2話 流線間諜(2)
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銃殺に遭った「狐の巣」と呼ばれる男は多量の出血に弱りはてたものと見え、やがて宙を掴んだ手をブルブルと震わせると、そのまま落命した。
「さて次は『赤毛のゴリラ』に対する宣告であるが――」と首領「右足のない梟」は厳かな口調で云った。一座はシーンと静まりかえって、深山幽谷にあるのと何の選ぶところもない。
「――その前に、すこしばかり意見を交換して置きたい。『赤毛のゴリラ』が得意の猿を使ってマッチ箱を奪還したことは、部下の過失をいささか償った形だが、そのマッチ一箱にはマッチが半数ほど失われている。見ればその箱にはマッチを擦った痕跡もないが一体どこへ失われたのか、意見はないか」
「本員にも明瞭でありませぬが、お尋ねゆえに私見を申上げます」と彼の大男はいった。「失われた半数のマッチは、かの頓死した日本婦人が嚥み下したものと思います。だから婦人は一命を損じたのです」
「ナニ嚥み下した。嚥み下すと死ぬのは分っているが、ではかの婦人はあのマッチの尖端が何で出来ているのか知っていたと思うか」
「それは知らなかったと思います。あの婦人は何かの身体の異状によって、マッチの軸を喰べないでいられなかったのです。つまり赤燐喰い症です。あの黒い薬をゴリゴリと噛みくだいて嚥んだので、マッチで火を点けたのではないから、箱には擦った痕跡がついていないのです」
「するとその婦人は、あのマッチの不足分は全部胃の中に送ったというのだな」
「そうです。私は確信しています。だから日本人の手に、あのマッチ一本だに渡っていないのです。ですから本員の除名は許していただきたいと思います」
「イヤ宣告に容喙することは許さぬ。――とにかくマッチが日本人の手に残らなかったのは何よりである。それがもし調べられたりすると、われわれが重大使命を果す上に一頓挫を来たすことになる。不幸中の幸だったといわなければならん。――では『赤毛のゴリラ』に宣告を与える。一同起立――」
十数名の黒衣の人物は一せいに起立した。「赤毛のゴリラ」の顔は見る見る土のように色褪せていった。ああ生命は風前の灯である。
「宣告、――君は『狐の巣』の監督を怠り、重大なる材料を流出させたる失敗を贖うことを命ずる。忠勇なる『赤毛のゴリラ』よ。地下に瞑……」瞑せよ――と云いかけたその刹那の出来ごとだったが、突然どこからともなく一匹の鼠が現れて、チョロチョロと首領の方へ走りだした。
「オヤッ――」
と叫んだ途端に、「赤毛のゴリラ」の懐からポケット猿がパッと飛出して、鼠の後を追いかけた。首領はハッと身を避けて、この小動物の追駆けごっこを見送った。他の黒装束の連中も思わず、ゾロゾロと前へ踏みだした。そのとき「赤毛のゴリラ」の影のように寄り添った黒装束の一人が素早く何か囁いてソッと手渡したものがあった。――猿は室の隅でとうとう鼠を噛み殺してしまった。一座は元のように整列した。「右足のない梟」は、そこで再び厳かな口調で叫んだ。――
「――『赤毛のゴリラ』よ、地下に瞑せよ」
ズドン。――と銃声一発。首領の手には煙の静かに出るピストルが握られている。
だだだだッと、「赤毛のゴリラ」は銃丸のために後に吹きとばされドターンと仰向けに斃れてしまった。そして石のように動かなくなった。
「これで第二号礼式を終った」と首領は恐ろしい礼式の終了を報じたが、このとき何を思ったものか、一座をキッと睨んで声を励まして叫んだ。「――R団則の第十三条によって本員を除く他の臨席団員の覆面を脱ぐことを命ずるッ」
覆面を脱ぐ第十三条――それは極めて重大な命令だった。覆面を脱げば、たいてい死刑か本国送還の何れかである。それは実に重大なる事態の発生を意味する。
サッ――と、一同は我を争って覆面を脱いだ。現れ出でたる思いがけないその素顔!
