貧民倶楽部

1話 貧民倶楽部(1)

6,348字 約13分 2020年11月4日 公開

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 六六館に開かるる婦人慈善会に臨まんとして、在原伯(ありわらはく)の夫人貞子(ていこ)(かた)は、麻布(あざぶ)市兵衛町(いちべえちょう)(やかた)を二頭立の馬車にて乗出(のりい)だせり。

 いまだ額に波は寄らねども、束髪に挿頭(かざ)せる花もあらなくに、青葉も(すぎ)年齢(とし)四十に近かるべし。小紋縮緬(ちりめん)襲着(かさねぎ)に白襟の衣紋(えもん)正しく、(ひざ)(あたり)に手を置きて、少しく反身(そりみ)(すがた)なり。

 対の扮装(いでたち)(そで)を連ねて侍女(こしもと)(にん)陪乗し、馭者(ぎょしゃ)台には煙突帽を(いただ)きたる蓄髯(ちくぜん)(おのこ)あり、晏子(あんし)の馭者の揚々たるにて主公の威権(おも)うべし。浅葱(あさぎ)裏を端折りたる馬丁(べっとう)(にん)附随(つきしたが)い、往来狭しと(むち)を挙げぬ。

 かくて狸穴(まみあな)(ほとり)なる狭隘路(せまきみち)行懸(ゆきかか)れば、馬車の前途(ゆくて)に当って往来の中央(まなか)に、大の字に寝たる屑屋(くずや)あり。(にな)える(かご)は覆りて、紙屑、襤褸切(ぼろきれ)硝子(がらす)砕片(かけ)など所狭(ところせま)く散乱して、(すね)は地を()り、手は(くう)(つか)みて、呻吟(しんぎん)せり。

 (はず)み行く馬の(あやう)鰭爪(ひづめ)に懸けんとしたりしを、馭者は辛うじて手綱を控え、冷汗()きたる腹立紛れに、鞭を(ふる)いて叱咤(しった)せり。

「こら、そこを退()かんか馬鹿な(やつ)だ。」

 夫人は端然として傍目(わきめ)も振らず、侍女(こしもと)二人は顔見合せ、吐息(といき)と共に推出(おしだ)す一言、「おお危い。」

 屑屋は(まなこ)を閉じ、歯を(しば)り、音するばかり手足を(もだ)えて、苦痛に堪えざる風情なりき。

 ()けて通らん(すべ)も無く、引返すべき次第にあらねば、退()けよ、退(すさ)れと声を懸くれど、聞着けざるか道を譲らず、馬丁(べっとう)焦立(いらだ)ちてひらりと寄せ、屑屋の襟首むずと(つか)めば、虫の呼吸(いき)にて泣叫ぶを、溝際に突放して、それというまま砂烟(すなけむり)を揚げぬ。

 この時酒屋の檐下(のきした)より婀娜(あだ)たる婦人(おんな)立出(たちい)でたり。薄色縮緬の頭巾(ずきん)目深(まぶか)に、唐草模様の肩掛(ショオル)()て、三枚(がさね)衣服(きもの)(すそ)寛闊(かんかつ)に蹴開きながら、()と屑屋の身近に(きた)り、冷然として、既に見えざる車を目送しつつ、物凄(ものすご)(えみ)を漏らせり。屑屋は呻吟の声を絶たず。婦人はその顔を瞰下(みおろ)して、「こう、太の字太の字。」

