11話 婦系図(11)
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「あら、乱暴ねえ。ちょいと、まだ釣瓶から雫がするのに、こんな処へ脱ぐんだもの。」
と躾めるように云って、お妙は上衣を引取って、露に白い小腕で、羽二重で結えたように、胸へ、薄色を抱いたのである。
「貴娘は、先生のように癇性で、寒の中も、井戸端へ持出して、ざあざあ水を使うんだから、こうやって洗うのにも心持は可いけれども、その代り手を墨だらけにするんです。爪の間へ染みた日にゃ、ちょいとじゃ取れないんですからね。」
「厭ねえ、恩に被せて。誰も頼みはしないんだわ。」
「恩に被せるんじゃありません。爪紅と云って、貴娘、紅をさしたような美い手の先を台なしになさるから、だから云うんです。やっぱり私が居た時分のように、お玄関の書生さんにしてお貰いなさいよ。
ああ、これは、」
と片頬笑みして、
「余り上等な墨ではありませんな。」
「可いわ! どうせ安いんだわ。もう私がするから可くってよ。」
「手が墨だらけになりますと云うのに。貴娘そんな邪険な事を云って、私の手がお身代に立っている処じゃありませんか。」
「それでもね、こうやってお召物を持っている手も、随分、随分(と力を入れて、微笑んで、)迷惑してよ。」
「相変らずだ。(と独言のように云って、)ですが、何ですね、近頃は、大層御勉強でございますね。」
「どうしてね? 主税さん。」
「だって、明後日お持ちなさろうという絵を、もう今日から御手廻しじゃありませんか。」
「翌日は日曜だもの、遊ばなくっちゃ、」
「ああ日曜ですね。」
と雫を払った、硯は顔も映りそう。熟と見て振仰いで、
「その、衣兜にあります、その半紙を取って下さい。」
「主税さん。」
「はあ、」
「ほほほほ、」とただ笑う。
「何が、可笑しいんです。え、顔に墨が刎ねましたか。」
「いいえ、ほほほほ。」
「何ですてば、」
「あのね、」
「はあ。」
「もしかすると……」
「ええ、ええ。」
「ほほほ、翌日また日曜ね、貴郎の許へ遊びに行ってよ。」
水に映った主税の色は、颯と薄墨の暗くなった。あわれ、仔細あって、飯田町の家はもう無かったのである。
「いらっしゃいましとも。」
と勢込んで、思入った語気で答えた。
「あの、庭の白百合はもう咲いたの、」
「…………」
「この間行った時、まだ莟が堅かったから、早く咲くように、おまじないに、私、フッフッとふくらまして来たけれど、」
と云う口許こそふくらなりけれ。主税の背は、搾木にかけて細ったのである。
ト見て、お妙が言おうとする時、からりと開いた格子の音、玄関の書生がぬっと出た。心づけても言うことを肯かぬ、羽織の紐を結ばずに長くさげて、大跨に歩行いて来て、
「早瀬さん、先生が、」
二階の廊下は目の上の、先生はもう御存じ。
「は、唯今、」
と姿は見えぬ、二階へ返事をするようにして、硯を手に据え、急いで立つと、上衣を開いて、背後へ廻って、足駄穿いたが対丈に、肩を抱くように着せかける。
「やあ、これは、これはどうも。」
と骨も砕くる背に被いで、戦くばかり身を揉むと、
「意地が悪いわ、突張るんだもの。あら、憎らしいわねえ。」
と身動きに眉を顰めて――長屋の窓からお饒舌りの媽々の顔が出ているのも、路地口の野良猫が、のっそり居るのも、書生が無念そうにその羽織の紐をくるくると廻すのも――一向気にもかけず、平気で着せて、襟を圧えて、爪立って、
「厭な、どうして、こんなに雲脂が生きて?」
五十四
主税が大急ぎで、ト引挟まるようになって、格子戸を潜った時、手をぶらりと下げて見送ったお妙が、無邪気な忍笑。
「まあ、粗かしいこと。」
まことに硯を持って入って、そのかわり蝙蝠傘と、その柄に引掛けた中折帽を忘れた。
