2話 二
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久しぶりで全家お揃いは珍らしいというと、昨日同番地へ移転して来たといった。ツイそこの酒屋の裏だというから段々訊くと、近頃まで何とかいう女医が住んでいた家だ。
「あの家は本とはお医者さんで、移転したてに家の塀の角へ看板を出さしてくれとタウルを半ダース持って頼みに来た、」というと、「そんなら僕も看板を出さしてもらおうかナ」といった。「アナーキストの看板じゃタウルの半ダースぐらいじゃ引受けられない」といって笑った。
魔子は臆面のない無邪気な子で、来ると早々私の子と一緒に遊び出した。野枝さんの膝に抱かれたぎりのルイゼはマダあんよの出来ない可愛いい子で、何をいっても合点々々ばかりしていた。アッチもコッチもとお菓子を慾張って喰べこぼすのを野枝さんが一々拾って世話する処はやはり世間並のお母さんであった。エンマ・ゴルドマンを私淑する危険な女アナーキストとは少しも見えなかった。「日本ばかりじゃ騒がし足りないと見えて、仏蘭西までも騒がして来たネ。雀百まで躍りやまずで、コンナに多勢の子持になってもやはり浮気はやまんと見えるネ」というと、「やはり時代病かも知れない」と大杉は吃りながらいった。
「それでも」と野枝さんは微笑みつつ、「尾行が申しましたよ。児供が出来てから大変温和しくなったと。」
大杉が児供を見る眼はイツモ柔和な微笑を帯びて、一見して誰にでも児煩悩であるのが点頭かれた。野枝さんも児供が産れる度に、児供が長きくなるごとに青鞜時代の鋭どい機鋒が段々と円くされたろうと思う。
野枝さんは児供を伴れて先きへ帰ったが、大杉は久しぶりでユックリと腰を落付けた。正午になって迎えが来ても根を生やして、有合の午飯を一緒に済まして三時ごろまでも話し込んだ。仏蘭西から帰りたてなので、巴黎で捕縛されて監獄へ投り込まれた咄をボツボツ話した。尤も纏まった話でなく、断れ断れで思想上の立入った問題には触れなかった。路傍演説をして捕縛された咄はしたが、その演説の内容は訊きもしなかったし話しもしなかった。ただ仏蘭西人は一般に案外日本人よりも無知で、何しに来たというから社会学を勉強に来たというと、その社会学という言葉の意味の解るものが少かったという事や、仏蘭西の巡査が人格も知識も日本の巡査よりも低劣で、第一言語からして野卑で、教養ある仏語が全く通じないという事や、仏蘭西の監獄が不整頓で不潔で、囚人の食事が粗悪で分量が少く、どの点から見ても日本の監獄以下であるという事や、何くれとなく仏蘭西を貶した話ばかりした。
「ただ仏蘭西の監獄で便利なのは差入の自由です。日本同様監獄の前に差入物屋があって、銭さえ出せばどんなウマイものでも、酒でも煙草でも買う事が出来ます。僕は余り酒を喫らんが、書物は格別持たず、面会に来るものはないし、退屈で堪らんから白葡萄酒を買ってゴロゴロしながらチビチビ飲む。三日で一本明けたが、終日陶然としてイイ心持でした。銭さえあれば仏蘭西の監獄はさほど苦しくない。当てがいの食物が足りなくても不味くても差入物屋から取りさえすれば相当な贅沢が出来ます。気楽に読書でもしていようてには仏蘭西の監獄は贅沢が出来て気が散らんから持って来いですよ。」
そんな話をして半日を何年ぶりで語り過ごした。