7話 六(1)
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昭和十三年十二月の下関市は、栄介の記憶によると、非常に暗い街であった。もちろん気分や情緒的に暗いのではなく、実際に光がすくなかったのだ。
「あの日は燈火管制でもやっていたのかな」
彼は時々そう疑うが、昭和十三年頃に燈火管制をするわけがないし、また店や飲み屋も開いていたので、管制でも演習でもなかった筈である。十二月は一番日が短い時節で、彼等二人は午後六時頃、下関に着いた。東京の明るさに慣れていたので、実際以上に暗く感じられたのだろう。
栄介は空のスーツケースを提げていた。
城介に召集令状が来た。電報が来たというので、栄介は言った。
「おれもいっしょに帰るよ。丁度冬休みだし、下宿で正月を過すのも佗しいから」
令状にはただ、十二月某日下関に集合せよ、とあるだけで、どこの聯隊か部隊に入るのか、何も書いてなかった。空のスーツケースは城介の私服や私物を入れて帰るためのものである。栄介は大学生の制服姿で、城介は背広を着ていた。曇り日で、空は一面暗かった。
「寒いな。下関というところは」
「港街だからだろう」
城介は外套の襟を立てながら答えた。
「おや。雪だよ」
粉雪がちらちらと肩に落ちて来たが、すぐに止んだ。
指定の場所で手続きを取る間、栄介は近くの喫茶店に入り、あたたかいココアを注文した。丁度それを飲み終った時に、城介は急ぎ足で喫茶店に入って来た。腰をおろすなり小声で言った。
「やはり外地行きらしい」
「外地って、どこだ?」
「聞いたけど、教えて呉れなかった」
城介はタバコに火をつけた。マッチを持つ手がすこし慄えている。
「朝鮮か満洲だと思うんだがね。今晩はここ泊りで、明日乗船だ」
「兵舎に泊るのか」
「いや。民家だ。地図を書いてもらった」
そして城介はコーヒーを注文した。
「台湾だといいんだがねえ。おれ、寒さが一番にが手なんだ」
「台湾かも知れないよ」
「でも台湾じゃ戦争をやっていない。どうしても北方だな」
コーヒーを飲み終えると、二人は外に出た。地図をたよりに歩き出した。彼が覚えているのは、その町筋の暗さである。下関市民は早寝をする習慣があるのか、寒いので戸をしめ切っているのか、おそらく後者だったのだろう。三十分ぐらいかかって、その民家を探し当てた。軒の低い家並の中で、その建物はぬっと夜空にそびえていた。
「どうもここらしい」
城介は足をとめた。
「入って聞いて来るから、ちょっと待ってて呉れ」
くぐり戸から城介は入った。栄介は道の真中に佇って、その建物を観察した。酒粕のにおいが、かすかにただよっている。彼の小学校の友達に造酒業の伜がいて、二、三度その家に遊びに行ったことがある。その家や塀の感じが、暗がりではっきりしないけれども、ここと共通したところがあった。
「ははあ。造り酒屋なんだな」
彼は思った。
「杜氏の寝る部屋にでも泊らせられるのか。寒いだろうな」
やがて城介が出て来た。元のままの服装である。
「十時迄にこの宿舎に入ればいいそうだ。それまで遊ぼう」
「そりゃよかったな」
城介は建物を見上げ、その形を確認した。それから盛り場と思われる方向に、二人は歩き出した。
先ずパチンコ屋に入って、パチンコをやった。という風に彼は覚えているけれども、パチンコが出来たのは戦後のことだから、戦後の記憶がそこに紛れ込んでいるらしい。あるいは遊技場みたいなところに入ったのか。
「兄貴。酒を飲もうじゃないか」
言い出したのは城介の方からだ。寒いので彼も飲みたかったのだが、城介の身柄を思って、辛抱していた。
「飲んでもいいのかい?」
「なぜ?」
「お前はもう兵隊なんだろう。酔っぱらうと叱られはしないか」
「まだ兵隊じゃないんだよ」
城介は笑った。
「明日船に乗っても、まだ兵隊じゃない。どこかに着いてから、正式に初年兵になるんだよ」
「ほんとかい」
「ほんとだ。さっきそう教えられた。まだ入隊してないんだから、一人前の兵隊面をするなって。今は何を飲み食いしても、おれの勝手なんだ」