「何者だ、覆面をとらない奴は?」
なるほど一番遠い端にいる会員の一人はただ独り覆面をとろうとしない。それは「赤毛のゴリラ」に何か手渡した男だった。首領はピタリとその団員の胸にピストルを擬した。
覆面を取らぬ団員の生命は風前の灯にひとしかった。あわや第三の犠牲となって床の上を鮮血に汚すかと思われたその刹那!
「うむ――」
と一声――かの団員の気合がかかると同時に、その右手がサッと宙にあがると見るやなにか黒い塊がピューッと唸りを生じて、首領「右足のない梟」の面上目懸けて飛んでいった。
「呀ッ――」
と叫んだのが先だったか、ドーンというピストルの音が先だったか、とにかく首領は素早く背を沈めた。
と、それを飛び越えるようにして円弧を描いていった黒塊は、行手にある頑丈な壁にぶつかって、
ガガーン!
と一大爆音をあげ、真白な煙がまるで数千の糸を四方八方にまきちらしたように拡がった。
「曲者! 偽団員だ!」
「遁がすな、殺してしまえ!」
覆面のない十数名の団員はてんでに喚きながら、怪しき黒影の上に殺到していったが、あらあら不思議、どうした訳か分らないが、彼等は拳を勢いよくふりあげたのはよいが云いあわせたように、よろよろと蹣跚き、まるで骨を抜きとられたかのように、ドッと床の上に崩折れてしまった。途端に鼻粘膜に異様な鋭い臭気を感じたのだった。毒瓦斯!――もう遅い。
「ざまを見ろ!」と覆面を取らぬ怪人は、ふくんだような声で叫んだが、
「あッ、こいつは失敗った」といって飛び出していった。そこにたしかに首領が立っていたと思ったのに、何処へ行ったか、首領の姿がなかった。床の上には丸い鉄扉が儼然と閉じていて、蹴っても踏みつけても開こうとはしない。
「ちぇッ――逃がしたかッ」
流石は首領であった。咄嗟の場合に、その場を脱れたものらしかった。
「この上は『赤毛のゴリラ』を頼むより外はない」
彼はスルスルと横に匍って、奥の壁際に倒れている第二の犠牲者のところへ近づいた。
「オイッ、しっかりしろ!」
「赤毛のゴリラ」の上衣を開くと、彼の胸には先刻怪人からソッと渡された簡易防弾胸当が当っていた。しかし弾丸は運わるく胸当の端を掠めて、頤の骨にぶつかったらしく、頸のあたりを鮮血が赤く染めていた。その衝動が激しかったのか、彼は気絶していた。しかし心臓の鼓動は指先にハッキリ感ぜられた。
「このままでは、息を吹きかえすと同時に昏睡してしまうぞ。危い危い」
そういって怪人は黒衣の下からマスクのようなものを出し、ゴリラの顔面に被せてやった。そしてそれが済むと、ドンドンと背中を打って、
「おい、目を覚せ、目を覚すんだ!」
と叫んだ。
激しい刺戟に「赤毛のゴリラ」はやっと気がついたか、ウーンと呻り始めた。
「オイ『赤毛』君。――しっかりするんだ。愚図愚図していると、俺達は死んでしまうぞ」
怪人は気が気ではなかった。隠し持ちたる毒瓦斯を放ったのはよいが、首領を逸してしまっては危険この上もない。首領は何時彼の背後に迫ってくるか知れないのだ。
「ウーン。キ、君は誰だ!」
と赤毛は細い声で呻るように云った。
「誰でもいい。君に防弾衣を恵んだ男だ。――それよりも危険が迫っている。この部屋から早く逃げ出さねば、生命が危い。さあ、云いたまえ。どこから逃げられるのだ」
「あッ。――貴方は団員ではないのだネ。イヤ、そんなことはどうでもよい。僕はもう死んでいる筈だったのだ。逃げよう、逃げよう。貴方と逃げよう。さあ、そこの床にあるスペードの印のあるところを押すんだ。早く、早く」
「なにスペードの印! アッ、これだナ」
と怪人が喜びの声をあげたとき、不意に天井の方から破れ鐘のような声が鳴り響いた。
「帆村探偵君、なにか遺言はないかネ」
首領対帆村
――遺言はないか?
