日日平安

3話 三

2,805字 約6分 2022年6月22日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 枕を並べて寝ると、菅田平野はたちまち眠りこんでしまった。喰べたいほど喰べ、飲みたいだけ飲み、温かい夜具に入ったのだからむりもない。横になるとすぐいびきをかいて熟睡した。十郎太はしばらく寝つけなかった。菅田の云うようには決心がつかないのである、いちど燃えあがった火を消されたばかりなので、その火がすぐには燃えつかない、というような感じであった。

「あの黒藤源太夫め」と彼はつぶやく、「――仲島弥五郎に前林久之進、奸物ども」

 そうして、かれら奸物どもの風貌を思いだしてみる。黒藤源太夫は五十二歳の次席家老、仲島弥五郎は四十五歳で留守役上席、前林久之進は五十歳で国許用人。これらが藩政を毒する中心人物で、なかんずく黒藤と仲島とがその首魁(しゅかい)であった。むろん十郎太はかれらを知っているし、その風貌もありありと眼にうかぶが、同時に「日日平安」などと云う、のんびりした伯父の顔が見え、自分を江戸へ追い払ったことなども頭にひっかかって、どうにも闘志がわいてこないのであった。

「とにかく戻ってからのことだ」と十郎太はつぶやいた、「――いやなら紙入だけ取って江戸へ帰ればいい、戻ってみたうえで肚(はら)をきめよう」

 菅田平野はいい心持そうに眠っていた。

 明くる日の十時ころ、二人は城下町へ向って宿を立った。十郎太は江戸へ追放されたのも同様だから、夜にならなければ町へははいれない、藍川の宿から城下までは五里足らずで、早く宿を立つわけにゆかなかったのである。心配した勘定のほうは払えたけれども、あとにはわずかしか残らなかった。それで握飯をつくってもらい、宿を出るとすぐ裏道へ曲った。街道をいって、もし家中の者にでも会っては悪いからである。丘を越えたり畑の間をぬけたり、途中の山蔭の泉のわくところで握飯を喰べたりしながら、石鉢山まで来たが、まだ時間が余った。そこは山といっても高さ百五十尺ばかりで、城の東北に当り、城下町がすぐ前に眺められる。二人はそこで日の暮れるのを待ったうえ、夜の八時ころに町へおりていった。

 石鉢山のほうからはいると、武家屋敷の裏にゆき当る。陸田家は大手筋の塔ヶ辻という処にあり、その構えは三十間に四十間ばかりの広大なものであった。北面に正門。西に馬入れの門。三方に築地塀(ついじべい)を廻らし、南側の濠(ほり)に沿った一方だけ黒く塗った柵(さく)になっていた。柵の内側は杉の深い林で、その杉林が邸内の半ばを占めている。築地塀の外からもそれらの梢(こずえ)が高く、くろぐろと夜空をぬいているのが見えた。十郎太は濠に接した築地塀の端までゆき、そこから柵のほうをのぞいた。濠は両岸を石で組んだ幅二間ばかりのもので、かなり豊かな水が音を立てて流れている。風のない暖かい夜で、さあさあというその水音が、杉林にひっそりと反響していた。

「ここから入るんだが」と十郎太が柵の一部を指さした、「――貴方も入ったほうがいいでしょう、人が通ってみつかるとうるさいから」

 菅田平野は頷いた。

 柵の一本が動くようになっている。たぶん粛清派の仲間がひそかに出入りしたのであろう、菅田平野はそんなふうに想像しながら、十郎太のやりかたをまねて、柵の中へ入った。

「ここで待っていて下さい、いちおうようすを見て来ます」

 十郎太はそうささやいて、杉林の中の踏みつけ径(みち)を向うへ去った。菅田平野は待っていた。あたりはまっ暗で、湿った空気は重たく杉の匂いがした。

「おれは《のが》さないぞ」菅田平野は口の中でつぶやいた、「おれはさない、この蔓は決してさない、あの男をそそのかして必ずものにしてみせるぞ、城代家老の婿とくれば本筋だからな、うん、そうやすやすと見せるもんじゃないさ」

 四半刻(とき)以上も時間が経って、どうしたのかと思っているところへ、十郎太が戻って来た。暗いのでよくわからないが、荒い呼吸やおちつかない動作で、彼のひどく昂奮していることが菅田平野にわかった。

「貴方の予言が当りました」と十郎太は云った、「――どうかこっちへ来て下さい、相談にのってもらいたいことがあります」

 菅田平野は黙って十郎太についていった。黙ってついてゆきながら、彼は心の中でほくそ笑み「しめたな」とつぶやいていた。

「貴方の心配されたことは杞憂ではなかった」と十郎太は歩きながら云った、「――奸物どもは急に逆手を打って、昨夜この屋敷へ踏ん込み、伯父をどこかへ拉致(らち)したそうです」

「城代家老その人をですか」

「いまこの屋敷はかれらの手で押えられ、伯母と千鳥も一室に監禁されて、一味の者に見張られているというのです」

「たぶんそれは」と菅田平野が云った、「――井坂さんが江戸へ帰られたのを誤解したんでしょうな、自分たちの悪事を江戸へ報告にいったというふうに」

「こっちです、静かにして下さい」

 杉林を出た左側に大きな建物があった。その向うに厩(うまや)があるとみえ、馬たちの鼻をならす声や、地面を掻(か)く蹄(ひづめ)の音が聞えた。十郎太はこちらの、大きな建物の中へ、菅田平野を伴(つ)れこんだ。それは馬草小屋であった。中へ入って引戸を閉めると、甘酸っぱい乾し草の匂いでむせそうになった。

「こいそ」と十郎太がささやいた、「――どこにいる」

 返辞はなかったが、乾し草の山の蔭から(袖で提灯(ちょうちん)を隠しながら)一人の娘が出て来た。十八ばかりの、小柄な躯(からだ)つきで、眼鼻だちのちまちまとした、いかにもはしこそうな顔をしている。十郎太は彼女を「千鳥の侍女こいそです」といって、菅田平野にひきあわせた。

 こいそは二人の前でもういちど話した。

「菊井六郎兵衛という大目付の方が指揮で、三十人ばかりの人が来ました」とこいそは云った。「――ゆうべのちょうどいまごろで、旦那さまは庄野主税(ちから)さまと御対談ちゅうでした」

 踏み込んで来たかれらは、三手に分れて、菊井ら十人は陸田精兵衛と、客の庄野主税を取囲み、他の一組は家士たちを長屋に押込め、もう一組は邸内の警備に当った。菊井らは主人の居間を捜索して、多数の書類を押収したうえ、精兵衛を(客もいっしょに)用意して来た駕籠(かご)へ乗せてつれ去った。陸田夫人のおの女は温和で気の弱い人だが、さすがに怒って理由を問いただした。しかし菊井六郎兵衛は相手にならなかった。

 ――私はなにも知りません、御家老に汚職の事実があり、それが暴露したそうで、罪状の湮滅(いんめつ)を防ぐために非常の処置をとるのだとか聞きました。

 こう云って、おの女と千鳥をも各自の居間に監禁し、(一人ずつ看視者を置いた)召使たち全部にも厳重に禁足を申し渡してたち去った。いま正門のところに二人、邸内に五人、見張りの者がいるということである。

「戻って来てよかったですな、ええ」と菅田平野は溜息(ためいき)をついて云った、「――私が貴方を呼びとめ、貴方が紙入を忘れたことがわかった、そのためにこういう、その、危急存亡のばあいに、まにあうことができた、いやまったく、世の中にはなにが仕合せになるかわからないようなことがあるものです」

目次に戻る

目次