一人前の兵隊面をするな、という言葉を、逆に解釈しているのではないか、と彼は思ったが、とめるわけにも行かなかった。で、そこらの居酒屋に入った。店内は鍋から立つ湯気などで、かなりあたたかかった。城介は鳥打帽子を脱ぎ、頭を撫でた。
「頭を刈ったら、やけに寒さがしみ渡るよ」
そしてお酒と関東煮を注文した。
「おやじやおふくろの前じゃ、窮屈で酒もうまくねえよ。やはりこんなとこでないとねえ」
城介が頭髪を刈ったのは、昨日の昼である。彼の家の前庭で、栄介が手ずからバリカンを使った。矢木家は裕福でないので、床屋には通えない。子供の時から、お互いに刈り合うのである。床屋だと金がかかるが、お互いだとタダだ。
中学校を卒業して以来、彼はバリカンを持ったことが一度もない。城介はしきりに痛がった。
「痛え。痛え」
城介はさかんに痛がって、大げさな悲鳴を上げた。実際彼の腕は鈍っていたが、大げさな悲鳴は幼ない弟や妹へのサービスのためでもある。悲鳴を上げる度に、弟や妹は喜んで、笑いさざめいた。弟妹は城介を見るのが初めてで、
「東京の兄さん」
「東京の兄さん」
と、城介が帰った日から、まつわりついてばかりいた。
「ああ、痛かった」
刈り終ると、城介は妹に鏡を持って来させた。
「兄貴。ひでえ刈り方をしたな。まるで段々畠じゃないか」
「すぐ伸びるよ。伸びたら、段々も消えてしまう」
丁度その時、幸太郎の店の者が使者として来た。祝出征の宴を幸太郎宅でやりたいから、今夜来て呉れ、という用件だ。しかしその宴は、今夜うちでやることになっていた。
福次郎は会社に出ていたし、母親は台所でその支度をしている。
「兄貴。どうしようか」
城介は彼に相談した。
「あまり行きたくないな」
「じゃ断れよ」
城介は使者に言った。
「即日帰郷になったりしたら、面目がないから、壮行会はお断りします。うちでかんたんにやりますから――」
窮屈で酒がうまくなかったというのは、その夜の小宴のことだが、結構城介は飲み且つ食って、やはりうちはいいなあ、と好機嫌であった。身内だけの宴で、幸太郎はついに姿を現わさなかった。若干自尊心を傷つけられたのであろう。酒が一本、届けられただけである。
関東煮は汁がすこし甘過ぎた。
「お互いに酒だけは強くなったな」
彼は城介に言った。
「おれが初めて酒を飲んだのは、お前を東京に送りに行った駅前のうどん屋でだ」
「そうだったな。お銚子半分で、兄貴は真赤になっていた」
「そうだ。足がふらふらした。駅の向うは麦畑で、ゴッホが使うような黄色で、熟れてむんむんしていた」
「そうだったかな」
「プラットホームにきれいな花が咲いていた。あれは六月何日頃か」
何か話したいことがたくさんある。そんな気がするのに、実際には何もなかった。二人で六本あけて、彼は少々酩酊して来た。城介はほとんど顔色は変っていなかった。しかし城介が酔っていることは、彼にも判っていた。城介は奉公をしている関係で、酔いを殺して飲む術に長けていたからだ。彼は言った。
「もうそろそろ出かけた方がいいんじゃないか」
城介は素直に盃を伏せ、二人は店を出た。暗い道を宿舎に歩く途中、うらぶれたような飲み屋があって、入口に赤い提燈がぶら下っていた。城介は足を停めて、腕時計をのぞいた。
「まだ一時間ぐらいある。もう一、二本飲んで行こうや」
二十四、五の白粉をべっとりつけた酌婦が、卓によりかかるようにして、同じ文句のどどいつを、何度も繰り返してうたっていた。
朝顔の花はばかだよ根のない垣に
命がけしてからみつく
酒はさっきの店よりも、水っぽかった。あるいは二階で売春させて、酒やつまみものは二の次という店なのかも知れない。そう思いながら、彼は盃を傾けていた。突然城介が話を変えた。
「ねえ。兄貴。おれには子供がいるんだよ」
「子供?」
城介は血走った眼で、ゆっくりとうなずいた。
同じ東京にいて、時々会っていたけれども、城介は今までそんなことを、一口も洩らさなかった。しかしそれが嘘でないことは、表情や口調ではっきりと判った。
「いくつになるんだ。その子は?」
「三月に生れる予定だ」
「結婚の約束をしたのか?」
城介は首を振った。