「おい。」と眼を開けば、

「もう()い、起きな。何という不景気な顔色(がんしょく)だよ。」

「笑いごっちゃアありませんぜ。根っから(もう)からねえ役廻(やくまわり)だ。」

 と屑屋は苦も無く起上りぬ。健全無病の壮佼(わかもの)なり。知らず何が故に疾病(やまい)を装いて、貴婦人の通行を妨げしや。

 頬被(ほおかぶり)を取りて(ちり)を払い、「危険(けんのん)々々。御馬前に討死をしようとした。安くは無い忠臣だ。」

 婦人は打笑み、「その位な事はしたって可いのさ。」

「あんまり()かあねえ。(なん)しろ対手(あいて)が四足二疋だ。」

「踏まれたら因果よ。白馬(しろうま)を飲む(たた)りだわな。」

可笑(おかし)くもねえ。」と落散る屑ども拾い込みてまた手拭(てぬぐい)に頬を包み、

姉様(ねえさん)、用は相済(あいすみ)かね。」

「あいよ、折角お稼ぎなさい。」

「御念には及びやせん。はい、さようなら。」と立別れ、飯倉の方へ急ぎつつ、いと殊勝に、「屑はござい。」

 婦人は(うしろ)(たたず)みて、帯の間より手帳を取出し、鉛筆をもて何やらん(またたき)もせず書き(したた)め、一遍読返して、その紙を一枚引裂き、音低くしてしかも遠きに(いた)る口笛を吹鳴らせば、声に応じて()け来る犬あり。婦人はこれを見て、「じゃむこう」(けだ)しその名ならむ。

 裾に(から)めば(つくば)いて(うなじ)()で、かの紙片(かみきれ)を畳みて真鍮(しんちゅう)頸輪(くびわ)に結び附け、

「京橋――毎晩新聞社――京橋――毎晩新聞社。」と語るがごとく(つぶや)くがごとく繰返しつ。

「そら、よし、御苦労だね。」

(じゃむこう)といえる飼犬は、この用をすべく()らされたれば、猶予(ためら)う色無く(こうべ)(めぐ)らし、(うなず)くごとくに尾を()りて、見返りもせで馳走(はせ)去りぬ。

 三十分を経たらんには、この書信は毎晩社の楼上なる担当記者の()に落ちんか。

「おい、車夫様(わかいしゅさん)。」

 婦人は振返りて手招きすれば、待たせたりし一人の車夫、腕車(くるま)()きて近寄りぬ。

「じゃあこれから直ぐ。」「六六館へ?」

 打頷(うちうなず)けば(りんりん)として走りぬ。

 深窓の美姫(びき)紅閨(こうけい)艶姐(えんそ)綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)(たもと)を揃えて、一種異様の勧工場、六六館の婦人慈善会は冬枯に時ならぬ梅桜桃李(ばいおうとうり)の花を咲かせて、暗香(あんこう)堂に馥郁(ふくいく)たり。

 在原夫人は第三区の受持にて、毛糸の編物を商いたまう。番頭は麹町(こうじまち)姫様(ひいさま)にて、小浜照子という美人、華族女学校の学生なり。

 前面(むかい)の喫茶店は、貴婦人社会に腕達者の聞え高き深川子爵何某(なにがし)未亡人(びぼうじん)綾子(あやこ)といえる女丈夫にてこの会の催主なり。三令嬢一夫人を(したが)えて、都合五人の茶屋女、塗盆(ぬりぼん)片手に「ちょいと貴下(あなた)。」

御休息(おやすみ)なさいまし。」「いらっしゃいな。」と玉の(かいな)(あら)わに(たすき)懸けて働きたまえば、見る者あッというばかり、これにて五十銭の見世物(みせもの)とは冥加(みょうが)恐しきことぞかし。

 金縁の目金(めがね)を掛けたる五ツ紋の年少(わか)紳士、襟を正しゅうして第三区の店頭(みせさき)に立ちて、肱座(ひじつき)に眼を着くれば、照子すかさず嬌態(しな)をして、

御購(おもと)め下さいまし、貴下(あなた)、なるたけお働き申しますよ。何に遊ばす、これ、これが()うございますよね。」と牡丹形(ぼたんがた)の肱座を取って突附けられ、平民と見えてどぎまぎしつ、

「はッはッお何程(いくら)で遣わされまする。」と震い声。照子はくすくす、「五十五銭にいたしておきます、一閑張(いっかんばり)のお机にはうつりが()うございますよ。一円ならお剰銭(つり)をあげましょうか。」とはどこまでも男を下げられたり。