後へ立淀んで、こなたを覗めた書生が、お妙のその笑顔を見ると、崩れるほどにニヤリとしたが、例の羽織の紐を輪形に掉って、格子を叩きながら、のそりと入った。
誰も居なくなると、お妙はその二重瞼をふっくりとするまで、もう、(その速力をもってすれば。)主税が上ったらしい二階を見上げて、横歩行きに、井の柱へ手をかけて、伸上るようにしていた。やがて、柱に背をつけて、くるりと向をかえて凭れると、学校から帰ったなりの袂を取って、振をはらりと手許へ返して、睫毛の濃くなるまで熟と見て、袷と唐縮緬友染の長襦袢のかさなる袖を、ちゅうちゅうたこかいなと算えるばかりに、丁寧に引分けて、深いほど手首を入れたは、内心人目を忍んだつもりであるが、この所作で余計に目に着く。
ただし遣方が仇気ないから、まだ覗いている件の長屋窓の女房の目では、おやおや細螺か、鞠か、もしそれ堅豆だ、と思った、が、そうでない。
引出したのは、細長い小さな紙で、字のかいたもの、はて、怪しからんが、心配には及ばぬ――新聞の切抜であった。
さればこそ、学校の応接室でも、しきりに袂を気にしたので、これに、主税――対坂田の百有余円を掏った……掏摸に関した記事が、細に一段ばかり有ることは言うまでもない。
お妙は、今朝学校へ出掛けに、女中が味噌汁を装って来る間に、膳の傍へ転んだようになって、例に因って三の面の早読と云うのをすると、(独語学者の掏摸。)と云う、幾分か挑撥的の標語で、主税のその事が出ていたので、持ちかえて、見直したり、引張ったり、畳んだり、太く気を揉んだ様子だったが、ツンと怒った顔をしたと思うと、お盆を差出した女中と入違いに、洋燈棚へついと起って、剪刀を袖の下へ秘して来て、四辺を《みまわ》して、ずぶりと入れると、昔取った千代紙なり、めっきり裁縫は上達なり、見事な手際でチョキチョキチョキ。
母様は病気を勤めて、二階へ先生を起しに行って、貴郎、貴郎と云う折柄。書生は玄関どたんばたん。女中はちょうど、台所の何かの湯気に隠れたから、その時は誰も知らなかったが、知れずに済みそうな事でもなし、またこれだけを切取っても、主税の迷惑は隠されぬ、内へだって、新聞は他に二三種も来るのだけれども、そんな事は不関焉。
で、教頭の説くを待たずして、お妙は一切を知っていたので、話を聞いて驚くより、無念の涙が早かったのである。
と書生はまた、内々はがき便見たようなものへ、投書をする道楽があって、今日当り出そうな処と、床の中から手ぐすねを引いたが、寝坊だから、奥へ先繰になったのを、あとで飛附いて見ると、あたかもその裏へ、目的物が出る筈の、三の面が一小間切抜いてあるので、落胆したが、いや、この悪戯、嬢的に極ったり、と怨恨骨髄に徹して、いつもより帰宅の遅いのを、玄関の障子から睨め透して待構えて、木戸を入ったのを追かけて詰問に及んだので、その時のお妙の返事というのが、ああ、私よ。と済したものだった。
それをまたひとりでここで見直しつつ、半ば過ぎると、目を外らして、多時思入った風であったが、ばさばさと引裂いて、くるりと丸めてハタと向う見ずに投り出すと、もう一ツの柱の許に、その蝙蝠傘に掛けてある、主税の中折帽へ留まったので、
「憎らしい。」と顔を赤めて、刎ね飛ばして、帽子を取って、袖で、ばたばたと埃を払った。
書生が、すっ飛んで、格子を出て、どこへ急ぐのか、お妙の前を通りかけて、
「えへへへ。」
その時お妙は、主税の蝙蝠傘を引抱えて、
「どこへ行くの。」
「車屋へ大急ぎでございます。」
「あら、父上はお出掛け。」
「いいえ、車を持たせて、アバ大人を呼びますので、ははは。」
はなむけ
五十五
媒妁人は宵の口、燈火を中に、酒井とさしむかいの坂田礼之進。
