5話 白い花(2)
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泳ごうと言い出したのは、福であった。どんなきっかけだか、五郎は覚えていない。泳ぎの話になった。福は自慢した。
「泳ぎならうまいですよ。今は沖縄だが、生れは奄美大島だからね。子供の時から水もぐりにゃ慣れている」
「お前んちは漁師なのかい?」
「漁師じゃないけれども、五キロや十キロぐらいなら、今でもらくに泳いで見せますよ」
「五キロなら、おれだって泳げそうだな」
五郎は答えた。五郎も海辺の町で育ったので、水泳には自信があった。
「じゃやりましょうか。あの双剣石まで」
五郎はアルコールを含みながら、その方角を見た。彼等の宴の場所は、松林をすこし離れた大きな岩かげで、すぐ下から暗い海がひろがっている。時々思い出したように、しずかな波がやって来て、砂を洗う。海のところどころ、筋になったりかたまったり、ぼんやりと明るいのは、夜光虫のせいだろう。
「泳いでもいいな」
五郎は答えた。
「あそこまで六、七百米あるかな。一キロはない」
「やめなよ」
興梠二曹が傍から言った。
「泳いだって、どうなるものでなし。くたびれるだけの話だ」
「泳ぎたいんですよ。興梠二曹」
福は呂律の乱れた声で言いながら、もう上衣を脱いでいた。福は相当に酔っていた。五郎も立ち上った。
「おれも泳ぐよ」
福に張り合う気持は毛頭なかった。ただその暗い海に身をひたし、抱かれたいという気持だけがあった。興梠は投げ出すように言った。
「じゃ行きな。海行かば水漬く屍、てなことにはなるなよ」
「大丈夫ですよ」
福は五郎に白い歯を見せて笑った。それからよろよろと砂浜に降り、海へ入った。彼もつづいて足を水に踏み入れた。
しばらく海の浅さがつづき、急に深くなった。五郎は平泳で前進し、そして背泳ぎに移り、やがて手足の動きを中止した。顔だけを空気にさらし、全身から力を抜く。水はつめたくなかった。生ぬるくねっとりとして、彼の体を包んだ。彼は『母胎』という言葉に似たものを感じながら、十分間ほどゆらゆらと海月のようにただよっていた。空には雲がなく、一面に星が光っていた。福がどこにいるか、もう判らなかった。
〈何ならここで死んでもいいな〉
倦怠と虚脱感がそこまで進んだ時、五郎は突然ある危険を感じて、姿勢を元に戻した。岬や岩のたたずまいから、十分間の中に、体がいくらか潮に流されていることを知った。五郎は振切るようにしぶきを立て、元の岸に向って泳いだ。やがて足が砂についた。水をかき分けながら浜へ上る。岩かげから興梠の声がした。
「もう戻って来たのか?」
「うん。途中まで行ったんだが――」
五郎は片足飛びで、耳の内の水を出した。
「戻って来たよ」
「福は?」
「見うしなった。先に行ったんだろう」
やはり体が冷え、酔いも醒めていた。五郎は衣服をつけ、掌をこすり合わせた後、食器のアルコールを飲んだ。三十分経っても、福は戻って来なかった。
「もう帰ろうや」
興梠が言った。おそらく福は双剣石に泳ぎ着き、ここに戻らずに近くの岸へ上り、陸路を歩いて宿舎に戻ったんじゃないか。そんな想像を興梠は立てたが、五郎は黙っていた。へんな予感があった。
缶詰類を水に放り、二人は宿舎に戻ったが、福の姿は見えなかった。海水のため体がべたべたするので、五郎はまた外に出て、真水で全身を拭う。海を眺めながら、さっきの危懼感を思い出していた。
翌朝、福の死体が波打際で発見され、早速医務室に運ばれた。水を飲んでいる様子がないところから、心臓麻痺と診断された。福の戦病死は、暗号『仁』によって、本隊に報告された。暗号文は五郎がつくった。
『仁にみなぎれるその戦死――』
福がつくった替歌の文句は、福にとって真実となった。
「溺れたんじゃなく、心臓麻痺だった」
