまえ」

 恩田が彼女のそばへ寄りそって、肩に手をまわして、グッとおしつけると、蘭子はクナクナと座蒲団(ざぶとん)の上にくずおれてしまった。

 恩田の大きな両眼は、渋面を作った少女の顔を、()かず見入りながら、怪しい燐光(りんこう)に輝きはじめた。口は大きくひらいて、夏の日の犬のように、ハッハッと、苦しげにあえいだ。そして、まっ白な鋭い歯のあいだから例の(とげ)のある異様に長い舌が、一匹の無気味な生きもののようにうごめくのが(なが)められた。

 蘭子はその時はじめて、この男が普通の人間でないことを悟った。けだものだ。人間の形を借りた猛獣だ。

 あまりの恐ろしさに、もう気力も尽きたかと感じたが、しかし、こんな野獣の餌食(えじき)になるのは、考えただけでも耐えがたい汚辱(おじょく)であった。ない力をふりしぼっても、この危急をのがれなければならない。

「いけません。あたし、どうしても帰ります」

「だが、僕は帰さないのさ」

 野獣が人間の言葉で(あざけ)りながら、なおもその無気味な顔を、彼女の眼の前に近づけてきた。

「ね、ラン子、僕は執念深いのだよ。一度思いこんだら、君がどんなに逃げまわっても、どんなに警戒しても、結局目的を達しないではおかぬのだよ。よく考えてごらん。君は命が()しくないのかい」

 言いながら、彼の熱い(ほお)が彼女の頬に触れ、蜘蛛(くも)のような五本の指が、彼女の背中を()いまわるのが感じられた。

 ゾーッと、からだじゅうの産毛(うぶげ)が逆立ち、血流が逆流した。蘭子はもう無我夢中であった。何かしらえたいの知れぬ叫び声を発しながら、狂気の力をふりしぼって、立ち上がりざま(ふすま)に向かって突進した。

 メリメリと恐ろしい音がして、襖に穴があいた。

 蘭子は無理やりにそこを押しくぐって、廊下にころがり出した。

「誰か、助けてください」

 悲鳴を聞きつけて、女中たちが()けつけてきた。

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