「唯今は御使で、特にお車をお遣わしで恐縮にごわります。実はな、ちょと私用で外出をいたしおりましたが、俗にかの、虫が知らせるとか申すような儀で、何か、心急ぎ、帰宅いたしますると、門口に車がごわりまして、来客かと存じましたれば、いや、」と、額を撫でて笑うのに前歯が露出。
「はははは、すなわち御持せのお車、早速間に合いました。実は好都合と云って宜しいので、これと申すも、偏に御縁のごわりまする兆でごわりまするな、はあ、」
酒井も珍らしく威儀を正して、
「お呼立て申して失礼ですが、家内が病気で居ますんで、」と、手を伸して、巻莨をぐっ、と抜く。
「時に、いかがでごわりまするな、御令室御病気は。御勝れ遊ばさん事は、先達ての折も伺いましてごわりましてな。河野でも承り及んで、英吉君の母なども大きにお案じ申しております。どういう御容体でいらっしゃりまするか、私もその、甚だ心配を仕りまするので、はあ、」
「別に心配なんじゃありません。肺病でも癩病でもないんですから。」
と先生警抜なことを云って、俯向きざまに、灰を払ったが、左手を袖口へ掻込んで胸を張って煙を吸った。礼之進は、畏ったズボンの膝を、張肱の両手で二つ叩いて、スーと云ったばかりで、斜めに酒井の顔を見込むと、
「たかだか風邪のこじれです。」
「その風邪が万病の原じゃ、と誰でも申すことでごわりまするが、事実でな。何分御注意なさらんとなりません。」
と妙に白けた顔が、燈火に赤く見えて、
「では、さように御病中でごわりましては、御縁女の事に就きまして、御令室とまだ御相談下さります間もごわりませんので?」
と重々しく素引きかけると、酒井は事も無げな口吻。
「いや、相談はしましたよ。」
「ははあ、御相談下さりましたか。それは、」と頤を揉んで、スーと云って、
「御令室の思召はいかがでごわりましょうか。実はな、かような事は、打明けて申せば、貴下より御令室の御意向が主でごわりまするで、その御言葉一ツが、いかがの極まりまする処で、推着けがましゅうごわりますが、英吉君の母も、この御返事……と申しまするより、むしろ黄道吉日をば待ちまして、唯今もって、東京に逗留いたしておりまする次第で。はあ。御令室の御言葉一ツで、」
と、意気込んで、スーと忙しく啜って、
「何か、私までも、それを承りまするに就いて、このな、胸が轟くでごわりまするが、」
と熟と見据えると、酒井は半ば目を閉じながら、
「他ならぬ先生の御口添じゃあるし、伺った通りで、河野さんの方も申分も無い御家です。実際、願ってもない良縁で、もとよりかれこれ異存のある筈はありませんが、ただ不束な娘ですから、」
「いや、いや、」
と頭を掉って、大に発奮み、
「とんだ事でごわります、怪しかりませんな、河野英吉夫人を、不束などと御意なされますると、親御の貴下のお口でも、坂田礼之進聞棄てに相成りません、はははは。で、御承諾下さりますかな。」
「家内は大喜びで是非とも願いたいと言いますよ。」
時に襖に密と当った、柔な衣の気勢があった――それは次の座敷からで――先生の二階は、八畳と六畳二室で、その八畳の方が書斎であるが、ここに坂田と相対したのは、壇から上口の六畳の方。
礼之進はまた額に手を当て、
「いや、何とも。私大願成就仕りましたような心持で。お庇を持ちまして、痘痕が栄えるでごわりまする。は、はは、」
道学先生が、自からその醜を唱うるは、例として話の纏まった時に限るのであった。
五十六
望んでも得難き良縁で異存なし、とあれば、この縁談はもう纏ったものと、今までの経験に因って、道学者はしか心得るのに、酒井がその気骨稜々たる姿に似ず、悠然と構えて、煙草の煙を長々と続ける工合が、どうもまだ話の切目ではなさそうで、これから一物あるらしい、底の方の擽ったさに、礼之進は、日一日歩行廻る、ほとぼりの冷めやらぬ、靴足袋の裏が何となく生熱い。
