9話 仮面時代
読み方を変える
「レビュー仮面」。まったくそれは奇態な流行であった。
人間というやつは、昔々から、生れついた生地の顔を、人前にさらすことを、ひどくはにかむ傾向がある。日本では頭被、編笠、頭巾の類が、その時々の人間の顔を隠してきた。西洋でも、男という男がかつらをかぶった時代がある。女という女が厚い面紗をかけた時代がある。仮面舞踏会などが人々に喜ばれるのも、花見の客に眼かつらが売れるのも、同じ人間心理の現われに違いない。
その人間の弱点につけ込んで、考案されたのが「レビュー仮面」である。はじめは不良青年か何かが、気まぐれに、おもちゃのお面をかぶって、レビュー劇場の客席にはいったのがきっかけであった。一人まね、二人まね、チラホラと仮面見物が人の眼を惹くころには、機敏な商人が「レビュー仮面」と銘うって、商標登録を申請し、同一型のセルロイド面をドッと売り出したものである。
若い見物たち、殊に学生や商店員たちは、得たりかしこしと、このお面を利用し、その蔭に顔を隠して、舞台の踊子を、思う存分野次り飛ばした。女学生は女学生で、このお面のカムフラージュによって、あこがれのボーイッシュ・ガールを、声を惜しまず声援することができた。はてはおとなの男女までも、少しばかり面はゆいレビュー見物のてれ隠しに、仮面を利用する者が続々とふえて行った。
今や「レビュー仮面」は時の寵児であった。発売元の出張所が、劇場の入口に設けられ、見物人は、切符と一緒に、その一箇十銭のセルロイド面を、買わねばならないようなことになってしまった。
大劇場の観客席は、階上も階下も、まったく同じ表情をした、仮面の群衆によってうずめられた。見物席の何千人というお揃いの顔が、どんなすばらしい舞台よりも、一そうすばらしい見ものであった。
その上、「レビュー仮面」の表情というものが、又、実に巧みにできていた。それは、お神楽のお多福面をもっと男性化して、口を横に広くひらいて、ニヤニヤと笑わせた、単純な打ち出し面であったが、その笑い顔が、さもさもおかしそうな表情で、お面をかぶった同士が顔を見合わせると、お互いのお面の中で、クックッと笑い出さないではいられぬほど、真に迫ってできていた。
お面の流行が、劇場内の空気をほがらかにしたことは非常なものであった。舞台の踊子たちは、いつもえがおを絶やさなかった。それに呼応するように、何千人の見物が、まったく同じ笑顔でニコニコと笑っているのだ。舞台も見物席も、別天地のように明るくなった。お面の噂にひきつけられて、レビュー嫌いの人々までも、続々と見物に押しかけてきた。どの劇場も、レビューとさえいえば満員であった。つまり、「レビュー仮面」は、もう今では、劇場経営者のマスコットとさえなってしまったのだ。
いや、そればかりではない。劇場内の「レビュー仮面」は、やがて徐々に街頭に進出しはじめた。
銀座の夜をそぞろ歩きする過半の人々が、同じ笑いの表情に変って行った。電車の中も、地下鉄の中も、同一表情の男女によってうずめられた。大げさにいえば、東京じゅうが、同じセルロイドの顔でニコニコと笑い出したのである。
そういう流行が或る程度に達すると、一方に弊害の生ずるのは止むを得ないところであった。横着ものが、お面に隠れて、さまざまのいたずらをはじめたというのは、さもありそうなことであるが、更に困ったことには、このお面が、悪漢たちの大っぴらな覆面として役立つことがわかってきた。仮面の万引、仮面の空巣狙い、はては「仮面強盗」という名称さえも、新聞の社会面に現われはじめた。
