貧民倶楽部

9話 貧民倶楽部(9)

5,875字 約12分 2020年11月4日 公開

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 お丹は勝手次第に綾子の箪笥(たんす)より曠着(はれぎ)取出(とりいだ)し、上下(うえした)すっかり脱替えて、帯は窮屈と下〆(したじめ)ばかり、(もすそ)曳摺(ひきず)り、座蒲団二三枚積重ねて、しだらなき押立膝(おったてひざ)烟草(たばこ)と茶とを当分に飲み分けて、飽けば火鉢の(へり)(ひじ)つき、小楊枝(こようじ)にて皓歯(しらは)をせせりながら、「こう、お松どん、何か食べてえものは無えか。好んでみや、遠慮は不沙汰だ。なに、鰻丼(うなどん)だえ、相も変らずだの、五ツ六ツ(あつら)えて来るが可い。大盤振舞をしてやろう。さてとまずお台所お松の(かた)の召上る物はぐい(きまり)となったが、私は何にしよう。鰻の(におい)も鼻に附いて食いたくなし、(たい)脂肪(あぶら)濃し、天麩羅(てんぷら)はしつッこいし、口取も(あまっ)たるしか、味噌吸物は胸に持つ、すましも可いが、恰好(かっこう)な種が無かろう。(まぐろ)の刺身は※にて御不承なさるか。そうそう藤村の鹿()の子が可い。風月堂のかすてらも()しからず、引包(ひっくる)めて二両ばかり買うが可い。それから(うち)の漬物はさっぱり気が無いの、土用(ごし)の沢庵、至って塩の辛きやつで黙らそうとは(おし)が強い。早速当座漬を(こせ)えて醤油(おしたじ)亀甲万(きっこうまん)に改良することさ。」と朝から晩まで食(ごのみ)(くい)草臥(くたび)れれば、緞子(どんす)の夜具に大の字(なり)の高枕、ふて寝の天井の(おし)に打たれて、(つぶ)れて死なぬが不思議なり。

 綾子はこれを見て見ぬふり、黙許して(とが)めざれば、召使のものは(せん)(すべ)なく、お丹の命令に唯々諾々(いいだくだく)。独り三太夫は御家の滅亡近きにあらんと、夜の目も合わず心痛なし、追放案を提出して、しばしば綾子に迫るといえども、ちと仔細(しさい)ありてと、おおするのみ。心はあかしてのたまわねど、(いた)くもの(おもい)に沈ませたまい、軽快濶達(かったつ)なりし昨日(きのう)に似ず、憂鬱(ゆううつ)沈痛になりたまえば、どうして良かろうと、ご家来も呆れ果ててぞいられける。

 (たれ)天窓(あたま)のおさえ手なければ、お丹はいよいよ附上りて、我儘(わがまま)日に日に増長なし、人を人とも思わぬ振舞、乱暴狼藉言語に絶えたり。

 一日珍しく、在原夫人、深川の(やかた)に訪れぬ。

 外出好(そとでずき)の綾子夫人が一室(ひとま)にのみ垂込めて、「ぱっとしては気味が悪い、雨戸を開け()。」といわるるばかり庭の(おも)さえ歩行(ひろ)わせたまわず。毎夜々々湯を召すさえ物憂く見えたまえば、気鬱(きうつ)疾病(やまい)引出(ひきいだ)したまわむ、何か心遣(こころやり)(すべ)は無きかと(こうべ)を悩ます三太夫、飛んで()で、歓迎(よろこびむか)え、綾子の居間に案内せり。

 夫人も大きに喜びたまい、(むつま)じやかなる談話(はなし)の花を、心無くも吹散らす、疾風一陣障子を開けて、お丹例のごとく帯もしめず、今起き出でたる風情にて、乱れ姿に広袖(どてら)引懸(ひっか)け、不作法に入来(いりきた)りて、御両方(おふたかた)の身近に寄り、突然(いきなり)匍匐(はらばい)になりて頬杖(ほおづえ)つき、貞子の顔を上眼にじろじろ。

