1話 同行者(1)
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五郎は背を伸ばして、下界を見た。やはり灰白色の雲海だけである。雲の層に厚薄があるらしく、時々それがちぎれて、納豆の糸を引いたような切れ目から、丘や雑木林や畠や人家などが見える。しかしすぐ雲が来て、見えなくなる。機の高度は、五百米くらいだろう。見おろした農家の大ささから推定出来る。
五郎は視線を右のエンジンに移した。
〈まだ這っているな〉
と思う。
それが這っているのを見つけたのは、大分空港を発って、やがてであった。豆粒のような楕円形のものが、エンジンから翼の方に、すこしずつ動いていた。眺めているとパッと見えなくなり、またすこし離れたところに同じ形のものがあらわれ、じりじりと動き出す。さっきのと同じ虫(?)なのか、別のものなのか、よく判らない。幻覚なのかも知れないという懸念もあった。
病院に入る前、五郎にはしばしばその経験があった。白い壁に蟻が這っている。どう見直しても蟻が這っている。近づいて指で押えようとすると、何もさわらない。翼の虫も触れてみれば判るわけだが、窓がしまっているのでさわれない。仮に窓をあけたとしても、手が届かない。
五郎は機内を見廻した。乗客は五人しかいない。
羽田を発つ時には、四十人近く乗っていた。高松で半分ぐらいが降り、すこし乗って来た。大分でごそりと降り、五人だけになってしまった。羽田から大分までは、いい天気であった。海の皺や漁舟、白い街道や動いている自動車、そんなものがはっきり見えた。大分空港に着いた頃から、薄い雲が空に張り始めた。離陸するとすぐ雲に入った。
航空機が滑走を開始した時の五人の乗客の配置。五郎と並んで三十四、五の男。斜めうしろに若い男と女。そのうしろの席に男が一人。それだけであった。四十ぐらい座席があるので、ばらばらに乗って手足を伸ばせばいい。そう思うが、実際には固まってしまう。立って席を変えたいけれども、五郎の席は外側で、通路に出るには隣客の膝をまたがねばならない。それが面倒くさかった。
隣の客はいつ乗り込んで来たのか知らない。五郎は飛行機旅行は初めてなので、ずっと景色ばかりを眺めていた。
「乗ると不安を感じるかな?」
羽田で待っている時、ちらとそう考えたが、乗ってみるとそうでなかった。不安がなかったが、別に驚きもなかった。下方の風景を、見るだけの眼で、ぼんやりと見おろしていた。
隣の男が週刊誌から頭を上げた。髪油のにおいがただよい揺れた。男は窓外に眼を動かした。じっと発動機を見ている。黒い点を見つけたらしい。五郎は黙って煙草をふかしていた。二分ほど経った。
「へんだね」
男はひとりごとのように言った。そして五郎の膝頭をつついた。
「ねえ。ちょっと見て下さい」
「さっきから見ているよ」
五郎は答えた。
「次々に這い出して来るんだ」
「這い出す?」
男は短い笑い声を立てた。
「まるで虫か鼠みたいですね」
「では、虫じゃないのかな」
「そうじゃないでしょう。虫があんなところに棲んでる筈がない。おや?」
五郎はエンジンを見た。急にその粒々が殖えて来た。粒々ではなくて、くっついて筋になって来る。翼の表面からフラップにつながり、果ては風圧でちりぢりに吹飛ぶらしい。虫でないことはそれで判った。また幻覚でないことも。
二人はしばらくその黒い筋に、視線を固定させていた。やがて男はごそごそと動いて、不安げな口調で名刺をさし出した。
「僕はこういうもんです」
名刺には『丹尾章次』とあった。肩書はある映画会社の営業部になっている。五郎は自分の名刺をさがしたが、ポケットのどこにもなかった。
「そうですか」
五郎は名刺をしげしげと見ながら言った。
「何と読むんです? この姓は?」
「ニオ」
「めずらしい名前ですね」
「めずらしいですか。僕は福井県の武生に生れたけれど、あそこらは丹尾姓は多いのです。そうめずらしくない」
「わたしは名刺を持ってない」
五郎はいった。口で名乗った。
