4話 流線間諜(4)
読み方を変える
怪漢の肩に担がれた探偵帆村は、多量の出血のために頭がボンヤリしていた。ときどき頭が柱か壁のようなものにドカンと衝突すると、ハッと気がつくのであった。あるときは階段をガタガタ駈けのぼっているようだし、あるときは狭いトンネルのような中をすれすれに潜りぬけていたようだった。それ等はほんの瞬間の記憶だけで、あとはまた精神が朦朧としてしまって覚えがない。
「さあ、もう大丈夫!」
そういう声がして、彼はドンと地上に下ろされたところで、再び意識が戻った。たいへんに冷い土の上であった。ピューピューと寒い風が吹きつけるので、彼はワナワナと慄えだした。
「さあ、もう安全なところまで来ましたよ、帆村さん」そういって怪漢は、帆村の破れた服をソッと合わせながら、
「さあ、それでは私はお暇しますよ。では」
「待って下さい」
と帆村は苦痛を怺えながら叫んだ。
「き、君は誰です、僕を助けて下すって……」
「いいえ、お礼はいりませんよ。私は貴方に助けてもらったことがあるので、ちょっと御恩がえしをしただけです。そういえばお分りでしょう」
「分らない、誰!」
「誰でもいいじゃありませんか。私はすぐ姿を隠さねばなりません。――」
「ちょ、ちょっと待って」
と云って帆村は半身を起しかけたが、「あッ痛い」と、またもや地上にゴトリと倒れてしまった。そして昏々として睡ってしまった。
それから後、どの位の時間が流れたかしれない。帆村が再び正気にかえったときにはあたりはもうかなり明るかった。彼は元気を盛りかえして身を起した。激しい疼痛が、彼の神経をチクリチクリと刺戟したが、歯を喰いしばって地上に坐りなおした。――どうやら此処は、大きなビルディングの地下室へ降りる石階段の下であるらしい。どうしてこれを地面と感じたのか、一向にわからない。
不図見ると、いつの間にして呉れたのか、左腕には白い繃帯が厚く厚く巻いてあった。そして脱げた靴が片っ方だけ転がっていた。いやその傍にもう一つ黒いものが転がっていた。それは防弾チョッキだった。それには見覚えがあった。これは確か、最初地下室に忍びこんだときに、既に射殺されようとした猿使いの団員「赤毛のゴリラ」に与えて一命を救ってやったものだった。してみると……、
「うんそうだ。――僕を救い出してくれたのは、『赤毛のゴリラ』だったんだな」
「赤毛のゴリラ」だったら、もっといろいろ尋ねたいことがあったのに……。彼は昨夜の出来ごとを始め、この何日か密偵団の巣窟で起ったことをそれからそれへと、まるで継ぎはぎだらけの映画をうつし出すように想いだしたのであった。
「そういえば、たしか密書を奪ったつもりだったが、あれはどうしたろう?」
帆村はハッと胸を躍らせながら、両手をいそがしくポケットからポケットに走らせた。
「うむ、あったぞ!」
彼は思わず大声をあげた。右のズボンのポケットから出て来たのは、皺くちゃになった折り畳んだ西洋紙だった。
「これだこれだ」
彼は躍りあがりながら、紙片を拡げてみた。そこには最初に空気管の中で確かめたのと同じく、漫画風の変な恰好の水兵が、パクパクとパイプをくゆらせている画がついていた。
「なんだ。これは漫画じゃないか?」
密書と思いきや、こんな無邪気な漫画水兵であるとは……。彼は大きい失望を感じながら、なおも紙面を見つめていたが……、
「おお、これは変なところがあるぞ!」
と、突然呻りだした。
「そうだ、これは一種の暗号で、隠し文字法といわれるものだ。いろんな文字が隠してあるのが見える。ハテこの水兵の胴と脚とはRという字に似ているぞ。おやおや、この靴を見ると、変な形になっているぞ、右がEの字で、左の足はどうやらZらしい。このパイプの煙も妙な形をしている。……これは面白い」
帆村は重傷の事も、あたりが急に明るくなって、このビルディングの小使がゴトゴトと起きだしたことも気がつかない様子で、画面の中から暗号を拾いあげて、いろいろと組み合わせていたが、やがて遂に叫んだ!
「うん、とけたらしい。――八日、デジネフ、ピー、アール、ウェールスか!」
はて、どうしてそんな事になるのであろうか?
