1話 貧民倶楽部(1)
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六六館に開かるる婦人慈善会に臨まんとして、在原伯の夫人貞子の方は、麻布市兵衛町の館を二頭立の馬車にて乗出だせり。
いまだ額に波は寄らねども、束髪に挿頭せる花もあらなくに、青葉も過て年齢四十に近かるべし。小紋縮緬の襲着に白襟の衣紋正しく、膝の辺に手を置きて、少しく反身の態なり。
対の扮装の袖を連ねて侍女二人陪乗し、馭者台には煙突帽を戴きたる蓄髯の漢あり、晏子の馭者の揚々たるにて主公の威権想うべし。浅葱裏を端折りたる馬丁二人附随い、往来狭しと鞭を挙げぬ。
かくて狸穴の辺なる狭隘路に行懸れば、馬車の前途に当って往来の中央に、大の字に寝たる屑屋あり。担える籠は覆りて、紙屑、襤褸切、硝子の砕片など所狭く散乱して、脛は地を蹴り、手は空を掴みて、呻吟せり。
奮み行く馬の危く鰭爪に懸けんとしたりしを、馭者は辛うじて手綱を控え、冷汗掻きたる腹立紛れに、鞭を揮いて叱咤せり。
「こら、そこを退かんか馬鹿な奴だ。」
夫人は端然として傍目も振らず、侍女二人は顔見合せ、吐息と共に推出す一言、「おお危い。」
屑屋は眼を閉じ、歯を切り、音するばかり手足を悶えて、苦痛に堪えざる風情なりき。
避けて通らん術も無く、引返すべき次第にあらねば、退けよ、退れと声を懸くれど、聞着けざるか道を譲らず、馬丁は焦立ちてひらりと寄せ、屑屋の襟首むずと攫めば、虫の呼吸にて泣叫ぶを、溝際に突放して、それというまま砂烟を揚げぬ。
この時酒屋の檐下より婀娜たる婦人立出でたり。薄色縮緬の頭巾目深に、唐草模様の肩掛を被て、三枚襲の衣服の裾、寛闊に蹴開きながら、衝と屑屋の身近に来り、冷然として、既に見えざる車を目送しつつ、物凄き笑を漏らせり。屑屋は呻吟の声を絶たず。婦人はその顔を瞰下して、「こう、太の字太の字。」
「おい。」と眼を開けば、
「もう可い、起きな。何という不景気な顔色だよ。」
「笑いごっちゃアありませんぜ。根っから儲からねえ役廻だ。」
と屑屋は苦も無く起上りぬ。健全無病の壮佼なり。知らず何が故に疾病を装いて、貴婦人の通行を妨げしや。
頬被を取りて塵を払い、「危険々々。御馬前に討死をしようとした。安くは無い忠臣だ。」
婦人は打笑み、「その位な事はしたって可いのさ。」
「あんまり好かあねえ。何しろ対手が四足二疋だ。」
「踏まれたら因果よ。白馬を飲む祟りだわな。」
「可笑くもねえ。」と落散る屑ども拾い込みてまた手拭に頬を包み、
「姉様、用は相済かね。」
「あいよ、折角お稼ぎなさい。」
「御念には及びやせん。はい、さようなら。」と立別れ、飯倉の方へ急ぎつつ、いと殊勝に、「屑はござい。」
婦人は後に佇みて、帯の間より手帳を取出し、鉛筆をもて何やらん瞬もせず書き認め、一遍読返して、その紙を一枚引裂き、音低くしてしかも遠きに達る口笛を吹鳴らせば、声に応じて駈け来る犬あり。婦人はこれを見て、「じゃむこう」蓋しその名ならむ。
裾に絡めば踞いて頸を撫で、かの紙片を畳みて真鍮の頸輪に結び附け、
「京橋――毎晩新聞社――京橋――毎晩新聞社。」と語るがごとく呟くがごとく繰返しつ。
「そら、よし、御苦労だね。」
(じゃむこう)といえる飼犬は、この用をすべく馴らされたれば、猶予う色無く頭を回らし、頷くごとくに尾を掉りて、見返りもせで馳走去りぬ。
三十分を経たらんには、この書信は毎晩社の楼上なる担当記者の掌に落ちんか。
「おい、車夫様。」
婦人は振返りて手招きすれば、待たせたりし一人の車夫、腕車を曳きて近寄りぬ。
「じゃあこれから直ぐ。」「六六館へ?」
打頷けば々として走りぬ。
深窓の美姫、紅閨の艶姐、綾羅錦繍の袂を揃えて、一種異様の勧工場、六六館の婦人慈善会は冬枯に時ならぬ梅桜桃李の花を咲かせて、暗香堂に馥郁たり。
