2話 二
読み方を変える
暫くの後、私は台町あたりの下宿屋街の露地の奥にある、泥竜館という古ぼけた下宿の玄関に立って、大声を出して案内を乞うていた。玄関わきの帳場は雑然と取り散らされ人の影は無い。玄関には鏡があって私の全身を映しているが、外の明るさを背にして私の姿は暗く歪んでいる。電灯をつけないので、奥深い廊下のあたりが薄暗く何と無く気味悪かった。その暗がりの中から突然小さな女中がちょこちょこと足音を立てずに出て来たので、私はどきっとした。女中の顔がいつもと違っている。故意に表情を殺したような物々しい顔付をして玄関にうずくまって私を見上げた。
「天願さんは居るか」
「天願さんで御座居ますか」
と私の様子をうかがうように眼をすばしこく動かして、突然息を引くようにして言った。
「はあ、いらっしゃいます」
私はむっとしながら靴を脱いだ。此の下宿には天願氏を屡々訪ねて来るので、此の女中は私をよく知って居る筈なのである。それが何かたくらみがあるかのように妙によそよそしいのが気に食わなくて、廊下をどんどん歩き出したら、後ろの方で女中が猫のような声を出した。
「廊下を静かに歩いて下さいませ」
ぎょっとして私が振り返ったら、その小さな女中がきらきら光る眼で私をちらと眺めてそこらの薄暗がりに消えてしまった。
廊下を曲りながら、どうも背筋のあたりがうす寒かった。油を塗って鈍く光る廊下を天願氏の部屋の前まで行ったら、電灯がぱっと点いた。それと同時に私は、襖をあけた。
机に倚りかかっていたらしい天願氏が、明かにびっくりしたらしく、がさごそと身ずまいを整えたのが、只事でないという印象をあたえた。突然入って行って悪かったなと、私は思った。今晩は、と私はあいさつした。
「何だ。君か。びっくりするじゃないか」
天願氏の胸はまだ動悸を打っているらしい。
「入るときは戸をたたけよ」
「今日は変ですねえ。何事かあるのですか」
取り乱した机の上から皺くちゃになった朝日の袋を探し出して、天願氏が火を点けた。その指がぴくぴくふるえた。
「いや。なに、考えごとしてたものだから」
声を急にひそめて、
「娘が死にかかってるんだ。ここの」
天願氏がいる部屋は四畳の細長い部屋で、此の奥に八畳の部屋がある。そこが此のうちの一番奥に当る部屋だが、そこを天願氏がゆびさして陰欝な顔をした。私は思わずその方向をふり返った。その部屋と境する壁のところから、ざわざわと殺気だったどよめきが流れて来るような気がしたのだ。
「今までうなり声がしてたんだが」と天願氏が煙をふいた。もう落着きを取りもどしたらしかった。
日の当らぬ湿地に咲いた花のような娘であった。ときどき廊下で私はすれちがったことがある。妙に派手な長い袖をつけていたりするので、白い顔が蒼白く見えたりする。すれちがうとき、笑を含んだような含まぬような曖昧な目付で人の顔を見る。何処か人をひく不健康な美しさがあった。病気だということは前に天願氏に聞いていたけれど、天願氏の言葉を聞いたとたん、死に瀕した娘の寝顔が私の眼底に浮んで来た。
「夕御飯まだなんですね」
「夕御飯を持って来るかな?」と天願氏がむき直った。
「夕御飯は持って来ねばならん。が、娘が死にかかっているというのに、下宿人の夕御飯を作らねばならぬというのは哀しいな。持って来ないだろうな」
「皆、そこの部屋に集ってるんですか?」
「君が入って来る前に、おかみさんが娘の名をしきりに泣きながら呼んでいたから、意識が無くなったんだな。意識が無くなっても唸り声を出す事があるのかなあ」
「そりゃありますよ」私は、昨年死んだ父の臨終の事を思い出した。
「寝言みたいなものかな」
と天願氏が低い声で言った。そして何かを押えるような、努力するような表情をした。
暫くして私が聞いた。
「唸り声が聞えて来るときは矢張り厭でしたか?」
隣の部屋で一人の人間が生命を絶とうとしている。そのざわめきを感じながら細長い部屋の片すみに息をこらしてじっとしていた天願氏の心の姿勢に思い到ったとき、私は異様な寂寥を感じたのだ。天願氏はうつむいていた顔を上げた。
「僕とは何の関係も無いのだよ」冷たい眼付になった。
「あの女が死のうが死ぬまいが、僕の知った事じゃない」
その時、襖を叩く音がして、旅川が入って来た。どてらを着込んで落着きなくきょろきょろして坐った。
「もう死んだんですか」
「まだらしい」
と天願氏が陰欝な調子で言った。
天願氏は旅川を嫌っている。私はそれを知っていた。旅川が俗人だから嫌う以上に、何か深い、天願氏の性格の秘密があるらしかった。私は黙っていた。
「呼吸が四十二あったからねえ」
旅川は私と同じ高等学校だけれど、今は帝大の医学部に居るから、そんなことを言うのである。
「先刻の唸り声、もう止んだようだけれど、だんだん早くなって来るから、あわてて時計で数えたのさ。一分間に四十二ですよ。天願さん」
