4話 四
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目を覺ますと、弟のお清書を横に逆まに貼つた、枕の上の煤けた櫺子が、僅かに水の如く仄めいてゐる。誰もまだ起きてゐない。遠近で二番鷄が勇ましく時をつくる。けたゝましい羽搏きの音がする。
お定はすぐ起きて、寢室にしてゐる四疊半許りの板敷を出た。手探りに草履を突かけて、表裏の入口を開けると、厩では乾秣を欲しがる馬の、破目板を蹴る音がゴトゴトと鳴る。大桶を二つ擔いで、お定は村端の樋の口といふ水汲場に行つた。
例になく早いので、まだ誰も來てゐなかつた。漣一つ立たぬ水槽の底には、消えかゝる星を四つ五つ鏤めた黎明の空が深く沈んでゐた。清冽な秋の曉の氣が、いと冷かに襟元から總身に沁む。叢にはまだ夢の樣に蟲の音がしてゐる。
お定は暫時水を汲むでもなく、水鏡に寫つた我が顏を瞶めながら、呆然と昨晩の《ゆうべ》の事を思出してゐた。東京といふ所は、ずつと/\遠い所になつて了つて、自分が怎して其所まで行く氣になつたらうと怪まれる。矢張自分は此村に生れたのだから、此村で一生暮らす方が本當だ。恁うして毎朝水汲に來るのが何より樂しい。話の樣な繁華な所だつたら、屹度恁ういふ澄んだ美しい水などが見られぬだらうなどゝ考へた。と、後に人の足音がするので、振向くと、それはお八重であつた。矢張桶をぶらぶら擔いで來るが、寢くたれ髮のしどけなさ、起きた許りで脹ぼつたくなつてゐる瞼さへ、殊更艶かしく見える。あの人が行くのだもの、といふ考へが、呆然とした頭をハッと明るくした。
『お八重さん、早えなツす。』
『お前こそ早えなツす。』と言つて、桶を地面に下した。
『あゝ、まだ蟲ア啼いてる!』とお八重は少し顏を歪めて、後れ毛を掻上げる。遠く近くで戸を開ける音が聞える。
『決めたす、お八重さん。』
『決めたすか?』と言つたお八重の眼は、急に晴々しく輝いた。『若しもお前行かなかつたら、俺一人奈何すべと思つてだつけす。』
『だつてお前怎しても行くべえす?』
『お前も決めたら、一緒に行くのす。』と言つて、お八重は輕く笑つたが、『そだつけ、大變だお定さん、急がねえばならねえす。』
『怎してす?』
『怎してつて、昨晩聞いだら、源助さん明後日立つで、早く準備せツてゐだす。』
『明後日?』と、お定は目を《みは》つた。
『明後日!』と、お八重も目を《みは》つた。
二人は暫し互ひの顏を打瞶つてゐたが、『でヤ、明日盛岡さ行がねばならねえな。』とお定が先づ我に歸つた。
『然うだす。そして今夜のうちに、衣服だの何包んで、權作老爺さ頼まねばならねえす。』
『だらハア、今夜すか?』と、お定は又目を《みは》つた。
左う右うしてるうちに、一人二人と他の水汲が集つて來たので、二人はまだ何か密々と語り合つてゐたが、軈て滿々と水を汲んで擔ぎ上げた。そして、すぐ二三軒先の權作が家へ行つて、
『老爺ア起きたすか?』と、表から聲をかけた。
『何時まで寢てるべえせア。』と、中から胴間聲がする。
二人は目を見合して、ニッコリ笑つたが、桶を下して入つて行つた。馬車追の老爺は丁度厩の前で乾秣を刻むところであつた。
『明日盛岡さ行ぐすか?』
『明日がえ? 行くどもせア。權作ア此老年になるだが、馬車曳つぱらねえでヤ、腹減つて斃死るだあよ。』
