2話 日の果て(2)
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しっとり濡れた長靴の先に黄色い花弁を二三枚貼りつけたまま、宇治は自分の仮小屋の階段を登った。此処は林相の関係で籾搗きの歌声はほとんど聞えない。部屋に入ると床を鳴らしながら彼は壁にかけた拳銃を手におろした。黒色のずっしり持ち重りのするブロオニングである。寝台のへりに腰をかけ、彼は背を曲げて仔細に点検し始めた。点検し終るとひとつひとつ丁寧に弾丸をこめた。布片を出して銃身から銃把を何度も拭いた。うつむいたままその操作をくり返しながら彼は低い声を出してわらい始めた。ひどく苦しそうな笑い方であった。拳銃を持ち上げると笑いを止め、背を立てて右手を伸ばしねらいをつけた。彼の瞳と、照門と照星をつらぬく彼方に、窓の外に展がる密林の暗さがあった、太い幹や細い枝に蔓草がからみ、薄赤い小さな実が蔓のあちこちに点じている。拳銃をおろし安全装置をかけながら、彼は再び短いひからびた笑い声を立てた。そして床の上に痰をはいた。彼は昨夜の、花田の返答を高城から聞いたときの気持を思い出していた。
あの花田中尉の言い分は身を賭してつっぱなしたようなものであった。自身がたとい高級軍医であろうとも、命令が不当なものであろうとも、上官の命令を拒むことはどのような結果をもたらすものか、花田が知らぬわけがない。それがどのような具合に言われたのか昨夜の高城伍長の口裏では判らないが、しかしそれを聞いたときに宇治の背筋を、冷たい戦慄がするどく奔り抜けた。口腔の中が乾いて行くような不快な気持がそれにまじっていた。宇治は思わず視線を隊長の顔に定めたが、火影を背にした隊長の顔はただ暗く澱んでいるばかりであった。ただ軍刀の柄頭を握った隊長の手が小刻みにふるえるのを宇治ははっきり見たのだ。顔にあらわさないだけその怒りは、言いようのない激しいものとして宇治の胸をゆすった。そんなに怒ったってどうなるんだ、と宇治は反射的に考えたが此のやせた再役の老将校に対するあわれみの気持がおこる前に、彼は此のような険悪な雰囲気とは全然無関係にさえ見えるあの花田中尉の営みが俄かに新鮮な誘ないとして心を荒々しくこすって来るのを感じていたのだ。――
寝台から立ち上り略刀帯をつけ、拳銃を右の腰に吊した。部屋の真中に立ち、彼はしばらく部屋中を見廻していた。壁はニッパの葉で造ってあるのだが古びてささくれ立っている。粗末な竹の寝台。鼠色によごれた毛布。此の小屋でもう一箇月も暮したのだ。先刻はいた痰が腐った牡蠣のように床に付着している。彼はじっとその痰を眺めていた。何か荒廃した感じがふと宇治の嫌悪をそそったが、彼は背を揺り上げるとそのまま扉を身体で押し、階段を一気にかけ降りていた。
山の斜面に、丁度腰かけたように見える細長い建物の入口を宇治は入って行った。此の部隊の医務室である。中に入ると中央に置いた卓の上で衛生兵が二三人、キニイネ剤かなにか白い粉末を調合していたが、その中の一人が顔をあげて不審そうにちらと彼を眺めただけで、また仕事をつづけた。窓がひろく取ってあるので割りに明るかったが、竹のすだれで区切る奥の方は薄暗く、そこに床をつらねて病傷兵が寝ているらしい。鋭い消毒薬の臭いに混り、青臭い病臭がほのかに漂っていた。窓の外からは高く低く籾搗き歌が流れて来る。右手の小入口の外側で突然、
「道に迷ったって。嘘をつくな。逃げようと思ったんだろう」
何か固いものが肉体にパシパシと当る音がした。
「いえ、伍長殿。ほんとに迷ったのであります」それから声が低くなり何かくどくど言う声音であったが、声が途断れると又急に殴るらしい気配がした。
「――いいか。それは判っとる。目下の状況では配置を一旦離れたら、逃亡と見なされても仕方がない。判ったか。判ったらかえれ」
抑えた嗚咽がそれに続いて聞えた。衛生兵等は感動の無い様子で黙々と仕事をつづけている。彼は刀を床に立て眼を閉じ、じっとそれを聞いていた。暫くして右手の小入口から扉を押し、高城伍長がのっそりと部屋にあがって来た。顔が少し紅潮している。宇治の姿を見て立ち止まったが、若々しい声で、
「見習軍医殿はおいでになりません」
