4話 浪(4)

9,847字 約20分 2007年1月1日 公開

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「クリスチャンが無政府主義者で非戰運動をするなんて、をかしくはありませんか?」

 ヨーロッパの一般クリスチャンを標準にするマダムはいささか不滿と興奮とを以て私に問ひつめるのであつた。ルクリュ翁は傍から言葉を添へていふ。

「クリスチャンだからつて、一概に排斥するには及ぶまい。クリスチャンにもいろいろある」

 マダムも顏色を和げて、ほがらかに言ふ。

「さういへば、ヨーロッパでも最初はキリスト教から社會主義になつた人が澤山にあります。けれども今社會主義または無政府主義を唱へるものは、直ちにキリスト教徒から敵對されます」

 これに應じてわたしはまた語を續けた。

 わたしは、前にも言つたやうに十五、六歳の時から社會主義や無政府主義のことを教へられ、學生時代から新聞や雜誌に『ソーシャリズム』を主張した文章を寄せました。しかし、ほんたうに人類社會への獻身といふことを教へられ、全我をそれに傾倒しようとする情熱を養はれたのは全くキリスト教によつてでありました。海老名彈正氏の『新武士道』といふ説教などにはどの位感激せしめられたことでせう。この海老名氏の本郷教會からは可なり多くの進歩的な青年が輩出しました。小山東助だの吉野作造だの、内ヶ崎作三郎だの、三澤糾だのいづれも當時の進歩的若人だつたのです。わが大杉榮なども同門の逸材といふべきでありました。

 わたしは海老名氏の教會に出入する當時、別に内村先生の教へを受けるやうになりました。それはわたしが萬朝報記者になつてからのことですが、内村先生から授けられる感化はまた不思議に新しいものがありました。海老名氏の思想は進歩的、社會的でありましたが、内村氏の教義は保守的、個人的でありました。而も内村氏の薫りは藝術的であり、海老名氏の色彩は倫理的でありました。内村氏は詩人風のところがあり、海老名氏は教育家的でありました。せめて二十歳前に、このやうな先生方の指導を受けたなら、わたしはもつと仕合せであつたらうにと、どんなにか考へたことでせう。

 このやうな思想的影響を受けたわたしが唯物論的社會主義者の創立した『平民新聞』に入つたので入社當時、感激に滿ちてゐる間は何も不都合を感じなかつたが、時のたつに從つて些かの心理的摩擦を覺えることもありました。殊に幸徳氏は眞向から私の基督教を打破しようと攻撃の鋒を向けるのでありました。そして堺氏は中間にあつて、儒・佛・耶すべてがよろしいと、われわれを丸めるのでありました。

 兎も角も、わたしは幸徳、堺兩先輩の招き、といふよりは、私自ら志願して平民社に入れて貰ひました。花井氏は大いに反對して萬朝報に留まることを勸告してくれたのですが、福田氏は入社せよとすすめてくれました。かうして『平民新聞』第三號には次のやうな入社の辭が掲載されました。

     予、平民社に入る

旭山 石川三四郎

 予今平民社に入る、入らざるを得ざるもの存する也、何ぞや、曰く夫の主義てふものあり、夫の理想てふものあり、然りと雖ども予の自ら禁する能はざるものは啻に是れにのみに非ず、否寧ろ他に在て存する也、堺、幸徳兩先輩の心情即ち是れのみ、彼の南洲をして一寒僧と相抱きて海に投ぜしめしは是れに非ずや、彼の荊軻をして一太子の爲めに殉せしめしは是れに非ずや、徒らに理想と言ふ勿れ、主義と呼ぶ勿れ、吾は衷心天來の鼓吹を聞けり、曰く人生意氣に感ずと、

 まことに不思議な文章です。萬朝報の編集局長松井柏軒氏などは素晴らしい名文だと褒めてくれたのですが、今日では、私自身でさへ、別世界の人の言葉としか思へないから、他人さまはさぞ不可解に感じられるでありませう。しかし、よくよく咀嚼して見ると、耶蘇教でもなく社會主義でもない私自身のその時の心情がにじみ出てゐると思ひます。おそろしく古風な、しかも可なりにひねくれた心の持ち方が現はれてゐます。これは恐らく少年時代の古い型の先輩達から受けた感化と、有爲轉變のはげしい浪に飜弄されて來た生活環境から育成された性格でありませう。まことに自ら醜いとは思ふのですが未だにこれを脱却し得ないのです。全我を捧げて平民社に飛び込んでいつたのでありますが、このひねくれのために同志先輩とソリの合はないことも多く、殊に堺、幸徳の兩先輩を困らせたことも多かつたと思ひます。