「じゃ妊娠させたまま、東京を離れたのかい?」
「そうだよ」
城介はにがそうに盃をあけた。
「結婚は出来ないんだ。その女は人妻なんだから」
「人妻? するとその子は、お前のかその亭主のか、どうして判る?」
「そうなんだ。しかし女はそう信じている。信じているからには、何か根拠があるんだろう」
城介は唇を歪めた。笑うつもりらしかったが、声にはならなかった。
「しかしこちらには根拠がない。絶対にないわけじゃないが、絶対にあるということもない。思えば父親なんて、あやふやなもんだな」
彼は黙っていた。黙って考えていた。
「たとえばおれたちだってさ、おふくろから生れたのは事実だ。しかしおやじのタネだとは、はっきり――」
城介の呂律は乱れた。
「言い切れないと思うよ。おれは時々そんなことを考えた。おれたち二人のことをね」
「どんな風に――」
「おれたちはふた児として生れた。しかしおやじは自分で名をつけなかった。名をつけたのは、他の人だ。その人が今兄貴に学資を出している――」
ある思いが磅として彼の胸に押し寄せて来た。ははあ、城介はずっとそんなことを考えていたんだな。いつ頃からそんな考えを持ち始めたのだろう。混乱する頭の中に、そんな疑問がつき上げて来た。しかし彼は冷静をよそおい、強引に話題を引き戻した。
「その人妻って、誰だね。何ならおれが訪ねてやってもいい」
「誰かということは言えないよ」
城介は突っぱねるような言い方をした。
「自分のやったことは、自分で決着をつける。兄貴に迷惑はかけん」
「決着をつけるって、無事帰還をするつもりかい」
気分が急に残酷に傾くのを感じながら、彼は言った。しかし城介はそれを冗談として受取ったらしい。
「人を葬る商売から、人を殺す商売に変るだけだよ」
城介は短く声を立ててわらった。
「慣れたもんだから、ヘマはしないよ。そうやすやすと死んでたまるもんかね」
そして城介は腕時計をのぞき、ゆっくりと立ち上った。
「もう十五分しかない。出よう」
勘定を払って、二人は店を出た。宿舎に着いて、彼もいっしょにくぐり戸をくぐった。土間から板の間になり、二階に通じる大きな階段があった。裸電燈がぶら下っている。柱や梁はがっしりと太く、かなりの年数が経っているためか、総体に黒光りしていた。
「兄貴。おれ、顔が赤いか」
「いや。赤くないよ」
彼の眼には、城介はむしろ顔色が青いように見えた。
「そうかい。ちょっとここで待ってて呉れや。着換えして来るから」
そう言い捨てて、城介は階段を登って行った。彼は上り框に腰をおろし、十分ほどじっとしていた。やがて城介が服や外套をひとまとめにして、階段を降りて来た。
その時の城介の服装を、彼はどうしても憶い出せない。服を脱いだからには、何か他のものを着ている筈だが、その色も形も彼の記憶から、さっぱりと拭い去られている。
とにかく二人で急いで衣類をスーツケースに詰め込んだ。あわてていたので、土間に脱いだ靴を入れ忘れて、途中でまた詰め直した。作業がすっかり完了すると、城介は小さな声で言った。
「じゃ、行って来るよ。おれ」
彼が返事をする間も与えず、城介は顔をそむけ、階段へ歩いた。東京行きを見送った時の態度と、まったく同じであった。城介は階段をとんとんとかけ上って、そのまま姿は見えなくなった。
「ああ」
彼は低くうめいた。切なさがどっとこみ上げて来た。
「これが見おさめかも知らないな」
一分間彼は土間に立っていた。それからスーツケースを提げ、くぐり戸から外へ出た。駅の方角に歩きながら、彼は考えた。
(あいつは感傷家で、おれより感傷的で見栄坊だから、涙を見られるのをいやがるんだ)
衣類を入れたスーツケースは、意外に重かった。着ている分には重くないが、まとめて手に持つと、ずしりとする重量感があった。右手から左手へ持ちかえながら、彼は追われるように急ぎ足で歩いた。その中どこかで道を間違えたらしい。
突然海が眼前にあらわれた。
彼は足を停めた。そしてそろそろと石垣まで近づいた。
海は暗く、波がゆたゆたと岸を洗っていた。彼方に船がいくつも停泊していて、点々と燈が見える。潮の匂いが初めて鼻にのぼって来た。彼はスーツケースを下に置き、じっと黒い海をのぞき込んだ。