と天井裏から叫んだ者は、紛れもなく密室から逃げ去った首領にちがいなかった。その首領は(帆村探偵君!)と呼んだが、一体あの青年探偵帆村はどこにいるというのだ。此処は×国間諜団の巣窟ではないか。累々と横わるのは、みな×国の間諜たちだった。もっとも一人だけ覆面を取らぬ団員があったが……。
「――君の勝だ! 好きなようにしたまえ」
と、突然叫んだのは、覆面を取らぬ彼の団員だった。彼はスックと立ち上るなり、両手を頭上にあげて、敵意のないのを示した。
「はッはッはッ」と天井裏の声は憎々しげな声で笑った。「日本の探偵さんは、案外もろいですネ。……さァ、動くと生命がないぞ。じッとしているんだ」
いよいよ首領は、この部屋に出て来る気勢をみせた。それを知ると「赤毛のゴリラ」は色を失ってしまった。首領が出て来れば、赤毛の生きていることが分り、一発のもとに斃されるに決っている。いや既に首領は赤毛が帆村から恵まれた簡易防弾衣で生命を助かったことを知っているかも知れない。彼としては団員として働いていた間は死を覚悟していた。しかしもう彼は団員でもない。それどころか既に銃殺されて黄泉の客となっていた筈である。死線を越えて――彼の場合は、死ぬのが恐ろしくなった。
「どうか、私を助けて下さい――」
赤毛はワナワナ慄えながら帆村の腰に獅噛みついた。
室内にはシューシューと可なり耳に立つ音がしている。それは毒瓦斯をしきりに排気している送風機の音だった。排気が済まないと、首領は出て来られないのだと、帆村は早くも悟った。
そこで彼は低い声で、何事かを早口に喋った。それを聞くと赤毛は肯いた。そしてゴロンとその場に倒れてしまった。
やがて送風機の音が止った。そして正面の鉄扉が弾かれたようにパッと開くと、まるで開帳された厨子の中の仏さまのように、覆面の首領が突っ立っていた。その手にはコルトらしいピストルを握って……。
「さあ帆村君。動きたければ動いてみたまえ。ナニ動きたくないって。そうだろう。直ぐピストルの弾丸を御馳走するからネ。――さて、それよりも君に至急聞きたいことがあるのだから、答えて呉れたまえ」
といって首領はジリジリと帆村の方に近づいて来た。覆面対覆面――それは首領対帆村の呼吸づまるような一大光景だった。
「帆村君」と首領はなおも油断なくピストルの口金を帆村の胸にピタリと当てて「君は銀座事件でマッチ函を怪しいと睨んでいるそうだが、一体あのマッチ函のどこが怪しいというのかネ」
「……」帆村は暫く黙っていたが「函は普通のマッチ函ですこしも怪しくはない。怪しいのはマッチの棒だ」
「マッチの棒? それがなぜ怪しい」
「函の中に半分くらいしか残っていなかった。その癖、擦った痕が一つもない……」
「そんなことは分っている。それ以上のことを云いたまえ」
「だから云ってるではないか。残りの半分のマッチの棒は、あの銀座の鋪道に斃れた川村秋子という懐姙婦人が喰べてしまったのだ」
「ナニ、あの女が喰べた?……」
「そうだ」と帆村は首領の駭くのを尻目にかけて喋りつづけた。「喰べたから、擦り痕がついていないのだ。喰べても大して不思議ではない。姙婦というものは、生理状態から変なものを喰べたがるものだ。この場合の彼女は、胎児の骨骼を作るために燐が不足していたので、いつもマッチの頭を喰べていたのだ。あの日も何気なしに、あのマッチ函を君の一味から買ったのだ、そこは店の表から見ると、何の変哲もない煙草店だった、だからそんな恐ろしいマッチともしらず、君の仲間が間違えたまま一函買いとってそしてガリガリ噛みながら、銀座へ出てきた。ところが……」
「ところが――どうしたというのだ」
「ところが、そのマッチは特別に作ったもので、燐の外に、喰べるといけない劇薬が混和されていたのだ。イヤ喰べるとは予期されなかったので劇薬が入っていたのだといった方がよいだろう。その成分というのは……」
「うん。その成分というのは――」
怪しき図譜