「いえ、銅貨で重うございますが。」と間の悪そうに勘定して、肱座を(ひっ)たくり、早足に歩み行くを、「もし、もし、ちょいとあの。」と呼返され、慌てて戻り、「何ぞ粗相をいたしましたか。」「御勘定違いでございましょう。二銭だけ不足です。」と判然(はっきり)言われて真赤(まっか)になり、「それははや何とも。」と蝦蟇口(がまぐち)を探りつつ、これでもまだまだ見えをする気か、五銭の白銅一個(ひとつ)渡して見返りもせぬ心の内、今度呼んだら剰銭(つり)は要らぬと、腹を見せる目的(つもり)(ところ)、何がさて如才なく令嬢は素知らぬ顔なり。

 年少紳士(きも)を抜かれてうっかりと(たたず)めば、

御休息(おやすみ)なさいまし。」と茶店の姫様(ひいさま)

 はッと思う眼の(さき)へ深川夫人()と寄って、

貴下(あなた)、お茶一ツ。」と差出すに(あお)くなりて、

「出口はどこでございます。」とは可哀(あわれ)やもう眼が見えぬそうな。

 入替(いりかわ)りて洋服の高等官吏、「嬢様お精が出ますね、令夫人(おくさま)御苦労でございます。」なかなか場数功者(ばかずごうしゃ)かな。

 照子は軽く挨拶(あいさつ)して、「これはようこそ。何ぞ御気に召したものはございませんか。」

「ありますともさ、ははは、ありますともさ。まずこれが()し、それからこれも可しと、(しめ)三個(みッつ)頂戴いたします。ちょいと御勘定下さい。」

 照子は(おとがい)にて数え、「二円八十銭……。」と言い懸けて莞爾(にっこ)と笑い、「お安いものよ、ねえ貴下。」予算よりは三倍強なるに「えッ。」と(まなこ)を《みは》りしが、天なるかなと断念(あきらめ)て、「以後は正札附になすってはどうです、その方がお手数が(かか)りますまい。」

 我慢強き男というべし。

「御注意難有(ありがと)う存じます。」と伯爵夫人が御会釈あり。取出(とりい)だすは折目無き五円紙幣(さつ)。「これで。」と差出(さしい)だせば、「はいはい。」と取って(すま)したもの、剰銭(つり)()ださん気色も無し。官吏始めて心着き、南無三(なむさん)失策(しくじ)ったりと思えども、慈善のための売買なれば、剰銭を返せと()い難く、「こりゃ(てい)のいい強奪(ぶったくり)だ。」と泣寝入に引退(ひきさが)りぬ。(あと)に二人は顔見合せ、徳孤(とくこ)ならずと笑壺(えつぼ)()る。

 店頭に今度は婦人、この会場に()るものは、位ある有髯(ゆうぜん)男子も脱帽して恭敬の意を表せざるべからざるに、(かれ)は何者、肩掛(ショオル)(かつ)ぎ、頭巾目深に面を包みて、顔容(かおかたち)は見えざれども、目は(ひやや)かに人を射て、見る者を慄然(ぞっ)とせしむ。