五郎は女に言った。
「強い酒を飲んで水に入るのは、一番危険なことなんだ」
「そう知ってて、どうして泳いだの?」
「悪いとは知ってたさ。しかしもっと悪いことだってした。若かったからね。若さで押し切れると思ったし、そして生命のすれすれまで行ってみたいという気持もあった。要するに荒れてたんだな」
福兵長はその年の三月頃から、五郎と行動を共にしていた。沖縄から『仁』の電文が届く。それを翻訳する。仁は次のような文章から始まる。
『本日ノ戦死者氏名左ノ通リ』
そして兵籍番号と名前が出て来る。福が翻訳した名前の一人に、彼の弟の名があった。ずいぶん後になって、福は告白した。
「いやな気持でしたねえ。しばらく暗号書を引く気にもなれなかった」
「可哀そうだなあ」
死んだ福の弟が可哀そうか、それを翻訳した福が可哀そうなのか、はっきりしないまま五郎は同感した。福は他のさまざまの電文で、彼の一家のある地帯がやられたこと、守備隊が全滅したことなどを知っていたらしい。あぶり字があぶられて出て来るように、自らの翻訳によって故郷の実況が出て来るのだから、つらい思いがしたに違いない。五郎もその頃しばしば、ト連送の電文を見た。
『トトトト』
ワレ突撃ス、という意味で、特攻隊から発信されるのである。ト連送が終った時が、一つの命がうしなわれた時なのだ。福の通夜の時、五郎はじっと考えていた。
〈あいつ、自殺するつもりじゃなかったのか〉
積極的に自殺を願ったのではないかも知れないが、五郎が感じたように、ここらで死んでもいいな、という気分は動いただろうと思う。それに福は酔い過ぎていた。気持が放漫になって、泳ぎ着ければそれでいいし、途中でだめならそれでもいい。泳ぎ出すことだけが自分の意志で、あとは運命に任せる。その気分の動き。
女が舌たるく聞いた。
「あんた、それで責任を感じたの?」
「責任? いや。福は自分から言い出したんだから、死んだのは彼の責任さ。しかしおれはとめなかった。一緒に泳いだ」
五郎は空を見上げながら、何気なく左手を女の肩に廻した。女は体をびくと震わせたが、拒否の気配は見せなかった。
「おれたちは同じ汽車に乗り合わせたようなものさ。前に乗り込んだ人が次々に降りて行く。新しいのが次々乗り込んで来る。途中下車をするやつもいるしさ。福なんかは途中下車じゃない。窓をあけて飛び降りたようなものだ。同行者としての責任感は、たしかにある。いや。同行者の責任なんて、一体あるものかな。連帯感はあるが――」
押えていた歪んだ情念が、しだいに彼の体の中で高まって来た。女の肩の丸みやあたたかさが、彼を刺戟した。
「その後、同行者としての連帯感が、だんだん信じられなくなって来た。酒を飲んでも、勝負ごとにふけってもだめだった。それでとうとう病院に入って、治療を受けた。おれの体、薬くさいだろ。今朝まで病院にいたんだ」
「今朝退院したの?」
「そうだ」
五郎は腕に力を入れて、女を抱き寄せた。女はすこしあらがった。
「そんなことをしてもいいの?」
唇が離れた後、女はすこし怒ったような声を出した。
「いいんだよ。おれたちは同行者なんだから。二十年前、君はおれを見た筈だし、おれは君の姿を見た筈だ。どんな姿だったか、覚えていない。モンペ姿で、可愛らしいお下げ髪だったんだろう」
「そうよ。可愛らしかったかどうか、知らないけれど」
女は自分の頬に掌を当てた。
「すこし酔って来たわ」
「どうしてもこの土地を見たい。ずっと前から、考えていたんだ。今はうしなったもの、二十年前には確かにあったもの、それを確めたかったんだ。入院するよりも、直接ここに来ればよかった。その方が先だったかも知れない」
ずいぶん身勝手な理屈をこねている。その自覚は五郎にはあった。枕崎で飲んだ焼酎、峠であおったコップ酒が、彼の厚顔な言説をささえていた。それに相手が出戻り女で、気分的にもかなり荒れているという計算も、心の底に動いていた。
