孤島の鬼

1話 はしがき

2,549字 約5分 2020年10月21日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 私はまだ三十にもならぬに、濃い髪の毛が、一本も残らず真白(まっしろ)になっている。この(よう)な不思議な人間が(ほか)にあろうか。(かつ)白頭宰相(はくとうさいしょう)()われた人にも劣らぬ見事な綿帽子が、若い私の頭上にかぶさっているのだ。私の身の上を知らぬ人は、私に会うと第一に私の頭に不審の目を向ける。無遠慮な人は、挨拶(あいさつ)がすむかすまぬに、()ず私の白頭についていぶかしげに質問する。これは男女に(かかわ)らず私を悩ます所の質問であるが、その外にもう一つ、私の家内(かない)()く親しい婦人()けがそっと私に聞きに来る疑問がある。少々無躾(ぶしつけ)(わた)るが、それは私の妻の腰の左側の(もも)の上部の所にある、恐ろしく大きな傷の(あと)についてである。そこには不規則な円形の、大手術の(あと)かと見える、むごたらしい赤あざがあるのだ。

 この二つの異様な事柄は、(しか)し、別段私達の秘密だと云う(わけ)ではないし、私は殊更(ことさら)にそれらのものの原因について語ることを(こば)む訳でもない。ただ、私の話を相手に(わか)らせることが非常に面倒なのだ。それについては実に長々しい物語があるのだし、又仮令(たとえ)その(わずらわ)しさを我慢して話をして見た所で、私の話のし方が下手なせいもあろうけれど、聞手(ききて)は私の話を容易に信じてはくれない。大抵の人は「まさかそんなことが」と頭から相手にしない。私が大法螺吹(おおぼらふ)きか何ぞの様に()う。私の白頭と、妻の傷痕という、れっきとした証拠物があるにも拘らず、人々は信用しない。それ程私達の経験した事柄というのは奇怪至極(しごく)なものであったのだ。

 私は、嘗て「白髪鬼」という小説を読んだことがある。それには、ある貴族が早過ぎた埋葬に会って、出るに出られぬ墓場の中で死の苦しみを()めた(ため)、一夜にして漆黒(しっこく)の頭髪が、(ことごと)白毛(しらが)と化した事が書いてあった。又、鉄製の(たる)の中へ入ってナイヤガラの(たき)飛込(とびこ)んだ男の話を聞いたことがある。その男は仕合(しあわ)せにも大した怪我(けが)もせず、瀑布(ばくふ)を下ることが出来たけれど、その一刹那(せつな)に、頭髪がすっかり白くなってしまった(よし)である。(およ)そ、人間の頭髪を真白にしてしまう(ほど)の出来事は、この様に、世にためしのない大恐怖か、大苦痛を伴っているものだ。三十にもならぬ私のこの白頭も、人々が信用し()ねる程の異常事を、私が経験した証拠にはならないだろうか。妻の傷痕にしても同じことが云える。あの傷痕を外科医に見せたならば、彼はきっと、それが何故(なにゆえ)の傷であるかを判断するに苦しむに相違ない。あんな大きな腫物(はれもの)のあとなんてある(はず)がないし、筋肉の内部の病気にしても、これ程大きな切口を残す様な(やぶ)医者は何所(どこ)にもないのだ。()けどにしては、治癒(ちゆ)のあとが違うし、生れつきのあざでもない。それは丁度(ちょうど)そこからもう一本足が生えていてそれを切り取ったら(さだ)めしこんな傷痕が残るであろうと思われる様な、何かそんな風な変てこな感じを与える傷口なのだ。これとても(また)、並大抵の異変で生じるものではないのである。

 そんな訳で、私は、このことを()う人(ごと)に聞かれるのが煩しいばかりでなく、折角(せっかく)身の上話をしても、相手が信用してくれない歯痒(はがゆ)さもあるし、それに実を云うと私は、世人(せじん)(かつ)て想像もしなかった様な、あの奇怪事を、――私達の経験した人外境(じんがいきょう)を、この世にはこんな恐ろしい事実もあるのだぞと、ハッキリと人々に告げ知らせ()い慾望もある。そこで、例の質問をあびせられた時には、「それについては、私の著書に詳しく書いてあります。どうかこれを読んで御疑いをはらして下さい」と云って、その人の前に差出すことの出来る様な、一冊の書物に、私の経験談を書き上げて見ようと、思立(おもいた)った訳である。

 だが、何を云うにも、私には文章の素養がない。小説が好きで読む方は随分(ずいぶん)読んでいるけれど、実業学校の初年級で作文を教わった以来、事務的な手紙の文章などの(ほか)には、文章というものを書いたことがないのだ。なに、今の小説を見るのに、ただ思ったことをダラダラと書いて行けばいいらしいのだから、私にだってあの位の真似(まね)は出来よう。それに私のは作り話でなく、身を(もっ)て経験した事柄なのだから、一層(いっそう)書き(やす)いと云うものだ、などと、たかを(くく)って、さて書き出して見た所が、仲々(なかなか)そんな楽なものでないことが分って来た。第一予想とは正反対に、物語が実際の出来事である(ため)に、(かえ)って非常に骨が折れる。文章に不馴(ふな)れな私は、文章を駆使(くし)するのでなくて文章に駆使されて、つい余計(よけい)なことを書いてしまったり、必要なことが書けなかったりして、折角の事実が、世のつまらない小説よりも、一層作り話みたいになってしまう。本当のことを本当らしく書くことさえ、どんなに難しいかということを、今更(いまさ)らの様に感じたのである。

 物語の発端(ほったん)()けでも、私は二十回も、書いては破り書いては破りした。そして、結局、私と木崎初代(きざきはつよ)との恋物語から始めるのが一番穏当だと思う様になった。実を云うと、自分の恋の打開(うちあ)け話を、書物にして衆人の目にさらすというのは、小説家でない私には、妙に恥しく、苦痛でさえあるのだが、どう考えて見ても、それを書かないでは、物語の筋道(すじみち)を失うので、初代との関係ばかりではなく、その外の同じ様な事実をも、(はなはだ)しいのは、一人物との間に(かも)された同性恋愛的な事件までをも、恥を忍んで、私は暴露(ばくろ)しなければなるまいかと思う。

 際立(きわだ)った事件の方から云うと、この物語は二月(ふたつき)ばかり(あいだ)を置いて(おこ)った二人の人物の変死事件――殺人事件を発端とするので、この話が世の探偵小説、怪奇小説という様なものに類似(るいじ)していながら、その実甚だしく風変りであることは、全体としての事件が、まだ本筋に入らぬ内に、主人公((あるい)は副主人公)である私の恋人木崎初代が殺されてしまい、もう一人は、私の尊敬する素人(しろうと)探偵で、私が初代変死事件の解決を依頼した深山木幸吉(みやまぎこうきち)が、早くも殺されてしまうのである。しかも私の語ろうとする怪異談は、この二人物の変死事件を単に発端とするばかりで、本筋は、もっともっと驚嘆すべく、戦慄(せんりつ)すべき大規模な邪悪、(いま)(かつ)何人(なんぴと)も想像しなかった罪業(ざいごう)に関する、私の経験談なのである。

 素人の悲しさに、大袈裟(おおげさ)な前ぶればかりしていて、一向(いっこう)読者に迫る所がない様であるから、(だが、この前ぶれが少しも誇張でないことは、後々(あとあと)に至って読者に合点(がってん)が行くであろう)前置きはこの位に(とど)めて、さて、私の(つたな)い物語を始めることにしよう。

目次に戻る

目次