坐った膝をもじもじさして、
「ええ、御令室が御快諾下されましたとなりますると、貴下の思召は。」
ちっとも猶予らわずに、
「私に言句のあろう筈はありません。」
「はあ、成程、」と乗かかったが、まだ荷が済まぬ。これで決着しなければならぬ訳だが……
「しますると、御当人、妙子様でごわりまするが。」
「娘は小児です。箸を持って、婿をはさんで、アンとお開き、と哺めてやるような縁談ですから、否も応もあったもんじゃありません。」
と小刻に灰を落したが、直ぐにまた煙草にする。
道学先生、堪りかねて、手を握り、膝を揺って、
「では、御両親はじめ、御縁女にも、御得心下されましたれば、直ぐ結納と申すような御相談はいかがなものでごわりましょうか。善は急げでごわりまするで。」と講義の外の格言を提出した。
「先生、そこですよ。」と灰吹に、ずいと突込む。
「成程、就きまして、何か、別儀が。」
「大有り。(と調子が砕けて、)私どもは願う処の御縁であるし、妙にもかれこれは申させません。無論ですね、お前、河野さんの嫁になるんだ。はい、と云うに間違いはありませんが、他にもう一人、貴下からお話し下すって、承知をさせて頂きたいものがあるんです。どうでしょう、その者へ御相談下さるわけに参りましょうか。」
「お易い事で。何でごわりまするか、どちらぞ、御親類ででもおあんなさりまするならば、直ぐにこの足で駈着けましても宜しゅう存じまするで。ええ、御姓名、御住所は何とおっしゃる?」
「住居は飯田町ですが、」
と云う時、先生の肩がやや聳えた。
「早瀬ですよ。」
「御門生。」と、吃驚する。
「掏摸一件の男です。」と意味ありげに打微笑む。
礼之進、苦り切った顔色で、
「へへい、それはまた、どういう次第でごわりまするか、ただ御門生と承りましたが、何ぞ深しき理由でもおありなさりますと云う……」
「理由も何にもありません。早瀬は妙に惚れています。」と澄まして云った、酒井俊蔵は世に聞えたる文学士である。
道学者はアッと痘痕、目を円かにして口をつぐむ。
「実の親より、当人より、ぞッこん惚れてる奴の意向に従った方が一番間違が無くって宜しい。早瀬がこの縁談を結構だ、と申せば、直ぐに妙を差上げますよ。面倒は入らん。先生が立処に手を曳いて、河野へ連れてお出でなすって構いません。早瀬が不可い、と云えば、断然お断りをするまでです。」
黙ってはいられない。
「しますると、その、」
と少し顔の色も変えて、
「御門生は、妙子様に……」と、あとは他人でもいささか言いかねて憚ったのを、……酒井は平然として、
「惚れていますともさ。同一家に我儘を言合って一所に育って、それで惚れなければどうかしているんです。もっともその惚方――愛――はですな、兄妹のようか、従兄妹のようか、それとも師弟のようか、主従のようか、小説のようか、伝奇のようか、そこは分りませんが、惚れているにゃ違いないのですから、私は、親、伯父、叔母、諸親類、友達、失礼だが、御媒酌人、そんなものの口に聞いたり、意見に従ったりするよりは、一も二もない、早手廻しに、娘の縁談は、惚れてる男に任せるんです。いかがでしょう、先生、至極妙策じゃありませんか。それともまた酒飲みの料簡でしょうか。」
と串戯のように云って、ちょっと口切ったが、道学者の呆れて口が利けないのに、押被せて、
「さっぱりとそうして下さい。」
五十七
「貴下、ええ、お言葉ではごわりまするが、スー」と頬の窪むばかりに吸って、礼之進、ねつねつ、……
「さよういたしますると、御門生早瀬子が令嬢を愛すると申して、万一結婚をいたしたいと云うような場合におきましては……でごわりまする……その辺はいかがお計らいなされまする思召でごわりまするな。」