恐ろしき予感
帆村探偵は漫画の水兵の画から「八日、デジネフ、ピー、アール、ウェールス」を次のような見方をして、取り出したのだった。
まず水兵さんの帽子と丸い顔の輪廓とが8の字をなしている。それから、口に銜えたパイプの煙をみると、それが渦を巻きながらも左にT、右にHの字に読める。これを合わせると 8TH《エイツス》 となるのである。
「エイツス」とは八日のことである。
これで日附の符号は解けた。
次に分りやすいのは、水兵さんの足許の左に石塊のようなものが落ちているが、これはどうみてもDという字がひっくりかえっているとしか思えない。それからこんどは、水兵さんの右足(というと画面では向って左の方の足のことである)は、靴を履いているようであるが、それはどうやらEという字が左へ倒れているもののようである。それから向って右の、水兵さんの左足をみると、これはどうみてもZという文字にちがいない。――これでDEZ《デズ》と出た。
その右方に、これを書いた画家のサインらしいものが見える。H《エッチ》 Nev《ネブ》 とかいてあるらしいが、この「エッチ・ネブ」という綴りを上の「デズ」に加えてみると俄然、DEZHNEV《デジネフ》 となって、それで一つまた解けた。
それから次が、ちょっとむずかしい。
この水兵さんが口に銜えているのはパイプであるが、どうも変な形である。そこでパイプの頭を上に立ててみると、これがPという字になる。それから水兵さんの胴中がRという文字になっている。
まだ文字が隠れている。
水兵さんの向って左の手がWという字になる。そしてその反対の方の手は、Aという字になっている。それは誰にもよく分る。まだある! この水兵さんの鼻を見るがよい。これはどうもLという字に似ているようだ。それからこの口は、変に曲っているが、なんとなくSという文字を横に寝かして、上から叩きのばしたように見えるではないか。――結局これを全部集めてみると、WALES《ウェールス》 という文字ができる。
帆村探偵はこれを P《ピー》. R《アール》. WALES《ウェールス》 と読んだ。
「デジネフ。それからピー、アール、ウェールス?」
なんのことだろう。人の名前のようでもある。――帆村はもうこの階段に用がなかった。これから用のあるのは百科事典だった。彼は元気百倍して、そこに通りかかった円タクを呼びとめると都の西北W大学の図書館へ急がせた。
夜が明けたばかりのことで、宿直員は蒲団を頭から被ってグウグウ睡っていたが、彼はこんなときに役に立つとは思わず貰って置いた総長T博士の紹介状を示して、急用のためぜひ書庫に入れてもらいたいと頼んだ。宿直員は睡いところを起されたのでブツブツこぼしていたが、それでもチャンと起きてオーバーを取り、自ら鍵をもって図書館の入口を開けてくれた――。帆村は礼もそこそこに、ドンドンと書庫の奥深くへ入っていった。
そこで彼は、尨大な外国人名大辞林をとりだすと、卓子の上にドーンと置いた。
「デジネフデジネフ。さあ、早く出て来い」
といって探した。しかし彼の期待は外れた、どうも現代に関係のありそうなものが出てこなかった。
「そうだ、これは地名辞典でひかなければ駄目なのじゃないか」
帆村はそこで、また棚を探しまわって、更に大きな地名大辞典をひっぱりだした。そしてDの部をペラペラと繰りひろげた。
「あ、あったぞ!」と帆村は鬼の首をとったように大声で叫んだ。「デジネフ岬というのがある。カムチャッカ半島の東の鼻先のところにある岬の名だ。ベーリング海峡を距てて北アメリカのアラスカに対しているそうだ。これに違いない」
彼はそれからタイムスの世界大地図をまた担ぎだして、カムチャッカ半島の部の頁を繰った。たしかに有る有る。東に伸びた七面鳥の嘴の尖った先のようなところにある岬の名だ。ベーリング海峡を距てて右の方を見ると、そこに海亀の頭のようなアラスカの突端が鼻を突合したように迫っていた。そして、何気なくそこを見ると彼を狂喜させるようなものが目についた。
「ああ。もう一つの方は、向うから転げこんで来たじゃないか。プリンス、オヴ、ウェールス岬――つまり P. R. WALES はその略記号なのだ。これで読めた。この暗号は、ベーリング海峡を挟んだ二つの岬の名を示しているのだ!」
しかし何故そんな地名を暗号の上に掲げてあるのだろう? それを考えた時、帆村探偵はハタと行き止りの露地につきあたったような気がした。
隠しインキ
帆村探偵の熱心によって、とにかく暗号は解けたけれど、その暗号の意味まで解けたわけではなかった。帆村はW大学の図書館の閲覧室をあっちへ歩きこっちへ歩き、灼けつくような焦躁の中に苦悶したけれど、どうにも分らない。アラスカのウェールス岬がどうしたというのだ。カムチャッカのデジネフ岬がどうしたというのだ。どっちも日本の土地ではない。だから日本に関係ないはずだ。しかし日本に関係のないことを、某国の参謀局がわざわざ日本にいる密偵長に知らせてくるのはどうも合点がゆかないことだった。どう考えてみても、なにか日本と関係があるにちがいない。さあ、それは一体どんなことだ?
