8話 八 幻影
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先刻に赤城得三が、人形室を出行きたる少時後に、不思議なることこそ起りたれ。風も無きに人形の被揺めき落ちて、妖麗なる顔の洩れ出でぬ。瑠璃のごとき眼も動くようなりしが、怪しいかな影法師のごとき美人静々と室の中に歩み出でたり。この幻影譬えば月夜に水を這う煙に似て、手にも取られぬ風情なりき。
折から畳障りの荒らかなる、跫音彼方に起りぬれば、黒き髪と白き顔はふっと消え失せ、人形はまた旧の通り被を被りぬ。
途端にがたひしと戸を開けて、得三は血眼に、この室に駈け込み、「この方はどうだろう。あの様子では同じく翼が生えて飛出したかも知れぬ。さあ事だ、事だ、飛んだ事だ。もう一度見ねばならない。と小洋燈の心を繰上げて、荒々しく人形の被をめくり、とくと覗きて旧のように被を下ろし、「うむ、この方は何も別条は無い。やれこれで少しは安堵た。それにしても下枝めはどうして失せた知らん。婆々が裏切をしたのではあるまいか。むむ、何しろ一番糺明て見ようと、掌を高く打鳴らせば、ややありて得三の面前に平伏したるは、当家に飼殺しの飯炊にて、お録といえる老婆なり。
得三は声鋭く、「お録、下枝をどこへ遁した。と睨附くれば、老婆は驚きたる顔を上げ、「へい、下枝様がどうかなさいましたか、「しらばくれるない。きっと汝が遁したんだ。「いいえ、一向に存じません。「汝、言ッちまえ。「ちっとも存じません。「ようし、白状しなけりゃこうするぞ。と懐中より装弾したる短銃を取出し、「打殺すが可いか。とお録の心前に突附くれば、足下に踞りて、「何でそんな事をいたしましょう。旦那様が東京へいらっしゃってお留守の間も私はちゃんと下枝様の番をしておりました。縄は解いてやりましたけれども。「それ見ろ。そういう糞慈悲を垂れやあがる。我が帰るまで応といわなけりゃ、決して下してやることはならないと、あれほど言置いて行ったじゃないか。「でもひいひい泣きまして耳の遠い私でも寝られませんし、それに主公、二日もああして梁に釣上げて置いちゃあ死んでしまうじゃございませんか。「ええ! そんなことはどうでも可い。どこへ遁したか、それを言えッてんだ。「つい今の前も北の台へ見廻りに参りましたら、下枝様は平常の通り、牢の内に僵れていましたのに、にわかに居なくなったとおっしゃるが、実とは思われません。と言解様の我を欺くとも思われねば、得三は疑い惑い、さあらんには今しがた畦道を走りし婦人こそ、籠を脱けたる小鳥ならめ、下枝一たび世に出なば悪事の露顕は瞬く間と、おのが罪に責められて、得三の気味の悪さ。惨たらしゅう殺したる、蛇の鎌首ばかり、飛失せたらむ心地しつ立っても居ても落着かねば、いざうれ後を追懸けて、草を分けて探し出し、引摺って帰らんとお録に後を頼み置き、勝手口より出でんとして、押せども、引けども戸は開かず。「八蔵の馬鹿! 外から鎖を下して行く奴があるもんか。とむかばらたちの八ツ当り。
折から玄関の戸を叩きて、「頼む、頼む。と音訪う者あり。聞覚えのある声はそれ、とお録内より戸を開けば、外よりずっと入るは下男を連れたる紳士なりけり。こは高田駄平とて、横浜に住める高利貸にて、得三とは同気相集る別懇の間柄なれば、非義非道をもって有名く、人の活血を火吸器と渾名のある男なり。召連れたる下男は銀平という、高田が気に入りの人非人。いずれも法衣を絡いたる狼ぞかし。
高田は得三を見て声をかけ、「赤城様、今晩は。得三は出迎えて、「これは高田様でございますか。まあ、こちらへ。と二階なる密室に導きて主客三人の座は定まりぬ。高田は笑ましげに巻莨を吹して、「早速ながら、何は、令嬢は息災かね。「ええ、お藤の事でございますか、「左様さ、私の情婦、はははははは。と溶解けんばかりの顔色を、銀平は覗きて追従笑い、「ひひひひ。得三は苦笑いして、「藤は変った事はございません。御約束通り、今夜貴下に差進げるが。……実は下枝ね。「ははあ。「あれが飛んだことになりました。「ふむ、死にましたろう。だから言わないことか、あんなに惨いことをなさるなと。とうとう責殺したね。非道ことをしなすった。「いえ、死んだのならまだしも可いが、どうしてか逃げました。「なに! 遁げたえ?「それで今捜しに出ようというところですて。「むむ、それはとんだ事だ。猶予をしちゃ不可ません。あの嬢が饒舌と一切の事が発覚っちまう。宜しい銀平にお任せなさい。のう、銀平や、お前はそういうことには馴れているから、取急いで探しておあげ申しな。と命くれば得三も、探偵に窺わるることを知りたれば、家を出でむは気懸りなりしに、これ幸と銀平に、「じゃ御苦労だが、願います。私どもは後にちっと用事があるから。といえば、もとより同穴の貉にて、すべてのことを知るものなれば、銀平は頷きて、「へい宜しゅうございます。下枝様がああいう扮装のまま飛出したのなら、今頃は鎌倉中の評判になってるに違いありません。何をいおうと狂気にして引張って参ります。血だらけのあの姿じゃ誰だって狂気ということを疑いません。旦那、左様なら、これから直ぐに。と立上るを得三は少時と押止め、「例のな、承知でもあろうが、三日月探偵がこっちへ来ているから、油断のないように。と念を入るれば、「それは重々容易ならぬことだ。銀平しっかりやってくんな。と高田も言を添えにける。銀平とんと胸を叩きて、「御配慮なされますな。と気軽に飛出し、表門の前を足早に行懸れば、前途より年少き好男子の此方に来懸るにはたと行逢いけり。擦違うて両人斉しく振返り、月明に顔を見合いしが、見も知らぬ男なれば、銀平はそのまま歩を移しぬ。これぞ倉瀬泰助が、悪僕八蔵を打倒して、今しもここに来れるなりき。