 照子の顔をじろりと(なが)め、「おい、姉様(ねえさん)。こりゃ何程(いくら)だい。」

 ()えたる月に一片の雲(かか)れり。照子は(ひそ)みぬ。

「ちょいとお婆様(ばあさん)。」

 婦人は照子の答えざるを見て、伯爵夫人を婆様(よば)わり、これもまた異数なり。「おや、返事をしないね。耳が(うと)いのか、この襯衣(しゃつ)を買って()げよう。」

 と答えざれども無頓着(むとんじゃく)鳶色(とびいろ)の毛糸にて見事に編成(あみな)したる襯衣を手に取り、閉糸(とじいと)をぷつりと切りぬ。

 これのみにても眼覚(めざま)しきに、肩掛(ショオル)をぱっと脱棄(ぬぎす)てたり。慈善会場の客も(あるじ)愕然(がくぜん)として(なが)むれば、渠はするすると帯を解きて、下〆(したじめ)押寛(おしくつろ)げ、(おく)する色なく諸肌(もろはだ)脱ぎて、衆目の()る処、二布(ふたの)を恥じず、十指の(ゆびさ)す処、乳房を(おお)わず、(はだえ)は清き雪を(つか)ね、薄色友禅の長襦袢(ながじゅばん)(ひるがえ)りたる紅裏(もみうら)は燃ゆるがごとく鮮麗(あざやか)なり。世に()れては見えたまえど、もとより深窓に生育(おいた)ちて、乗物ならでは(おもて)()でざる止事無(やんごとな)き方々なれば、他人事(ひとごと)ながら恥らいて、顔を背け、(かしら)()れ、正面より見るものなし。

 秋水を()ける将校もあり、勲章(くんしょう)を帯べる官吏もあり、天下有数の貴婦人、紳士、前後左右を擁せる中に、半身の裸美(らび)自若として突立(つった)ちたるは、傍若無人の形状(ありさま)かな。

「何だ。」「何者だ。」「野蛮(きわま)る。」「狂人(きちがい)だ。」と一時に動揺(どよ)めく声の下より(ほがらか)に歌うものあり。

 色は天下の(えん)たり、心はすなわち女中の郎。

 喝采(やんや)と手を()つもの五七人。

 婦人は毀誉(きよ)を耳にも懸けず、いまだ売買の約も整わざる、襯衣を着けて、(はだえ)を蔽い、肩を納め、帯を()め、肩掛(ショオル)を取りて()と羽織り、悠々として去らんとせり。

盗人(ぬすっと)待て。……」と伯爵夫人は一方ならぬ侮辱を(こうむ)りて、(こら)え堪えし腹立声。

「何を。」色をも変ぜず見返る婦人。

 照子嬢も声鋭く、「それは売物です。」と遣込(やりこ)むれば、濶歩(おおまた)に引返し、「だから最初(はじめ)に聞いたじゃないか、価値(ねだん)(わか)れば払うのさ。」

 憎さも憎しと伯爵夫人、「二円。」と恐しき(かけ)()う。

 婦人はちっとも驚かず、「それじゃ二十銭剰銭(つり)を下さい。」

「まだ何にも請取りません。」と貞子の方は真面目(まじめ)なり。

先刻(さっき)五円払いました。」

 照子は聞くより怒気心頭を()きて(おもて)を赤め、

騙局(かたり)です、失敬な。夫人(おくさん)巡査を呼びましょう。」と愛々しき眼に角立つれば、

「はい、引渡しましょう。秋や定。」と急込(せきこ)むにぞ、側に(さぶら)いける侍女(こしもと)(にん)、ばらばらと立懸くるを、遮って冷笑(あざわら)い、

「こうこう騒ぎなさんな。塵埃(ほこり)()つによ。お前様方(まえさんがた)は美くしい手で恐しい掴取(つかみどり)をしなさるね。今のあの男は二円八十銭の買物をして、五円渡して()ったじゃないか、そこで(あっし)の買物が二円さ、()しかえ。合計四円と八十銭になるんだね。」「えー。」二人の(あき)るるを、それ見よと畳懸(たたみか)け、

「銅貨じゃ重いわ。二十銭銀貨(ドル)()んな。」と空嘯(そらうそぶ)きつつ小膝を()ち、「おっと、まだ有る。目金をかけた若い衆が、二銭の不足に五銭と払った、その三銭も返すんだよ。」

 夫人はギクリ、照子は無言。

 天下泰平町内安全、産ある者は仁者(じんしゃ)となり、産無き者は志士となりて、賢哲天下に満ちたれば、六六館の慈善会は今にはじめぬ大当(おおあたり)