「散歩に出たついでに、飛行機に乗りたくなったんで、何も持っていない」
外出を許されたわけではない。こっそりと背広に着換え、入院費に予定した金を内ポケットに入れ、マスクをかけて病院を出た。外来患者や見舞人にまぎれて気付かれなかった。煙草を買い、喫茶店に入り、濃いコーヒーを飲んだ。久しぶりのコーヒーは彼の眠ったような情緒を刺戟し、亢奮させた。
〈そうだ。あそこに行こう〉
前から考えていたことなのか、今思いついたのか、五郎にはよく判らなかった。
「そうのようですね」
丹尾は合点合点をした。
「ぶらりと乗ったんですね」
「なぜ判る?」
「あんたは身の廻り品を全然持っていない。髪や鬚も伸び過ぎている。よほど旅慣れた人か、ふと思いついて旅に出たのか、どちらかと考えていたんですよ。飛行機には度々?」
「いえ。初めて」
「この航空路は、割に危険なんですよ」
丹尾はエンジンに眼を据えながら言った。
「この間大分空港で、土手にぶつかったのかな、人死にが出たし、また鹿児島空港でも事故を起した」
「ああ。知っている。新聞で読んだ」
五郎はうなずいた。
「着陸する時があぶないんだね。で、あんたはなぜ鹿児島に行くんです?」
「映画を売りに。おや。だんだん殖えて来る」
五郎もエンジンを見た。細い黒筋がだんだん太くなる。太くなるだけでなく、途中で支流をつくって、二筋になっている。五郎は眼を細めて、その動きを見極めようとした。しかし飛行機の知識がないので、それが何であるか、何を意味するのか、判断が出来かねた。五郎はつぶやいた。
「あれは流体だね。たしか」
「油ですよ」
丹尾はへんに乾いた声で言った。
「こわいですか?」
五郎は少時自分の心の中を探った。恐怖感はなかった。恐怖感は眠っていた。
「いや。別に」
五郎は答えた。
「映画を売りに? 映画って売れるもんですか?」
「売れなきゃ商売になりませんよ」
丹尾はまた短い笑い声を立てた。
「映画をつくるのには金がかかる。売って儲けなきゃ、製造元はつぶれてしまう」
「なるほどね」
そう言ったけれども、納得したわけではない。フィルムなんてものは、鉄道便か何かで直送するものであって、行商人のように売り歩くものではなかろう。そんな感じがする。五郎は丹尾の顔を見た。この顔には見覚えはない。髪にはポマードをべったりつけている。チョビ髭を生やして、蝶ネクタイをつけている。太ってはいるが、顔色はあまり良くない。頬から顎にかけて、毛細血管がちりちりと浮いている。暑いのに、かなりくたびれたレインコートを着ている。五郎は訊ねた。
「映画というと、やはり、ブルーフィルムか何か――」
「冗談じゃないですよ。そんな男に僕が見えますか?」
その時傍の窓ガラスの面に、音もなく黒い斑点が出来た。つづいて二つ、三つ。翼を流れるものが、風向きの関係か何かで、粒のまま窓ガラスにまっすぐ飛んで来るらしい。爆音のため聞えないけれども、粒はヤッと懸声をかけて、飛びついて来るように見えた。二人は黙ってそれを眺めていた。やがて最後尾から、スチュワーデスが気付いたらしく、急ぎ足で近づいていた。丹尾は顔を上げて訊ねた。
「これ、何だね?」
「潤滑油、のようですね」
「このままで、いいのかい?」
スチュワーデスは返事をしなかった。じっとエンジンの方を見詰めていた。その真剣な横顔に、五郎はふと魅力を感じた。やがてエンジンの形も見にくくなった。黒い飛沫が窓ガラスの半分ぐらいをおおってしまったのである。斜めうしろの乗客たちも、異常に気付いて、ざわめき始めた。
スチュワーデスは何も言わないで、足早に前方に歩いた。操縦席の中に入って行った。その脚や揺れる腰を、五郎はじっと見ていた。病院のことがよみがえって来た。
〈今頃騒いでいるだろうな〉
五郎は病室を想像しながら、そう思った。病室には彼を入れて、四人の患者がいた、それに付添婦が二人。騒ぎ出すのはまず付添婦だろう。患者たちは会話や勝負ごとはするけれども、お互いの身柄については責任を持たない。精神科病院だけれども、凶暴なのはいない。一番古顔は四十がらみの男で、電信柱から落っこちて頭をいためた。この男はもう直っているにもかかわらず、退院しない。会社の給料か保険かの関係で、入院している方が得なのだと、付添婦が教えて呉れた。電信柱というあだ名がついている。