前章の、江川蘭子が、まったく見知らぬ男と車を共にし、握手までかわしたという椿事も、そういう仮面流行の際であったからこそ、起こり得たことであった。
「くだらないお面なんかがはやるもんだから、そういういたずらを思いつくやつが出てくるんだ。君、よっぽど注意しなくちゃだめだぜ。もしそいつが悪人だったら、握手ぐらいですみやしないんだから。これからは、充分僕だってことを確かめてから車に乗るんだぜ」
神谷は、もしや獣人恩田の仕業ではないかと、かすかな疑いを抱いたものだから、それとなく、くどいほど注意を与えた。
蘭子も、すっかり脅えてしまって、それからは充分気をつけてはいたのだけれど、まさか人間豹なんて怪物が、この世に存在しようとは思いもよらず、それに、相手の欺瞞手段が巧妙をきわめていたので、或る夜のこと、ついまたしてもにせものの車に乗り込んでしまった。
「ラン子、今夜は家へ帰る前に、ちょっと寄り道をしようね」
蘭子が神谷と信じていた、その仮面の男が、暗い車内で、風を引いたような声で言った。
「ええ、でも、どこへ寄るの?」
「ウン、じき近くだよ。ちょっと君を驚かせることがあるんだ。むろん、嬉しくって驚くことなんだよ」
「そう、なんでしょうか。思わせぶりね」
「ウン、ウン、思わせぶりさ。フフフフフ、君、きっと驚くぜ」
蘭子は、やっと男の声がいつもと違っているのに気づいた。
「あら、あなた、風引いたの。声が変よ」
「ウン、春の風だよ。陽気があんまりいいんで、風を引いちゃった」
「あなた、だあれ?……神谷さんなんでしょうね」
「ハハハハハ、何を変なこといってるんだ。きまってるじゃないか。それとも誰か、ほかにも迎えにくる人があったのかい」
「そのお面、取ってくださらない。気味がわるいわ、ニヤニヤ笑っていて」
「ウン、これを取るのかい。取ってもいいよ。だが、ちょっと待ちたまえ。君に見せるものがあるんだ。ほら、これ、君に上げるよ」
男は言いながら、ポケットから小さなサックを取り出して、パチンと蓋をひらいて蘭子の前にさし出した。薄暗い豆電燈にも、キラキラと五色に光る、一カラットほどのダイヤモンドの指環だ。
「まあ、美しい。これ、あたしにくれる?」
レビュー・ガールは贅沢に慣れていなかったので、数万円はするであろうこの高価な贈り物に、すっかり昂奮してしまった。
「ウン、貰っていただくんだよ。つまりエンゲージ・リングってやつさ。受けてくれるかい」
「ええ、受けたげてよ。ありがと」こみ上げてくる嬉しさに、いつしか仮面のことも忘れてしまって、「あたしを驚かせるっていうの、これ?」
「いいや、これはつまりプレリュードなんだ。ほんとうに君をアッといわせるものは、まだ別にあるんだよ。大切にあとまで取っておくんだよ」
そんな会話のあいだに、車はいつしか、劇場から程近い浜町の、とある意気な門構えの家へ着いていた。
あらかじめ言ってあったものとみえて、仮面のままの男を怪しみもせず、女中が案内したのは、奥まった六畳と四畳半の小座敷である。
気取った塗り物の円卓を中にはさんで、座につくと、やがて運ばれるお茶、お菓子、そして、お酒。だが、男はまだ仮面を取ろうともしないのだ。
「ここ待合でしょう。おかしいわね。あたしこんな服なんかで、変でしょう」
断髪洋装のレビュー・ガールと待合の小座敷とは、いかにも変てこな取り合わせであった。
「ウン、そんなことどうだっていいよ。さあ、さっきの指環お出し、僕がはめて上げるから」
「ええ」
蘭子はいわれるままに、その指環のサックを差出したが、ふと心づいて、
「あら、まだお面かぶっていらっしゃるの。お座敷の中でおかしいわ。取ったげましょうか」