「あんまり早いのは悪いのかね」
「勿論悪いですよ。体が衰弱している証拠だから」
日が落ちたと見えて、窓の外が蒼然と暗くなった。夕闇がもたれかかった障子に蛾が一匹音を立てた。気が欝して、背筋が固くなったような気がする。旅川が話し出した。
「僕の部屋は、あの部屋の真上なんで、とても居たたまれなかった。足の下で死にかかっていると思うと、何だか悪いような――」
「そんな馬鹿なことがあるか」と天願氏がたけりたった鶏のような声を出した。「君は医者になるんだろう。そんな感傷的なことを言っては駄目だ」
「だって、じゃああんた行ってごらんなさい。不思議にいやな気持がするから」
「ぼくは先刻からここにいる。そして隣の部屋のうなり声を聞いた」と天願氏が昂然と言った。「それで平気さ」
私は黙って会話を聞いていた。種々の感慨が起って来た様な、それでいて言葉にしようとしたら皆逃げ出してしまいそうな空虚な気持であった。いらいらして、皆につきかかって行きたいような焦燥が起った。
「そんなもんですか」と旅川が言った。
風の音が少し烈しくなったようであった。ときどき、障子の破れに当って笛のような音を立てた。
「風が出て来たな」と私は誰に言うともなく呟いた。泥竜館は家で囲まれているのだ。風は露地から露地へ抜けて行く。露地の曲角では、風が生き物のような悲しい音をたてた。前の家で物干ざおが軒下から落ちる音がした。
沈黙が来るのが恐かった。何か話さねばならぬと思いながら、また疲労に似た憂欝を感じていた。せわしげに机の端を指でたたきながら天願氏が私の方を見た。
「幽霊や心霊などはありはせん。死んだら、漠々として何も無いのだよ。人が死ぬというのに皆集って泣いたり喚いたり、心配したり憂欝になるなんて馬鹿な話だよ」
「そんな訳には行かないでしょう。矢張り悲しいのは本当なんだから」
「宗教は科学が発達すれば無くなるさ。ぼくはそれを信ずる、迷信は亡びる」
旅川がそれをさえぎって言った。
「生命というものは不思議なものだから――」
その時、壁の向うで腸の千切れるような悲痛な泣声が起った。別の声がそれに押っかぶせて娘の名を呼んだ。きみちゃん! きみちゃん! きみちゃん! 段々呼ぶ声が乱れ始めたと思うと、血をはくような号泣がそれに取って代った。幾人もの嗚咽が断絶しながら起った。襖を開く音がして、慌ただしいスリッパの音がしどろもどろに乱れながら遠のいて行った。私は背中に氷をあてられたような気持で天願氏の顔を見た。
「生命は蛋白質だから、生命は蛋白質の配列によって定まるものだから――」
天願氏が、かすれた声で言い淀んだ。
臨終。此の号泣を、此処の下宿人は今皆聞いている。手も足も出ない下宿人達の心の姿勢は、此の上も無く奇怪なものに思われた。私は此の部屋にじっとすわっていることに、一種の不快な亢奮を感じて、呼吸をぐっととめた。娘の名を連呼する泣声が再び烈しく起った。嗚咽の声が俄に高まって来た。それにつれて、私の体にある袋のようなものがふくれたり小さくなったりするのが堪えがたく切なく感じられた。呼吸が出来なかった。きみちゃん! きみちゃん! きみ……その呼声は乱れながら、押しつぶされたすすり泣きになって行った。堪えかねてつっぷした気配が壁を越えてはっきりとわかった。そして荒涼たる夜気をはらんで、風が号泣の間を縫った。
「死んだんだな」
と旅川が低い声で言って、目を落した。旅川や、天願氏ですら、居てもたってもいられない気持でいるのがじかに私の胸に響いて来た。
「厭だな」
「何だか厭だな」と私は思わず相槌を打った。そういう言葉でしかこの気持があらわせなかった。指先がしびれるような感じに堪えながら、お互が生きているということに漠然たる厭悪感を感じていた。
天願氏は極端に憂欝そうな表情をして壁に倚りかかり、怒ったような声を出した。
「この部屋を出よう。どこかお茶飲みに行こう」
私達は立ち上った。足音を忍ばせるようにして廊下に出た。私はちらと奥の間に目を走らせたら、あけはなされた襖の影に泣き伏した女の後姿が見えた。華美な衣服の模様が目に沁みた。私は何故とも無く目を閉じた。そして、そろそろと廊下を歩き出した。汚ない玄関を三人が出ようとしたら、そこらの物陰から、小さな女中がまたちょろちょろと現われて板の間に膝をついた。
「天願様。おでかけでございますか。御飯の支度が出来ておりますけれど」
何処を見ているのか判らないようなはるかな目付をして、切口上じみた口調で言った。何か無理をしているなとすぐ感じさせる態度であった。主人の娘が死んで悲しいわけではないけれど、気が動転してどうしていいのか判らないのだろうと私は思った。
「夕飯は食べない」と天願氏が叱り付けるように言った。「今日はよそで食べることにする」
ぞろぞろと露地の暗がりを踏んで明るい本郷通りの方に私達は出て行った。