在原夫人は第三区の受持にて、毛糸の編物を商いたまう。番頭は麹町の姫様にて、小浜照子という美人、華族女学校の学生なり。
前面の喫茶店は、貴婦人社会に腕達者の聞え高き深川子爵何某の未亡人、綾子といえる女丈夫にてこの会の催主なり。三令嬢一夫人を随えて、都合五人の茶屋女、塗盆片手に「ちょいと貴下。」
「御休息なさいまし。」「いらっしゃいな。」と玉の腕も露わに襷懸けて働きたまえば、見る者あッというばかり、これにて五十銭の見世物とは冥加恐しきことぞかし。
金縁の目金を掛けたる五ツ紋の年少紳士、襟を正しゅうして第三区の店頭に立ちて、肱座に眼を着くれば、照子すかさず嬌態をして、
「御購め下さいまし、貴下、なるたけお働き申しますよ。何に遊ばす、これ、これが可うございますよね。」と牡丹形の肱座を取って突附けられ、平民と見えてどぎまぎしつ、
「はッはッお何程で遣わされまする。」と震い声。照子はくすくす、「五十五銭にいたしておきます、一閑張のお机にはうつりが好うございますよ。一円ならお剰銭をあげましょうか。」とはどこまでも男を下げられたり。
「いえ、銅貨で重うございますが。」と間の悪そうに勘定して、肱座を引たくり、早足に歩み行くを、「もし、もし、ちょいとあの。」と呼返され、慌てて戻り、「何ぞ粗相をいたしましたか。」「御勘定違いでございましょう。二銭だけ不足です。」と判然言われて真赤になり、「それははや何とも。」と蝦蟇口を探りつつ、これでもまだまだ見えをする気か、五銭の白銅一個渡して見返りもせぬ心の内、今度呼んだら剰銭は要らぬと、腹を見せる目的の処、何がさて如才なく令嬢は素知らぬ顔なり。
年少紳士胆を抜かれてうっかりと佇めば、
「御休息なさいまし。」と茶店の姫様。
はッと思う眼の前へ深川夫人衝と寄って、
「貴下、お茶一ツ。」と差出すに蒼くなりて、
「出口はどこでございます。」とは可哀やもう眼が見えぬそうな。
入替りて洋服の高等官吏、「嬢様お精が出ますね、令夫人御苦労でございます。」なかなか場数功者かな。
照子は軽く挨拶して、「これはようこそ。何ぞ御気に召したものはございませんか。」
「ありますともさ、ははは、ありますともさ。まずこれが可し、それからこれも可しと、〆て三個頂戴いたします。ちょいと御勘定下さい。」
照子は頤にて数え、「二円八十銭……。」と言い懸けて莞爾と笑い、「お安いものよ、ねえ貴下。」予算よりは三倍強なるに「えッ。」と眼を《みは》りしが、天なるかなと断念て、「以後は正札附になすってはどうです、その方がお手数が懸りますまい。」
我慢強き男というべし。
「御注意難有う存じます。」と伯爵夫人が御会釈あり。取出だすは折目無き五円紙幣。「これで。」と差出だせば、「はいはい。」と取って澄したもの、剰銭を出ださん気色も無し。官吏始めて心着き、南無三失策ったりと思えども、慈善のための売買なれば、剰銭を返せと謂い難く、「こりゃ体のいい強奪だ。」と泣寝入に引退りぬ。後に二人は顔見合せ、徳孤ならずと笑壺に入る。
店頭に今度は婦人、この会場に入るものは、位ある有髯男子も脱帽して恭敬の意を表せざるべからざるに、渠は何者、肩掛を被ぎ、頭巾目深に面を包みて、顔容は見えざれども、目は冷かに人を射て、見る者を慄然とせしむ。
照子の顔をじろりと視め、「おい、姉様。こりゃ何程だい。」
冴えたる月に一片の雲懸れり。照子は顰みぬ。
「ちょいとお婆様。」
婦人は照子の答えざるを見て、伯爵夫人を婆様呼わり、これもまた異数なり。「おや、返事をしないね。耳が疎いのか、この襯衣を買って進げよう。」
と答えざれども無頓着、鳶色の毛糸にて見事に編成したる襯衣を手に取り、閉糸をぷつりと切りぬ。