「勝手にさせます。」と先生言下に答えた。
これにまた少なからず怯かされて、
「しまするというと、貴下は自由結婚を御賛成で。」
「いや、」
「はあ、いかような御趣意に相成りまするか。」
「私は許嫁の方ですよ。」と酒井は笑う。
「許嫁? では、早瀬子と、令嬢とは、許嫁でお在なされますので。」
「決してそんな事はありません。許嫁は、私と私の家内とです。で、二人ともそれに賛成……ですか。同意だったから、夫婦になりましたよ。妙の方はどんな料簡だか、更らに私には分りません。早瀬とくッついて、それが自由結婚なら、自由結婚、誰かと駈落をすれば、それは駈落結婚、」と澄ましたものである。
「へへへ、御串戯で。御議論がちと矯激でごわりましょう!」
「先生、人の娘を、嫁に呉れい、と云う方がかえって矯激ですな、考えて見ると。けれども、習慣だからちっとも誰も怪まんのです。
貴下から縁談の申込みがある。娘には、惚れてる奴が居ますから、その料簡次第で御話を取極める、と云うに、不思議はありますまい。唐突に嫁入らせると、そのぞっこんであった男が、いや、失望だわ、懊悩だわ、煩悶だわ、辷った、転んだ、ととかく世の中が面倒臭くって不可んのです。」
「で、ごわりまするが、この縁談が破れますると、早瀬子はそれで宜しいとして、英吉君の方が、それこそ同じように、失望、懊悩、煩悶いたしましょうで、……その辺も御勘考下さりまするように。」
「大丈夫、」
と話は済んだように莞爾して、
「昔から媒酌人附の縁談が纏まらなかった為に、死ぬの、活きるの、と云った例はありません。騒動の起るのは、媒酌人なしの内証の奴に極ったものです。」
「はあ、」
と云って、道学者は口を開いて、茫然として酒井の顔を見ていたが、
「しかし、貴下、聞く処に拠りますると、早瀬子は、何か、芸妓風情を、内へ入れておると申すでごわりまするが。」
「さよう、芸妓を入れていて、自分で不都合だと思ったら、妙には指もさしますまい。直ちに河野へ嫁入らせる事に同意をしましょう。それとも内心、妙をどうかしたいというなら、妙と夫婦になる前に、芸妓と二人で、世帯の稽古をしているんでしょう。どちらとも彼奴の返事をお聞き下さい。或は、自分、妙を欲しいではないが、他なら知らず河野へは嫁っちゃ不可ん、と云えば、私もお断だ。どの道、妙に惚れてる奴だから、その真実愛しているものの云うことは、娘に取っては、神仏の御託宣と同一です。」
形勢かくのごとくんば、掏摸の事など言い出したら、なおこの上の事の破れ、と礼之進行詰って真赤になり、
「是非がごわりませぬ。ともかく、早瀬子を説きまして、更めて御承諾を願おうでごわりまする。が、困りましたな。ええ、先刻も飯田町の、あの早瀬子の居らるる路地を、私通りがかりに覗きますると、何か、魚屋体のものが、指図をいたして、荷物を片着けおりまする最中。どこへ引越される、と聞きましたら、(引越すんじゃない、夜遁げだい。)と怒鳴ります仕誼で、一向その行先も分りませんが。」
先生哄然として、
「はははは、事実ですよ。掏摸の手伝いをしたとかで、馬鹿野郎、東京には居られなくなって、遁げたんです。もうこちらへも暇乞に来ましたが、故郷の静岡へ引込む、と云っていましたから、河野さんの本宅と同郷でしょう。御相談なさるには便宜かも知れません。……御随意に、――お引取を。」
ああ、媒酌人には何がなる。黄色い手巾を忘れて、礼之進の帰るのを、自分で玄関へ送出して、引返して、二階へ上った、酒井が次のその八畳の書斎を開けると、そこには、主税が、膳の前に手を支いて、畏って落涙しつつ居たのである。夫人も傍に。
先生はつかつかと上座に直って、
「謹、酌をしてやれ。早瀬、今のはお前へ餞別だ。」
五十八