「まあ、いいから、手をお出し、指環の方を先にしよう」
男の薄黒い毛むくじゃらの手が、ニュッと伸びて、蘭子の左手を掴み、指環をはめようとした。その手を一と眼見ると、彼女はギョッとして、思わず中腰になった。
「いけない。放してください。あなた誰です……神谷さんじゃない……早く、早く、そのお面を取って、顔を見せてください」
「ハハハハハ、そんなにせき立てなくたって、いま見せてあげるよ。ほら、君とエンゲージした男っていうのは、つまり僕なのさ」
片手では、もう指環をはめてしまった蘭子の手をグッと握ったまま、一方の手で、「レビュー仮面」をむしり取った。その下から現われたのは、蘭子には初対面であったけれど、まぎれもない人間豹、恩田の痩せた黒い顔であった。
「ハハハハハ、ずいぶん苦労をしたもんだよ。神谷君とそっくりの服を注文したり、髪をオール・バックにしたり、声を作ったりさ。だが、君がエンゲージ・リングを受けてくれたので、僕はやっと安心したよ。まさか君は、その指環を返そうとはいうまいね」
蘭子は恩田の恐ろしさをまだ知らなかった。ただ、なんとなくいやらしい男と感じたばかりだ。
「あたし、人違いをしましたの。これをお返しします。そして、もう帰りますわ」
彼女は指環を抜いて卓上に置き、いきなり立ち上がって帰りそうにした。
「だめだめ、その襖には錠前がついているんだ。鍵は僕が持っている。ほしければ鍵を上げないものでもないが、それには条件があるんだよ」
「じゃあ、あたし、ベルを押して、ここの女中さんを呼びますわ」
「呼んだって来やしないよ。君が少しぐらい大きな声を立てたって、誰もこないことになっているんだ」
蘭子は青ざめた顔をゆがめて、もう泣き出しそうになっていた。
「まあ、いいから、そこへ坐りたまえ」
恩田が彼女のそばへ寄りそって、肩に手をまわして、グッとおしつけると、蘭子はクナクナと座蒲団の上にくずおれてしまった。
恩田の大きな両眼は、渋面を作った少女の顔を、飽かず見入りながら、怪しい燐光に輝きはじめた。口は大きくひらいて、夏の日の犬のように、ハッハッと、苦しげにあえいだ。そして、まっ白な鋭い歯のあいだから例の刺のある異様に長い舌が、一匹の無気味な生きもののようにうごめくのが眺められた。
蘭子はその時はじめて、この男が普通の人間でないことを悟った。けだものだ。人間の形を借りた猛獣だ。
あまりの恐ろしさに、もう気力も尽きたかと感じたが、しかし、こんな野獣の餌食になるのは、考えただけでも耐えがたい汚辱であった。ない力をふりしぼっても、この危急をのがれなければならない。
「いけません。あたし、どうしても帰ります」
「だが、僕は帰さないのさ」
野獣が人間の言葉で嘲りながら、なおもその無気味な顔を、彼女の眼の前に近づけてきた。
「ね、ラン子、僕は執念深いのだよ。一度思いこんだら、君がどんなに逃げまわっても、どんなに警戒しても、結局目的を達しないではおかぬのだよ。よく考えてごらん。君は命が惜しくないのかい」
言いながら、彼の熱い頬が彼女の頬に触れ、蜘蛛のような五本の指が、彼女の背中を這いまわるのが感じられた。
ゾーッと、からだじゅうの産毛が逆立ち、血流が逆流した。蘭子はもう無我夢中であった。何かしらえたいの知れぬ叫び声を発しながら、狂気の力をふりしぼって、立ち上がりざま襖に向かって突進した。
メリメリと恐ろしい音がして、襖に穴があいた。
蘭子は無理やりにそこを押しくぐって、廊下にころがり出した。
「誰か、助けてください」
悲鳴を聞きつけて、女中たちが駈けつけてきた。