9話 貧民倶楽部(9)
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お丹は勝手次第に綾子の箪笥より曠着を取出し、上下すっかり脱替えて、帯は窮屈と下〆ばかり、裳を曳摺り、座蒲団二三枚積重ねて、しだらなき押立膝、烟草と茶とを当分に飲み分けて、飽けば火鉢の縁に肱つき、小楊枝にて皓歯をせせりながら、「こう、お松どん、何か食べてえものは無えか。好んでみや、遠慮は不沙汰だ。なに、鰻丼だえ、相も変らずだの、五ツ六ツ誂えて来るが可い。大盤振舞をしてやろう。さてとまずお台所お松の方の召上る物はぐい極となったが、私は何にしよう。鰻の匂も鼻に附いて食いたくなし、鯛は脂肪濃し、天麩羅はしつッこいし、口取も甘たるしか、味噌吸物は胸に持つ、すましも可いが、恰好な種が無かろう。鮪の刺身は※にて御不承なさるか。そうそう藤村の鹿の子が可い。風月堂のかすてらも悪しからず、引包めて二両ばかり買うが可い。それから家の漬物はさっぱり気が無いの、土用越の沢庵、至って塩の辛きやつで黙らそうとは圧が強い。早速当座漬を拵えて醤油も亀甲万に改良することさ。」と朝から晩まで食好、食草臥れれば、緞子の夜具に大の字形の高枕、ふて寝の天井の圧に打たれて、潰れて死なぬが不思議なり。
綾子はこれを見て見ぬふり、黙許して咎めざれば、召使のものは為術なく、お丹の命令に唯々諾々。独り三太夫は御家の滅亡近きにあらんと、夜の目も合わず心痛なし、追放案を提出して、しばしば綾子に迫るといえども、ちと仔細ありてと、おおするのみ。心はあかしてのたまわねど、太くもの思に沈ませたまい、軽快濶達なりし昨日に似ず、憂鬱沈痛になりたまえば、どうして良かろうと、ご家来も呆れ果ててぞいられける。
誰も天窓のおさえ手なければ、お丹はいよいよ附上りて、我儘日に日に増長なし、人を人とも思わぬ振舞、乱暴狼藉言語に絶えたり。
一日珍しく、在原夫人、深川の館に訪れぬ。
外出好の綾子夫人が一室にのみ垂込めて、「ぱっとしては気味が悪い、雨戸を開け勿。」といわるるばかり庭の面さえ歩行わせたまわず。毎夜々々湯を召すさえ物憂く見えたまえば、気鬱の疾病や引出したまわむ、何か心遣の術は無きかと頭を悩ます三太夫、飛んで出で、歓迎え、綾子の居間に案内せり。
夫人も大きに喜びたまい、睦じやかなる談話の花を、心無くも吹散らす、疾風一陣障子を開けて、お丹例のごとく帯もしめず、今起き出でたる風情にて、乱れ姿に広袖を引懸け、不作法に入来りて、御両方の身近に寄り、突然匍匐になりて頬杖つき、貞子の顔を上眼にじろじろ。
「綾様、こりゃどこのお婆様。」
綾子は堪らず、「あれえ!」と血を絞る声を立てられしが、衝と座を立ちて駈出だし、一室の戸を内より閉じて、自らその身を監禁せり。
貞子の方はいと不興げにそのまま帰らせたまいける。綾子は再び出で来らず、膳を進らせんと入行きたる下婢のお松を戒めて、固く人の出入を禁じぬ。
その後室内沈静にして、些々たる物音も聞えぬ事あり、時ありては畳を蹴立てて噪がしき響の起る折あり、突然、きいーきいーと悲鳴をあげて、さもくやしげに泣く音も聞ゆ。
「ああ、申訳のない事だ、御主人は女性なり、我が一家を預りながら、飛んだ悪魔をお抱えあるを諫めなんだが不念至極、何よりもまずこの月の入用をまだ御手許から頂かぬに、かの悪魔めが食道楽、通帳で取込んで借が山のごとし、月末にどしどし詰懸けられると、なんぼむこうが平民でも、華族じゃからって払わぬわけには行かぬ。十重二十重に囲まれては、老功な武者でも籠城がしにくいぞ。ええ情ない、お家の没落を見てどうしておめおめと生きておられよう、先殿への申訳、まッこの通り。」