 就中(なかんずく)喫茶店は、貴婦人社会にさるものありと(ひと)()りたる深川綾子、花の(さかり)の春は過ぎても、恋草茂る女盛り、若葉の(しずく)滴たるごとき愛嬌(あいきょう)を四方に振撒(ふりま)き、多恨多情の八方睨(はっぽうにらみ)に大方の君子を殺して黄金(こがね)の汁を吸取ること長鯨(ちょうげい)百川(ひゃくせん)を吸うがごとし。()けて働く面々も、すぐり抜きたる連中(れんじゅう)が腕に(より)(たすき)を懸けて、車輪になりて立廻るは、ここ二番目の世話舞台、三階総出(そうで)大出来なり。

 されば一(べい)の菓子、一(さん)珈琲(コオヒイ)に、一円、二円と(なげう)ちて、なおも冥加に余るとなし、我も我もと、入交(いりかわ)り、立替る、随喜の(ともがら)数うるに()うべからず。

 収入満と(うな)るといえども、常住の寡慾(かよく)()もやらで、慈善の(よく)は極り無く、貪るばかりに取込みても人に施すにはいまだ足らずと、身を()にし、骨を折る、賢媛(けんえん)閨秀(けいしゅう)難有(ありがた)さよ。

 さるにても暢気(のんき)沙汰(さた)かな。我に(へつら)い我に()ぶる夥多(あまた)の男女を客として、(とうと)き身を(たわむれ)(へりくだ)り、商業を玩弄(もてあそ)びて、気随(きまま)に一日を遊び暮らす。これをしも社会が渠等(かれら)に与うるに無形の桂冠(けいかん)をもってする(しか)き慈善事業というべきか、と皮肉なことはいいっこなし。

 渠等がこれに因って得る処の気保養たるや、天がその徳に(むく)ゆる寸志のみ、また(あやし)むに足らざるなり。

 閑話休題(それはさておき)

 とんとん拍子に(のり)が来て、深川夫人は嫣然顔(にこにこがお)、人いきりに面(ほて)りて、(めのふち)ほんのり、生際(はえぎわ)(あぶら)を浮べ、四十有余(あまり)肥大(でっかい)紳士に御給仕をしたまいながら、「あら貴下(あなた)、よくってよ。」などとやっていたまいし折柄騒動(さわぎ)のはじまりたるなり。知らざりき、我々にもかかる不如意のあらんとは。

 在原夫人と照子嬢は散々に罵倒(ばとう)されて、無念の唇を()みたまえば、この神聖なる慈善会を、(けが)し犯すは何等の外道(げどう)と、深川綾子も喫茶店より、第三区に赴きて固唾(かたず)を飲んで(きき)たまえり。

 (くだん)の婦人は落着払い、その(ひやや)かなる眼色(めつき)にて、ずらりと四辺(あたり)を見廻しつ、「さっさとしないか。おい、お天道様は性急(せっかち)だっさ。」

 飽くまで侮る一言(ひとこと)に、年齢少(としわか)にて気嵩(きがさ)の照子は、手巾(ハンケチ)噛占(かみし)めて、口惜涙(くやしなみだ)を、ついほろほろ。

 夫人はさすが年紀(とし)の功、こは癈疾(かったい)と棒ちぎり、身分に障ると分別して、素直に剰銭(つり)()ださるれば、丁寧に(かず)を検し、繻子(しゅす)の帯にきゅっと(はさ)みぬ。

 これを見て照子は声震わし、「あの男は其方(そち)の何だえ。親類かい、知己(ちかづき)かい。」

 いいも終らざるに婦人(おんな)は答えぬ。「あれかい、あれは私の宿六――てッちゃあお前様(まえさん)に解るまい。くわしく()えば亭主のことさ。」

 照子は眼中に涙を(たた)えて、(きっ)婦人(おんな)凝視(みつめ)ながら、「それでは。」となお謂わんとすれば、夫人(ひそか)にその(たもと)を控え、眼注(めくばせ)して()めらる。振切って、

「いえ、()うございます。これ、それではあの近視眼(ちかめ)は……いえ、謂わして下さいよ。他人(ひと)の金銭に其方(そち)が関係する権利はあるまい。一体近視眼は其方の何だい。」