「綾(さん)、こりゃどこのお婆様(ばあさん)。」

 綾子は(たま)らず、「あれえ!」と血を絞る声を立てられしが、()と座を立ちて駈出(かけい)だし、一室(ひとま)の戸を内より閉じて、自らその身を監禁せり。

 貞子の(かた)はいと不興げにそのまま帰らせたまいける。綾子は再び出で(きた)らず、膳を(まい)らせんと入行(いりゆ)きたる下婢(かひ)のお松を戒めて、固く人の出入を禁じぬ。

 その(のち)室内沈静にして、些々(ささ)たる物音も聞えぬ事あり、時ありては畳を蹴立てて(さわ)がしき(ひびき)の起る折あり、突然、きいーきいーと悲鳴をあげて、さもくやしげに泣く()も聞ゆ。

「ああ、申訳のない事だ、御主人は女性(にょしょう)なり、(わし)が一家を預りながら、飛んだ悪魔をお抱えあるを(いさ)めなんだが不念(ぶねん)至極、何よりもまずこの月の入用(いりよう)をまだ御手許(おてもと)から頂かぬに、かの悪魔めが(くい)道楽、通帳(かよい)で取込んで(かり)が山のごとし、月末にどしどし詰懸けられると、なんぼむこうが平民でも、華族じゃからって払わぬわけには()かぬ。十重二十重(とえはたえ)に囲まれては、老功な武者でも籠城(ろうじょう)がしにくいぞ。ええ(なさけ)ない、お家の没落を見てどうしておめおめと生きておられよう、先殿(せんとの)への申訳、まッこの通り。」

 と、三太夫はお丹へのつらあてに、眼鏡を懸けて刀を選出(えりだ)し、座を構え、諸肌脱ぎ、皺腹(しわばら)(つば)をなすり、白刃(しらは)逆手(さかて)に大音声、「腹を切る、止めまいぞ、邪魔する奴は冥土(めいど)道連(みちづれ)、差違えるぞ、さよう心得ろ。」

 と繰返して呼ばわれど、(とど)めんとするものなし。「なに止められて(たま)るものか。故障の入らぬ内に、おおそうじゃ。」と切尖(きっさき)をちょいと()てて震上(ふるえあが)り、「武士が、武士が、」と歯切(はぎしり)して、ぐっとまでにはならぬけれど、ほんとに突いて、「うわッ、(しん)だあ。」と(きず)(おさ)え、血眼(ちまなこ)になりて、皺枯声(しわがれごえ)を振絞り、「もう一抉(ひとえぐり)で死にます。この手の動くが最後でござる。ちょいとでもやれば直ちに死にます。ただほんのもう一抉。」と肩で呼吸(いき)

 障子の外には人気勢(ひとけはい)して、くすくす笑い、三太夫は大粒の涙ほろほろ、刀をからりと投棄てて、「切った割に血の出ぬは、むむ、今日は血を流すと、荒神様が(たた)る日だ。やれ六根清浄(ろっこんしょうじょう)、切腹をする日でない。」と御見合(おみあわせ)

 もとより親仁(おやじ)が一生の智慧(ちえ)を出したる茶番にて、お丹の心を(ひし)がんためのみ。仕方を見せて見物を泣かせる目算(つもり)のあてはずれ、発奮(はずみ)で活歴を遣って退()け、手痍(てきず)少々負うたれば、破傷風にならぬようにと、太鼓大の膏薬(こうやく)を飯粒にて糊附(はりつ)けしが、歩行(あるく)たびに腹筋(はらすじ)よれて、(びっこ)()き曳き、「あ(いつ)、あ痛。」その志よみすべし、(しかし馬鹿らしい。)

 綾子が一室に(こも)りてより、三日目の夕まぐれ、勝手口の腰障子をぬっと開けて、(つら)出す男、「姉御(あねご)、姉御。」と二人(づれ)