(あいつ、最後に、とんでもないことを、言い残して行きやがったな)
酔いにしびれた頭で、彼はそんなことを考えた。ウェイトは城介の子供のことより、幸太郎の方にかかっていた。
(兄貴のおれに、下駄を預けっ放しにして――)
やがて栄介はゆっくりと背を返した。しばらく歩いている中に、見覚えのある道に出た。かなたにさっきの赤提燈の明りが見える。栄介はためらいながら、油障子をそっと引きあけた。客はなく、さっきの酌婦がひとり、卓に顎杖をついてうつらうつらとしていた。物憂く眼を開いた。
「泊めて呉れるかね?」
栄介は顎を二階の方にしゃくりながら言った。
「ああ。いいよ」
女はのそのそと立ち上り、表戸をおろした。暗い階段を、彼は女について登った。女は破れた押入れから、ばたんばたんと布団を引きずりおろした。
栄介はまだ『女』を知らなかった。女の動作を横眼で観察しながら、ゆっくりと外套や上衣を脱いだ。女は彼の顔を見て笑った。
「どうしてそんなにこわばった顔をしてるのさあ」
「加納というのはね、やはり下関からいっしょに出発した、城介の戦友だったのだ」
栄介は私に説明した。
「戦争が終って五年ほどして、加納からハガキが来た。どこかでおれの名を見たんだろう。名前が城介に似ているが、兄弟か何かじゃないかという問い合わせだ」
「なるほど」
「そうだと返事を出すと、折返し手紙が送られて来た。写真が同封してあった。これがそれだ」
栄介はその古封筒を逆さにした。一枚の小さな写真が出て来た。私はそれを受取った。
写真の色は褪せていた。真中に木の墓標が立っている。
〈故陸軍衛生曹長矢木城介之霊〉
と、辛うじて読めた。墓標の周囲には短い草がところどころ生え、背景は茫々として何もない。地平と空との境もさだかでない。花も咲かず、鳥も飛ばない荒涼たる風景の中に、その墓標はぽつねんと立っていた。
「ここはどこだね?」
「厚和という街の城外だ。昔は綏遠と言ったらしいんだがね。蒙古地区だよ」
「殺風景なところだねえ」
私は写真を返しながら言った。
「もっとも城介君は、花や自然にほとんど興味を持っていなかった。その点では、淋しくなかろう」
いつだったか、私がまだ学生の頃、城介がやって来た。包みからごそごそと花を取出した。ほんものの花でなく、造花である。
「どうしたんだね」
と私が聞くと、
「うん。兄貴の部屋、あんまり飾りっけがないんでね、うちからそっと持ち出して来てやったのに、留守なんだ。あとで兄貴に渡して呉れないか」
花も造花も同じようなもので、花は枯れるが、造花はいつまでも保つ、というのが城介の説明であった。
「どうだね?」
栄介は煙草に火をつけながら言った。
「加納の居所を探す件、承知して呉れるかね?」
「うん。ひとつやってみよう」
私は答えた。
「城介君が戦死をしたのは、いつのことだい?」
「戦死?」
栄介は表情を曇らせて、しばらく何か考えていた。
「昭和十七年の八月十七日だ。おれは大学を卒業して、就職していた」
「ああ。神田にある何とか研究所というところだったね。今はホテルになっている」
「うん。十七年一月、おれも召集を受けた。ところがおれは即日帰郷になった。気管支が悪くてね。二箇月ほど入院して、それからその年いっぱい、ぶらぶらしていた。その日もおれは魚釣りに出ていた。おれの家から海岸まで直ぐなんだ」
その日栄介は防波堤の突端で、釣糸を垂れていた。防波堤には二、三の釣客がいるだけである。太平洋戦争がすでに始まっていて、兵器生産に人手をうばわれ、釣りをする暇のある人間は、ほとんどいなくなっていた。
その日は、よく釣れた。雑魚類だけれど、午後三時頃までに五、六十匹は釣り上げた。彼はますます熱心に餌のつけかえをやっていると、彼方海岸の方から、子供がかけて来る。やがてその声が届いて来た。
「栄兄さん。帰って来いよう。お母さんがそう言ってるぞう」
胸騒ぎがした。彼は急いで釣竿をたたみ、魚籠を上げて、海岸に急いだ。弟に訊ねた。
「何の用だい?」
「知らない」
