1話 深川浅景(1)
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雨霽の梅雨空、曇つてはゐるが大分蒸し暑い。――日和癖で、何時ぱら/\と來ようも知れないから、案内者の同伴も、私も、各自蝙蝠傘……いはゆる洋傘とは名のれないのを――色の黒いのに、日もさゝないし、誰に憚るともなく、すぼめて杖につき、足駄で泥濘をこねてゐる。……
いで、戰場に臨む時は、雜兵と雖も陣笠をいたゞく。峰入の山伏は貝を吹く。時節がら、槍、白馬といへば、モダンとかいふ女でも金剛杖がひと通り。……人生苟くも永代を渡つて、辰巳の風に吹かれようといふのに、足駄に蝙蝠傘は何事だ。
何うした事か、今年は夏帽子が格安だつたから、麥稈だけは新しいのをとゝのへたが、さつと降つたら、さそくにふところへねぢ込まうし、風に取られては事だと……ちよつと意氣にはかぶれない。「吹きますよ。ご用心。」「心得た。」で、耳へがつしりとはめた、シテ、ワキ兩人。
藍なり、紺なり、萬筋どころの單衣に、少々綿入の絽の羽織。紺と白たびで、ばしや/\とはねを上げながら、「それ又水たまりでござる。」「如何にも沼にて候。」と、鷺歩行に腰を捻つて行く。……といふのでは、深川見物も落着く處は大概知れてゐる。はま鍋、あをやぎの時節でなし、鰌汁は可恐しい、せい/″\門前あたりの蕎麥屋か、境内の團子屋で、雜煮のぬきで罎ごと正宗の燗であらう。從つて、洲崎だの、仲町だの、諸入費の懸かる場所へは、強ひて御案内申さないから、讀者は安心をなすつてよい。
さて色氣拔きとなれば、何うだらう。(そばに置いてきぬことわりや夏羽織)と古俳句にもある。羽織をたゝんでふところへ突つ込んで、空ずねの尻端折が、一層薩張でよからうと思つたが、女房が産氣づいて産婆のとこへかけ出すのではない。今日は日日新聞社の社用で出て來た。お勤めがらに對しても、聊か取つくろはずばあるべからずと、胸のひもだけはきちんとしてゐて……暑いから時々だらける。……
「――旦那、どこへおいでなさるんで? は、ちよつとこたへたよ。」
と私がいふと、同伴は蝙蝠傘のさきで爪皮を突きながら、
「――そこを眞直が福島橋で、そのさきが、お不動樣ですよ、と圓タクのがいひましたね。」
今しがた、永代橋を渡つた處で、よしと扉を開けて、あの、人と車と梭を投げて織違ふ、さながら繁昌記の眞中へこぼれて出て、餘りその邊のかはりやうに、ぽかんとして立つた時であつた。「鯒や黒鯛のぴち/\はねる、夜店の立つ、……魚市の處は?」「あの、火の見の下、黒江町……」と同伴が指さしをする、その火の見が、下へ往來を泳がせて、すつと開いて、遠くなるやうに見えるまで、人あしは流れて、橋袂が廣い。
私は、實は震災のあと、永代橋を渡つたのは、その日がはじめてだつたのである。二人の風恰好亦如件……で、運轉手が前途を案じてくれたのに無理はない。「いや、たゞ、ぶらつくので。」とばかり申し合はせた如く、麥稈をゆり直して、そこで、左へ佐賀町の方へ入つたのであるが。
さて、かうたゝずむうちにも、ぐわら/\、ぐわらとすさまじい音を立てて、貨物車が道を打ちひしいで驅け通る。それあぶない、とよけるあとから、又ぐわら/\と鳴つて來る。どしん、づん/\づづんと響く。
燒け土がまだそれなりのもあるらしい、道惡を縫つて入ると、その癖、人通も少く、バラツク建は軒まばらに、隅を取つて、妙にさみしい。
休業のはり札して、ぴたりと扉をとざした、何とか銀行の窓々が、觀念の眼をふさいだやうに、灰色にねむつてゐるのを、近所の女房らしいのが、白いエプロンの薄よごれた服裝で、まだ二時半前だのに、青くあせた門柱に寄り添つて、然も夕暮らしく、曇り空を仰ぐも、ものあはれ。……鴎のかはりに烏が飛ばう。町筋を通して透いて見える、流れの水は皆黒い。……
銀行を横にして、片側は燒け原の正面に、野中の一軒家の如く、長方形に立つた假普請の洋館が一棟、軒へぶつつけがきの(川)の字が大きく見えた。
夜は(川)の字に並んだその屋號に、電燈がきら/\とかゞやくのであらうも知れない。あからさまにはいはないが、これは私の知つた米問屋である。――(大きく出たな。)――當今三等米、一升につき約四十三錢の値を論ずるものに、米問屋の知己があらう筈はない。……こゝの御新姐の、人形町の娘時代を預かつた、女學校の先生を通して、ほのかに樣子を知つてゐるので……以前、私が小さな作の中に、少し家造りだけ借用した事がある。
御存じの通り、佐賀町一廓は、殆ど軒ならび問屋といつてもよかつた。構へも略同じやうだと聞くから、昔をしのぶよすがに、その時分の家のさまを少しいはう。いま此のバラツク建の洋館に對して――こゝに見取圖がある。――斷るまでもないが、地續きだからといつて、吉良邸のでは決してない。米價はその頃も高値だつたが、敢て夜討ちを掛ける繪圖面ではないのであるが、町に向つて檜の木戸、右に忍返しの塀、向つて本磨きの千本格子が奧深く靜まつて、間の植込の緑の中に石燈籠に影が青い。藏庫は河岸に揃つて、荷の揚下しは船で直ぐに取引きが濟むから、店口はしもた屋も同じ事、煙草盆にほこりも置かぬ。……その玄關が六疊の、右へ《まは》り縁の庭に、物數寄を見せて六疊と十疊、次が八疊、續いて八疊が川へ張出しの欄干下を、茶船は浩々と漕ぎ、傳馬船は洋々として浮ぶ。中二階の六疊を中にはさんで、梯子段が分れて二階が二間、八疊と十疊――ざつとこの間取りで、なかんづくその中二階の青すだれに、紫の總のしつとりした岐阜提灯が淺葱にすくのに、湯上りの浴衣がうつる。姿は婀娜でもお妾ではないから、團扇で小間使を指圖するやうな行儀でない。「少し風過ぎる事」と、自分でらふそくに灯を入れる。この面影が、ぬれ色の圓髷の艷、櫛の照とともに、柳をすべつて、紫陽花の露とともに、流にしたゝらうといふ寸法であつたらしい。……
私は町のさまを見るために、この木戸を通過ぎた事がある。前庭の植込には、きり島がほんのりと咲き殘つて、折から人通りもなしに、眞日中の忍返しの下に、金魚賣が荷を下して、煙草を吹かして休んでゐた。