 平民新聞の讀者にはクリスチャンが多く、平和運動に共鳴して、非常に熱心に應援してくれました。平民社發行の繪ハガキが、マルクス、クロポトキン、ベーベル、エンゲルス、トルストイの肖像を一組にしたのでも、平民新聞の思想的態度が察せられます。

 或る時、わたしは、『平民』紙上に『自由戀愛私見』といふ一小論文を出しました。夫婦生活には戀愛が至上命令である、それが消えたら直ちに離別することこそ眞の貞操だといふのでありました。多くのクリスチャンを讀者に持つてゐたので、この文章に對する讀者の非難はものすごいものでした。社内でも幸徳、西川兩君は『こんな文章を出すと讀者の志氣を弱める』とて非難しました。捨て置きがたくなつて、堺君は全ページに亙る大論文を出して解説補充してくれました。

 これと時を同じうして、私は本郷教會の日曜日の夜の傳道説教に右の論文と同じやうな演説を試みました。その日の朝海老名彈正先生の説教が『貞操論』であつたのに對して、わたしの話は正反對のものでありました。若い時には前後も左右も顧みず、非禮の行動にも氣づかず、思はぬ失敗を招くものです。いつも私の説教の後には先生が立つて握手してくれるのに、その時には、それがありませんでした。はつと氣がついた時、先生は内ヶ崎君に耳うちし、直ちに内ヶ崎君が演壇に立つて私の自由戀愛論を反ぱくするのでした。なるほど私は海老名先生の朝の説教を反ぱくしたことになつたのだ、と氣がつきました。格別わる氣があつた譯ではなく、私の個人的な強烈な要求をおさへ得なかつたためでしたが、爾來わたしは同教會と縁が切れてしまひました。

     寄せくる浪の姿

「耶蘇教徒のあなたが自由戀愛を説くなんて、をかしな譯ですが、しかし、そのために教會から破門されたことは、まことに結構ではありませんか」

 マダムは大喜びである。それは私の精神的解放だといふのである。しかし私は決して解放された譯ではなかつた。苦悶懊惱やるせなさの結果が、あの小論文となつたわけであるが、しかし私の戀愛は決して自由ではなかつた。わたしの心はただ益囚はれてゆくばかりであつた。わたしは語を續けた。

 フランシ(素直)を第一義とするマダムの道義觀からすれば、わたしは如何にも解放されたやうに見えるでありませうが、東洋のわれわれの心持はなかなか、さう簡單に行きません。わたしの魂を金しばりにした戀愛の苦惱は、どんな理屈でも解消しませんでした。あの『自由戀愛私見』といふ文章は、英國の社會主義者ブラッチフォードに示唆を得て、いはば自分に言ひ聞かせるやうに、また一面には欝憤を晴らすために、書いたものなのであります。わたし自身少しも自由になつては居らず、實に半狂亂の戀であつたのです。かうした激情は青年男女に通ずるところがあると見えて、本郷教會のわたしの演説が、先生方の反撃を受けたにかかはらず、二三の青年女子聽衆から熱烈な同情の手紙を貰ひました。しかし、私のなやみは、つのるばかりでありました。

 多忙を極めた平民社の仕事に携はりながら、心身ともに自分の思ふままにならず、先輩や同志諸君に對して申譯がないと感じつつもつい狂態が續くのでした。堺君には屡諭されました。いま社會運動の中心になつてゐる平民社の中堅であるべき君が、同志の集會や演説會に極めて稀にしか出席しないやうでは、まことに申譯なくはないか、といはれるのでした。それは有り難い友情の表はれであることを百も承知してゐながら、すなほに感謝することができないで、いつも棄てぜりふでこれに答へるのでした。當時、平民社に頻繁に出入する山路愛山であつたかと思ひますが、わたしの狂態を聞いて『それは些か犬王だね』と言つたさうです。犬王とはへんに王、即ち狂を意味するのでした。