と、三太夫はお丹へのつらあてに、眼鏡を懸けて刀を選出し、座を構え、諸肌脱ぎ、皺腹に唾をなすり、白刃を逆手に大音声、「腹を切る、止めまいぞ、邪魔する奴は冥土の道連、差違えるぞ、さよう心得ろ。」
と繰返して呼ばわれど、留めんとするものなし。「なに止められて堪るものか。故障の入らぬ内に、おおそうじゃ。」と切尖をちょいと中てて震上り、「武士が、武士が、」と歯切して、ぐっとまでにはならぬけれど、ほんとに突いて、「うわッ、死だあ。」と疵を押え、血眼になりて、皺枯声を振絞り、「もう一抉で死にます。この手の動くが最後でござる。ちょいとでもやれば直ちに死にます。ただほんのもう一抉。」と肩で呼吸。
障子の外には人気勢して、くすくす笑い、三太夫は大粒の涙ほろほろ、刀をからりと投棄てて、「切った割に血の出ぬは、むむ、今日は血を流すと、荒神様が祟る日だ。やれ六根清浄、切腹をする日でない。」と御見合。
もとより親仁が一生の智慧を出したる茶番にて、お丹の心を挫がんためのみ。仕方を見せて見物を泣かせる目算のあてはずれ、発奮で活歴を遣って退け、手痍少々負うたれば、破傷風にならぬようにと、太鼓大の膏薬を飯粒にて糊附けしが、歩行たびに腹筋よれて、跛曳き曳き、「あ痛、あ痛。」その志よみすべし、(しかし馬鹿らしい。)
綾子が一室に籠りてより、三日目の夕まぐれ、勝手口の腰障子をぬっと開けて、面出す男、「姉御、姉御。」と二人連。
来れる二個の眷属は三界無宿の非人にて、魔道に籍ある屠犬児、鳩槃荼、舎闍を引従え、五尺に足らざる婦人ながら、殺気勃々天を衝きて、右の悪鬼に襖を開けさせ、左の夜叉に燭を持たせ、栄華の空より墜落して、火宅の苦患を嘗めつつある綾子を犯す乞食お丹、自堕落の態引替えて悪魔の風采凜々たり。
綾子は照射入れる燈火に射られて、呀と叫びて跳上りぬ。
屠犬児は衝と寄りて、綾子を捕えて押据えつ。お丹は襖を密閉して、夫人の前にむずと坐す。
綾子は頤を襟に埋めぬ。磨かぬ玉に垢着きて、清き襟脚曇を帯び、憂悶せる心の風雨に、艶なる姿の花萎みて、鬢の毛頬に乱懸り、俤太く窶れたり。
「綾子様、今私が改めて貴方に御尋ね申したいは、先月の末頃までこの邸に勤めました、お秀という小間使ね、あれはどこへ参りました。」
綾子は震えぬ。
お丹は屹と居直りて、「ああ、御返事はなりますまい、あの朝、大木戸伯と貴女とが一つ閨に居たところを、お秀がうっかり見着けたので、(綾子が、お言いでないよを繰返して小間使を警しめし、あの件なるものすなわちこれなり。)直ぐその晩小浜照子に刺された事は知っている。あの女は幽霊の真似をして人を威して慰むような剽軽者ではございません。必ず誰かが教唆して殺されるように仕組んだので、教唆したものは綾子様、大木戸伯と貴女の他には、私に心当りは無い。もっとも御自分ではなさらないで、お秀がいやを謂われぬ者を手先に使ってさせたでしょう。なぜだといえば、あの娘が活きている中は、二人の寝覚が悪いから、殺した、いや照子に殺させたに違いありません。ほんとうに許されないのは貴女です。人を殺しても守りたいほど、そんなに名誉が大切なら、なぜ不品行をなさるんです。年紀は若し、容色は佳し、なるほど操は守られますまい、可し情夫が千人あろうと、姦夫をなさろうと、それは貴女の御勝手だが、人殺をしても仁者と謂われ、盗人をしても善人と謂われて、肩幅広く居なさるのが、それが私は憎いんです。