孤島の鬼

6話 恋人の灰

2,795字 約6分 2020年10月21日 公開

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 私はそれから二三日、会社も休んでしまって、母親や兄夫婦に心配をかけた程も、一間にとじ(こも)った切りであった。たった一度、初代の葬儀に列した外には、一歩も家を出なかった。

 一日二日とたつに従って、ハッキリと本当の悲しさが分って来た。初代とのつき合いは、たった九ヶ月でしかなかったけれど、恋の深さ烈しさは、そんな月日で()まるものではない。私はこの三十年の生涯にそれは色々な悲しみも(あじわ)って来たけれど、初代を失った時程の、深い悲しみは一度もない。私は十九の年に父親を、その翌年に一人の妹をなくしたが、生来柔弱(にゅうじゃく)(たち)の私は、その時も随分悲しんだけれど、でも、初代の場合とは比べものにはならぬ。恋は妙なものだ。世に(たぐ)いなき喜びを与えてもくれる代りには、又人の世の一番大きな悲しみを伴って来る場合もあるのだ。私は幸か不幸か失恋の悲しみというものを知らぬのだが、どの様な失恋であろうとも、それはまだ耐えることが出来るであろう。失恋という間は、まだ相手は他人なのだ。だが、私達の場合は、双方から深く恋し合って、あらゆる障碍(しょうがい)を物ともせず、そうだ、私のよく形容する様に、どことも知れぬ天上の、桃色の雲に包まれて、身も魂も、溶け合って、全く一つのものになり切ってしまっていた。どんな肉親もこうまで一つになり切れるものではないと思う程、初代こそは、一生涯に、たった一度巡り合った、私の半身であったのだ。その初代がいなくなってしまった。病死なればまだしも看病する(ひま)もあったであろうに、私と機嫌よく分れてから、たった十時間余りの後に、彼女はもう物云わぬ悲しい蝋人形となって、私の前に(よこた)わっていたのだ。しかも、無残に殺されて、どこの誰とも分らぬ奴に、あの可憐な心臓を、むごたらしく抉られて。

 私は彼女の数々の手紙を読み返しては泣き、彼女から贈られた彼女の本当の先祖の系図帳を開いては泣き、大事に保存してあった、いつかホテルで描いた彼女の夢に出て来るという浜辺の景色を眺めては泣いた。誰に物を云うのもいやだった。誰の姿を見るのもいやだった。私はただ、狭い書斎にとじ籠って、目をつむって、今はこの世にない初代と丈け逢っていたかった。心の中で、彼女と丈け話がしていたかった。

 彼女の葬式の翌朝、私はふとある事を思いついて、外出の用意をした。(あによめ)が「会社へいらっしゃるの」と聞いたけれど、返事もしないで外に出た。無論会社へ出る為ではなかった。初代の母親を慰問(いもん)する為でもなかった。私は丁度その朝は、なき初代の骨上(こつあ)げが行われることを知っていた。アア、私は(かつ)ての恋人の悲しき灰を見る為に、いまわしい場所を訪れたのである。

 私は丁度間に合って、初代の母親や親戚の人達が、長い(はし)を手にして、骨上げの儀式を行っている所へ行合(ゆきあ)わした。私は母親にその場にそぐわぬ悔みを述べて、ボンヤリ(かまど)の前に立っていた。そんな際誰も私の無躾(ぶしつけ)をとがめる者はなかった。隠亡が、金火箸(かなひばし)で乱暴に灰の(かたまり)をたたき割るのを見た。そして、彼はまるで冶金家(やきんか)が、坩堝(るつぼ)金糞(かなくそ)の中から何かの金属でも探し出す様に、無雑作に、死人の歯を探し出して、別の小さな容器に入れていた。私は、私の恋人が、そうして、まるで「物」の様に取扱われるのを、殆ど肉体的な痛みをさえ感じて、眺めていた。だが、来なければよかったなどとは思わなんだ。私には最初から、ある幼い目的があったのだから。