 銀座など散歩して、二十歳前後の娘さんに行き會ふと、わたしは無意識にその娘さんに視線を奪はれて、まはれ右までして、それをじつと見おくるのでした。銀座などを行けば、その頃でも往き交ふ娘さんは數多くありました。私の散歩は多忙でした。電車に乘つても同じことでした。三錢均一(當時の電車賃)で戀をする、なんて冗談を言ひました。然し、わたしの心は寂しさに堪へられなかつたのです。わたしの腦裏にある澄子さんの姿が、行き會ふ娘さんの上に投影して、それが、わたしの魂をひつさらふのでありました。そして、一瞬の後には、その幻影は忽ち消えて、ただ寂しさのみがわたしの周圍を閉ざすのでありました。馬鹿々々しいが、仕方がなかつたのです。

 ある時は、些かながら血痰を見るに至り、そのことが平民社の客員であり、援護者の一人であるドクトル加藤時次郎氏の耳に入り、兎も角も同氏の療養所であり、別莊でもある小田原海岸の家に招かれました。若い美しい咲子夫人の懇ろな御もてなしを受けて勿體なさは身にしみるばかりでした。晩餐の時など新鮮なお肴に冷いビールを傾けて、心ゆくまで勞つて下さる絶世の佳人と差し向ひになつて、わたしの魂は、忽然他の彼女のところに飛ぶのでした。この別莊に滯在中、平生たしなむ水泳を試みようと、裸體になつて、浪うつ濱べに足を入れては見ましたが、何かしら寄せくる浪の姿の怖ろしさに戰慄して、深入りすることができませんでした。死の一歩手前にあることを無意識に感じたのであらうか、いまだに、その時の心持が、いかにも病的な心持が、忘れ得ないのであります。

 餘りにわたし個人の情哀史を物語りましたが、今かへり見ると、かうした惱みに纒はられるのも、その原因は最初の失敗から由來するものです。みな身から出た錆なのです。全我を傾けて社會運動に投じようと決心しながら、かうした事情から思ふ半分も活動し得なかつたことは今日かへり見ても殘念でたまりません。しかしまた他の一方から考へて見ると、この氣むづかしい心の状態から、わたしは自然に内省的になり思索的生活に傾いて行つたのであらうと思ひます。普通選擧の請願運動などの代表者になりながら、所謂政治家的の氣分に接すると、堪まらなく、いやになるのでした。或る時、幸徳と堺と揃つて世間話をしてゐた際に

「これから普通選擧が實施される時代も來るであらうが、その時代に最も幸福な境涯に立つものは石川君、君等だよ」

 と幸徳が唱へ、堺がそれに和するのでした。そんな言葉を聞くと矢つ張りこの人達は政治家なんだと神經的にいや氣がさすのでした。ひねくれて、いぢけた當時の私には、ものごとを神經的に判斷することしか出來ませんでした。他の人の地位に立つて、その人の意向なり去就なりを、推量することが出來ませんでした。そして自分の殼を造つてその殼の中に閉ぢこもるやうに傾いて行きました。それは、わたしの性格の弱さをも物語るものであり、その弱い性格を防護するために自然に展開してきた生活態度であつたと思はれます。

 明治三十九年に、堺利彦君が主唱で日本社會黨を組織しましたが、そして堺君自ら來訪して懇切に入黨を勸誘してくれましたが、私は遂にその時は入黨しませんでした。最初の平民社が解散して、西川光次郎、堺利彦、幸徳傳次郎等の諸者は『光』を發行し、私は安部磯雄、木下尚江の兩先輩の驥尾に付して『新紀元』を發行してゐた際であつたので、これに入黨することは兩派を融和するに好機會を與へるものと考へながら、私には入黨することが出來ませんでした。わたしは『新紀元』で『政黨は、革命主義の運動には害こそあれ、有用のものではない』『政黨は、小才子、俗物が、世話、奔走、應接の間に胡麻をするに宜しき所なり』などと論じてゐますが實は心の弱い自分の本命を貫徹するために政黨を毛ぎらひした傾きも有つたかと思ひます。