結局帆村探偵が到着した結論では、
――この漫画の暗号だけがこの密書の中に書かれている通信文の全体ではない!
ということだった。別の言葉でいうと、この密書には、もっと沢山の言葉が並んでいなければならぬ筈だということだった。
もっと沢山の言葉! それは一体どこに記されてあるのか。レターペーパーの裏をかえし表をかえしてみたが、それ以上の数の文字は何処にも発見できなかった。――帆村はまるで迷路の中に路を失ってしまったように感じた。かれはポケットを探ってそこに皺くちゃになった一本の莨を発見した。それに火をつけて吸いはじめたが、それは筆紙に尽されぬほど美味かった。凍りついていた元気が俄かに融けて全身をまわりだした感じだ。彼は煙をプカプカと矢鱈にふかし続けていたが、そのうちに椅子から飛びあがると、ハタと膝を打った。
「そうだ。僕は莫迦だった。なぜそれにもっと早く気がつかなかったのだろう!」
そう独言をいった彼は、襯衣のポケットに手を入れて何物かを探し始めた。
「あった、あった」
彼がやっと取出したものは五、六本の燐寸の棒だった。その中から三本を抜きとって、あとは元通りにポケットの底にしまった。それから彼は館員から茶碗を一つ借りて、それに少量の水をたらし、その水の中へ三本の燐寸の頭を漬けた。
暫くすると、茶碗の水は薄すらと黄色に変った。そこで燐寸の頭を取出し、そこに残った淡黄色の水をいと興深げに眺めていたが、こんどは何思ったものかその水を指先につけて、卓子の上に伸べてあった漫画の水兵の紙面へポタポタとたらし、それをすらすらと拡げていった。かくすること両三度、――彼は息づまる思いでその紙面を穴の明くほどみつめていた。
「おお――」
と、そのとき彼は嬉しさのあまり、歓声をあげたのだった。紙面にはあまり顕著ではないが、なにか緑色の文字らしきものがポーッと浮かんで来たのだった。ああ、これこそ隠しインキによる暗号文だった! すると問題の燐寸の頭には密かに隠しインキの現像薬が練りこんであったといえる。密偵団が死力をつくして燐寸の棒の奪還をはかったわけもわかる。死の制裁をもって責任者を処罰したわけもわかる。それにしてもうまいところへ隠しインキの現像薬を隠したものである。燐寸の頭なのだ。燐寸なんてどこにも転がっているもので、これを持っていても怪しむ者はないだろう。万一怪しまれそうになっても、何喰わぬ顔をして検閲官の前で、火を点けると薬も共に燃えて跡方もなくなってしまう。実に巧妙な隠し場所だといわなければならない。
帆村はあの燐寸が、銀座の鋪道に斃れた婦人の身辺から発見されたとき、それが不可解なる唯一の材料だった点からして、油断をなさず「赤毛のゴリラ」が小猿を使って燐寸函の奪還をはかったよりも前にひそかにその函の中から数本の燐寸の棒をポケットに滑りこませて置いたのだった。もしあのとき、そこに気がつかなかったとしたら、今日密書の上に書かれた秘密文字を読みとることは絶対に困難だったろう。随ってR事件も遂にその真相を知られないでしまい、後へ行って大椿事を迎えるに及んで始めてあれがその椿事の前奏曲だったかと思いあたるようなことになったかも知れない。それでは遺憾もまた甚だしいといわなければならない。――
密書紙上の秘密文字は、漸く緑色もかなり濃く浮きだして来た。帆村はそこに書かれてある文字を拾って読みだしたが、彼の顔は見る見る紅潮して来たのだった。隠しインキは、そもそも何を語っていたのであろうか?