宇治は身振りで、ついて来いと合図をし、黙って刀を提げたまま外に出た。
密林の中は自然に踏み固められた道がついていて、それを斜めに下ると地面は次第に湿気を帯びて来る。斜面の中腹には巨大な石が幾つも根を据えていて、径は危くその間を縫い、そこらあたりから密林がやや薄くなって来る。サンホセの盆地は此の山を降り切ったところから北方に拡がっているのだが、梢の切れ目に隠顕する湿地帯の彼方を、バンカを水牛に牽かせて三四人の男達がそれに乗りゆるゆると動いて行くのが見える。遠いから、それが兵隊か比島の農夫か判らない。サンホセ盆地の中央部に通ずる運河の水が、遠く一筋に鈍く光った。彼は歩を止め石を背にして振り返った。高城の顔に視線をおとしながら言った。
「今から直ぐ、花田軍医の処に行く。お前も来い」少し間を置いて「部隊長の命令で、花田は銃殺ときまった。但しこれは、誰にも言うな」
緊張の色が一寸高城の顔をかすめただけで、あとは普通の表情であった。白い歯を見せて笑ったようであった。
「はい。誰にも言いません」
「すぐ用意をととのえて、俺の小屋に来い」
敬礼して立ち去ろうとする高城の後姿に、宇治は追っかけて呼んだ。
「――拳銃を持って来い。そして身の廻りの大事なものも持って行け」
高城の不審そうな視線が彼の顔にかえって来た。宇治は眼を外らしながら掌を振った。そして足を引きずるような歩き方で高城と反対の方に歩き出した。
頭の上を突然サワサワという幽かな音が通った。宇治が眼を空に向けると、梢の切れたところを渡る幾百羽とも知れぬ候鳥の群であった。一群が過ぎるとまた一群がつづいた。チチチと鳴く声も聞える。それらは次々に盆地を越えて行くらしい。あの方向がインタアルである。盆地を横切って行けば近いがそれは危険だから、やはり密林の道を迂回する外はない。彼は首を振りながら顔をしかめて痰を飛ばした。それは薄赤い点となって崖の下に落ちて行った。先刻仮小屋の床に見た痰の色がまざまざと宇治の脳裏にふとよみがえって来たのである。
それにははっきりと赤い血の色がまじっていたのだ。アパリに居る時も、夕刻になるとひどく疲れたり肩が凝ったりしたが、カガヤン渓谷を上るあの難行軍の途中、彼は思いがけぬ喀血をした。勿論状況が状況であったから安静などは思いもよらず、強行してサンホセに入ったのだが、それから一箇月の日光から遮断された密林の生活で、彼は自分の身体が刻々とむしばまれて行くのをはっきりと自覚していた。医務室にもろくな薬がないのが判っていたし、診察を受けても意味のないことは明かであったから、宇治は誰にも言わず今まですごして来たのだ。彼は今年三十三歳になる。三十歳を越せば病状の進行もゆるやかであるということは彼も知っていたが、それも平和な市民の生活をしている場合のことであった。遠からず砲弾か銃剣で死ぬことが予想出来るのに、何を病状を苦にすることがあろうと、時に冷たく笑いがこみ上げて来ることもあったが、ふしぎなことには痰の中の血のいろを見ると彼は生きたいという欲望が猛然と胸の中に湧き起って来るのが常であった。
――自然に踏みならされた石階を降りると、洞窟の入口であった。乾いた風が洞の奥から絶えず吹いて来て、彼は目を細めながら入って行った。入口の近くが自然の広間になって居て、彼の部下たちがもはや仕事にかかっていた。彼の姿を見ると皆立ち上って挙手の敬礼をした。黒い粉末を容器に詰める仕事をしていた松尾軍曹が、歯をのぞかせて笑いかけながら言った。
「中尉殿。今日は顔色がすぐれませんね」
彼はあいさつを皆にかえしながら、突然激しい羞恥の念が胸いっぱいにひろがった。それは押えようがなかった。入口を入る時心がまえが出来ていたつもりにも拘らず、日頃見なれた部下の兵隊の顔を目前にした時、覚えず血が頬にのぼって、彼は暗がりに顔を背けながら不機嫌な声で言った。
「おれは今日命令で出張する。あとのことは松尾軍曹がやれ」そして低い声でつけくわえた。「帰りは――帰りは何時になるかわからん」
