11話 十一 紅葉の筆蹟及び人気
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三越で紅葉の真蹟展覧会が小波その他の主催で開かれてからモウ十年になる。それから以来紅葉の真蹟は益々持てはやされて今では短冊一枚が三十円以上を値いしてるそうだ。明治の文人の筆蹟では正岡子規のと夏目漱石のと紅葉のが一番高く売買される。明治の大儒として名声中外に著聞する中村敬宇先生のよりも、天子の師範として近代の書聖と仰がれる長三洲先生のよりも、近世の大徳として上下の帰依篤き行誡上人のよりも、敷島の三十一文字をもて栄爵を忝うした高崎の正風大人のよりも何らの官位勲爵のない野の一文人紅葉の短冊の方が遥に珍重されてヨリ高価を以て市場に売買されておる。
数年前、或る書画商の店に書画帖の売物があった。その中には漢学者では息軒、鶴梁、宕陰、詩人では五山、星巌、枕山、湖山、画家では老山、柳圃、晴湖等その他各方面の一流の近代名家の揮毫があって、一枚々々随意のものを剥がして売っていた。ところが誰のよりも数倍高価である紅葉の色紙が誰のよりも一番早く売れてしまったそうだ。
紅葉は死ぬ前に盛んに短冊を書いて、「俺の字は死ぬと値が出るぞ」といって人に与えたそうだが、果して自信の通りであった。尤も紅葉は書が巧みであったし、人気が盛んであったから早くから筆蹟が珍重された。今から三十年も前、或る懇意な田舎の素封家に所望されて名士の手紙を十数通与えたところが、一年ほど経って偶然その家を訪問した或る男から、私に宛てた紅葉の手紙が錦襴表装の軸となって床の間に掛けてあったと知らせて来た。間もなくその素封家から「紅葉先生と露伴先生のだけは早速表装しました、お庇で自慢の家宝が二幅出来えました、」と、慇懃な礼手紙が来た。これほど熱心な崇拝家があろうとは思掛けなかったので、早速紅葉にその話をすると、その頃の紅葉はまだ若かったから嬉しそうな顔をして、「ありがたいネ、お礼に藤村の羊羹でも贈ろうか、」といって笑った。が、今では紅葉の手蹟を立派に表装して伝家のお宝物のように秘襲するものは決して少なくないだろう。
これも数年前の咄、日本橋の或る骨董屋に紅葉の手紙を表装した額面が出ていた。宛名はツイその近傍の著名な書肆で、「先達ての○は何々へ届けてくれ、本人が義務を怠たったら自分が返債する」という罪な文面だ。何々というはズボラで通ってる門生で、原稿引当ての前借を紅葉が口入したものらしい。こういう書面を、当の書中の本人がマダ健在であるのに、苟にも書肆たるものが他事に渡すというは怪しからん話で、あまつさえ額面に表装するというは言語道断である。が、それは左も右くもとしてこの額面の正札が、驚く勿れ、金六十八円也とある。イクラの前借を申込んだか知らぬが、多分この正札の額よりも少なかったろう。ツイこの頃の大阪の柳屋の目録にも紅葉の不養生訓という自筆の原稿が載っておる。どんなものか知らぬが弐百五拾円という突飛な価には驚かされる。紅葉の人気の高いのはこれを以ても証される。
明治の文人の全集中、漱石全集の予約高は近頃群を抜いてるそうだが、紅葉全集の既刊部数も恐らくこれに劣らないだろう。全集ではないが、『金色夜叉』の如きは何度重版しても足りないで、毎年の出版部数が今だに相当な高率を維持しているそうだ。実をいうと『金色夜叉』は最初の構想が中途で何度も変って纏まりが附かなかった未成品であるが、真珠の頸飾の断れたのを南京玉で補ったような続篇が二つも三つも出来て、芝居は勿論、活動写真ともなれば流行唄ともなり、中学校の国文教科書にも載れば絵葉書にも発行され、今ではどんな田舎の片山里でも『金色夜叉』の名を知らないものはない。お伽噺の外には何にも読まない小学校の児供ですらが『金色夜叉』の名だけは知っておる。芥川龍之介や谷崎潤一郎や菊池寛や倉田百三や賀川豊彦の新らしい作を読耽るものもやはり『金色夜叉』を反覆愛読しておる。
今村清之助は常に紅葉の作を愛読していたが、感服の余りに一夜旗亭に紅葉を招いて半夜の清興を侶にしたそうだ。西園寺公も誰のよりも紅葉の作を一番多く読んでおられるようだ。今では政治家や実業家の中にもかなりな文芸の理解者があるらしいが、紅葉の小説はその頃からして奥さんやお嬢さんばかりでなく、紳士にも学生にも宗教家にも教育家にも有識者にも無知文盲の俗人にも読まれた。弦斎や春葉の作は広く読まれたにしても、その範囲は低級者に限られて高級知識階級に及ばなかった。紅葉のはこれに反して高級者にも低級者にも学者にも無学者にも男にも女にも愛読された。新らしい文芸家の中には最高文学は低級者には理解されないものと独断して、読者の少数階級に限られるを高しとするものもあるが、最大なる文学は高級者にも低級者にも等しく同感される普遍の興味を持ってる。トルストイやドストエフスキーは決して高級の知識階級者にのみ読まれるのでなくしてかえって文盲な農民間にヨリ多く愛読されてる。換言すれば人気ある作家を直ちに目して最大作家とする事は出来ないが、最大なる作家は多くの場合大抵人気がある。紅葉がトルストイやドストエフスキーのような最大作家であったか否かは別問題であるが、普遍の興味を持つ点では遥に今日の新らしい作家に勝っておる。