 私はある機会に、人々の目をかすめて、その鉄板の上から、一(にぎ)りの灰を、無残に変った私の恋人の一部分を盗みとったのである。(アア、私は余りに恥かしいことを書き出してしまった)そして、附近の広い野原へ逃れて、私は、気違いみたいに、あらゆる愛情の言葉をわめきながら、それを、その灰を、私の恋人を、胃の()の中へ入れてしまったのであった。

 私は草の上に倒れて、異常なる昂奮にもがき苦しんだ。「死にたい、死にたい」とわめきながら、転げまわった。長い長い間、私は、そこにそうして横わっていた。だが私は、恥かしいけれど死ぬ程強くはなかった。或は、死んで恋人と一体になるという様な、古風な気持ちにはなれなんだ。その代りに、私は死の次に、強く、死の次に古風な、一つの決心をしたのである。

 私は、私から大切(だいじ)な恋人を奪った奴を憎んだ。初代の冥福(めいふく)の為にというよりは、私自身の為に恨んだ。腹の底から、そいつの存在を呪った。私は検事が如何(いか)に疑おうと、警察官が何と判断しようと、初代の母親が下手人だとは、どうしても信じられなかった。だが、初代が殺された以上、仮令賊の出入した形跡が絶無であろうとも、そこには、下手人が存在しなければならぬ。何者だか分らぬもどかしさが、一層私の憎しみをあおった。私は、その野原に仰臥(ぎょうが)して、晴れた空にギラギラと輝いていた太陽を、目のくらむ程見つめながら、それを誓った。

「俺はどうしたって、下手人を見つけ出してやる。そして、俺達の(うら)みをはらしてやる」

 私が陰気で内気者であった事は、読者も知る通りであるが、その私が、どうしてその様な強い決心をすることが出来たのであるか、又其後(そののち)のあらゆる危険に突進んで行った、あの私に()げなき勇気を獲得することが出来たのであるか、私は(かえり)みて不思議に思う程であるが、それは(すべ)(ほろ)びた恋のさせる所であったろう。恋こそ奇妙なものである。それは時には人を喜びの頂点に持上げ、時には悲しみのどん底につきおとし、又時には、人に比類(ひるい)なき強力を授けさえするのだ。

 やがて、昂奮から醒めた私は、やっぱり同じ場所に横わったまま、やや冷静に、それから私の()すべき事を考えた。そして、様々に考え巡らす内に、ふと一人物のことを思出した。その名は読者も已に知っている、私が素人探偵と名づけた所の、深山木幸吉のことである。警察は警察でやるがいい、私は私自身で犯人を探し出さないでは、承知が出来ぬのだ。「探偵」という言葉はいやだけれど、私は甘んじて「探偵」をやろうと決心した。それについては、私の奇妙な友人の深山木幸吉程、適当な相談相手はないのである。私は立上ると、その足で附近の省線(しょうせん)電車の駅へと急いだ。鎌倉(かまくら)の海岸近くに住む深山木の家を訪ねる為であった。

 読者諸君、私は若かった。私は恋を奪われた恨みに我を忘れた。前途にどれ程の困難があり、危険があり、この世の(ほか)(いき)地獄が横わっているかを、まるで想像もしていなかった。その内のたった一つをすら、予知することが出来たなら、私のこの向見(むこうみ)ずな決心が、やがて私の尊敬すべき友人、深山木幸吉の生命(いのち)をさえ奪うものであることを、予知し得たならば、私は(あるい)は、あの様な恐ろしい復讐の誓いをしなかったかも知れないのだ。だが、私はその時、何のその様な顧慮(こりょ)もなく、成否は()(かく)も、一つの目的を定め得た事が、やや私の気分を清々(すがすが)しくしたのであったか、足並みも勇ましく、初夏の郊外を、電車の駅へと急いだのである。

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