疑問の第二の海峡
帆村探偵が愕いたのも無理がない。そこに浮かび出た緑色の文字は、実に次のような意味の文句を綴ってあった。
「……ボゴビ、ラザレフ岬。四日完了。……総攻撃開始は十日の予定、それまでにR区各員は一切の準備を終了し置くを要す」
ボゴビ、ラザレフ岬とは何処を指していうのか。また何を完了するというのか?
総攻撃開始とは、何処を攻めるというのであるか?
R区とは何処を云っているのか?
各員は何を準備するのであるか?
何のことだか、ハッキリは分らないけれど、帝都に巣喰う密偵団に準備をしろという点から考えると、これは何かわが日本帝国に関係のあることはいうまでもない。もっと深く知るためには、ボゴビ、ラザレフ岬という地名を知らねばならない。
探偵帆村荘六は、憩う遑もなく、それからまた地名辞典の頁を忙しく繰った。すると、果然あった、あった。ラザレフ岬にボゴビ町! ボゴビ町というのは、北樺太の西岸にある小さな町の名だった。ラザレフ岬というのは、間宮海峡をへだてて其の対岸にあたる沿海県の岬の名で、その間の距離は間宮海峡の中では一番狭いところだ。そしてニコライエフスクの南方約百キロの地点にあたる! この狭い海峡を距てて向いあった両地点に何が完了したというのか?
「はアて?」と帆村は頤を指先で強く圧した。これは彼の癖で、なにか六ヶ敷いことにぶつかったとき、それを解くためには是非これをやらないと智慧袋の口が開かない。
「デジネフ岬とプリンス・オヴ・ウェールス岬も、ごく狭い海峡を距てて向いあった両地点である。ところが、いま問題のボゴビとラザレフ岬も同じような地点である。これはどうしたというのか。地勢が似かよっているのは偶然なのだろうか、それともそこに深い意味があるのだろうか?」
もちろん、これは偶然の暗号ではない。共通した地勢には、共通した問題が横たわっていると考えなければならない。すると、共通した問題とは何であるか、それこそはこの暗号の奥に秘められている大秘密でもあり、また敵の密偵長「右足のない梟」が身命を賭して達成しようとしている大使命でなければならない!
さるにても、「ボゴビ、ラザレフ岬、四日完了」とあるが、四日とはいつのことだろう。
「今日は何日ですかねえ」
と帆村は突如に、図書館の宿直氏にたずねた。
「ええ、今日ですか。今日は四日ですよ」
「なに四日? そうか、……そうなる、今日はたしかに十月四日だ。すると四日というのは今日のことかも知れない。うむ、これはこうしていられないぞ」
帆村探偵は暗号の手紙をひっつかむと、館員には挨拶もソコソコにして、W大学を飛びだした。
それから三十分ほどして、探偵帆村は、彼の尊敬する牧山大佐の前に立っていた。そこで彼はこれまで探偵した結果を要領よく報告した後で、
「大佐どの、北樺太のボゴビと沿海県のラザレフ岬との間に、近頃何か異状はありませんか」
「なに、ボゴビとラザレフ岬との間? おお君はどうしてそれを知っているのだ、真逆……」
「僕は、何も知らないのです。しかし僕の推理は、そこに何か異状のあるのを教えるのです。大佐どの、貴官にはそこに異状のあることがお分りになっているのですね」
「まあ、それは説明しまい。その代り君に見せてやるものがある。こっちへ来給え……」
大佐は帆村をうながして、或る部屋へ引張っていった。そこの壁には、或る海峡らしい空中写真が沢山貼りつけられてあり、それには一枚一枚日附が記されてあった。
「この左の岬が、ラザレフ岬だ。この右の山蔭に見えるところがボゴビだ。さあ、日附を追って、この海峡の水面にいかなる変化が起っているかそれを見たまえ」
「なんですって? これが問題の両地点の写真なのですか。どうしてこんな写真を撮すことが出来たのです」
「そんなことは訳はない。空中から赤外線写真を撮ればいいのだ。わが領土内にいてもこれ位のことは見えるのだ」
帆村は赤外線写真の偉力に愕きつつも、日附を追って海面の変化を辿っていったが、
「ああ、これは……」
と思わず大声で叫んだ。帆村は一体そこに何を見たのであろう?
