堺事件

1話 堺事件(1)

2,400字 約5分 2001年3月12日 公開

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 明治元年戊辰(ぼしん)の歳(とし)正月、徳川慶喜(よしのぶ)の軍が伏見、鳥羽に敗れて、大阪城をも守ることが出来ず、海路を江戸へ遁(のが)れた跡で、大阪、兵庫、堺の諸役人は職を棄てて潜(ひそ)み匿(かく)れ、これ等の都会は一時無政府の状況に陥った。そこで大阪は薩摩(さつま)、兵庫は長門(ながと)、堺は土佐の三藩が、朝命によって取り締ることになった。堺へは二月の初に先ず土佐の六番歩兵隊が這入(はい)り、次いで八番歩兵隊が繰り込んだ。陣所になったのは糸屋町の与力(よりき)屋敷、同心屋敷である。そのうち土佐藩は堺の民政をも預けられたので、大目附杉紀平太、目附生駒(いこま)静次等が入り込んで大通櫛屋町(くしやまち)の元総会所に、軍監府を置いた。軍監府では河内(かわち)、大和(やまと)辺から、旧幕府の役人の隠れていたのを、七十三人捜し出して、先例によって事務を取り扱わせた。市中は間もなく秩序を恢復(かいふく)して、一旦鎖(とざ)された芝居の木戸も、又開かれるようになった。

 二月十五日の事である。フランスの兵が大阪から堺へ来ると云うことを、町年寄が聞き出して軍監府へ訴え出た。横浜に碇泊(ていはく)していた外国軍艦十六艘(そう)が、摂津の天保山沖(てんぽうざんおき)へ来て投錨(とうびょう)した中に、イギリス、アメリカと共に、フランスのもあったのである。杉は六番、八番の両隊長を呼び出して、大和橋へ出張することを命じた。フランスの兵が若(も)し官許を得て通るのなら、前以て外国事務係前宇和島藩主伊達伊予守宗城(だていよのかみむねき)から通知がある筈であるに、それが無い。よしや通知が間に合わぬにしても、内地を旅行するには免状を持っていなくてはならない。持っていないなら、通すには及ばない。杉は生駒と共に二隊の兵を随(したが)えて大和橋を扼(やく)して待っていた。そこへフランスの兵が来掛かった。その連れて来た通弁に免状の有無を問わせると、持っていない。フランスの兵は小人数なので、土佐の兵に往手(ゆくて)を遮(さえぎ)られて、大阪へ引き返した。

 同じ日の暮方になって、大和橋から帰っていた歩兵隊の陣所へ、町人が駆け込んで、港からフランスの水兵が上陸したと訴えた。フランスの軍艦は港から一里ばかりの沖に来て、二十艘の端艇(はしけ)に水兵を載せて上陸させたのである。両歩兵の隊長が出張の用意をさせていると、軍監府から出張の命令が届いた。すぐに出張して見ると、水兵は別にこれと云う廉立(かどだ)った暴行をしてはいない。しかし神社仏閣(ぶっかく)に不遠慮に立ち入る。人家に上がり込む。女子を捉(とら)えて揶揄(からか)う。開港場でない堺の町人は、外国人に慣れぬので、驚き懼(おそ)れて逃げ迷い、戸を閉じて家に籠るものが多い。両隊長は諭(さと)して舟へ返そうと思ったが通弁がいない。手真似で帰れと云っても、一人も聴かない。そこで隊長が陣所へ引き立ていと命じた。兵卒が手近にいた水兵を捉えて縄を掛けようとした。水兵は波止場をさして逃げ出した。中の一人が、町家の戸口に立て掛けてあった隊旗を奪って駆けて往った。

 両隊長は兵卒を率いて追い掛けた。脚(あし)の長い、駆歩(かけあし)に慣れたフランス人にはなかなか及ばない。水兵はもう端艇に乗り移ろうとする。この頃土佐の歩兵隊には鳶(とび)の者が附いていて、市中の廻番をするにも、それを四五人ずつ連れて行くことにしてあった。隊旗を持つのもこの鳶の者の役で、その中に旗持梅吉と云う鳶頭がいた。江戸で火事があって出掛けるのに、早足の馬の跡を一間とは後(おく)れぬという駆歩の達者である。この梅吉が隊の士卒を駆け抜けて、隊旗を奪って行く水兵に追い縋(すが)った。手に持った鳶口は風を切ってかの水兵の脳天に打ち卸(おろ)された。水兵は一声叫んで仰向に倒れた。梅吉は隊旗を取り返した。

 これを見て端艇に待っていた水兵が、突然短銃で一斉射撃をした。

 両隊長が咄嗟(とっさ)の間に決心して「撃て」と号令した。待ち兼ねていた兵卒は七十余挺(ちょう)の銃口を並べ、上陸兵を収容している端艇を目当に発射した。六人ばかりの水兵はばらばらと倒れた。負傷して水に落ちたものもある。負傷せぬものも急に水中に飛び込んで、皆片手を端艇の舷(ふなばた)に掛けて足で波を蹴(けっ)て端艇を操りながら、弾丸(たま)が来れば沈んで避け、又浮き上がって汐を吐いた。端艇は次第に遠くなった。フランス水兵の死者は総数十三人で、内一人が下士であった。

 そこへ杉が駆け付けた。そして射撃を止めて陣所へ帰れと命じた。両隊が陣所へ引き上げていると、隊長二人を軍監府から呼びに来た。なぜ上司の命令を待たずに射撃したかと杉に問われて、両隊長は火急の場合で命令を待つことが出来なかったと弁明した。勿論(もちろん)端艇から先ず射撃したので、これに応戦したのではあるが、土佐の士卒は初からフランス人に対して悪感情を懐(いだ)いていた。それは土佐人が松山藩を討つために錦旗を賜わって、それを本国へ護送する途中、神戸でフランス人がその一行を遮(さえぎ)り留め、朝廷と幕府との和親を謀(はか)るためだと通弁に云わせ、錦旗を奪おうとしたと云う話が伝わっていたからである。

 杉は両隊長に言った。とにかくこうなった上は是非がない。軍艦の襲撃があるかも知れぬから、防戦の準備をせいと云った。そして報告のために生駒を外国事務係へ、下横目一人を京都の藩邸へ発足(ほっそく)させた。

 両隊長は僅(わず)か二小隊の兵を以て軍艦を防げと云われて当惑したが、海岸へは斥候(せっこう)を出し、台場へは両隊から数人ずつ交代して守備に往くことにした。そこへこの土地に這入った時収容して遣(や)った幕府の敗兵が数十人来て云った。

「若しフランスの軍艦が来るようなら、どうぞわたくし共をお使下さい。砲台には徳川家の時に据(す)え付けた大砲が三十六門あって、今岸和田藩主岡部筑前守長寛(ちくぜんのかみながひろ)殿の預りになっています。わたくし共はあれで防ぎます。あなた方は上陸して来る奴を撃って下さい」と云った。

 両隊長はその人達を砲台へ遣った。そのうち岸和田藩からも砲台へ兵を出して、望遠鏡で兵庫方面を見張っていてくれた。

 夜に入って港口へフランスの端艇が来たと云う知らせがあった。しかしその端艇は五六艘で、皆上陸せずに帰った。水兵の死体を捜索したのだろう。実際幾つか死体を捜し得て、載せて帰ったらしいと云うものもあった。

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