「おれは今、何かにすがりたいんだ」
五郎は女にささやいた。その言葉は、全然うそではない。四分の一ぐらいはほんとであった。彼はさらに腕に力をこめた。
「つながりを確めたいんだ。死んだ福や、双剣石や、その他いろんなものとの――」
「ああ」
女は胸を反らしながら、かすかにうめいた。それはやや絶望的な響きを帯びた。
「いいだろ」
相手をもどろどろしたものの中に引きずり入れたい。今はその嗜欲だけしか五郎にはなかった。
時間が泡立ち、揺れながら過ぎた。やがて静かな流れに戻った。五郎は立ち上り、ミツギのざらざらした幹に、しばらく背をもたせ、暗い海を見ていた。
「今夜、君の家に泊めて呉れないか」
かすれた声で五郎は言った。
「行き当りばったりで、泊るところがないんだ」
「うちはだめ!」
身づくろいをしながら、女は答えた。
「あたしだけでも、いづらいんだから」
「そうだろうね」
その返事は予期していた。ただ訊ねてみただけであった。
「では枕崎の宿屋に戻ろうかな。まだバスはあるだろう」
「坊にも宿屋があってよ。宿屋と言えるかしら。そこの小父さん、あたし小さい時から、よく知ってるから。案内しましょうか」
女は立ち上った。地も空も蒼然と昏れ、時々坊岬灯台の光の束が、空を薙いで走る。石段も暗く、手をつなぎ合って、そろそろと降りた。しめった掌を離すと、女は道を降り、ダチュラの花を四つ五つ摘んで来た。
「寝る部屋に置いとくといいわよ」
花を五郎に手渡した。
「部屋が匂いでいっぱいになるわ」
その口調に残酷さがあった。福の通夜のことを実感として思い出せというのか。しかし五郎は素直に返事した。
「ありがとう。きっと君の夢を見るよ」
そのまま町の方に歩いた。すでに戸を立てた家も多い。すべて屋根が低いので、町は暗がりの底に、へばりついているようだ。ラジオの音や話声が、家の中から聞えて来る。
「この町の人は、ずいぶん早寝だね」
「不景気だからよ」
女は言った。なぜ不景気なのかは説明しなかった。
女が案内した家は、宿屋らしくなかった。他の家と違うのは、ここだけが二階家である。中二階みたいな妙な構造で、一見平屋風のように見える。玄関の板の間に、古ぼけたオルガンが置いてある。案内を乞うと、主人らしい老人が出て来た。
「この人、泊めて上げて」
女が言った。
「二十年前、海軍でここにいた人よ」
主人はするどい眼付きで五郎を見た。五郎が靴を脱いでいる間に、女はいなくなった。主人が言った。
「あんた。久住五郎というひとじゃなかか」
言葉は電撃のように、五郎の背中を撲った。五郎は顔色を変えて、思わず立ち上った。
「ど、どうしてそれを知っているんだ?」
五郎はどもった。
「二十年前――」
「いや。いや」
主人は視線をやわらげて、空気を両手で押えつけるようにした。
「いまさっき枕崎の立神館から電話がありもしてな。あなたの人相風体など説明して――」
「丹尾という男ですね」
「はあ。着いたら電話を呉れと――」
「電話なんかしなくてもいいんですよ」
やっと動悸がおさまって、五郎は答えた。
「風呂に入れますか。ああ。この花をぼくの部屋に――」
ダチュラはもう萎び始めていた。一体丹尾は何で五郎をつけ廻すのか。つけ廻す理由があるのか。五郎はもう考えたくなかった。いちいち心配していては、気分の方で参ってしまう。
五郎の注文で、湯はぬるめにしてもらった。福のようなことになったら、たいへんだ。その危懼からだ。それに旅先で脳貧血でも起したら、みっともない。しかし五右衛門風呂なので、少しずつじりじりと熱くなる。水道のホースから、水をがぼがぼ入れてさます。
主人に借りた剃刀で、髭を剃る。体を丹念に洗う。ついでに下着も洗う。ふたたび体を湯に沈める。誰かが耳のすぐ近くでささやいた。