 (きた)れる二個(ふたり)眷属(けんぞく)は三界無宿の非人にて、魔道に籍ある屠犬児(いぬころし)鳩槃荼(くはんだ)舎闍(びしゃじゃ)を引従え、五尺に足らざる婦人(おんな)ながら、殺気勃々(ぼつぼつ)天を()きて、右の悪鬼に(ふすま)を開けさせ、左の夜叉(やしゃ)(しょく)を持たせ、栄華の空より墜落して、火宅の苦患(くげん)()めつつある綾子を犯す乞食お丹、自堕落の(てい)引替えて悪魔の風采(ふうさい)凜々(りんりん)たり。

 綾子は照射入(さしい)れる燈火に射られて、()と叫びて跳上りぬ。

 屠犬児は()と寄りて、綾子を捕えて押据えつ。お丹は襖を密閉して、夫人の前にむずと坐す。

 綾子は(おとがい)を襟に(うず)めぬ。(みが)かぬ玉に(あか)着きて、清き襟脚(くもり)を帯び、憂悶(ゆうもん)せる心の風雨に、(えん)なる姿の花(しぼ)みて、(びん)の毛頬に乱懸(みだれかか)り、(おもかげ)(いたく)(やつ)れたり。

「綾子(さん)、今私が改めて貴方(あなた)に御尋ね申したいは、先月の末頃までこの邸に勤めました、お秀という小間使ね、あれはどこへ参りました。」

綾子は震えぬ。

 お丹は(きっ)と居直りて、「ああ、御返事はなりますまい、あの朝、大木戸伯と貴女(あなた)とが一つ(ねや)に居たところを、お秀がうっかり見着けたので、(綾子が、お言いでないよを繰返して小間使を(いま)しめし、あの件なるものすなわちこれなり。)直ぐその晩小浜照子に刺された事は知っている。あの()は幽霊の真似をして人を(おど)して慰むような剽軽者(ひょうきんもの)ではございません。必ず誰かが教唆(きょうさ)して殺されるように仕組んだので、教唆したものは綾子(さん)、大木戸伯と貴女(あなた)(ほか)には、私に心当りは無い。もっとも御自分ではなさらないで、お秀がいやを()われぬ者を手先に使ってさせたでしょう。なぜだといえば、あの()()きている(うち)は、二人の寝覚(ねざめ)が悪いから、殺した、いや照子に殺させたに違いありません。ほんとうに許されないのは貴女です。人を殺しても守りたいほど、そんなに名誉が大切なら、なぜ不品行(ふしだら)をなさるんです。年紀(とし)は若し、容色(きりょう)()し、なるほど操は守られますまい、()情夫(いろおとこ)が千人あろうと、姦夫(まおとこ)をなさろうと、それは貴女の御勝手だが、人殺(ひとごろし)をしても仁者と謂われ、盗人(どろぼう)をしても善人と謂われて、肩幅広く居なさるのが、それが私は憎いんです。一体法網(ほうもう)(くぐ)るものは、お天道様が罰する(はず)だけれど、それも片手落な事もあって、北向の家はいつもいつも寒いようでは、あてになったもんじゃない。私が今晩唯今(ただいま)、貴女を罰してみせましょう。もとよりお秀を教唆(そそのか)して死地に(おと)したは貴女という推量ばかりで証拠は無いが、私は検事でもなく、判事でもございません、罪の軽重は論じない。ただ貴女が貴女の心に罪がこれだけあると思うほど、可い加減に罪を受けて、それだけ苦しめば可いのです。もしまた青天白日の御心なれば、平気でいらっしゃればそれで可い。誓って冤罪(えんざい)はお()せ申しません。どれ、そんなら、雲を(つか)んで、裁判しようか。」

 綾子夫人は半ば死して、半ば器械的に傾聴するのみ。

「それ手を貸しな。」と号令一発。

 かねてより命じけむ、夜叉羅刹(やしゃらせつ)猶予(ためら)わず、両個(ふたり)一斉に膝を立てて、深川夫人の真白き手首に、黒く鋭き爪を加えて左右より禁扼(とりしばり)三重(みえ)(かさ)ねたる御襟(おんえり)二個(ふたり)して押開き、他目(ひとめ)()らば消えぬべき、雪なす胸の()の下まで、あらけなく(かき)あくれば、綾子は顔を(あか)めつつ、悪汗(おかん)津々(しんしん)腋下(えきか)()きて、あれよあれよと(もだ)えたまう。両の乳房を右顧左眄(とみこうみ)て、お丹はなぶり且つ(あざけ)り、「ふむ、大分(だいぶん)大きくなった乳嘴(ちくび)にぼっと色が着いて、肩で呼吸(いき)して、……見た処が四月(よつき)の末頃、もう確かだ。それで可しと、掻合せてやんなよ、お寒いのに。」

