天鵞絨

4話

2,702字 約5分 2003年4月4日 公開

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 目を覺ますと、弟のお清書を横に逆まに貼つた、枕の上の煤けた櫺子(れんじ)が、僅かに水の如く仄めいてゐる。誰もまだ起きてゐない。遠近(をちこち)で二番鷄が勇ましく時をつくる。けたゝましい羽搏(はばた)きの音がする。

 お定はすぐ起きて、寢室(ねま)にしてゐる四疊半許りの板敷を出た。手探りに草履(ざうり)(つゝ)かけて、表裏の入口を開けると、厩では乾秣(やた)()しがる馬の、破目板を()る音がゴトゴトと鳴る。大桶を二つ(かつ)いで、お定は村端(むらはづれ)の樋の口といふ水汲場に行つた。

 例になく早いので、まだ誰も來てゐなかつた。(さゞなみ)一つ立たぬ水槽の底には、消えかゝる星を四つ五つ(ちりば)めた黎明の空が深く沈んでゐた。清冽な秋の曉の氣が、いと冷かに襟元から總身に沁む。叢にはまだ夢の樣に蟲の音がしてゐる。

 お定は暫時(しばし)水を汲むでもなく、水鏡に寫つた我が顏を(みつ)めながら、呆然(ぼんやり)と昨晩の《ゆうべ》の事を思出してゐた。東京といふ所は、ずつと/\遠い所になつて了つて、自分が(どう)して(そんな)所まで行く氣になつたらうと怪まれる。矢張自分は此村に生れたのだから、此村で一生暮らす方が本當だ。()うして毎朝水汲に來るのが何より樂しい。話の樣な繁華な所だつたら、屹度(きつと)()ういふ澄んだ美しい水などが見られぬだらうなどゝ考へた。と、後に人の足音がするので、振向くと、それはお八重であつた。矢張桶をぶらぶら擔いで來るが、寢くたれ髮のしどけなさ、起きた許りで(はれ)ぼつたくなつてゐる(ひとみ)さへ、殊更艶かしく見える。あの人が行くのだもの、といふ考へが、呆然(ぼんやり)とした頭をハッと明るくした。

『お八重さん、(はや)えなツす。』

『お(めえ)こそ早えなツす。』と言つて、桶を地面(ぢべた)に下した。

『あゝ、まだ蟲ア啼いてる!』とお八重(やへ)は少し顏を(ゆが)めて、後れ毛を掻上げる。遠く近くで戸を開ける音が聞える。

()めたす、お八重さん。』

『決めたすか?』と言つたお八重の眼は、急に晴々しく輝いた。『若しもお前行かなかつたら、(おら)一人奈何(どう)すべと思つてだつけす。』

『だつてお前(どう)しても行くべえす?』

『お前も()めたら、一緒に行くのす。』と言つて、お八重は輕く笑つたが、『そだつけ、大變だお定さん、急がねえばならねえす。』

(どう)してす?』

『怎してつて、昨晩(ゆべな)聞いだら、源助さん明後日(あさつて)立つで、早く準備(したく)せツてゐだす。』

明後日(あさつて)?』と、お定は目を《みは》つた。

『明後日!』と、お八重も目を《みは》つた。

 二人は暫し互ひの顏を打瞶つてゐたが、『でヤ、明日(あした)盛岡さ行がねばならねえな。』とお定が先づ我に歸つた。

()うだす。そして今夜(こんにや)のうちに、衣服(きもの)だの(なに)包んで、權作老爺(おやぢ)さ頼まねばならねえす。』

『だらハア、今夜(こんにや)すか?』と、お定は又目を《みは》つた。

 ()()うしてるうちに、一人二人と他の水汲が集つて來たので、二人はまだ何か密々(ひそ/\)と語り合つてゐたが、軈て滿々(なみ/\)と水を汲んで擔ぎ上げた。そして、すぐ二三軒先の權作が家へ行つて、