「さあ、早く云わぬか。――そのマッチの成分というのは何だったと云うのだ!」
と、首領「右足のない梟」はせきこむように詰問した。
「極秘のマッチの成分なら、君がたの方がよく知っているじゃないか」
と、帆村は肝腎のところで相手の激しい詰問に対し、軽く肩すかしを喰わせた。
「嘲弄する気かネ。では已むを得ん。さあ天帝に祈りをあげろ」
「あッ、ちょっと待て!」
「待てというのか。じゃ素直に云え」
「云う、といったのではない、それよりも――君のために忠告して置きたいことがあるからだ」と帆村は騒ぐ気色もなく「僕を殺すのは自由だが、すると例のマッチがわが官憲の手に渡り、添えてある僕の意見書によって綿密な分析が行われ、結局君たちの計画が大頓挫をするが承知かネ」
「マッチが日本官憲の手に渡るというのか。そんな莫迦なことがあってたまるか。残りのマッチ函は『赤毛のゴリラ』の働きで取りかえしてあることは知っているではないか」
「そうでない。川村秋子の胃液に交っているのを分析すれば分る」
「そんな事なら心配いらない。胃酸に逢えば化学変化を起して分らなくなる。はッはッ」
「まだ有る。安心するのは早いぞ。――実は僕があのマッチ函から数本失敬して某所に秘蔵している。僕がここ数日間帰らないと、先刻云ったようにそのマッチと僕の意見書とが、陸軍大臣のところへ提出されることになる。そうなれば後はどんなことになるか君にも容易に想像がつくだろう」
「ウーム、貴様という貴様は……」
と、首領は全身をブルブル震わし、銃口をグイグイと帆村の肋骨に摺りつけたが、引金を引くと一大事となるので、歯をギリギリ云わせて射撃したいのを怺えた。
「さあ、撃つなら撃つがいい……どうして撃たないのだ」
「ウム――」
と相手は気を呑まれて一歩退いた。――と、エイッという気合が掛かって首領の身体は風車のようにクルリと大きく一回転すると、イヤというほど床の上に叩きつけられた。敵がひるんだと見るやその直後の一瞬時を掴んだ帆村の早業の投げだった。――死にもの狂いの相手はガバと跳ね起きてピストルの引金を引こうとするのを、
「この野郎!」
と飛びこんだ帆村がサッと足を払って、また転がるところを隙かさず逆手を取って上からドンと抑えつけた。
「さあ、どうだ」
主客はハッキリと転倒してしまった。――帆村が云い含めてあったのか、この騒ぎのうちに、彼に救われた「赤毛のゴリラ」はサッと部屋から飛び出していった。
「右足のない梟君!」と帆村は逆手をとったまま首領に云った。「君の覆面は武士の情で、その儘にして置いてあげよう。――さあ、これから君にちと働いて貰わねばならぬが、それはこの巣窟の案内だ。ここにはいろいろな怪しい仕掛があるようだ。第一に気になるのは君が先刻まで掛けていた椅子についている梟の彫刻だ」
といって帆村は首領の座席だった椅子を指した。
「怪しいと思うのは、あの梟の眼だ。あれは押し釦になっているに違いない。君を傍へ連れてゆくから、ちょっと圧してみてくれないか」
と帆村は首領を椅子のところへ連れてゆき、
「さあ、まず右の眼を圧してみてくれ給え」
「いやだ。乃公は圧さない」
「圧さなければ、貴様こそ地獄へゆかせてやるぞ。この短刀の切れ味を知らせてやろう」
「待て。では圧そう」
「どうせ圧すなら、早くすればいいのに……」
全く主客は逆になった。――首領は渋々指をさしのべて、釦をギュッと圧した。その途端にジージーガチャリガチャリと機械の動き出す音が聞えだした、と思うと正面の鉄壁が真中から二つに割れ、静かに静かに左右へ開いていった。そしてその後から何ということだろう、竪横五メートルほどの大壁画が現れたがそれは毒々しい極彩色の密画で、画面には百花というか千花というか凡そありとあらゆる美しい花がべた一面に描き散らしてあった。
万花画譜! 密偵の巣窟に、この似つかわしからぬ図柄は一体どんな秘密を蔵しているのであろうか。
呪いの極東
灰色の敵の巣窟に、これは又あまりにも似つかぬ極彩色の大図譜!