魚釣りの途中で呼び返されるなんて、今までなかったことである。彼の不安は高まった。
「直ぐ兄さんを呼んで来いって言うんだ。お母さん、泣いていた」
「泣いていた?」
取り返しのつかない失敗をした時のようなショックが来た。彼は弟といっしょに家の方に走り出した。
「城介のことではないように。城介のことではないように!」
しかしやはり城介のことであった。中田という部隊長から手紙が来ていた。内容はそっけない文章で、
『内地帰還を旬日に控えて、矢木城介は急に病死した。我々も残念に思うし、肉親の方々には気の毒に思う』
という意味のものである。病名は書いてなかった。しかし、旬日に控えて、という文章が栄介の胸に突き刺さった。
「何という運の悪い奴だろう」
内地帰還とは、戻って来て召集解除になることだ。それを彼は知っていた。
「お前はまだ死んじゃいけなかったんだ」
あの下関の造酒屋の階段が、やはり見おさめだったと思った時、彼は胸が怒りのようなものでいっぱいになり、慄え出した。涙は出て来なかったが、慄えはなかなかとまらなかった。
その年の暮れに、遺骨を受領に来いという連絡があった。名古屋からである。下関から出発した人間が、どうして名古屋に戻って来るのか、彼には理解出来なかった。今もなお理解出来ない。
父親の福次郎は、城介が出征して一年ほどたって病死した。今家族と言えば、母親と栄介と弟と妹だけだ。受領に出かけられるのは、彼だけであり、また彼の責任でもあった。
「一体何で骨が名古屋に戻って来るのかねえ」
母親もふしぎがった。
「直接こちらに持って来りゃ、旅費だってムダにならないじゃないか」
と言って、出かけないわけには行かない。栄介は名古屋に出発した。
だだっぴろい寒い営庭で、合同慰霊式のようなものが取行われた。はるか彼方でしめやかにラッパが鳴り、隊長のあいさつや、祭文みたいなものが読まれているらしい。空は晴れて、風が強かった。その風に乗って、時々聞えて来るのだ。もちろん声の意味は判らない。
壇の前には兵隊が整列し、遺族たちはその後に並ばされていた。椅子はない。立ったままである。彼は遺族の最後列に立っていた。整列するまでに時間がかかったし、またその儀式も長々と続いた。
「何だ。葬儀する者が葬儀されるなんて、へんなもんだな」
初めはそう考えていた栄介も、次第にじりじりと腹が立って来た。通知書を差出せば、引換えに遺骨を呉れると思っていたのに、こんなものものしい空虚な式につき合わねばならない。彼は心外であった。しかも夜汽車で来たので、昨夜はよく眠っていないのだ。
「長いですなあ。まだ終りませんかね」
隣に立っている鬚の生えた老人に、彼はそっと話しかけた。老人はじろりと彼を見たまま、返事をしなかった。老人の唇は寒さのために、紫色になっている。栄介も耳たぶに感覚がなくなり、洟がしきりに出た。もうこれ以上我慢が出来ないという心境になった時、やっと式が終った。
遺骨を受領したのは、それから一時間半後である。混んでいて、なかなか順序が廻って来なかったからだ。白布につつまれた箱を受取っても、彼に哀感は全然わかなかった。彼は不機嫌にそれを肩から前に吊した。それから営門を出て、とつとつと駅の方に歩く。
「何て愚劣なことだろう」
「何てバカなことだろう」
自分の不機嫌をなだめるように、ぶつぶつ呟きながら彼は歩いた。名古屋に一泊して、明朝故郷に戻る予定だったが、もう泊る気はしない。
「すぐ汽車で帰ろう」
駅の食堂で食事を注文して、彼はそう思い定めた。遺骨は肩から外し、卓上に安置してある。つまり彼と向い合ったような恰好になっている。城介の骨がそこに入っているという実感はまだなかった。彼は下関の赤提燈の店での城介の言葉を思い出した。
「お前は自分で決着をつけると言ったが、とうとう出来なかったじゃないか」
彼は心の中で城介の骨に話しかけた。
「人間は生れてしまえば、いろんなものにからんだり、からまれたりして、一代では決着出来なくなるものだ。次第に引きつがれたり、あいまいに消失したり――」
食事が来た。遺骨と向い合って、彼だけが食べた。何だか落着かない気がした。