 両個(ふたり)はただちに手を引きぬ。

 綾子は呼吸(いき)ある人形なりき。

「綾子(さん)、このごろの習慣(ならわし)で、寡婦(やもめ)妊娠(はらむ)のは大変な不名誉です。それに貴女(あなた)のその(おなか)は誰の種だか、御自分で解りますまい。大木戸伯のか、百田時次郎、ね、御存じのあの好男子だか、どちらのだか知れますまい。下世話にいえば何とか講だ、恥の骨頂です。お秀の事はさて置いてと、この(こと)を通信して明日の新聞に間に合うように直ぐ(じゃむこう)を走らせよう。深川夫人と名を載せます。」

 綾子は聞くより(あわただ)しく、「私やもう何にも謂わない。さ、お前に殺されてやる。後生だからそれだけは止しておくれ。」

 お丹は綾子を(みまも)りて、「おいでなすった。そのお言葉があったら差上げようと、これを用意しておきました。御覧下さい海外旅行券です。交際社会のクインとまで謂わるる貴女(あなた)、今醜聞を新聞に出されては、とても日本にお(いで)なさることは出来まいと思って、私がほんの寸志、これを()げますから、外国へお()げなさい。そうすればしばらく記事を猶予して上げましょう。そのかわり貴女が横浜を出帆する時、電報を懸けて下さい。それと同時に紙上へ載せます。東京市中は()れるばかり風説(うわさ)をしましょう。しかし、もう荒波の音に紛れて貴女の耳には入りません。」と早い手廻(てまわし)

 綾子は()かず、「いいえ、人が私を(ののし)る声は(こけ)の下まで定かに聞える。私の身体(からだ)をお前に遣るから、生爪を()いで火で()くとも、(さかさ)に釣って干殺(ほしころ)すとも、ずたずたに()って肉を(くら)うとも、血を絞って(すす)るとも、お前の手で出来るだけのことをして、どうでもして堪忍せよ。」と(すず)しき御眼(おんめ)に暗涙あり。

 お丹は冷然として、「不可(いけ)ません。私は探訪員の義務として、貴女のことを通信するのは、大変な価値(ねうち)があるので、今度の新聞材料(だね)は人の生命(いのち)が要ったくらい。どうしても堪忍しません。ただ私の謂うことを聞いて海外へいらっしゃい。何なら露西亜(ロシア)へでもお(いで)なさいな。」

 綾子は(つぶや)くごとく、「それでは日本からまるで放逐されるようなものだ。」「まずそうですね。」と冷笑一番、「いやいや、どうしても外国へ()く気は無い、ではこうしておくれ。今ここで、お前の眼の前で、自……自殺をする。身体(からだ)は死んでしまうから、ただ名誉だけ助けておくれ。」

 と肺肝を絞る熱涙滴然、もって人類の石心を(やわら)ぐべく鉄腸を溶解(とか)すべし。

 されど悪魔(サタン)は冷々然、「自殺をするほどの罪があると、貴女の心に思うのなら、いつでもなさいまし。毒薬を飲むの? 咽喉(のど)を突くの? 笛を掻斬(かきき)る時(うしろ)()ると、もう、手が利かなくなって死損います。背後(うしろ)から私が抱いていて上げましょう。モルヒネならちょうど死なれる分量を――御存じなくば見積って、私の()から飲ましてあげましょうか。」これ鬼言なり。