「恥知らず!」
五郎は周囲を見廻した。誰もいない。壁だけだ。壁が口をきくわけがない。
〈また幻聴が出て来たな〉
と思う。聞き慣れた声だが、誰のでもない。抑揚も感情もない声である。
「なるほどね」
しばらくして五郎はつぶやいた。
「言葉を使ったからな。使わねばただの痴漢で済んだが、屁理屈をこねたばかりに、恥知らずか」
五郎は今日一日の重さをどっと感じながら、背中を鉄の壁に押しつけていた。熱さがじんじんと伝わって来る。今朝の病院脱出のことを考えていた。あれは恣意ではなく、いたたまれなく飛び出したという感じであった。
〈正常人が異常心理になるのを恐怖するように、異常心理者は正常に戻るのをおそれるんじゃないか?〉
そんな考えが浮んで来た。正常と異常は、紙一重の差に過ぎないだろう。しかしその差を乗り越える時、性格や感情ががらりと変ってしまう。おれにとって、それがこわかったのではないのか。それで東京を出て、数百里もある薩摩半島につっ走り、今ひっそりかんと五右衛門風呂に沈んでいる。
鉄の壁につけた背中が、やがて耐えがたく熱くなって来た。背を引き剥がして立ち上り、流し場に出る。やはり貧血を起したらしく、眼がくらくらとする。しゃがんでじっとしていた。やがて浴衣をつけ、部屋に戻る。部屋は二階であった。階段の登り口で、主人がどこからともなく出て来て、声をかけた。
「夕食はどげんしもすか」
「ええ」
五郎は考えて答えた。
「軽いものを。酒もすこし」
部屋に上る。へんな感じの部屋だ。天井は低く、舟底型だ。下着を海に面した手すりに乾し、部屋の真中に坐る。どうも感じがへんだ。宿屋の造りではない。第一がらんとし過ぎる。他に泊り客もないようだし、いるのは老人夫妻だけのようだ。真中にちゃぶ台があり、ダチュラの花が瓶にさしてある。ちょっと棺桶みたいな感じの部屋だ。それが五郎の居心地を悪くさせていた。五郎が坐った左側、つまり海と反対側に、明り障子が立ててある。五郎は膝でにじり寄り、そっとあけてみて驚いた。
そこには部屋がないのである。
部屋がなくて、ぽかんと空間だけがあった。見おろすと一階の部屋の畳が見える。今風呂からここに来た時、通った部屋だ。居間とも納戸ともつかぬ、独立していないつなぎの部屋で、隅に布団が積み重ねてある。台所の方角から誰かが膳を持って出て来たので、五郎はあわてて障子をしめ、ちゃぶ台に戻った。階段をのぼる足音がして、老婦人が姿をあらわした。
「いらっしゃいませ」
膳を置き、老婦人はていねいに頭を下げた。
「お疲れでございましたろ。只今主人も参じます」
老婦人が階段を降りて行くと、入れ違いに、主人が登って来た。手に土瓶のようなものを持っている。カラカラだと五郎は思い出した。特殊の形をした酒器で、二十年前に福がどこからか仕入れて来て、アルコール入れに使ったのと、同じ型のものだ。
「どら。晩酌にあずかりもすか」
主人はカラカラから薩摩焼の器に注ぎ分けた。聞くまでもなく、甘ったるい匂いで、芋焼酎と知れた。食膳は割に豊富である。三種類の刺身を次々箸にはさんだ。
「もう、しおれましたな」
主人はダチュラを指でつついた。
「こいじゃから活花になりもさん」
「何だか陰気な感じのする花ですな」
五郎は水いかを食べながら、相槌を打った。
「二十年前もそう思った。葬式花みたいだとね」
二十年前の話になった。主人の言では、この家屋は軍に接収され、泊へ疎開していた。だから戦中の坊のことは、あまり知らない。
「妙な造りの部屋でしょう」
主人は立って説明した。一見壁に見えるところを開くと、かくし部屋がある。そして障子をあける。
「階段から敵がのぼって来ると、ここから飛び降りて逃げる」
「なぜ逃げるんです?」
五郎は冗談めかして言った。
「わたしには逃げる必要はないですよ」