これのみにても眼覚しきに、肩掛をぱっと脱棄てたり。慈善会場の客も主も愕然として視むれば、渠はするすると帯を解きて、下〆を押寛げ、臆する色なく諸肌脱ぎて、衆目の視る処、二布を恥じず、十指の指す処、乳房を蔽わず、膚は清き雪を束ね、薄色友禅の長襦袢の飜りたる紅裏は燃ゆるがごとく鮮麗なり。世に馴れては見えたまえど、もとより深窓に生育ちて、乗物ならでは外に出でざる止事無き方々なれば、他人事ながら恥らいて、顔を背け、頭を低れ、正面より見るものなし。
秋水を佩ける将校もあり、勲章を帯べる官吏もあり、天下有数の貴婦人、紳士、前後左右を擁せる中に、半身の裸美自若として突立ちたるは、傍若無人の形状かな。
「何だ。」「何者だ。」「野蛮極る。」「狂人だ。」と一時に動揺めく声の下より朗に歌うものあり。
色は天下の艶たり、心はすなわち女中の郎。
喝采と手を拍つもの五七人。
婦人は毀誉を耳にも懸けず、いまだ売買の約も整わざる、襯衣を着けて、膚を蔽い、肩を納め、帯を占め、肩掛を取りて颯と羽織り、悠々として去らんとせり。
「盗人待て。……」と伯爵夫人は一方ならぬ侮辱を蒙りて、堪え堪えし腹立声。
「何を。」色をも変ぜず見返る婦人。
照子嬢も声鋭く、「それは売物です。」と遣込むれば、濶歩に引返し、「だから最初に聞いたじゃないか、価値が解れば払うのさ。」
憎さも憎しと伯爵夫人、「二円。」と恐しき懸を謂う。
婦人はちっとも驚かず、「それじゃ二十銭剰銭を下さい。」
「まだ何にも請取りません。」と貞子の方は真面目なり。
「先刻五円払いました。」
照子は聞くより怒気心頭を衝きて面を赤め、
「騙局です、失敬な。夫人巡査を呼びましょう。」と愛々しき眼に角立つれば、
「はい、引渡しましょう。秋や定。」と急込むにぞ、側に侍いける侍女二人、ばらばらと立懸くるを、遮って冷笑い、
「こうこう騒ぎなさんな。塵埃が煽つによ。お前様方は美くしい手で恐しい掴取をしなさるね。今のあの男は二円八十銭の買物をして、五円渡して去ったじゃないか、そこで私の買物が二円さ、可しかえ。合計四円と八十銭になるんだね。」「えー。」二人の呆るるを、それ見よと畳懸け、
「銅貨じゃ重いわ。二十銭銀貨で呉んな。」と空嘯きつつ小膝を拍ち、「おっと、まだ有る。目金をかけた若い衆が、二銭の不足に五銭と払った、その三銭も返すんだよ。」
夫人はギクリ、照子は無言。
天下泰平町内安全、産ある者は仁者となり、産無き者は志士となりて、賢哲天下に満ちたれば、六六館の慈善会は今にはじめぬ大当。
就中喫茶店は、貴婦人社会にさるものありと衆も識りたる深川綾子、花の盛の春は過ぎても、恋草茂る女盛り、若葉の雫滴たるごとき愛嬌を四方に振撒き、多恨多情の八方睨に大方の君子を殺して黄金の汁を吸取ること長鯨が百川を吸うがごとし。助けて働く面々も、すぐり抜きたる連中が腕に縒否襷を懸けて、車輪になりて立廻るは、ここ二番目の世話舞台、三階総出大出来なり。
されば一皿の菓子、一盞の珈琲に、一円、二円と擲ちて、なおも冥加に余るとなし、我も我もと、入交り、立替る、随喜の輩数うるに勝うべからず。
収入満と唸るといえども、常住の寡慾に肖もやらで、慈善の慾は極り無く、貪るばかりに取込みても人に施すにはいまだ足らずと、身を粉にし、骨を折る、賢媛、閨秀の難有さよ。
さるにても暢気の沙汰かな。我に諂い我に媚ぶる夥多の男女を客として、貴き身を戯に謙り、商業を玩弄びて、気随に一日を遊び暮らす。これをしも社会が渠等に与うるに無形の桂冠をもってする爾き慈善事業というべきか、と皮肉なことはいいっこなし。
渠等がこれに因って得る処の気保養たるや、天がその徳に酬ゆる寸志のみ、また怪むに足らざるなり。
閑話休題。
とんとん拍子に乗が来て、深川夫人は嫣然顔、人いきりに面熱りて、瞼ほんのり、生際に膏を浮べ、四十有余の肥大紳士に御給仕をしたまいながら、「あら貴下、よくってよ。」などとやっていたまいし折柄騒動のはじまりたるなり。知らざりき、我々にもかかる不如意のあらんとは。