「図々しい男だよ。この人は」
「うそだよ。そんなこたぁないよ」
その男はにやにやしながら弁明した。
その次は爺さん。チンドン屋に会うと、気持が変になって入って来る。何度も入って来るから、延時間にすればこちらの方が古顔ともいえる。もう一人は若い男。テンプラ屋の次男で、病名はアルコール中毒。皆おとなしい。
〈騒いでももう遅い。おれはあそこから数百里離れたところにいる〉
喫茶店でコーヒーを飲む前から、淀んで変化のない、喜びもない病室に戻りたくないという気分はあった。――
スチュワーデスが操縦室から、つかつかと出て来た。彼等に背をかがめて言った。
「もう直ぐ鹿児島空港ですから、このまま飛びます。御安心下さい」
そして次の客の方に歩いて行った。窓ガラスはほとんど油だらけになっていた。丹尾が言った。
「席を変えましょうか」
「そうだね」
五郎は素直に応じて、二人は通路の反対の座席に移動した。その方の窓ガラスは透明であった。突然雲が切れる。前方に海が見える。きらきらと光っていた。
「あんたはいくつです?」
座席バンドをしめながら、丹尾が言った。手が震えていると見え、なかなか入らなかった。
「ぼくは三十四です」
「四十五」
五郎は答えた。
「潤滑油って、燃えるものかね」
「ええ。燃えますよ。しかしよほどの熱を与えないと、燃えにくい。バンドはきつくしめといた方がいいですよ」
丹尾はポケットから洋酒の小瓶を取出して栓をあけ、一気に半分ほどあおった。五郎に差出した。
「どうです?」
五郎は頭を振った。丹尾は瓶を引込め、ポケットにしまった。機は洋上に出た。
「こわいですか。顔色が悪い」
「いや。くたびれたんだろう」
こわくはなかったが、体のどこかが震えているのが判る。手や足でなく、内部のもの。気分と関係なく、何かが律動している。そんな感じがあった。
機は洋上に出た。速力がすこし鈍ったらしい。錦江湾の桜島をゆっくり半周して、高度を下げた。空港の滑走路がぐんぐん迫って来る。着地のショックが、高松や大分のとくらべて、かなり強く体に来た。しばらく滑走して、がたがたと停った。特別な形をしたトラックが二台、彼方から全速で走って来るのが見える。五郎はバンドを外した。爆音がなくなって、急に機内の空気がざわざわと泡立って来た。
外は明るかった。南国なので、光線がつよいのだ。タラップを降りる時、瞼がちかちかと痛かった。近くで話している人々の声が、へんに遠くから聞える。耳がバカになったようだ。続いて丹尾が降りて来た。並んで待合室に入った。
「あんなこと、しょっちゅうあるんですか」
やや詰問的な口調で、丹尾は受付の女に言った。
「あんなことって、何でしょう?」
「あれを見なさい」
丹尾は滑走路をふり返った。しかし旅客機はそこになかった。乗客を全部おろした機体は、ゆるゆると引込線に移動しつつあった。丹尾はすこし拍子の抜けた表情になって言った。
「君に言ったって、しようのないことだが――」
「枕崎の方に行くんですか?」
車で航空会社の事務所まで送られた。その前の食堂に入り、丹尾は酒を注文し、五郎はうどんを頼んだ。あまりきれいな食堂ではなかった。機上でサンドイッチを食べたので、食慾はほとんどない。
「そうだよ」
五郎はうどんを一筋つまんで、口に入れた。耳の具合はすでに直っていた。
「どうです。一杯」
空いた盃に丹尾は酒を注ぎ入れた。五郎は一口含んだ。特別のにおいと味が口の中に広がった。ごくんと飲み下して五郎は言った。
「これはただの酒じゃないね」
「芋焼酎ですよ。しかし割ってある」
「もう一杯|《く》呉れ」
五郎は所望して、また味わってみた。
「ああ。これは戦争中、二、三度飲んだことがある。どこで飲んだのかな。思い出せない。もっと強かったような気がするが――」