老爺(おやぢ)ア起きたすか?』と、表から聲をかけた。

『何時まで寢てるべえせア。』と、中から胴間聲(どまごゑ)がする。

 二人は目を見合して、ニッコリ笑つたが、桶を下して入つて行つた。馬車(ひき)の老爺は丁度厩の前で乾秣(やた)を刻むところであつた。

明日(あした)盛岡さ行ぐすか?』

『明日がえ? 行くどもせア。權作ア此老年(とし)になるだが、馬車()つぱらねえでヤ、腹減つて斃死(くたば)るだあよ。』

『だら、少許(すこし)持つてつて貰ひてえ物が有るがな。』

何程(なんぼ)でも可えだ。明日ア(けえ)()だで、行ぐ(どき)ア空馬車()つぱつて行ぐのだもの。』

(そんな)澤山(たんと)でも無えす。俺等(おら)明日(あした)盛岡さ行ぐども、手さ持つてげば邪魔だです。』

『そんだら、ハア、お前達も馬車さ乘つてつたら()がべせア。』

 二人は又目を見合して、二言三言(しめ)し合つてゐたが、

『でア老爺(おやぢ)な、俺等(おら)も乘せでつて貰ふす。』

()うして御座(ごぜ)え。唯、巣子(すご)の掛茶屋さ行つたら、盛切酒(もつきりざけ)(ぺえ)買ふだアぜ。』

『買ふともす。』と、お八重は晴やかに笑つた。

『お定ッ子も()ぐのがえ?』

 お定は一寸狼狽(うろた)へてお八重の顏を見た。お八重は又笑つて、『一人だば淋しだで、お定さんにも行つて貰ふべがと思つてす。』

『ハア、俺ア老人(としより)だで可えが、黒馬(あを)の奴ア怠屈(てえくつ)しねえで喜ぶでヤ。だら、明日(あした)ア早く來て御座(ごぜ)え。』

 此日は、二人にとつて此上もない忙がしい日であつた。お定は水汲から歸ると直ぐ朝草刈に平田野(へいたの)へ行つたが、莫迦に氣がそは/\して、朝露に濡れた利鎌(とがま)が、兎角休み勝になる。離れ/″\の松の樹が、山の端に登つた許りの朝日に、長い影を草の上に投げて、葉毎に珠を綴つた無數の露の美しさ。秋草の香が初簟(はつたけ)の香を交へて、深くも胸の底に沁みる。利鎌の動く毎に、サッサッと音して寢る草には、萎枯(すが)れた桔梗の花もあつた。お定は胸に往來する取留もなき思ひに、黒味勝の眼が曇つたり晴れたり、一背負だけ刈るに、(いつも)より餘程長くかかつた。

 朝草を刈つて來てから、馬の手入を濟ませて、朝餉を了へたが、十坪許り刈り殘してある山手の畑へ、父と弟と三人で粟刈に行つた。それも午前には刈り了へて、弟と共に黒馬(あを)と栗毛の二頭で家の裏へ運んで了つた。

 母は裏の物置の側に荒蓆を布いて、日向ぼツこをしながら、打殘しの麻絲を()つてゐる。三時頃には父も田りから歸つて來て、厩の前の乾秣(やた)場で、鼻唄ながらに鉈や鎌を研ぎ始めた。お定は唯もう氣がそは/\して、別に東京の事を思ふでもなく、明日の別れを悲むでもない、唯何といふ事なくそは/\してゐた。裁縫も手につかず、坐つても居られず、立つても居られぬ。

 大工の家へ裏傳ひにゆくと、恰度お八重一人ゐた所であつたが、もう風呂敷包が二つ出來上つて、押入れの隅に隱したあつた。其處へ源助が來て、明後日の夕方までに盛岡の、停車場前の、松本といふ宿屋に着くから、其處へ訪ねて一緒になるといふ事に話をきめた。

 それからお八重と二人家へ歸ると、父はもう鉈鎌を研ぎ上げたと見えて、薄暗い爐邊(ろばた)に一人踏込んで、莨を吹かしてゐる。

父爺(おやぢ)や。』とお定は呼んだ。

『何しや?』

明日(あした)盛岡さ行つても可えが?』

『お八重ツ子どがえ?』

()うしや。』

『八幡樣のお祭禮(まつり)にや、まだ十日もあるべえどら。』

『八幡樣までにや、稻刈が始るべえな。』

『何しに()ぐだあ?』

『お八重さんが千太郎さま(とこ)さ用あつて行くで、俺も()れてぐ言ふでせア。』

()がべす、老爺(おやぢ)な。』とお八重も喙を容れた。

小遣錢(こづけえ)あるがえ?』

少許(すこし)だばあるども、()えらば()えで御座え。』

『まだお八重ツ子がら、御馳走(ごつちよう)になるべな。』

と言つて、定次郎は腹掛から五十錢銀貨一枚出して、上框(あがりがまち)に腰かけてゐるお定へ投げてよこした。

 お八重はチラとお定の顏を見て、首尾よしと許り笑つたが、お定は父の露疑はぬ樣を見て、(おとな)しい娘だけに胸が迫つた。さしぐんで來る涙を見せまいと、ツイと立つて裏口へ行つた。

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