語尾が少しふるえた。皆しんと黙った。その沈黙は何か不自然なものに宇治には思えた。身体を少しずつ動かして彼は洞窟の中を見廻した。白く光る鐘乳石の間に道具がいくつも並んでいて、兵たちの青白い視線が一せいに彼を刺して来るようであった。彼はたじろぎながらそのまま歩を返そうとした。背後から松尾軍曹の声がした。何を言ったのか判らないが、彼は立ち戻らずに出口の方にあるいた。外には朝の光があふれていた。石階をのぼる時初めて冷たい汗が宇治の背筋を流れ出して来た。
〇八三〇《マルハチサンマル》高城伍長は彼の仮小屋に来た。その少し前に隊長当番兵の佐伯が来て、しっかりやるようにとの隊長の伝言と贈物の水筒をもたらした。水筒をあけるとウィスキイの香がした。そして佐伯はずるそうに笑いながら、物入れから鶏卵を二箇出して、之を中尉殿に上げます、と言った。
「これも隊長からか?」
「いえ、これは私からです」
佐伯が戻って行くのと入れちがいに高城がやって来た。拳銃一挺さげただけの軽装である。高城の拳銃を何か不思議なものでも見る目付で眺めながら、彼は自分も略刀帯に軍刀を吊り拳銃を下げ、その上から水筒をつるした。そして長靴を軍靴に履き換えた。網扉を押すとき、彼は部屋の様子を記憶に刻み込むようにも一度しげしげと振り返った。脱ぎ捨てられた長靴は、ひとつは立ちひとつは床にたおれていた。目をしばたたきながら彼はぎしぎしと階段を降りた。出発、と彼は低く言い、そして歩き出した。高城の跫音がそれにつづいた。
密林の各所に日本軍が入ってから、連絡の必要もあって大体道らしいものは出来ていたが、それも定かなものではない。植物の旺盛な繁殖がすぐ道をかくしてしまう。群れ立つ樹々の梢が日光の直射をさえぎっていたが、それでもむんむんする草いきれで、暫く歩くと汗が背筋に滲み出して来た。道は東北の方角である。歩くにつれて湿度が高く、羽虫のようなのが道のあちこちを飛んでいて、それが顔にぶっつかったりしてうるさくてかなわない。歩きながら彼は花田中尉の状況を聴いた。
花田中尉はインタアルに落ち延びる時、水牛にでも積んで行ったのか薬品を沢山もっていて、今はその薬品を原住民の食糧と換えそれで食いつないでいるらしい。戦場から身をもって逃れたというような想像を彼は今までしていたのだが、そのような才覚なしでは密林中に一箇月も独立して生きて行くことは困難な筈でもあった。昨日高城が花田と会ったのは、両側から草山の斜面が切れこんだ渓あいの小さな部落で、その小屋にはもはや同盟の記者はいない。食糧と塩を求めて東海岸方面に出発したという。東海岸はインタアルから一本道である。そこは未だ戦災が及んでいないのである。
「柱によりかかって脚には毛布をかけて居られましたから、負傷の具合は判りません」
「召還に応じないと言ったんだな。どんな口調で言った?」
「――あたり前の調子でした」
「部屋には彼一人がいたのか」
高城は暫く黙って歩いていたが、ふと放心から呼び醒まされたような声で言った。
「情婦もいました」
宇治はその言葉にいやな顔をして、肩を揺り上げた。今まで花田の女のことは、情婦という言葉では頭に浮んで来なかったのである。しかし現実のあり方から見れば、そのような卑しい称呼が一番適当しているのかも知れなかった。にがい思いが咽喉までのぼって来たが、彼はそれをおさえて高城に問い返していた。
「その女は、どんな女だ」
高城は彼の顔をちらと見上げ、すぐ何か答えようとしたが、そのままはにかんだように白い歯を見せて笑った。質問を彼の好奇からと思ったらしいと宇治は考えた。宇治はきびしい表情をくずさぬまま、おっかぶせるように言った。
「こんな女ではないか。目の大きな、眉のうすい――」
「そうです。右の眼の下に大きな黒子があります」
やはりあの女かと、うずくような気持で宇治は思い出していた。