 綾子は喜べる色ありき。「それではモルヒネ……お前目分量で飲ましてくれるか。」「お安い御用です、いつでも。」「そうしたらあの(こと)を新聞へは出さないだろうね。」と念を推せば、思いも寄らぬ顔色(かおつき)にて、「いいえ、それはなりません。貴女が自殺をなさればまた一つ新らしい材料が出るから、実に愉快(おもしろ)い。深川綾子はこういう次第で自殺をしたと、その理由(わけ)を書添えて、早速通信をしてやります。(じゃむこう)がまた()材料(たね)のある時は、嬉しそうに尾を()って(いきおい)よく()けるんですもの。」その心の(ひやや)かなること月を浴びたる霜のごとし、天下の熱血を氷化し得む。

 綾子は再び独言(ひとりご)ち、「それでは死んでも仕様がない。」ああ窮の極、自殺も出来ず、「これ。死……死んでも不可(いけ)ないのか。」と最後の運命に問い試む。

 お丹は世に最も深刻なる法官の音調もて、「死は万罪を償うという、(うま)い御都合には参りません。しかし御心中はお察し申す。それほど名誉が大切なら、なぜあの(こと)を見られた当座に、飛かかって秀を殺してその手を返して咽候(のど)を切って、御自害をなさらなかった。外でもない、貴女の地位は罪を隠すことが出来るので、人殺(ひとごろし)をして今が今まで、賢夫人の名を保っていたのだ、それ(それ)がごく(よろ)しくない。法律で罰することの出来ないものは、心の鬼に責めさせて、(いか)さず殺さず、万劫(ばんごう)苦しめるのが一番良い。」

 綾子は失望の悲声を放ちて、「ええ、どうしても仕様がないのか!」「はい死ぬことさえ出来ません。」

 綾子は茫然瞳を据えて、石に化せるもの数分時、俄然(がぜん)跳起(はねお)きて、「ああ、懊悩(うるさ)い。」

 身悶(みもだ)えして帯を解棄て、毛を(かきむし)(まげ)(こわ)せば、鼈甲(べっこう)(くし)黄金笄(きんこうがい)、畳に散りて乱るる(すがた)、蹴出す白脛(しろはぎ)(もすそ)(から)み、横に(たお)れて、「ええ、悔しい!」柳眉(りゅうび)を逆立て、星眼血走り、我と(わが)手に喰附けば、右の無名指に二個(ふたつ)()めたる宝石入の指環(ゆびわ)()みて、あっと口を(おお)えるとたん、指より()れて鮮血(なまち)たらたら、舌を切りぬ。歯を(くじ)きぬ。されども苦痛を感ずる(てい)なく、玉の(かいな)投出(なげいだ)して、(くう)(いだ)きて胸に()め附け、ニタリと笑いて、「時(さん)、おお、可愛いねえ。」

 (はて)は衣服を脱棄てて、(なま)めかしき乳も唇より流るる血汐(ちしお)()みらしつつ、

「御前、誰も見はいたしませんよ。ナニ、お位牌(いはい)の前だって、貴方(あなた)もねえ、死んだ夫は近視(ちかめ)でした。」

 魔属もさすがに(おもて)を背けぬ。

 お丹は(なが)めて平然たり。

 綾子はまた膝を折りて端坐しつ、潸然(さんぜん)と泣出だしぬ、たちまちきゃっと絶叫して、転げ廻りつ(くるし)み《もが》き、

「秀、秀、私が悪かった。ああああ、苦しい。(たま)らない、あれッ、あれッ。」と(おど)り上りて室内を狂奔せるが、あたかも空中にものありて綾子を(つか)みて投げたるごとく、仰様(のけざま)に打倒れぬ。それより裸美人(せき)として、大理石の像に()たり。

 ただその心臓は音するばかり、波立つごとく顫動(せんどう)せるに、溢敷(こぼれし)きたる黒髪(ゆら)ぎて、千条(ちすじ)(くちなわ)(うご)めきぬ。

 お丹は始終を見物して、「ふむ、狂人になるだけの罪を造った婦人(おんな)と見える。()し。」と(つぶや)きて、「さあ、帰ろう。」

 門を出づる時、屠犬児(いぬころし)が、「姉御あんまりだ。」「(ひど)いじゃねえか。」とその気色を物色(うかが)えば、自若として、「なにまだ、あんな目に逢わせるのが二三人あるよ。」

明治二十八(一八九五)年七月

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