「いや。密貿易の時代の名残りですよ」
主人は笑いながら、座に戻って来た。
「ここが島津藩の密貿易港では、最大のものでしてな。大陸に行ったり、沖縄や南西諸島に行ったり、ああ、このダチュラも、種子が船に乗ってやって来たんでしょう。どこで摘んで来やした?」
「わたしが摘んだんじゃない。さっきの女のひとが――」
「ああ」
主人はうなずいて酒盃をあけた。
「どこで知合いやした?」
「キャンプ場の近くでね」
「あいも勝気過ぎって、不幸な女でな」
「泊って、女中の産地らしいですね」
「そや昔の話ですよ。あしこは近頃鰹の不漁のために人口が減る一方でね、そこに紡織工場が眼をつけち、娘さんたちをごっそいと雇って行く。その勧誘係りたちが何組もここに泊るが、聞いてみると、今の娘たちは女中になりたがらん。みんな工場を希望するらしいですな。泊だけじゃなく、この坊の若者たちも――」
主人はふたたび立って、海にむかう窓を開いた。五郎も傍に立った。
「この坊の家々も、全部舟子屋敷でな。みんな鰹漁によりかかって、生活していた。それがだめになったから、さびれる一方ですな」
だんだんさびれて、峠を隔てた二つの部落は人口が減り、ついに消失してしまう。五郎はそんなことを考えていた。しかし主人の語調は淡々として、感傷の気配は微塵もなかった。
「鴉だけが殖ゆる一方です」
「どのくらいいるんですか?」
「約二千羽。あそこに棲んどる」
主人は右の方の山を指した。
「今は少し減っておるかも知れん。魚の量が減っていますでのう」
主人は窓をしめ、座に戻った。盃を手にして、じっと五郎の顔を見た。
「あんた、誰かに追われとるのじゃなかか。眼が血走っちょる」
「さっきの電話のことですか。ありゃ何でもない。途中で知合いになった男です」
五郎はわらった。
「疲れているんですよ」
「そうですか。相当お疲れのようですな」
主人は盃をあけた。
「明日はお早えかな」
「いや。寝たいだけ寝かしてもらいますよ」
五郎は答えながら、刺身のツマの大根を食べていた。千六本は適当に甘くからく、水気があってうまかった。主人は笑った。
「よほど大根がお好ッなようじゃな。で、枕崎に――」
「ええ。二十年前にはね」
五郎は箸をおろし、盃に手をやった。
「ここで部隊は解散してね、わたしは復員荷物を背負って、枕崎へ歩いた。峠のだらだら坂を登り切ると、いきなり海が見えた。海がぎらぎらと光っていた」
五郎は盃を一気にあおり、口をつぐんだ。すこし経って主人がうながした。
「そいで?」
「あ」
五郎は放心から醒めた。にが笑いをして、盃を置いた。
「それから枕崎に出て、故郷に戻りましたよ。汽車のダイヤがめちゃめちゃで、家に着くのに、二日二晩かかった」
「苦労しやしたな。明日は苦労は要らん。バスがあっから」
「いや。明日は吹上浜に行こうかと思っています。歩いて」
「歩って行くのは無理ですな」
主人ははっきり言った。
「明日そっちに行くトラックの便があっから、そいを利用しゃんせ。わしがとこの荷を取りに行くんだ」
主人は掌を叩いて、老妻を呼んだ。
「もうお寝みになったが、ええじゃろ。ひどく疲れておらるるようだ」
老妻の手によって、食膳が下げられ、寝具の用意が出来た。淡い灯の光だけになった。ダチュラの匂いは、まだただよっている。彼は掛布団を顎まで引き上げる。女のことを思い出していた。熱い躰や紅い唇、切ないあえぎなどを。それを忘れるために、彼は心で念じた。
〈便所に行く時に、あの障子をあけないこと〉
〈絶対にあけないこと。階段を利用すること〉
五郎の体は宙に浮いて、ただよい始めた。ゆるやかに、ゆるやかに、波打際の方に。――五郎は福の体になっている。すっかり福になって、しずかに流れている。そう感じたのも束の間で、次の瞬間に五郎は眠りに入っていた。