在原夫人と照子嬢は散々に罵倒されて、無念の唇を噛みたまえば、この神聖なる慈善会を、汚し犯すは何等の外道と、深川綾子も喫茶店より、第三区に赴きて固唾を飲んで聞たまえり。
件の婦人は落着払い、その冷かなる眼色にて、ずらりと四辺を見廻しつ、「さっさとしないか。おい、お天道様は性急だっさ。」
飽くまで侮る一言に、年齢少にて気嵩の照子は、手巾を噛占めて、口惜涙を、ついほろほろ。
夫人はさすが年紀の功、こは癈疾と棒ちぎり、身分に障ると分別して、素直に剰銭を出ださるれば、丁寧に員を検し、繻子の帯にきゅっと挿みぬ。
これを見て照子は声震わし、「あの男は其方の何だえ。親類かい、知己かい。」
いいも終らざるに婦人は答えぬ。「あれかい、あれは私の宿六――てッちゃあお前様に解るまい。くわしく謂えば亭主のことさ。」
照子は眼中に涙を湛えて、屹と婦人を凝視ながら、「それでは。」となお謂わんとすれば、夫人密にその袂を控え、眼注して停めらる。振切って、
「いえ、可うございます。これ、それではあの近視眼は……いえ、謂わして下さいよ。他人の金銭に其方が関係する権利はあるまい。一体近視眼は其方の何だい。」
と、ぽんと一本参りたまえば、待構えし体にて平然と、「ありゃ私の男妾さ、意気地の無い野郎さね。」一同聞いて唖然たり。
渠がいう処のしらじらしさ、虚言は見透きて明なれど、あらずというべき証拠なければ、照子は返さん言葉も無く、悄れて首を低れたまいぬ。
この時まで無言にて傍観せられし深川夫人、何か心に頷きながら、突立ちたる婦人の背を、しなやかに不意打して、
「モシ貴女。」
「エー。」と振返るに引被せて、
「済んだらこちらへいらっしゃいな、お茶一つあげましょう。」と風流に屈む柳腰。
屹と視て、「フフ、此奴はちっと骨がある。」
兵法に曰く柔よく剛を制すと、深川夫人が物馴れたる扱に、妖艶なる妖精は火焔を収め、静々と導かれて、階下なる談話室兼事務所に行けり。
群集は崩れ、雑沓鎮まり、一条の紛乱はかくしてようやく鎮撫に帰しぬ。
野分の後は寂寞閑。
夫人も令嬢も太く得意を減殺されて、気焔大に衰えたり。
それより照子、鬱々として愉まず、愁眉容易に開けざるにぞ、在原夫人は語を尽して、賺しても、慰めても頭痛がするとて額を押え、弱果てて見えたまえば、見るに見かねて侍女等、
「姫様こういらっしゃいまし。」一まず彼室の休息所へ、しばし引込みたまうにぞ、大切なる招牌隠れたれば、店頭蕭条として秋暮の歎あり。
これではならぬ、と御迎の使者相望めば、御機嫌を見計らいて侍女は慰むる。「あんなあばずれのいった言は、ナニ、蚊が鳴いたのだと思召しまし。御気分が癒りましたら、二階へお出で遊ばしませんか。」「そうさね。」とどちらつかず。「在原の夫人ばかりでは何にも売れはいたしませんよ。」「ナニ、まさか。」と口にはいえど、さもあらんという顔色。
「それに、姫様。」と侍女は仔細らしく小声になり、
「福助がもう来ます時分、ここにいらっしゃると見落しますよ。」
と乳の下三寸に銃口を向ければ、
「それじゃ行こうか。」とは罪がなし。
御迎の使者またもや到来、「モシ姫様、どうぞ来て下さい。貴女でなければならぬそうです。」
「度々御苦労ね、今直に。」と照子の答に、使者面目を施して、ばたばたにて引返すを、此方の侍女追縋りて、
「ちょいとちょいと、若旦那はまだ来ないの?」と肩を叩く。「えーどこの。」と勘の悪さ。「米沢町のさあ。」「ああ、新駒屋かね。」「大きな声だよ。まあ来たかい。」「今しがた来たっけよ。」「それ、姫様、ちゃっとちゃっと。」
「あいよ。」と嬉しそうに、慌しく立上れば、御使者番は気の毒そうに、「そうしてもう帰っちまったわ。」「えっ。」と驚く侍女より照子は先にべったり坐り、「私はもう。」と失望落胆。半巾をびりりと喰裂きて、「車夫に、支度を。直ぐ帰る。」
これがそれ慈善会中に第一流の貴女なり。