――それはまだアパリに居たときであった。その頃アパリの防衛も一応完成していて、本陣地、前進陣地、海岸陣地と三段構えが出来上っていたけれども、レイテ島からの報告によって、米軍の攻撃力を支えるにはも一度根本的な陣地改築が必要であることが判って来た。宇治は前進陣地近くの或る村にいた。応召の将校である彼は、戦略や築城については勿論間に合せの知識しかなかったが、彼の目から見ても之等の陣地が艦砲や航空機の攻撃に対して強固であるとは夢にも思えなかった。補強工事の令が発され、兵は昼夜兼行で働いた。そんな或る日、飛来した米機をめずらしくも味方の高射砲が射落し、飛行士は夕暮の空に白い花を開かせたように落下傘で降りて来た。それは前進陣地に近い山の中であった。それきりその飛行士は消息を絶ってしまったのである。捕えて情報を得る必要があるというので、くまなく探索したけれども行方が知れなかった。比島人の誰かがかくまっているに相違なかった。レイテの敗北の程度につれて比島人の心もようやく日本軍から離反して行くらしかった。米飛行士探索の命令が、宇治に与えられた。
ある夜宇治は、飛行士が降下した山の付近の部落にひそかに入って行った。真夜中すぎて二十二三夜の月が出ていたが、風物は蒼然とくらく湿地を貫く道だけが白く浮き上っていた。部落は戸数にして七八十軒である。その中の一軒だけがあかあかと灯をともし、あとの家は暗く眠りに入っていた。此のような時刻に灯をともすのは、此処等の農民の習慣から見て一応疑えば疑えた。宇治は拳銃をにぎりしめ、足音を忍ばせてその家に近づいて行った。バンガロオ風の造りの窓から、そっと彼は内部をうかがった。勿論米飛行士がその内にいるなどとは思っていなかった。むしろ彼にそんな行動を取らせたのはかりそめの好奇心であった。窓掛けの隙間から彼は家の内部を見わたした。
花田中尉がそこに居たのだ。
青色の絨氈をしいたその部屋に卓を据え、椅子にふかぶかと腰かけて花田中尉は酒をのんでいた。卓を隔てて女がすわっていた。そして酒瓶を左手で持ち上げた処らしかった。土民がよく着る簡単服に似た服装で、花田の方をむいていたが、窓の外に宇治の気配を感じたのか、鋭くこちらに視線をむけて立ち上った。頬のほくろが目立つ眼の大きな顔立ちである。誰かに似ている、と咄嗟に彼は思ったが、そのまま足音を忍ばせてすばやく窓の下をはなれた。見てはならぬ光景を見た気がしたのだ。彼は物かげにしゃがみ、或いは窓から顔を出すかと待ったが、その気配もなかった。ねっとりと夜風が肌を吹いた。花田が着ていた白い清潔そうな襯衣の色が眼にのこっていた。すべて奇異な感じであった。彼はじっとうずくまったまま、何か解明出来ぬ複雑な感情が湧き上って来るのを意識した。
その頃軍紀は既に乱れ始めていた。将校の中でも定められた宿舎に寝ず、女をつくってそこに通うものもあった。そんな将校を宇治は何人か知っている。旅団の副官をしていた大尉が民家で泥酔し女とダンスに興じていたのを兵隊に見とがめられたという事件も起った。宇治はそのような出来事を見たり聞いたりする度に、同僚のそんな失態がおれとどんな関係があるのかと突っぱねて考えるのであったが、何か突っぱね切れぬかすのようなものが心に残った。女をつくるということは公然の秘密であった。宇治も女に対する嗜好がないではなかったが、また道徳的である訳でもなかったが、女をつくろうという気にはなれなかった。年齢から来ているのかも知れない。しかしその当時は彼は自分の心が頽廃することが一番こわかったのだ。
あの家が花田の宿舎であったのか、それは宇治はとうとう知らず終いであった。誰にも言わず誰にも聞かなかった。しかしあのカアテンから見た一瞬の光景は、異常な鮮明さで彼の心に灼きついている。南口の戦場から花田が離脱したことを耳にしたとき、彼はすぐあの目の大きな女のことを思い浮べたのだ。あの女であるとすれば――あの女はどうやって隊についてカガヤン渓谷をのぼって来たのであろう。あれは言語に絶する難行軍であった。過労のため兵は倒れ馬匹は足を滑らして落ちた。倒れた兵は自決し、或いは射殺された。宇治は血を吐きながら杖にすがって歩いた。サンホセに入っても何時まで軍隊としての命脈が保てるのか。それはもはや烏合の衆であった。僅かに皆を四散から踏み止まらせているのは、同じ危険と同じ運命にさらされているという共通の意識からであるように宇治には思えた。俺は俺のために生きよう。あえぎ進みながら宇治は此の時はじめてこう思ったのだ。あの難行軍を、女の足でどうしてついて来たのか。また南入口の砲撃の場をどうして女が花田に肩を貸し得たのか。それらはすべてわからない。わからないけれどもそれはふしぎな現実感をもって宇治の思いにかぶさって来る。