英才をもって聞えた帆村探偵も、この花鳥絢爛と入り乱れた一大図譜をどう解釈してよいやら、皆目見当がつかず呆然としてその前に立ち尽すばかりだった。――この壁掛図が、部屋飾りのために掛けてあるのでもなく、また偶然そこにあったというのでもないことは極めて明瞭だった。すると、
(――この大図譜こそは、×国間諜団の使命に密接な関係のあるものでなければならぬ!)
帆村はそれを確信した。
では、その図譜の持つ謎をどこに発見したものだろう。彼はいままでに、いろいろと複雑な暗号にぶつかったが、こんな種類のは始めてだった。尚身近くには油断のならない敵手「右足のない梟」がいて、ピストルに隙さえ見出せるならあべこべに彼の生命を脅かす位置に取代ろうと覘っている。しかもこの場所というのが、敵にとって便利この上もない巣窟にちがいない。この上どんな殺人的仕掛があるやら分らないし、またいつ危急を聞きつけて、決死的な新手の団員が殺到してくるか分らない。それを思うと、長居は頗る危険だった。
それにも拘らず、折角目の前に望みながら、どうにも手のつけようのない謎の大図譜! 流石の帆村探偵も、火葬炉の中に入れられたように、全身がジリジリと灼熱してくるのを覚えたのであった。
「さあ、――」と帆村は首領の背中を銃口で押して威嚇した。「この図譜が出て来たからには、もう観念してよいだろう。こいつの実行期は何日だ、それを云ってみたまえ」
帆村は、さも計画を熟知しているような顔をして、この機密に攀じのぼるための何かの足掛りを得たいつもりだった。
「はッはッはッ」と「右足のない梟」は太々しく笑って、「儂に聞くことはないでしょう。御覧のとおりですから、勝手にお読みになったがいいでしょう」
読めというのか。ではこの図譜の上に、すべてのことが書かれているのだ。――だが読めといっても、この花鳥乱れるの図を何と読んでいいのだろう。
「フフフフ、どうです。お分りかナ。――」
と首領は悪意を笑声に盛って投げつけた。それを聞くと帆村はもう耐えられなくなった。
「――分らなくて、どうするものか!」
と彼は叫んだ。自暴的な自殺的な言葉を吐くのが、彼のよくない病癖だったが、それを喚き散らすと、いつの場合も反射的に天来の霊感が浮んでくるのであった。今の場合もそうだった。
そうだもう一つの押釦があった。
その押釦を押しさえすればいいのだ。心配は押してみてから後でもよい!
帆村はつと手を伸べて、首領席についているもう一つの押釦をグイと押した。すると、果然その反応は起った。
図譜に向いあった壁面に、一つの穴のようなものがポカリと明くと、その中からサッと赤色の光線が迸ると見るより早く、かの大図譜の上に投げ掛った。
と。――
なんという不思議! 大図譜の上に乱れ飛んでいた花鳥がサッと姿を消して、その代りに図譜の上には大きな地図が現れた。地図! 地図! 青色の大地図だった。そして意外にも極東の大地図だった。日本を中心として、右には米大陸の西岸が見え、上には北氷洋が、西には印度の全体が、そして下には遥かに濠洲が見えている。その地図の上には、ところどころに太い青線で妙な標がついていた。――ああ矢張り密偵団の陰謀は、この大地図の上に印せられてあったのだ! 帆村の興奮は、その極に達した。
が、そこに恐ろしい危機があった。帆村の警戒の目がちょっと留守になったのだ。
ガチャーン――と、烈しい物音!
ガラガラと硝子の壊れ落ちる響がしたと思うと、途端に赤い光線がサッと滅した。そして面妖にも、青色の極東を中心とする大地図が消え失せて、あとには始めにみた花鳥の図が、何事もなかったように壁間に掛っていた。――
「やったナ」
と首領の方に気をくばる。――
もう遅かった。ガーンと帆村の頤を強襲した猛烈な打撃! 彼はウンと一声呻るとともに、意識を失ってしまった。
樽のある部屋