赤外線写真
その赤外線写真が、問題のボゴビ町とラザレフ岬とを一緒に撮ったものだと聞くだに胸が躍るのに、しかも壁一杯に貼りつけられた沢山の写真は毎日毎日撮影されたもので、いかなる変化がそこに起りつつあるかということを示しているものだと聞いては、物に動じない帆村探偵とても顔色を変えないではいられなかった。
「どうだね。だんだんと変ってくる海峡の有様が分るかね」
と牧山大佐は沈黙を破って云った。
「ああ、分るです。これはボゴビ町とラザレフ岬との間に大きな堰堤を作っているんじゃありませんか」
「その通りだ。海峡の水を止めてしまおうというのだ。その規模の大きなことは、いまだかつて聞いたことはない。昔エジプトで、スフィンクスやピラミッドを作ったのが人間のやった土木工事で一番大きなものだったが、そのレコードはこのボゴビ町とラザレフ岬とを連ねる堰堤工事で破ってしまったわけだ。もっとも現代の科学力をもってすれば、こんなことなんかピラミッドの工事よりもやさしいのかも知れない」
「大佐どの。なぜこんなところを埋めるのでしょう。軍事上どんな役に立つのです」
「さあそれは……」と牧山大佐は腕組をして「海水の干満によって水準の変るのを利用し、高い方から海水を低い方に流して、水力発電するためだといっている。しかしそれが問題じゃ。君が持って来た密書を見るまでは水力発電説も相当有力だと思っていたがいまはそうじゃない。そいつは全然思い違いだった」
といって大佐は感慨深そうに左右に頭を振った。
「すると、この堰堤工事はどんな目的をもっているのですか。どうか話をして下さい」
「まあ待ちたまえ。いまはまだ話をする時期になっていない」と大佐は帆村を静かに押しとどめ「それよりも君が持って来た密書を大いに生かすことが先決問題だ。ことに相手が『右足のない梟』であって見れば、これは全く油断のならないことだ」
「ほほう」と帆村は目を丸くして「すると大佐どのは、前から『右足のない梟』を御存じなのですか」
「もちろん知っている。あの男と机を並べて勉強したこともあったよ。×国きっての逸材だ。恐るべき頭脳と手腕の持ち主だ。かねて大警戒はしていたが、どうしてもその尻尾をつかまえることが出来なかったのだ。こんど君が奪ってきてくれた密書こそ、実はわれわれがどんなにか待ちわびていた証拠書類でもあり、かつまた彼の使命の全貌を知らせてくれたこの上ない宝物だったのだ。イヤもっと話をしていたいが、先刻もいったように、いまは愚図愚図している場合ではない。僕はちょっと出掛けるから、君はここに待っていたまえ」
「大佐どの、お出掛けなら、私も連れていっていただけませんか」
「いや、それは出来ない。しかしこれだけは約束をして置こう。なにか面白い行動を起すようなときには、君を必ず一緒に連れだってゆくから……」
そう言い捨てて牧山大佐はそそくさと部屋を出ていった。帆村探偵は写真のある部屋にただひとり待っていた。思えば銀座の鋪道で偶然見た婦人の怪死事件から発して、かずかずの冒険をくりかえし、その結果、はからずも釣りあげた敵の密書から、いまや重大なる行動が起されようとしているのだ。一体なにごとが敵国の手で計画されているのだろう。あの二つの地点で、これから何が始まろうとしているのだ。空前の土木工事にはちがいないが、かの堰堤はいかなる秘密を蔵しているのであろうか。
帆村はずいぶん永く待たされた。既に食事を配給せられること二度、もう我慢がならぬから、辞去しようと思ったけれど、牧山大佐の言葉を信用して、もう少し待とうと頑張りつづけた。そして彼の焦躁がどうにも待ちきれなくなり、遂に一大爆発をしようとした午後九時になって、廊下に跫音も荒々しく、待ちに待った牧山大佐がひどく興奮した面持をして這入ってきた。
「ああ、牧山さん。どうも待たせるじゃありませんか……」
「まあ我慢してくれたまえ。いずれ後から何もかも分るよ……。さあその代り、直ぐ出発だよ。行先は乗った上でないと云えないが、よかったら君も一緒に行かんか」
「なに出発ですか。……連れていって下さい。どこでも構いません。地獄の際涯でもどこでも恐れやしません。ぜひ連れてって下さい」
帆村は莞爾として、牧山大佐のあとに随った。
大団円