3話 白い手
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赤星の報告を聞いていた立松捜査課長は憤然として立上り、室内をあちこち歩きながら続けざまに舌打ちした。赤星は彼の怒りを額に感じながら俯向いて言葉をついだ。
「犯人は自動車で吾々の後を尾けていたんだ。皆の体が邪魔をして杉山氏を射つのは難しいと知るや、車をぬきながらまずタイヤをピストルで撃ってその方に心を奪わせ、今度は悠然と後戻りして来た。刑事が車から降りたので杉山氏の体は完全に射撃の的になったわけだが、まんまと敵の罠に掛ったのが残念でたまらんです」
「白い手だけしか見なかったのか?」
「見えなかった」
「円タクか、自家用か、運転手の姿も見ないのか?」
「杉山氏が起ち上ったので、体の蔭になってよく見えなかったのですが、四角ながっちりした肩つきだけは目に残っている。何しろ咄嗟の事で――」
「自動車番号は?」
赤星は額の汗を拭い、忌々しそうに、
「それが――、分らないんだ。番号札の一方の螺旋釘が外れていて、ぐらぐらと縦に揺れるもんだから、数字を読むことがまるで出来なかった――」
立松は苦り切って黙ってしまった。机の上には昨日の新聞が広げてあった。
またしても鳩の脅迫!
というみだしが、まるで自分を嘲っているように赤星は感じた。
「必ずこの失敗は取り返す。どんなことがあっても――、犯人を捕えずにはおかない。どうぞ、暫く辛棒して下さい」
そこへ給仕が一葉の名刺を手にして入って来た。
「赤星さん、この方が、至急何かお知らせすることがあるそうです」
赤星は課長室を出て行ったが、間もなく戻って来て立松の前に名刺を置き、
「本田桂一という学生だが、杉山氏が射たれた時恰度通りかかり、犯人の顔を見たって云うんです。委しく聞いておきました。その学生は鈴ヶ森の近所の小さなアパートで自炊しているそうです。――今、階下で新聞記者連に取巻かれているからきっと、夕刊にその記事が出るでしょう、ただ顔を見た、という事だけは云ってもいいが、その他の事は決して話してはならぬと厳重に口留めしておいた、その記事を見たら犯人が狼狽えるだろう」と云って、赤星は急に活気づいた。立松は焦り焦りしながら皮肉な笑いを唇に浮べて、
「売名だろうよ。殊に犯人の廻し者かも知れない、迂闊に信用すると赤ッ恥をかくぞ」
赤星は黙っていた。部屋の隅では鳩が不安そうに羽ばたきしている。
「ちょっと、鳥籠を借りて行きます」
立松の返事も待たないで鳥籠を風呂敷に包んで出て行った。
二時間ばかりして戻って来た時には課長はもう部屋にいなかったので、鳥籠だけをもとのところに返しておいた。
赤星は杉山を見舞いに行く途中で夕刊を一枚買った。果して今朝の出来事が大きく出ている。犯人を見たという学生の写真をじっと見詰めていたが、やがてにっこり笑うとそれをポケットに押し込んだ。
病院の薄暗い廊下の曲り角で一人の婦人に出遇った、それは思いがけない岩城文子であった。彼女はにこやかに会釈して、
「杉山さんはとんだご災難で――、夕刊を見まして吃驚したんですの、それでちょっとお見舞に出ました」と言った。手には美事な花束を持っていた。
「杉山氏は面会謝絶で会えませんよ」
「まア、そんなにご重態なんですの?」と声を落して心配そうに眉をよせ、「赤星さん、直ぐお帰りになりますか、私この花束だけをお届けしてまいりますから、ちょっとお待ち下さいません? 杉山さんのことでお話もありますから――」と云い捨てて病室の方へ急いだ。
赤星が長い廊下をぶらぶら歩いていると岩城文子は直きに引返して来た。
「犯人を見た人があるそうで、私ホッといたしました。どうぞ赤星さん、一日も早く逮捕して下さいませ。先刻天華堂さんとも話し合ったのですが、こんな事が度々あると私共の商売はあがったりですわ、ほんとに困ってしまいますのよ」
「よく分っています」
少し間を置いて赤星が言った。
「杉山氏についてのお話をうかがいましょうか」
「天華堂さんから聞いたのですが、杉山さんは外務省でも評判のいい方だそうですの、美男子で、手腕家で、お家柄もいいというので――、奥様になりたい人が沢山あるそうですの、だから外国人との結婚に不満を懐いている者の仕業ではないかというんです」
「そういう人の心当りでもあるんですか?」
「いいえ、別に――、ただ御参考までにお話しするんですのよ。思いつめた若い人は何でもやりますからね。――さもなければダイヤ狂の仕事だろうと思います。殊によるとこの犯人は高価な品を奪ってお金に替えようというのではないかも知れませんね」
「何故ですか?」
「だって、――奪ったダイヤはどこからも出て来ないっていうじゃありませんか」
赤星は苦笑して、
「貴女は今でも宝石がお好きですか?」
「いいえ、嫌いになりました。何故と言って、お金を宝石に替えて持っていましたが、いざ売ろうとすれば、やれ旧式だの疵があるの、色が悪いのとケチをつけて踏み倒されてしまいました。私はダイヤを買っておいたばかりに全財産を失い、こんなに貧乏してしまいましたのよ。だからあんなものを持つものではありません、いまでは見てもぞっとします、買う人の気が知れませんよ」
なるほど、それでこの人が指輪をはめていない理由が分った。細そりとした、いい恰好のこの指に宝石夫人といわれるほどのダイヤをはめていたのかと思いながら、赤星は美しい彼女を眺めた。