『だら、少許持つてつて貰ひてえ物が有るがな。』
『何程でも可えだ。明日ア歸り荷だで、行ぐ時ア空馬車曳つぱつて行ぐのだもの。』
『其に澤山でも無えす。俺等も明日盛岡さ行ぐども、手さ持つてげば邪魔だです。』
『そんだら、ハア、お前達も馬車さ乘つてつたら可がべせア。』
二人は又目を見合して、二言三言喋し合つてゐたが、
『でア老爺な、俺等も乘せでつて貰ふす。』
『然うして御座え。唯、巣子の掛茶屋さ行つたら、盛切酒一杯買ふだアぜ。』
『買ふともす。』と、お八重は晴やかに笑つた。
『お定ッ子も行ぐのがえ?』
お定は一寸狼狽へてお八重の顏を見た。お八重は又笑つて、『一人だば淋しだで、お定さんにも行つて貰ふべがと思つてす。』
『ハア、俺ア老人だで可えが、黒馬の奴ア怠屈しねえで喜ぶでヤ。だら、明日ア早く來て御座え。』
此日は、二人にとつて此上もない忙がしい日であつた。お定は水汲から歸ると直ぐ朝草刈に平田野へ行つたが、莫迦に氣がそは/\して、朝露に濡れた利鎌が、兎角休み勝になる。離れ/″\の松の樹が、山の端に登つた許りの朝日に、長い影を草の上に投げて、葉毎に珠を綴つた無數の露の美しさ。秋草の香が初簟の香を交へて、深くも胸の底に沁みる。利鎌の動く毎に、サッサッと音して寢る草には、萎枯れた桔梗の花もあつた。お定は胸に往來する取留もなき思ひに、黒味勝の眼が曇つたり晴れたり、一背負だけ刈るに、例より餘程長くかかつた。
朝草を刈つて來てから、馬の手入を濟ませて、朝餉を了へたが、十坪許り刈り殘してある山手の畑へ、父と弟と三人で粟刈に行つた。それも午前には刈り了へて、弟と共に黒馬と栗毛の二頭で家の裏へ運んで了つた。
母は裏の物置の側に荒蓆を布いて、日向ぼツこをしながら、打殘しの麻絲を砧つてゐる。三時頃には父も田りから歸つて來て、厩の前の乾秣場で、鼻唄ながらに鉈や鎌を研ぎ始めた。お定は唯もう氣がそは/\して、別に東京の事を思ふでもなく、明日の別れを悲むでもない、唯何といふ事なくそは/\してゐた。裁縫も手につかず、坐つても居られず、立つても居られぬ。
大工の家へ裏傳ひにゆくと、恰度お八重一人ゐた所であつたが、もう風呂敷包が二つ出來上つて、押入れの隅に隱したあつた。其處へ源助が來て、明後日の夕方までに盛岡の、停車場前の、松本といふ宿屋に着くから、其處へ訪ねて一緒になるといふ事に話をきめた。
それからお八重と二人家へ歸ると、父はもう鉈鎌を研ぎ上げたと見えて、薄暗い爐邊に一人踏込んで、莨を吹かしてゐる。
『父爺や。』とお定は呼んだ。
『何しや?』
『明日盛岡さ行つても可えが?』
『お八重ツ子どがえ?』
『然うしや。』
『八幡樣のお祭禮にや、まだ十日もあるべえどら。』
『八幡樣までにや、稻刈が始るべえな。』
『何しに行ぐだあ?』
『お八重さんが千太郎さま宅さ用あつて行くで、俺も伴れてぐ言ふでせア。』
『可がべす、老爺な。』とお八重も喙を容れた。
『小遣錢あるがえ?』
『少許だばあるども、呉えらば呉えで御座え。』
『まだお八重ツ子がら、御馳走になるべな。』
と言つて、定次郎は腹掛から五十錢銀貨一枚出して、上框に腰かけてゐるお定へ投げてよこした。
お八重はチラとお定の顏を見て、首尾よしと許り笑つたが、お定は父の露疑はぬ樣を見て、温しい娘だけに胸が迫つた。さしぐんで來る涙を見せまいと、ツイと立つて裏口へ行つた。