2話 琉球史の趨勢(2)
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支那との事はそうむつかしくはありませぬ、よしむつかしい事がおこっても久米村人だけでとりなしが出来ます、しかし日本との事はそうは参りませぬ、他日一片の書状で国王の位を失わなければならぬ事があるとしましたら、それは日本の方から出るのでございましょう。
との事であります。これはある年のムシボシの時分、尚泰王が安里氏に話されたとの事でありますが、安里氏が那覇尋常高等小学校の訓導富名腰氏を通じて私に告げられたのであります。(喜舎場朝賢氏の『琉球見聞録』参照。)それ故決して嘘でないという事を誓っておきます。蔡温はああいう泰平の時代に能くもこういう事を予期していたのであります。よしやこの話がないとしても『独物語』を熟読された方にはこういう事はとうに蔡温は考えていたろうという事を推察されましょう。蔡温は『独物語』や『教条』に為政者の執るべき方針を規定しておきましたが、なお平常の事務に関しても精しく記載しておいて、その死後どんな人が三司官になっても、これを繙きさえすればどんな時でもまごつくことのないようにしたとのことです。そうでありますから琉球最後の政治家宜湾朝保氏は蔡温以後は四人の三司官がいるといわれたとのことです。実際三司官は三人しかいないが、死んだ蔡温がいつも三司官と一緒にいて、政治を執っているようなものだという意であるそうです。蔡温は実に好個の知己を得たといわなければなりません。そうして宜湾朝保の出現もまた偶然ではなかったのであります。星移り物変り、世は御維新となりました。即ち日本人は国民的統一をなすべき機運の到来を自覚するようになりました。この時にあたって沖縄人の心中に当然起らなければならぬ疑問は、自国の運命はどうなるであろうかという事であったに相違ありません。ところが沖縄人はこの大問題に就いて至って無頓着であったのであります。前にも申上げた通りいわゆる琉球王国は慶長十四年以後は日本の一諸侯島津氏が殊更に名に於ては支那に隷せしめ実に於ては日本に属せしめて私かに支那貿易を営むために存在させた機関に過ぎないのであるから、その存在の条件がなくなるや否や動揺を来すのは当然のことでございます。御維新になった結果琉球は最早島津氏の機関でないようになって、当然日本帝国の一部たるべき性質の者となりましたので、とうとう琉球処分ということが起って参りました。沖縄人に取っては寝耳に水であったのでございます。これがやがて日本思想と支那思想との最後の大衝突である。かかる時に際し、人は往々にして大勢の推移を知らず、前後を同一の時代と観ずることがある。ここに於てか人と時勢と相副わず、その間に扞格を来すのである。これ社会に保守党の起る所以である。これ社会に擾乱の避くべからざる所以である。宜湾朝保はこの間に立って時勢を解釈し、輿論を無視して沖縄を今日のような位地に置いたのでございます。而して彼れは非常なる迫害を受け、明治九年憂を懐いて死にました。彼れは実に不幸なる政治家であります。しかしながら彼れは幕末の勝安房や朝鮮の李完用と並称せらるべき人物であります。
つらつら琉球史の趨勢を見るに、向象賢や蔡温や宜湾朝保の案内するがままに、歩一歩安全なる世界の大勢という潮流に向って進んだのでございます。而して私共はこの大海のただ中の甲板上に立って、私共を出口まで引張って来た所の三人の恩人を顧みて、転た感謝の念を熾にせざるを得ないのであります。かつて向象賢や蔡温や宜湾朝保と共に窮屈千万なる天地に住んでいた所の沖縄人は、今や天空海濶な世界に住むようになりました。そうして政治的圧迫を取去られた所の沖縄人は三人者が言わんと欲して言う能わざりし所を言い、為さんと欲して為す能わざりし事を為し得るようになりました。しかしながら沖縄人がこういう所に到達するまでには幾多の艱難に遭遇したという事を知らなければなりません。この苦しい経験もまた沖縄発展の一要素になっているに相違ありませぬ。琉球処分は実に迷児を父母の膝下に連れて帰ったようなものであります。ところがこの琉球民族という迷児は二千年の間、支那海中の島嶼に彷徨していたにかかわらず、アイヌや生蛮みたように、ピープルとして存在しないでネーションとして共生したのでございます。彼らは首里を中心として政治的生活を営みました。『万葉集』に比較すべき『おもろさうし』を遺しました。マラッカ海峡の辺まで出かけました。そうして彼らの北方の同胞がかつて為さなかった所の自国語で以て金石文を書くことさえなしました。彼らは実に物質的に、はた精神的に国家社会を形成すべき能量を有していたのでございます。
さて、万象の進化は不滅なる恒力の効果たる一定の加速度を以てするのであります。琉球民族の進歩が独りどうしてこの加速度の理法にそむく事が出来ましょうか。前時代の制度、文物なくして何処に琉球がありましょうか。厳格なる意味に於ての琉球はアマミキヨ以来すべての人の考えやはたらきが積り積って出来たのであります。個体の享有する仕事即ち経験は有限なる個体の生存に残存し、生殖の連鎖によって、関鍵する種族の全体に寓して恒久不滅の存在を有するものであります。これやがて遺伝の理法であります。加速度は段々増して来ました。過去に於ける如き抵抗は全く絶滅あるいは減退致しました。今日以後の沖縄人に向象賢や蔡温以上の仕事の出来るのは火を睹るよりも明かであります。しかしながら彼ら以上の人物たらんとするには、彼らが遭遇した以上の困難に遭遇せなければならないかも知れません。私共は私共にかくの如き遺伝を与えてくれた祖先を尊敬しなければなりません。これやがて自己を尊敬する所以であります。私は断言します。沖縄人は過去に於てあれだけの仕事位はなしたから、他府県の同胞と共に二十世紀の活舞台に立つことが出来るのであります。アイヌを御覧なさい。彼らは、吾々沖縄人よりもよほど以前から日本国民の仲間入りをしています。しかしながら諸君、彼らの現状はどうでありましょう、やはりピープルとして存在しているではありませんか。あいかわらず、熊と角力を取っているではありませんか。彼らは一個の向象賢も一個の蔡温も有していなかったのであります。周廻百里位の小天地にいたからといって、蔡温の如き政治家を内地の一地方の家老位に比較するのは誤りであります。琉球政治家の活動の範囲は北京から江戸の間にひろがっていたのであります。而も年百年中、大変な難問題にのみ出会しつつあったのであります。私は蔡温の如きは明治以前の各藩のどの政治家よりも遥かに活動していたと信じます。もし彼れを検束していた運命の縄をゆるめたならば、彼れは思う存分に活動して支那海の一隅に一種のユートピヤを出現せしめたに相違ありません。とにかく彼は沖縄には、もったいない位な大政治家でありました。私は諸君が徐ろに琉球政治家の苦心の跡を追想せられんことを希望いたします。
(明治四十年八月一日、沖縄教育会にての演説、『沖縄新聞』所載・昭和十七年七月改稿)
近代琉球の代表的政治家、向象賢・蔡温・宜湾朝保の三氏は、大正天皇御即位の大典に贈位の恩典に預ったが、この時私は、沖縄師範学校の偉人研究会で、「三偉人と其背景」という講演をなすの光栄を荷った。これは「琉球史の趨勢」を訂正増補したもので、真境名安興君との共著『琉球の五偉人』中(一頁―一七五頁)に収めてあるから、参照して頂きたい。