一体法網を潜るものは、お天道様が罰する筈だけれど、それも片手落な事もあって、北向の家はいつもいつも寒いようでは、あてになったもんじゃない。私が今晩唯今、貴女を罰してみせましょう。もとよりお秀を教唆して死地に陥したは貴女という推量ばかりで証拠は無いが、私は検事でもなく、判事でもございません、罪の軽重は論じない。ただ貴女が貴女の心に罪がこれだけあると思うほど、可い加減に罪を受けて、それだけ苦しめば可いのです。もしまた青天白日の御心なれば、平気でいらっしゃればそれで可い。誓って冤罪はお被せ申しません。どれ、そんなら、雲を掴んで、裁判しようか。」
綾子夫人は半ば死して、半ば器械的に傾聴するのみ。
「それ手を貸しな。」と号令一発。
かねてより命じけむ、夜叉羅刹は猶予わず、両個一斉に膝を立てて、深川夫人の真白き手首に、黒く鋭き爪を加えて左右より禁扼、三重襲ねたる御襟を二個して押開き、他目に触らば消えぬべき、雪なす胸の乳の下まで、あらけなく掻あくれば、綾子は顔を赧めつつ、悪汗津々腋下に湧きて、あれよあれよと悶えたまう。両の乳房を右顧左眄て、お丹はなぶり且つ嘲り、「ふむ、大分大きくなった乳嘴にぼっと色が着いて、肩で呼吸して、……見た処が四月の末頃、もう確かだ。それで可しと、掻合せてやんなよ、お寒いのに。」
両個はただちに手を引きぬ。
綾子は呼吸ある人形なりき。
「綾子様、このごろの習慣で、寡婦の妊娠のは大変な不名誉です。それに貴女のその腹は誰の種だか、御自分で解りますまい。大木戸伯のか、百田時次郎、ね、御存じのあの好男子だか、どちらのだか知れますまい。下世話にいえば何とか講だ、恥の骨頂です。お秀の事はさて置いてと、この件を通信して明日の新聞に間に合うように直ぐ(じゃむこう)を走らせよう。深川夫人と名を載せます。」
綾子は聞くより慌しく、「私やもう何にも謂わない。さ、お前に殺されてやる。後生だからそれだけは止しておくれ。」
お丹は綾子を瞻りて、「おいでなすった。そのお言葉があったら差上げようと、これを用意しておきました。御覧下さい海外旅行券です。交際社会のクインとまで謂わるる貴女、今醜聞を新聞に出されては、とても日本にお出なさることは出来まいと思って、私がほんの寸志、これを進げますから、外国へお遁げなさい。そうすればしばらく記事を猶予して上げましょう。そのかわり貴女が横浜を出帆する時、電報を懸けて下さい。それと同時に紙上へ載せます。東京市中は破れるばかり風説をしましょう。しかし、もう荒波の音に紛れて貴女の耳には入りません。」と早い手廻。
綾子は肯かず、「いいえ、人が私を罵る声は苔の下まで定かに聞える。私の身体をお前に遣るから、生爪を剥いで火で焚くとも、逆に釣って干殺すとも、ずたずたに斬って肉を啖うとも、血を絞って啜るとも、お前の手で出来るだけのことをして、どうでもして堪忍せよ。」と清しき御眼に暗涙あり。
お丹は冷然として、「不可ません。私は探訪員の義務として、貴女のことを通信するのは、大変な価値があるので、今度の新聞材料は人の生命が要ったくらい。どうしても堪忍しません。ただ私の謂うことを聞いて海外へいらっしゃい。何なら露西亜へでもお出なさいな。」
綾子は呟くごとく、「それでは日本からまるで放逐されるようなものだ。」「まずそうですね。」と冷笑一番、「いやいや、どうしても外国へ行く気は無い、ではこうしておくれ。今ここで、お前の眼の前で、自……自殺をする。身体は死んでしまうから、ただ名誉だけ助けておくれ。」
と肺肝を絞る熱涙滴然、もって人類の石心を和ぐべく鉄腸を溶解すべし。
