夢遊病者の死

2話 夢遊病者の死(2)

2,462字 約5分 2017年10月7日 公開

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 その間に、伯爵邸の父親の死骸の側では何事が起っていたか。

 警官達が彦太郎の逃亡に気付いたのは、彼が半里(はんみち)も逃げ延びている時分であった。署長は、もう追っかけても駄目だと悟ると、猶予なく伯爵家の電話を借りて、その旨を本署に伝え、彦太郎逮捕の手配(てくばり)を命じた。そうして置いて、彼等は(なお)現場(げんじょう)の調査を続け、旁々(かたがた)検事の来着を待つことにしたのである。

 無論彼等は彦太郎が下手人(げしゅにん)だと信じた。現場に残された唯一の手掛りである桐の下駄が、彦太郎の家の縁側から発見されたこと、その下駄の主と見做(みな)すべき彦太郎が逃亡したこと、この二つの動かし難い事実が彼の有罪を証拠立てていた。

 ただ、彦太郎が何故に真実の父親を殺害したか、そして又、下手人である彼が、なぜ警官が出張するまで逃亡を躊躇(ちゅうちょ)していたかという二点が、疑問として残されていたけれど、それもいずれ彼を逮捕して見れば分ることなのである。ところが、そうして事件が一段落をつげたかと見えた時に、実に意外なことが起った。

「その人を殺したのは、私です。私です」

 伯爵邸の方から一人の真蒼(まっさお)な顔をした男が、署長の所へ走って来て、いきなりこんなことを云い出したのである。その男はまるで熱病患者の様に、「私です私です」とそればかりを繰返すのだ。

 署長を始め刑事達は、あっけにとられて、不思議な闖入者(ちんにゅうしゃ)の姿を眺めた。そんなことがあり得るだろうか。まさか、この男が彦太郎の家にあった桐の下駄を穿いたとも思われぬ。そうだとすると、少しも足跡を残さないで、どうして殺人罪を犯すことが出来たのであろうか。そこで、彼等は()(かく)、男の陳述を聞いて見ることにした。

 それは実に意外な事実であった。警察始まって以来の記録(レコード)といっても差支(さしつかえ)ない程、不思議千万な事実であった。さて、その男(それは伯爵家の書生の一人であった)の告白した所はこうなのである。

 昨日(きのう)、伯爵邸に数人の来客があって、西洋館三階の大広間で晩餐(ばんさん)が供せられた。それが終って客の帰ったのが丁度九時頃であった。彼はそこのあと片付けを命ぜられて、部屋の中をあちこちしながら働いていたが、ふと絨氈(もうせん)の端につまずいて倒れた。そのはずみに部屋の隅に置いてあった花瓶(かびん)を置く為の高い台を倒し、台の上の品物が、開けはなしてあった窓から飛び出したのである。

 その品物が若し花瓶であったら、こんな間違いは起らなかったのであろうが、それは、花瓶の台にはのっていたけれど、花瓶ではなくて、五六時間もたてば跡方(あとかた)もなく()けてなくなって了う氷の(かたまり)だったのである。装飾用の花氷(はなごおり)だったのである。水を受ける為の装置は台に取りつけてあったので、上の氷丈けが落ちたのだ。無論それは昼間からその部屋に飾ってあったのだから、大部分解けて了って、殆ど(しん)丈けが残っていたのだけれど、でも老人に脳震盪を起させるには十分だったと見える。

 彼は驚いて窓から下を覗いて見た。そして、月あかりでそこに小使の老人が死んでいるのを知った時、どんなに仰天したか。仮令(あやま)ちからとはいえ俺は人殺しをやって了ったのだ。そう思うともうじっとしていられない。(みんな)に知らせようか、どうしようか、とつおいつ思案をしている(うち)に時間が()つ、若しこのまま明日の朝まで知れずにいたら、どうなるだろう。ふと彼はそんなことを考えて見た。

 いうまでもなく、氷は解けて了うのだ。中のダリヤの花丈けは残っているだろうけれど、ひょっとしたら、気付かれずに済むかも知れない。それとも今から氷のかけらを拾いに行こうか。いやいや、そんなことをして若し見つかったら、それこそ罪人にされて了う。彼は床へ這入っても一晩中まんじりともしなかった。

 ところが朝になって見ると、事件は意外な方向に進んで行った。朋輩(ほうばい)から詳しい様子を聞いて、一時はこいつはうまく行ったと喜んだものの、流石(さすが)に善人の彼はそうしてじっとしていることは出来なかった、自分の代りに一人の男が恐しい罪名を着せられているかと思うと、余りに空恐しかった。それに又、そうして一時は免れることが出来てもいずれ真実が暴露する時が来るに相違なかった。そこで彼は今は意を決して署長の所へやって来た。という訳であった。

 これを聞いた人々は、余りに意外な、そして又余りにあっけない事実に、暫くはただ顔を見合せているばかりであった。

 それにしても彦太郎は早まったことをしたものである。その時は彼が逃亡してからまだ三十分も経っていないのだった。それとも又、彼が、いや彼でなくとも、刑事なり伯爵家の人達なりが、あの杉の根許に落ちていた一束のダリヤの花にもっとよく注意したならば、そしてその意味を悟ることが出来たならば、彦太郎は決して死ななくとも済んだのである。

「併しおかしいねえ」暫くしてから警察署長が妙な顔をして云った。「この足跡はどうしたというのだろう。それから、死人の息子はなぜ逃亡したのだろう」

「分りましたよ、分りました」丁度この時問題の桐の下駄を穿き試みていた一人の刑事がそれに答えて叫んだ。「足跡はなんでもないのです。この下駄を穿いて見ると分りますがね。割れているのですよ。見た所別状ない様ですけれど、穿いて見ると真中からひび割れていることが分るのです。もう一寸で離れて了い相です。誰だってこんな下駄を穿いているのは気持がよくありませんからな。きっと被害者が庭を歩いている内にそれに気づいて穿き換えたのですよ」

 若しこの刑事の想像が当っているとすると、彼等は今まで被害者自身の足跡を見て騒いでいた訳である。何という皮肉な間違いであろう。多分それは、殺人が行われたからには犯人の足跡がなければならぬという尤もな理窟が彼等を迷わしたのではあろうけれど。

 その翌々日、M伯爵家の門を二つの(かん)が出た。いうまでもなく、不幸なる夢遊病者彦太郎とその父親を納めたものである。(うわさ)を聞いた世間の人達は、だれもかれも、彼等親子の変死を気の毒がらぬものはなかった。だが、あの時彦太郎がなぜ逃亡を試みたかと云う点だけは、永久に解くことの出来ない謎として残されていた。

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