     平民社の思想

「君が内省的になつた結果、政黨の運動をきらふやうになり、やがてそれが君を無政府主義に傾かしたのであらう。面白いぢやないか?」

 ルクリュ翁は興味深げであつた。

「一たんポリチックに足を踏みこんだら、それこそ泥沼に落ちたも同じことよ。それから脱け出ることは容易でなく、その上、正直では決してうだつの揚らぬところ、あなたの戀愛病があなたを救つたのよ」

 とマダムは得意であつた。

 マダムの仰しやる通り、わたしは大病だつたのです。その病人を棄てもせずに、深い友情をもつて、引き立ててくれた平民社の先輩達には今も心から感謝せずには居れません。平民社同人の思想的態度は、今から見れば極めて素朴なもので、またロマンチックであつたに相違ないが、しかし、あの黎明期に於ける混沌の中に、高いヒューマニズムの精神に徹してゐた點は、今も忘れることのできない美しさでありました。日本に於ける社會主義、共産主義、無政府主義等の稱を宿してゐた、あの温床は可なりに健全であり、豐饒であつたと思ひます。

 日本の社會思潮の上から見ればあの平民社の生活は、汲めども、汲めども、滾々として汲み盡すことのできない清冽な泉にも喩へらるべきであります。それはあの當時に於ける思想や主義の社會的價値にも由るでせうが、しかしあの峻烈嚴酷な鬪爭の中にも、常に明朗な陽春の雰圍氣を湛へて、若い男子が集り來り、協力を惜まなかつたのは何としても平民社の中心であつた先輩達の人格の致すところであつたと思ひます。幸徳と堺とは、實に好きコンビでした。堺は強かつた。幸徳は鋭かつた。堺はまるめ、幸徳は突き刺した。幸徳は剃刀の如く、堺は櫛の如く、剃刀は鈍なるべからず、櫛は滑かに梳るを要します。平民社は良き理容所でありました。およそ彼處に出入するほどの青年男女は、それぞれの個性に於て、その容姿を整へられました。

 永井柳太郎などは、その點において、平民社の畸形兒となつて世に出た一人でせう。不肖の子とまではいへないにしても、少々できそこなつたものといへるでありませう。大杉榮だの、荒畑寒村だの、先づ平民社の手にかかつた逸材であります。藝術の方では小川芋錢、平福百穗、竹久夢二などいふ名物がみな平民社から首途したのであります。中里介山や、白柳秀湖などいふ人々が、平民社の親しい友であつたことも忘れることはできません。この他に今日なほ生存してゐたならば、立派に各の場面において活躍を續けてゐるであらうと思はれる人物が澤山にあります。

 平民社關係から世に出た新進の才人が多かつたと同時に、或は平民社に同情を持ち、或はこれを援護した人物の多かつたことも忘れ得ない重要事であります。西園寺公、中江兆民等の親友であつた小島龍太郎や、ドクトル加藤時次郎や、ユニテリヤン教會の佐治實然や、毎日新聞の木下尚江や、早稻田大學の安部磯雄や、いづれも皆平民社の相談役でありました。齋藤緑雨、田岡嶺雲、小泉三申、山路愛山、石川半山、斯波貞吉、杉村楚人冠、久津見蕨村などいふ人々は、屡平民社を訪れて、或は舌に、或は筆に、平民新聞を賑はしてくれた同情者でありました。いづれも皆錚々たる人物で平民社の背景が如何に賑やかであつたかを推想せしめるものがあります。

 平民社は今の日本劇場あたりにあつたと思ひますが、その平民社の前から神田橋まで電車が開通したのは、明治三十七年末か三十八年の初期であつたと思ひます。それまで私は飯田町から毎日徒歩で通つてゐました。最初の内は毎週一回校正のため徹夜をしましたが、慣れない仕事で骨が折れました。築地の國光社といふ印刷所から深夜まで自轉車でゲラ刷を持つて往復する小僧さんにも同情が寄せられました。しかし、だんだん人手も多くなり、校正の助力者も現はれて來て後には徹夜をするやうなことも少くなりました。普通の新聞型十頁を毎週一回出すのであるから、三、四人の手では骨の折れるのは當然でありました。