されど悪魔は冷々然、「自殺をするほどの罪があると、貴女の心に思うのなら、いつでもなさいまし。毒薬を飲むの? 咽喉を突くの? 笛を掻斬る時後へ反ると、もう、手が利かなくなって死損います。背後から私が抱いていて上げましょう。モルヒネならちょうど死なれる分量を――御存じなくば見積って、私の掌から飲ましてあげましょうか。」これ鬼言なり。
綾子は喜べる色ありき。「それではモルヒネ……お前目分量で飲ましてくれるか。」「お安い御用です、いつでも。」「そうしたらあの件を新聞へは出さないだろうね。」と念を推せば、思いも寄らぬ顔色にて、「いいえ、それはなりません。貴女が自殺をなさればまた一つ新らしい材料が出るから、実に愉快い。深川綾子はこういう次第で自殺をしたと、その理由を書添えて、早速通信をしてやります。(じゃむこう)がまた好い材料のある時は、嬉しそうに尾を掉って勢よく駈けるんですもの。」その心の冷かなること月を浴びたる霜のごとし、天下の熱血を氷化し得む。
綾子は再び独言ち、「それでは死んでも仕様がない。」ああ窮の極、自殺も出来ず、「これ。死……死んでも不可ないのか。」と最後の運命に問い試む。
お丹は世に最も深刻なる法官の音調もて、「死は万罪を償うという、甘い御都合には参りません。しかし御心中はお察し申す。それほど名誉が大切なら、なぜあの件を見られた当座に、飛かかって秀を殺してその手を返して咽候を切って、御自害をなさらなかった。外でもない、貴女の地位は罪を隠すことが出来るので、人殺をして今が今まで、賢夫人の名を保っていたのだ、それ其がごく宜しくない。法律で罰することの出来ないものは、心の鬼に責めさせて、活さず殺さず、万劫苦しめるのが一番良い。」
綾子は失望の悲声を放ちて、「ええ、どうしても仕様がないのか!」「はい死ぬことさえ出来ません。」
綾子は茫然瞳を据えて、石に化せるもの数分時、俄然跳起きて、「ああ、懊悩い。」
身悶えして帯を解棄て、毛を掻り髷を毀せば、鼈甲の櫛、黄金笄、畳に散りて乱るる態、蹴出す白脛裳に絡み、横に僵れて、「ええ、悔しい!」柳眉を逆立て、星眼血走り、我と我手に喰附けば、右の無名指に二個嵌めたる宝石入の指環を噛みて、あっと口を蓋えるとたん、指より洩れて鮮血たらたら、舌を切りぬ。歯を折きぬ。されども苦痛を感ずる体なく、玉の腕を投出して、空を抱きて胸に緊め附け、ニタリと笑いて、「時様、おお、可愛いねえ。」
果は衣服を脱棄てて、媚めかしき乳も唇より流るる血汐に塗みらしつつ、
「御前、誰も見はいたしませんよ。ナニ、お位牌の前だって、貴方もねえ、死んだ夫は近視でした。」
魔属もさすがに面を背けぬ。
お丹は視めて平然たり。
綾子はまた膝を折りて端坐しつ、潸然と泣出だしぬ、たちまちきゃっと絶叫して、転げ廻りつ苦み《もが》き、
「秀、秀、私が悪かった。ああああ、苦しい。堪らない、あれッ、あれッ。」と跳り上りて室内を狂奔せるが、あたかも空中にものありて綾子を掴みて投げたるごとく、仰様に打倒れぬ。それより裸美人寂として、大理石の像に肖たり。
ただその心臓は音するばかり、波立つごとく顫動せるに、溢敷きたる黒髪揺ぎて、千条の蛇蠢めきぬ。
お丹は始終を見物して、「ふむ、狂人になるだけの罪を造った婦人と見える。可し。」と呟きて、「さあ、帰ろう。」
門を出づる時、屠犬児が、「姉御あんまりだ。」「酷いじゃねえか。」とその気色を物色えば、自若として、「なにまだ、あんな目に逢わせるのが二三人あるよ。」
明治二十八(一八九五)年七月