「割らないで、生で飲んだんでしょう」
丹尾はまた注いだ。盃は大ぶりで、縁もたっぷり厚かった。
「ぼくも枕崎に行こうかな」
丹尾はまっすぐ彼を見て言った。五郎の顔は瞬間ややこわばった。ごまかすために、またうどんを一筋つまんだ。
「なぜわたしについて来るんだね?」
「ついて行くんじゃない。あそこあたりから商売を始めようと思って」
「商売って、映画の?」
そろそろ警戒し始めながら、五郎は丸椅子をがたがたとずらした。
「そうですよ」
丹尾は手をたたいて、また酒を注文した。
「直営館なら問題はないけどね、田舎には系統のない小屋があるでしょう。面白くて安けりゃ、どの社のでも買う。そこに売込みに行くわけだ。解説書やプログラムを持って、これはここ向きの作品だ。値段はいくらいくらだとね。すると向うは値切って来る。折合いがつけば、交渉成立です。そこがセールスマンの腕だ。各社の競争が烈しいんですよ」
「いい商売だね」
「なぜ?」
「あちこち歩けてさ」
五郎は盃をあけながら答えた。
「わたしはこの一箇月余り、一つ部屋の中に閉じこもっていた。一歩も外に出なかったんだよ。いや、出なかったんじゃなく、出られなかったんだ」
「なぜ?」
丹尾はきつい眼付きになった。
「なぜって、そうなっているんだ。二階だったし――」
病室は二階にあったし、窓の外にはヒマラヤ杉がそびえて、外界をさえぎっていた。別に逃げ出す気持も理由もなかった。友人のはからいで、初めは個室に入ったが、入った日から睡眠治療が始まったらしい。日に三回、白い散薬を服まされる。三日目に回診に来た医師が、五郎に聞いた。
「気分はどうですか。落着きましたか?」
「いいえ」
と五郎は答えた。
「まだ治療は始めないんですか?」
まだ憂欝と悲哀の情緒が、彼の中に続いていた。牙をむいて、闘いを求めていた。情緒が彼に闘いを求めているのか、彼が闘いを求めているのか、明らかでなかった。その状況を半年ほど前から、五郎は気付いていた。ある友人と碁を打っている時、急に気分が悪くなった。何とも言えないイヤな気分になり、痙攣のようなものが、しきりに顔面を走る。それでも彼はしばらく我慢して、石をおろしていた。痙攣は去らなかった。彼は石を持ち上げて、そのまま畳にぽろりと落した。友人は驚いて顔を上げた。
「へんだぜ。顔色が悪いぞ」
「気分がおかしいんだ」
座布団を二つに折って横になった。やがて医者が来る。血圧がすこし高かった。根をつめて碁を打ったせいだろうと医師は言い、注射をして帰る。痙攣は間もなく治った。それに似た発作が、それから何度か起きた。街歩きしている中に起きると、タクシーで早速帰宅する。タクシーがつかまらない時は、店にでも何でも飛び込んで休ませてもらう。しばらく安静にすると元に戻る。コップ酒をあおると回復が早いことを、五郎は間もなく知った。
いつ発作が起きるかという不安と緊張があった。常住ではなく、波のように時々押し寄せて来る。押し寄せるきっかけは、別にない。気分や体調と関係なくやって来た。すると五郎は酒を飲む。ベッドの中で、あるいはテレビを見ながら。ふっと気がつくと、考えていることは『死』であった。死といっても、死について哲学的省察をしているわけでない。自殺を考えているのでもない。ただぼんやりと死を考えているだけだ。酒を飲み、卓に肱をついて、歌を口遊んでいる。よく出て来るのは、軍歌の一節であった。
「……北風寒き千早城」
それにつづいて、
「楠公父子の真心に、鬼神もいかで泣かざらん」
楠公父子が『暗号符字』に、いつか彼の中ですり変えられている。暗号符字の真心に鬼神もいかで泣かざらん。彼は苦笑いとともに思う。これがおれの正体じゃないか。今まで不安を忘れたり、避けたりして、ごまかして来たんじゃないか。おれだけじゃなく、みんな。
「もう始まっていますよ。今日はすこし血を採りましょう」
医師がそう言った。注射管の中にたまる血の色を見ながら、五郎は同じようなことを考えていた。しかし、幻覚のことは、どうなるのか?