 平民社の思ひ出は盡きません。若い娘さん達も隨分多く出入しました。一々お話できないがみんな立派な人々でした。機蕨とでも申すべきか、よくもあんなに、多數の女性が、あの鬪爭のなかに、和氣あいあいとして寄り集うたものと、感歎せずにはをられないのです。まことに豐饒な社會運動の温床であつたと言へるのでありませう。

 明治三十六年十月に創立せられたこの平民社は、三十八年秋に解散しました。幸徳は渡米することに決して居り、堺は由分社によつて獨立の仕事を創めることになつてゐたので、一先づ解散して捲土重來を期することになりました。平民社に對して外部同志の不滿もあつたやうに聞きましたが、私ども後輩にとつては唯淋しさを禁じ得ませんでした。しかるに平民社解散式の夜、先輩の木下尚江は突然わたしに呼びかけました「旭山やれよ!」。旭山とはわたしのペンネームでした。藪から棒で何のことかと驚きましたが、木下の意はキリスト教の精神に基いて社會主義の宣傳を試むべく一旗揚げよといふのでありました。平民社の解散後はどうしたら可いかと思案にくれた際ですから、私はうれしさを禁じ得ませんでした。

 その時の木下の意氣込は熱烈でした。二人で安部磯雄氏を訪問したのは、それから二、三日たつてからでした。安部氏も大へん喜んで參加を約しました。そして新しい雜誌の名稱も、安部氏の提議でニュー・エラ=新紀元=と決定しました。それからまた、二人で徳富蘆花を訪問しました。蘆花も喜んでわれわれの計畫を助けてくれることになりました。かうしてキリスト教社會主義を標榜した『新紀元』の運動は發足したのであります。新紀元社の看板は私の家に掲げましたが、その家は今の新宿驛の直ぐ近くで、西部電車がガード下をくぐつて西方に出たところの左側にありました。小さな門を奧深く入つた、藁ぶき屋根の六疊、三疊、二疊といふ小さな家でありました。前田河廣一郎君が同居するやうになつたのは、その時でありました。

     田中正造翁

『新紀元』の運動は私にとつて良い修業になりました。どんな仕事でも、心さへあれば、みな修業でありませうが、あの場合は自分が責任者になつたので、殊に自ら緊張した結果、わたしの精神生活に非常に深い影響を與へました。それにこの運動中は特に親しく田中正造翁の驥尾に付して奔走することになつたので、わたしは人生といふものに、驚異の眼を見開くに至りました。田中翁の偉大な人格に觸れて、わたしは人間といふものが、どんなに輝いた魂を宿してゐるものか、どんなに高大な姿に成長し得るものか、といふことを眼前に示されて、感激せしめられました。それと同時に、今まで種々な説教や、傳記やらで學んだ教養や人物といふものが、現實に翁において生かされ、輝かされてゐることを見て、心強く感じました。わたしは、自身が如何にも弱小な人間であることを見出しながらも、常に發奮し自重自省するやうになりました。

 田中翁は決して自ら宗教や道徳を説きませんでした。しかし、翁の生活そのものが、その巨大な人格の中に温かい光明と熾烈な情熱とをたたへて、わたしを包んでくれるのでした。木下尚江はその著『田中正造翁』の中に『旭山は、翁に對しては殆ど駄々ッ児のやうに親しんでゐた』と書いてゐますが、わたしは翁に尾して活動することを眞に幸福に感じました。谷中村の農家に翁と同じ蚊帳の中に寢せられ、ノミに喰はれて眠られず、隣でスヤスヤ眠る翁がうらやましかつたが、そのことを翌朝翁に談ると『珍客を愛撫してくれるノミの好意は有難く受けるものでがすよ』と笑はれました。それから栃木縣の縣會議員の船田三四郎といふ人の家に一泊か二泊して御馳走になりながら、縣の政治書類を檢討させて貰ひ、さまざまな醜いカラクリを數字によつて明白にすることができて、大へん翁に喜ばれた時などは、とても嬉しく感じました。