 と、ぽんと一本参りたまえば、待構えし(てい)にて平然と、「ありゃ(あっし)男妾(おとこめかけ)さ、意気地(いくじ)の無い野郎さね。」一同聞いて唖然(あぜん)たり。

 (かれ)がいう処のしらじらしさ、虚言(うそ)は見透きて(あきらか)なれど、あらずというべき証拠なければ、照子は返さん言葉も無く、(しお)れて(こうべ)()れたまいぬ。

 この時まで無言にて傍観せられし深川夫人、何か心に(うなず)きながら、突立(つった)ちたる婦人(おんな)(せな)を、しなやかに不意打して、

「モシ貴女(あなた)。」

「エー。」と振返るに引被(ひっかぶ)せて、

「済んだらこちらへいらっしゃいな、お茶一つあげましょう。」と風流(みやび)(かが)む柳腰。

 (きっ)()て、「フフ、此奴(こいつ)はちっと骨がある。」

 兵法(ひょうほう)に曰く柔よく剛を制すと、深川夫人が物馴(ものな)れたる(あつかい)に、妖艶(ようえん)なる妖精(ばけもの)火焔(かえん)を収め、静々と導かれて、階下(した)なる談話室兼事務所に()けり。

 群集は崩れ、雑沓(ざっとう)鎮まり、一条の紛乱はかくしてようやく鎮撫(ちんぶ)に帰しぬ。

 野分(のわき)(あと)寂寞閑(ひっそりかん)

 夫人も令嬢も(いた)く得意を減殺(げんさい)されて、気焔(おおい)に衰えたり。

 それより照子、鬱々(うつうつ)として(たのし)まず、愁眉(しゅうび)容易に開けざるにぞ、在原夫人は(ことば)を尽して、(すか)しても、慰めても頭痛がするとて額を(おさ)え、弱果てて見えたまえば、見るに見かねて侍女等(こしもとども)

姫様(ひいさま)こういらっしゃいまし。」一まず彼室(かなた)の休息所へ、しばし引込みたまうにぞ、大切なる招牌(かんばん)隠れたれば、店頭蕭条(しょうじょう)として秋暮の(たん)あり。

 これではならぬ、と御迎(おむかえ)の使者相望めば、御機嫌を見計らいて侍女(こしもと)は慰むる。「あんなあばずれのいった(こと)は、ナニ、()が鳴いたのだと思召(おぼしめ)しまし。御気分が(なお)りましたら、二階へお()で遊ばしませんか。」「そうさね。」とどちらつかず。「在原の夫人(おくさま)ばかりでは何にも売れはいたしませんよ。」「ナニ、まさか。」と口にはいえど、さもあらんという顔色(かおつき)

「それに、姫様。」と侍女は仔細(しさい)らしく小声になり、

福助(あれ)がもう来ます時分、ここにいらっしゃると見落しますよ。」

 と()の下三寸に銃口(つつぐち)を向ければ、

「それじゃ()こうか。」とは罪がなし。

 御迎の使者またもや到来、「モシ姫様、どうぞ来て下さい。貴女(あなた)でなければならぬそうです。」

「度々御苦労ね、今(じき)に。」と照子の答に、使者面目を施して、ばたばたにて引返すを、此方(こなた)の侍女追縋(おいすが)りて、

「ちょいとちょいと、若旦那はまだ来ないの?」と肩を叩く。「えーどこの。」と勘の悪さ。「米沢町のさあ。」「ああ、新駒屋(しんこまや)かね。」「大きな声だよ。まあ来たかい。」「今しがた来たっけよ。」「それ、姫様、ちゃっとちゃっと。」

「あいよ。」と嬉しそうに、(あわただ)しく立上れば、御使者(おつかい)番は気の毒そうに、「そうしてもう帰っちまったわ。」「えっ。」と驚く侍女より照子は先にべったり(すわ)り、「私はもう。」と失望落胆。半巾(ハンケチ)をびりりと喰裂きて、「車夫に、支度(したく)を。直ぐ帰る。」

 これがそれ慈善会中に第一流の貴女(レデー)なり。

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