2話 斎藤緑雨(2)
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コウ書イタママデ電車ニ飛乗リマシタノデ、今日マデ机ノ上ニ逗留シテオリマシタ、昨夜帰宅イタシマシタバカリデ今マタ東京へ立チマスノデ書直スヒマガアリマセヌ、ナゼソンナニアワテルカトオ思召シマショウガ、ソレハ明後日アタリノ新聞広告ニ出マス件ト、妹ノ方ノ件ト二ツノ急要ガアルタメデス、オユルシ下サイ 五日正午
緑雨の失意の悶々がこの冷静を粧った手紙の文面にもありあり現われておる。それから以後は全く疎縁になってしまった。
その後再び東京へ転住したと聞いて、一度人伝に聞いた浅草の七曲の住居を最寄へ行ったついでに尋ねたが、ドウしても解らなかった。誰かに精しく訊いてから出直すつもりでいると、その中に一と月ほど経って、「小生事本日死去仕候」となった。一代の奇才は死の瞬間までも世間を茶にする用意を失わなかったが、一人の友人の見舞うものもない終焉は極めて淋しかった。それほど病気が重くなってるとは知らなかったので、最一度尋ねるつもりでツイそれなりに最後の皮肉を訊かずにしまったのを今なお残惜しく思っている。葬儀は遺言だそうで営まなかったが、緑雨の一番古い友達の野崎左文と一番新らしい親友の馬場孤蝶との肝煎で、駒込の菩提所で告別式を行った。緑雨の竹馬の友たる上田博士も緑雨の第一の知己なる坪内博士も参列し、緑雨の最も莫逆を許した幸田露伴が最も悲痛なる祭文を読んだ。丁度風交りの雨がドシャドシャ降った日で、一代の皮肉家緑雨を弔うには極めて相応しい意地の悪い天気であった。
緑雨の全盛期は『国会新聞』時代で、それから次第に不如意となり、わざわざ世に背き人に逆らうを売物としたので益々世間から遠ざかるようになった。元来緑雨の皮肉には憎気がなくて愛嬌があった。緑雨に冷笑されて緑雨を憎む気には決してなれなかった。が、世間から款待やされて非常な大文豪であるかのように持上げられて自分を高く買うようになってからの緑雨の皮肉は冴を失って、或時は田舎のお大尽のように横柄で鼻持がならなかったり、或時は女に振棄てられた色男のように愚痴ッぽく厭味であったりした。緑雨が世間からも重く見られず、自らも世間の毀誉褒貶に頓着しなかった頃は宜かったが、段々重く見られて自分でも高く買うようになると自負と評判とに相応する創作なり批評なりを書かねばならなくなるから、苦しくもなり固くもなった。同時に自分を案外安く扱う世間の声が耳に入ると不愉快で堪らなくなって愚痴を覆すようになった。緑雨の愚痴は壱岐殿坂時代から初まったが、それ以後失意となればなるほど世間の影口に対する弁明即ち愚痴がいよいよ多くなった。私が緑雨と次第に疎遠になったのは緑雨の話柄が段々低級になって嫌気がさしたからであるが、一つは皮肉の冴を失った愚痴を聞くのが気の毒で堪らなかったからだ。
緑雨は逍遥や鴎外と結んで新らしい流れに棹さしていた。が、根が昔の戯作者系統であったから、人生問題や社会問題を文人には無用な野暮臭い穿鑿と思っていた。露骨にいうと、こういうマジメな問題に興味を持つだけの根柢を持たなかった。が、不思議に新らしい傾向を直覚する明敏な頭を持っていて、魯文門下の「江東みどり」から「正直正太夫」となると忽ち逍遥博士と交を訂し、続いて露伴、鴎外、万年、醒雪、臨風、嶺雲、洒竹、一葉、孤蝶、秋骨と、絶えず向上して若い新らしい知識に接触するに少しも油断がなかった。根柢ある学問はなかったが、不断の新傾向の聡明なる理解者であった。が、この学問という点が緑雨の弱点であって、新知識を振廻すものがあると痛く癪に触るらしく、独逸語や拉丁語を知っていたって端唄の文句は解るまいと空嘯いて、「君、和田平の鰻を食った事があるかい?」などと敵を討ったもんだ。
緑雨の傑作は何といっても『油地獄』であろう。が、緑雨自身は『油地獄』を褒めるような批評家さまだからカタキシお話しにならぬといって、『かくれんぼ』や『門三味線』を得意がっていた。『門三味線』は全く油汗を搾って苦辛した真に彫心鏤骨の名文章であった。けれども苦辛というは修辞一点張であったゆえ、私の如きは初めから少しも感服しないで明らさまに面白くないというと、頗る不平で、「君も少し端唄の稽古でもし玉え、」と面白くない顔をした。緑雨のデリケートな江戸趣味からは言文一致の飜訳調子の新文体の或るものは気障であったり、或るものは田舎臭かったりして堪らなかったようだ。
が、緑雨の傑作はやはり『油地獄』と『雨蛙』であろう。この二つはいずれも緑雨自身の不得意とする作で、人の褒めるのが癪に触るといって喰って掛ったものであるが、緑雨が自ら得意とする『かくれんぼ』や『門三味線』よりは確に永遠の生命がある。聡明な眼識を持っていたがやはり江戸作者の系統を引いてシャレや小唄の粋を拾って練りに練り上げた文章上の「穿ち」を得意とし、世間に通用しない「独りよがり」が世間に認められないのを不満としつつも、誰にも理解されないのをかえって得意がる気味があった。が、紅葉も露伴も飽かれた今日、緑雨だけが相変らず読まれて、昨年縮印された全集がかなりな部数を売ったというは緑雨の随喜者が今でもマダ絶えないものと見える。緑雨は定めし苔の下でニヤリニヤリと脂下ってるだろう。だが、江戸の作者の伝統を引いた最後の一人たる緑雨の作は過渡期の驕児の不遇の悶えとして存在の理由がある。緑雨の作の価値を秤量するにニーチェやトルストイを持出すは牛肉の香味を以て酢の物を論ずるようなものである。緑雨の通人的観察もまたしばしば人生の一角に触れているので、シミッ垂れな貧乏臭いプロの論客が鼻を衝く今日緑雨のような小唄で人生を論ずるものも一人ぐらいはあってもイイような気がする。が、こう世の中が世智辛くなっては緑雨のような人物はモウ出まいと思うと何となく落莫の感がある。
(大正十四年三月一日補訂)