 わたしは、翁の思ひ出や、翁自身の思想の變遷やについて、機會のある毎に聞いては筆記しておいたのですが、今は皆散逸して無くなりました。しかし、今わたしの記憶に遺つてゐる翁の全生涯は翁が自ら教育して來た修業史である、といふことです。翁にとつては、政治でも、社會現象でも、自然現象でもすべてが、天授の教訓であります。或る時、翁は、何度目かの官吏侮辱罪で栃木の監獄に入り、木下と私と面會に行くと、最初に要求されたのが聖書でありました。わたし達が種々の註解書によつて聖書の研究をするのに對し、翁はただ自分で直讀するのですが、その解釋がまた活きてゐました。翁は善いと思つたことは直ぐに言行に移し表明するのを常としました。ところが、その直觀に就いての説明には、いつも苦しみました。或る時、翁は谷中村のある農家に『人道教會』といふ看板を掲げました。それは今までの政治運動をきつぱり止めて、人道の戰ひと修業とを始めるといふのでありました。ところが、その『人道』とは何ぞや、といふことになつて簡單明瞭な説明が見當らず、私が訪問すると、すぐにその質問です。わたしが『人道とは人情を盡すの道といふことです』といふと膝を打つて喜びました。それから、わたしが、人情の説明にとりかかると翁はそれを制していひました『いや、人情といふことで充分です。それ以上につけ加へる必要はありません』まことに單刀直入を喜ぶのでありました。

 谷中村を政府が買收して貯水池にするには、先づ住民を生活不可能状態に逐ひこまねばならない。ところが住民は隣接の赤麻沼に面する堤防缺潰箇所を自費で修築しました。縣廳の方では政府の許可なくしてこの樣な工事を營むのは不都合千萬だから、打ちこはす、と言ふ。明日はその破壞工作に縣の土木課の役人等が來るといふ、その前夜、田中翁は新紀元社に泊られました。わたしは東京の學生や青年達と共に田中翁を擁して防禦戰に赴くことに決定しました。翁と二人で枕を並べて寢についたが、明日の抗戰がどうなるかと思ひめぐらして眠れませんでした。土木の工夫や役人とわれわれとの間に亂鬪が展開されるのは必然と見られたのです。堤防の上に血の雨を降らすであらうことは想像されるが、見ぐるしい終局にさせたくない、それが私の心配でした。實は怯懦な私自身のことが心配なのです。この時も田中翁は寢るとすぐ高いびきです。翌朝眼を覺ますと、『風を引かないやうに氣をつけやんせう』。四月といふに寒い朝だつたのです。

 この日、谷中村に同行した青年達は十八名ばかりでした。谷中の住民約三十名と勢揃ひして假築堤防上に赴いた時には、しよぼしよぼと春雨が降り始めました。

 しかるに豫期した幽靈は出て來ませんでした。わたしどもは拍子ぬけの體でありましたが、しかし、かうした機會を無益に過してはならない、わたしは皮切りに激勵の演説を試みました。青年諸君も熱辯を振ひました。雨中の屋外集會は、ただそのままで既に悲壯の極みでありました。

 この日は何の事もなく歸京することができました。しかし、わたしは、自分の心持をかへり見て、いささか不安でありました。若し、あの堤防上に亂鬪が起つたとして自分は果して泰然とこれを乘切ることが出來たであらうか? 苟も十字架を負うて社會運動に身を投じたと稱するものが、びくびくしたのでは見つともない、だが、私はそのびくびくの方らしい。私は歸京の翌日箱根太平臺の内山愚童君を訪うて、このことを訴へました。愚童君は暫時の靜坐を勸めてくれました。愚童君の寺は小さな寺ではあるが、見晴らしのよい、靜かなところで、和尚一人の生活であるから、瞑想、靜觀を妨げる何ものもなかつた。わたしが與へられた室で瞑目端座してゐると、何時の間にか、鼻先に芳はしい線香のかをりがただよつて來る。愚童君の心づかひでありました。心はしーんとして閑寂の底に沈む。その時です、突如として心の窓が開け『十字架は生まれながら人間の負うたものだ』と氣がつきました。それは、眞に觀天喜地のうれしさでありました。その時、製茶に專心してゐる和尚のところに行つてこれを告げると『ああ、その通り、それだよ、それだよ!』とうなづきました。それは一週間の坐禪の中ごろのことでした。

     伸びる買收の手

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